【第十章 湖の白烏】

2 ラント


「しかし、お前の親は一体誰なんだか」
 繁華街カレッサゴッレンの通りに並ぶ、一軒の寂びれた店。そこに二人の子供を連れて顔を出した独眼の水龍ことパヴァルは、店主に手を振る。そして狭い店内の中でも窓から一番離れた奥の席に腰を掛けると、それに続いた二人の子供、エレイヌとラントはパヴァルの向かいの長椅子に座った。
「そんなの、知りたいのはオレのほうだ」
 不満げに頬を膨らませたラントは、床に届かず空中を彷徨っているまだまだ短い脚を、ブラブラと揺らす。そんなラントの肩を、横に座っているエレイヌは人差し指で小突いた。
 ラント。ディア湖に落ちた少年は、いつからかそう呼ばれるようになっていた。
 名付け親はシルスウォッド卿だと、ラントは伝え聞いていた。何故シルスウォッド卿が彼の名前を付けることとなったのか。それはアルダンの現隊員であるケリス、ヴィディア、パヴァルの三人衆が、一切思いつかなかったからである。パヴァルは関心がないのかその全てを他二人に押し付け、ヴィディアはヴィディアで昔を思い出すから子供のことだけは勘弁してくれや、とケリスに任せ、ケリスはケリスで何も閃かず頭を抱え、それを見かねたパヴァルがシルスウォッド卿に丸投げをしたのだという。まるで、タライ回し。酷いものだ。
 けれども、ラントという名前を付けられた理由というのも、極めて安直なものだったという。
 開国神話に出てくる神話の大英霊ラントに似てたから、らしいぜ。
 パヴァルが言うには、そんな理由だったらしい。
「だって、ランがうちに来てからもう二年も経つんだよね。でも、誰も名乗り出てこないし」
「俺も神国中を手当たり次第探してみちゃぁ居るんだが、面白い具合に手掛かりも何も一切ない。ここまでくると、不思議なもんだよ」
 店主が机に品を運んでくる。大きな丼が一つと、惣菜を中に包んだパンが二つ。パヴァルは店主に代金を渡すと、はめていた青い手袋を外し、箸を手に取った。
「もしこのまま、お前の引き取り手が現れないようであればー……」
 パヴァルの口角がニヤッと上がる。エレイヌとラントは、顔を見合わせた。
「ラント、お前にはアルダンの隊員になってもらうかもしれないな」
「えっ、うそ」
「本当だ。少なくともケリスの野郎はそのつもりでいるみたいだぞ」
 ラントは嫌がるように顎を引く。エレイヌはラントを見詰めながら、ランがアルダンの隊服を着るなんて想像できないなー、と笑っていた。





 腕立て二十五回、腹筋二十五回、それとディア湖を一周。
 突然パヴァルの口から言い渡されたその言葉に、ラントは耳を疑った。
「……え?」
「聞こえなかったのか。腕立てと腹筋、それぞれ二十五回。それとディア湖を一周走れ、と」
 剣〈聖水カリス〉を模した木刀を携えたパヴァルは、その木刀でラントの尻を叩く。さっさと済ませろ、と片方しかない蒼い冷徹な目がぎょろりと見下ろしていた。
「ヴィディアなんてのは凄いもんだぞ。あの片腕で腕立てを五十回、息を上げることもなくやってのけるんだからな。腕力も俺以上だ。それにエレイヌだって、これくらい余裕でやっている」
「エレナが?」
 確かにエレイヌは、ラントよりも力が強かった。重い物も軽々と持ち上げて見せるし、なによりちょっとしたことですぐにラントの頭を叩く。その力も強く、とても痛かった。だが、だからといって腕立て腹筋二十五回と、とても広くて大きいディア湖を一周出来るとは、ラントにはとても思えなかった。
「ああ、そうだ。あのエレイヌだ。まあアイツの場合は、ディア湖三周はいけるな」
「さ、三周?!」
「そうだ。子供、それも女でそれだけ出来るってのは驚きもんよ。大人と子供では体格差、体力差があるように、男女の間にもそれは発生する。個人差はあるがな。だから男と比べれば女はその体の作り上、筋力は付きにくいと言われている」
「へぇ、そうなんだ」
「であるからして、男であるお前はエレイヌに負けているようでは話にならん」
「……ウソだろ」
 ラントはふと思い出す。

 ラント、お前にはアルダンの隊員になってもらうかもしれないな。
 少なくともケリスの野郎はその積りでいるみたいだぞ。

 そんな、パヴァルの言葉を。
「お前はそれに、〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉に内定している。だから、ガキのうちに体を鍛えておかねばならんのだ」
「オレは、別に」
「問答無用。お前に拒否権はない。やるんだ、今すぐ」
 ディア湖のほとり、地面に突き刺さった木刀〈聖水カリス〉が更に地面へと、深くのめり込んでいく。頭三個分も高い位置から見下ろす蒼い目に恐れ慄いたラントは、すぐさま地面に伏せ、腕立て伏せを開始したのだった。




「ふーん、それでこんなに痣が出来たんだ」
 エレイヌはラントの体に出来た無数の痣の一つ一つに氷入りの袋を当てながら、パヴァルを見やる。
「パヴァルの怒鳴り声も聞こえてたしね。やっぱ酷かったんだ」
「……そりゃ、パヴァルが木刀を振り回すから……」
「酷いのはパヴァルの鬼っぷりじゃないよ。ラン、アンタの実力のこと」
 エレイヌはラントの右肩を小指で突く。パヴァルに木刀で肩を叩かれた際に、右肩が外れてしまっていたのだ。今は既に骨は間接に嵌まっているが、それでもまだ、痛みはある。痛っ、とラントはエレイヌを睨むと、上からラントの頭にパヴァルの拳が落ちてきた。
「酷かった、なんて程度じゃない。最悪だ。話にならん」
 お前は七歳だった頃のエレイヌ以下だ、とパヴァルは上から釘を刺す。そんなこと言われても知らねぇよ、とラントは拗ねた。
「それどころかお前の体力は平均の十一歳男子の体力、それの半分以下ときた。どうする、ラント。今すぐお前を王宮前の道に放り出してやってもいいんだぞ?」
 そうしたら体力もつくだろ、とパヴァルは嫌味に笑う。子供ながらにラントは、こいつなら本当にやりかねないと、木刀を片手に怒鳴り散らす鬼龍神の顔を思い浮かべながら、ビクビク怯えるのだった。