【第九章 《光帝》継承】

5 封印、解かれし


「《光帝シサカ》は、シェリアラが継承したものとする!」
 そんな〈大神術師アル・シャ・ガ〉の声を皮切りに、賑やかな饗宴が幕を開ける。
 継承ノ儀。それ自体は既に、終わっていた。
「……」
 シルスウォッドよりも一歩後ろに下がったあたりに、ベンスは聖杯を抱えて立っていた。玉座に畏まって座るシェリアラと、その横に立つラントを視界に隅に捉えながら、会場全体を漠然と見渡す。
 鷹の目のベンス。そんなあだ名をつけたのは、パヴァルだっただろうか。
「……あれは……?!」
 シルスウォッドの傍に、どうして自分が配置されているのか。その理由が漸く、ベンスには理解することが出来た。
 有事の際に、シルスウォッドは政ノ大臣という立場上、大抵は壇上に立っている。そんな彼の横に並ぶということは、それはベンスも壇上に上がるということ。それが、ポンコツの自分に与えられた役目だったのだ。
 全体を見回し、異変をいち早く察知し、それをシルスウォッドに伝え、次の一手に備えること。
 そして今、それが試されようとしていた。
「……どうしたのだ、〈三日月ルヌレクタル〉」
 ベンスの不審な動きを感じ取ったシルスウォッドは、一切振り返ることなく、小声でそう尋ねる。
「……リストリアンスとユインが、動き出し始めました」
 会場、中央。ごった返す人の波が割られていく。人混みを強引に掻き分け、壇上へと歩みを進めているのは、黒い燕尾服を纏ったリストリアンスだった。
「……どうやら、そのようだな」
 そんなリストリアンスの両腕には、手足を力なく投げだしたユインが、抱きかかえられている。
「〈三日月ルヌレクタル〉」
 ダルラ卿とユニ夫人に付き沿っているルドウィルが、あたりをキョロキョロと見回すような仕草を見せ始める。ルドウィルもまた、リストリアンスとユインの二人を見ていた。そしてダルラ卿も、ユニ夫人も、同じくその方角を見つめている。ダルラ卿に関しては、リストリアンスを睨み据えているかのようにも見えていた。
「……はい」
 山犬ガルヤンを連れ、屋外の警護に当たっていたはずのファルロンも、いつからか会場に入っている。フリアと共に行動をしているリュンと、ファルロンは何かを話し込んでいる様子だ。そんな二人もまた、リストリアンスらをじっと見つめている。だが、まだ動き出す気配はなかった。
「……いいか、これから言う私の言葉をよく聞け。二度説明する時間は、なさそうだからな」
「はい」
 ヴィディアは、イゼルナとイゼルナ付きの従者たちを引き連れ、会場を後にしていく。その後ろに、エレイヌも付いて行った。その去り際にヴィディアは、ケリスと何か言葉を交わしていた。とても短い、一瞬の遣り取り。だがその一瞬を機に、ケリスの表情は一変した。するとケリスはその後すぐに、傍に侍らせていたディダンに何かを囁く。するとディダンは駆け出し、会場入り口の方へと向かっていった。そしてディダンは、敢えて半開きにしていた全ての扉を、全開に開け放つ。そしてディダンは、ケリスを除いた文武資法の四大臣らに声を掛けると、彼らを会場の外へと誘導した。
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉の背後。見えるか、奴の姿が」
 シルスウォッドは、会場の隅に腕を組んで佇む〈大神術師アル・シャ・ガ〉を一瞬だけ見やった。その周囲にはメク、クルスム、ウィクも居た。
「はい」
 そして、俯く〈大神術師アル・シャ・ガ〉の背後。そこにはパヴァルと思しき男が、いつからか立っていた。
「……いいか。私が手を挙げたら、お前はパヴァルに向かってその剣を、〈聖水カリス〉を投げるんだ」
「投げッ……?!」
「投げるんだ。アイツなら受け取れるはずだ」
 ベンスは、パヴァルを見る。パヴァルが壇上に向かって手を振り、にやっと笑ったのが、ベンスには確認できた。「分かりました」
「……そして奴が〈聖水カリス〉を受け取った瞬間に、聖杯も投げろ。分かったな」
「聖杯も、ですか?!」
「そうすれば、奴が斬るだろう」
「……ですが、それは……!」
「問答は、無用だ」
 そのとき、ベンスは初めてシルスウォッドと目が合う。彼の顔は、ベンスが今まで一度も見たこともないような、険しい表情に変わっていた。「……」
「……五、数えるんだ。そのとき、合図を出す」
「……了解です」
 ベンスは一度、深呼吸をする。そして再び、漠然と会場全体を見渡し始めた。
「…………」
  五。
 パヴァルが壇上に向かい、歩みを始める。歩数を重ねるごとに速度は上がり、それはまるで助走を付けているのかのようだった。
  四。
 ファルロンが、ガルヤンの首輪に繋がれている鎖から敢えて手を離し、会場内を走り回らせる。途端にリュンとフリアは甲高い悲鳴を上げ、叫んだ。犬が、山犬が! そして連鎖していくように、女性の悲鳴が次々と上がっていく。狭い会場内を逃げ惑う人の衆。極めつけに、ディダンは大声を上げた。皆さん急いで外へ避難してください!
