【第十章 湖の白烏】

1 水面に堕ちる影


 からすは古来より、その不気味な黒き羽色から不吉なものの象徴とされ、烏が鳴くとそれは、良からぬことが起きる前兆だとされていた。
 その中でも白いワタリガラスは、大きな災厄が世界に訪れる予兆を告げる者だとされていた。
 開国神話の中にもその伝承を元手とした「名前のない白き羽のワタリガラス」というものが登場する。それもまた、不和と紛争を司る、深き深淵の闇に住まう悪魔の下僕で、時代の黄昏が近付きつつある際には広く高き虚空から〈下界シャンライア〉にその姿を現し、《光帝シサカ》にそれを伝えるといわれている。そして世界の終焉の際には鳴き声を上げ、聴く者全てを狂わせ、血に餓えた獰猛なけだものへ、狂戦士へと変貌させるといわれていた。
 そして、そんな烏もまた、ただの伝説では終わらなかった。
 それは既に、〈下界シャンライア〉に降り立っていたのである。




 穏やかな三つ月が高き空から地を静かに照らす、静寂だけが居座る夜の帳の中。ディア湖の畔を警邏という面目の下、暇を持て余しぶらぶらと散策していた一組の男女が居た。
「珍しいねぇ。あんさんが夜の闇に溶けていかないなんてなぁ」
 片腕の女が、隣を歩む眼帯の男をからかうように、男の右脇腹を指でつつきながらそう言った。
「女で遊ぶ趣味は無いんだっけ」
「当たり前だ。第一、女は遊び道具じゃないだろ。それに何がいいんだ、あんな砂上の綺楼傑閣きろうけっかく。あそこにいる子たちが、可哀想としか思えねぇよ」
「へぇ。あんさんにも一応、他人を憐れむような感情はあったんやな」
「一欠片ぐらいは、ある」
 一欠片もあったんやね、と微笑みながら、女は空に目を移す。雲一つない夜の空。三つの月の光は眩しく、周囲の星の微かな光を打ち消していた。
 と、空に射し入る一筋の白い光の矢。
「流れ星?」
 けれども変だ、と女は感じた。あの光が仮に流星だとしたとき、だとしたらあの光の速度は遅すぎる、と。そのとき、一瞬だけ見えたのは翼だった。月の光に照らされ、美しく輝く白い大きな翼。
「違うか。白い鳥やろか……?」
「鳥? ンなのが何処に居るってんだ」
 男は顔を顰めさせ、首を傾げる。
「ほら、あそこや」
 女が指で指し示した先。その延長線上にあるものを見た男は、片方しかない目を見開いた。
「あれのどこが鳥に見えるんだよ!!」
「うちには翼が生えとるように見えたんやけど」
「馬鹿かっ?! 翼もクソもねぇ、ありゃぁガキだろうが!!」
「なんやて?!」
 女は再び、空を見る。そこに光とも白い鳥ともつかぬはなく、代わりに、空高くから真っ逆さまに湖へと落ちていく、子供の影が見えていた。
「なんで、あんな高いとこから子供が……」
「そんな細けぇこたぁ今はどうでもいい! 助けるぞ!!」
「助けるったって、どうすんのや?!」
「それは……」
 一瞬、困ったように黙り込む男。そうこうしているうちにディア湖の水面に人影が溶けるように沈んでいき、落ちた辺りからは水飛沫が上がった。
「取りあえずだ、俺は潜る。それであれを引き上げる」
「なにを言うてんの?!」
 ディア湖は、水深がとても深いことで知られていた。巷ではあの湖で溺れた者の中で、生きて帰ってきたものも居なければ、その体すらも帰ってくることなどないともいわれている。
「幾らなんでも無謀過ぎや! それにもう、手遅れかもしれへんのに……」
 女はそう言うが、男はそれを無視する。男は上着を脱ぐと、それを女のほうへと放り投げた。寸でのところで女はそれを受け止めると、呆然と男を見詰めていた。
「あんさん……」
「死の湖に潜るなんて正気じゃねぇとでも言いたいんだろうが、独眼の水龍サマを舐めてもらっちゃあ困るぜ。泳ぎなら大得意だ」
 捨て台詞のようにそれを吐き捨てると、男は何の躊躇いもないように、湖へ飛び込んで行った。
「……うちは、知らんからな」
 水面に立つ波に遮られ、姿が見えなくなっていた男を思い浮かべながら、女は静かに男の無事と、落ちていった子供の無事を祈っていた。