  三。
 シェリアラはわけも分からず、ただ取り乱す。〈畏怖アルント〉、これはどういうことなの。だが、ラントは顔色一つ変えずに言った。わけあって生き還ったリストリアンス卿の謀反です。ですから、逃げましょう。そしてラントはシェリアラを両腕に抱き上げると、壇上から降り、会場を後にした。
 だがリストリアンスは、逃げ惑う人々を、逃げていったシェリアラなど気にも留めず、ただ人の波を掻き分け、前へ前へと進んでいく。そして同じく、人の波を掻き分け進む、男女が居た。それは、ダルラ卿とユニ夫人。その二人だった。
  二。
 予め開け広げられていた出入り口により、人の波は止まることなく流れていく。だがそこに、新たに加わるようにして入ってきた二人の男が居た。目元を赤く腫らした青髪のスザンと、スザンに支えられるようにして立っている白髪の丸眼鏡、メズン。目を覚ませ、ユイン。お前は、何をしようとしてるんだ。だが、老人の説教は、彼女の耳に届いていなかった。
  一。
 ダルラ卿は迷うことなく、背後からリストリアンスに殴りかかった。馬鹿げた真似は止せ、リストリアンス。お前は、こんな奴じゃなかっただろう。床に投げ出されたユインは受け身を取ることもなく、そして身動き一つすらしなかった。ユインは死んでいるのではないのか。誰もがそう思っていた。だがユニは、そんな彼女に駆け寄り、体を抱きしめる。まだ、息はある。まだ、鼓動を感じる。まだ、大丈夫。そう、まだ。でも、あと少しで。と、そんなとき。〈大神術師アル・シャ・ガ〉は伏せていた顔を上げた。
「今だ、〈三日月ルヌレクタル〉!」
 シルスウォッドが大声を上げ、ベンスは剣〈聖水カリス〉を、パヴァルに向かって投げつけた。そしてパヴァルは空中でそれを掴み取ると、即座に鞘から剣を引き抜いた。その瞬間を、ベンスは逃さなかった。投げ捨てた聖杯。〈聖水カリス〉の青い刃は確実に聖杯を捉え、真っ二つに斬り裂く。辺りには飛沫が飛び散った。だが、飛散したのは水ではない。酸化し黒ずんだ、微量の血液だった。
「もうちっと手古摺るかと思ったが、案外上手くいったもんだな」
 無残に落ちた聖杯の欠片を、パヴァルは拾い上げる。漆が塗られ、鮮やかな赤茶色をしていたはずのそれは、いつしか苔が生え、腐った木片へと化していた。そして嵌め込まれていた宝石類の大方は灰になり、聖杯の断面からは、黒ずんだ血が流れ出している。まるで聖杯自身が生き物であったかのような、そんな不気味さがあった。
「……これが、かつての女王が流した血ってやつか」
「そうだ。シアルの女王シサカの剣により、オブリルトレの女王の首が落とされたとき。オブリルトレの女王の首から流された血が、その杯に注がれたことによって、十武神の封印は完了したのだ」
「で、〈大神術師アル・シャ・ガ〉。封印ってのは、これで解けたのか?」
 パヴァルは手に握った剣〈聖水カリス〉を、まじまじと見つめている。「どうにも手応えってのがねぇんだが……」
「武神の封印は、これで解けているはずだ。気になるんだったら、己の中の龍神にでも訊ねてみるといい。今の調子はどうだ、とな」
 はは、と鼻で笑いながら〈大神術師アル・シャ・ガ〉は、聖杯を成していたもののもう片割れを拾い上げる。すると彼は、血が滴るそれを手に持ったまま、リストリアンスのほうへと向いた。
「《光帝シサカ》を証明する“物”が 喪なくなってしまった以上、誰が継承するかの決定権は全て、私の発言のみに委ねられてしまった。今はもう、聖杯を奪えば《光帝シサカ》になれる、だなんて選択肢は消えてしまったんだぞ? それで、どうだねリストリアンスくん。今の心境は」
 リストリアンスは、ダルラ卿に殴られた際に切れた唇から滲み出た微量の血液を手で拭うと、薄気味悪い笑みを浮かべる。そして〈大神術師アル・シャ・ガ〉に対して、こう言い放った。
「それはもう、最高ですよ」
「今更強がったところで、君に利はもう……」