 落ちていく。
 それだけは、感じていた。
 目に映るのは、手を伸ばせば掴めそうにも思える三つの満ちた月。それと、広く果てしなく、どこまでも続いている虚空と、その空を覆う闇。闇の中を瞬く星々。
 綺麗だとか美しいだとか、そんな感情も一切無かった。ただ、目に映っただけの景色。関心すらも無かった。
 あるのは、吹き荒ぶ刃のような風が肌を切りながら、通り抜けていく痛み。そして同時に、風が肌に掠りながら吹き抜けていく度に、それまで身体に纏わりついていた温かい何かが、徐々に抜け落ち、剥がれていくような奇妙な感覚。気持ちが悪かった。
「そんな細けぇこたぁ今はどうでもいい! 助けるぞ!!」
 男の大声が聞こえる。音が聞こえた方角に、顔を向けたその時。体は水面に打ちつけられ、そして水の中へと堕ちた。
 顔を上げれば、そこには歪んで見える景色があった。だが汚く濁った水のせいで、視界はハッキリとはしていない。体が重い。沈んでいく。でも、そこに恐怖というのは無かった。ただ、堕ちていく。息が苦しい。頭の中が、真っ白になっていく。瞼が、落ちていく。ただ、それだけだった。そのはずだった。
 突然、手首を何かに掴まれた。
――生きてるな、お前!
 細い何かが、体に纏わりついていく。強く、締め付けるように。でも、痛くない程度に。泡が、口から漏れ出す。
 閉じかかっていた瞼を、再び開けた。
 濁った水で良好としない視界の中。目の前には、水中を悠然と泳ぐ青い龍の姿があった。





「パヴァル、起きてんでしょ! 出てきなよ! もう朝だよ!」
 扉をドンドン叩く音と、少女の高い声が聞こえる。その声で、少年は目を覚ました。
「パヴァル! パヴァル!!」
「……頼むから静かにしてくれ、エレイヌ……」
「起きてるなら部屋の外に出てきなよ! 昨日の今日で、ケリスさん怒ってるよ! もう頭に血が上ってて、顔真っ赤で大激怒! ヴィッデまで巻き添え喰らってるんだから、早く謝って来なって! シルス卿にも迷惑掛かってるんだよ!!」
「……クソッ、頭に響くぜ……」
 体を起こした少年は、長椅子に腰を据えながら、眉間に皺を寄せて両目を閉じ、両手で両耳を塞いでいる男を見た。
 ぼさぼさの暗い茶色の髪。右目の傷。太腿の上に置かれている皮の眼帯。少年がぼーっとその男を眺めていると、部屋の扉が乱暴に開けられた。
「パヴァル! やっぱり起きてんじゃん!!」
「……だから大声を上げるな……」
 部屋の扉を開けたのは、左右の目の色が違う、赤毛の雀斑少女だった。大声を上げる少女に対して眼帯の男は、とても小さな声で悪態を吐く。その遣り取りを少年は、ただ眺めていた。
「じゃあ起きてくればいいじゃん! 執務室に来いって、ケリスさんが言ってたよ!」
「……今日は無理だと、ケリスに伝えてくれ」
「なんで? なんでよ」
「……今日だけは本当に、無理だ」
「どうしてよ」
「……動けない」
 すると、何を思ったのか少女は、男の足、それも左足の膝に強烈な蹴りを一発お見舞いしたのだ。痛ッ、と悶える男。それを見た少女は、ふーん、と言った。
「珍しい。パヴァルらしくない。どうしたの」
「……まあ、ちょっと、な」
「ちょっと、じゃ分かんないよ」
「ディア湖に潜ったのよ、このあほんだらは」
 いつの間にか扉の前に立っていた隻腕の女は、呆れたという面持ちで言った。
「あのディア湖に、やで? あんなに汚れてれば、どんな菌がおるかなんて分からんちゅうもんやのに。無謀で考え無しにも程があるわ」
「ディア湖に?!」
 少女がまた大声を上げる。男は更に体を屈めた。「……エレイヌ……!」
「そうなんよ。今頃、全身の関節という関節が悲鳴を上げてるんやないか?」
「……そうだ、その通り」
「でも、そこの坊やも含めて、生きて戻れただけ幸いや」
 少女と女の視線が、その時初めて少年のほうに向いた。
「……」
「……ところでアンタ、誰?」
 少女は少年を凝視する。アンタ、誰。そう問われても、答えようがなかった。
 何故なら自分が誰かすら、少年にはさっぱり分からなかったからだ。
「……」
「答えなさいよ。自分の名前くらい、言えるでしょ?」
「……」
 口を噤みながら少年は、視線を下に逸らす。目を合わせたくなかった。なんとなく、自分が特異な存在なのだと気付いたからだ。
「坊や。まさか、なんやけど」
 隻腕の女が少年に近付き、顔を覗き込んだ。
「名前も何も、覚えてないん?」
 少年はこくりと頷く。何も、覚えていなかった。というよりも、まるで今さっき生まれおちたばかりのような空っぽさだけが、心を呑み込んでいた。
「……それも仕方ないんやろな。なにせ、あんな高いとこから落ちて来たんやし」
 お父さんかお母さんが探してくれればいいんやけど、と隻腕の女性は言う。だが少年には、「お父さん」「お母さん」という定義が全く以て理解出来なかった。