「私の目的は《光帝シサカ》になる、だなんて陳腐なものではありません」
 ふふっ、はははっ。不気味な笑い声をあげながら、リストリアンスは徐に立ち上がる。そしてリストリアンスはユインに近付くと、彼女に寄り添っていたユニを付き飛ばし、ユインの髪を掴み上げ、起き上がらせた。
「ユイン。あれを、見るんだ」
 リストリアンスが指し示した、その先。そこに立っていたのは、メズンだった。
「……メズン……」
「そうだ、彼はメズンだ」
「……なんで……メズンが……」
 ユインの目は虚ろなまま、唇が小さく開閉を繰り返す。そんな彼女の左手の指先。痙攣しているかのような、小刻みな震えを繰り返していた。
「…………だから、言っただろう? 予定調和など存在しない、と。運命は、覆せる」
 リストリアンスは浮かべた笑みを崩さぬまま、手を挙げた。その瞬間、何かを察知したかのように、パヴァルが動き出す。その視線は玉座の上の赤い天幕、天幕の陰から覗く骨組みを、睨んでいた。
「……撃て!」
「伏せろ、メズン!」
 リストリアンスが手を振り降ろし、撃てと声を上げる。それと同時にパヴァルは被せるように、伏せろと声を荒らげた。パヴァルは天幕を目掛けて、胸元に潜めていた懐刀を投げつける。だが、それも遅かった。
「メズン!?」
 クルスムは飛び出そうとする。けれどもその道を、メクが翼を広げて制止した。今、あの場に飛び込むのは無謀すぎる、と。
 そうしてパヴァルの投げた懐刀が天幕の一部を引き裂いたのとほぼ同時に、隙間からは矢が放たれた。それは真っ直ぐにメズンの左胸を目掛けて飛んで行き、彼の左胸に深く刺さった。
「クソがッ!!」
 ウィクはメクに対し、低い唸り声を立てる。だがそれは、何の意味もなさなかった。
「……ヒッ!!」
 冷たい床に倒れ込んだメズン。そんな彼をそれまで支えているように立っていたスザンは数歩後退ると、気の抜けた声を上げ、尻もちを付いた。スザンが尻もちを付いたのと同時に、壇上には何かが落ちてくる。玉座の上から、首に懐刀の刺さった男の骸が落ちたのだ。その骸は、弓を携えていた。
「…………そんな……メズン………!」
 それまでは朧げだったユインの意識は、覚醒した。ユインは目を見開き、腕を掴んでいたリストリアンスの手を振り解くと、床に腕を突き立てる。その腕は、ガタガタと激しく揺れていた。
 今の彼女は正気ではない。それは誰が見ても分かることだった。
「ユン! 駄目よ、落ち付いて!」
 再びリストリアンスに殴りかかろうとするダルラ卿を両腕で押さえながら、ユニはそう叫んだ。その声を聞いて、状況を把握しきれずただ呆然と突っ立っていただけのルドウィルが動き出そうとする。ユン姉ちゃんが。だが、そんなルドウィルを阻むように、彼の前には成体と化したリシュが立ち塞がる。そして止まったルドウィルの腕を、フリアが後ろから掴んだ。
「ルドウィル!」
「何するんだよ、母さん!」
 強く握られた母親の手を振り解こうと、ルドウィルは腕をブンブンと振り回す。力強く、乱暴に。
「行っては、駄目」
 だが、幾らやれども強く握られた手は離れなかった。
「そんなのは、俺の勝手だ!」
「ケリスさまが、駄目だと仰られているの。これは、母親からの忠告じゃない。あなたの上官、〈聖堂カリヴァナ〉さまからの命令なのよ。だから、行っては、いけないの」
 ルドウィルは、遠くに居るケリスを見た。そこには、吠えるファルロンを羽交い絞めにしているケリスの姿があった。そしてディダンとリュンの二人は、リストリアンスに飛び掛からんと暴れているガルヤンの鎖を、二人掛けで必死に押さえつけている。
「ユン!」
「諦めるんだ、ファルロン。お前がどう足掻こうが、もうユインには届かない」
「そんなの、駄目だ、ユン……」
 ケリスの最後の一言が効いたのか、ファルロンは静まり項垂れた。ガルヤンもそんな飼い主を見てなのか、大人しくなる。リュンとディダンの二人も、ほっと胸をなでおろしていた。
「……なんで、なんでだよ……」
 ガルヤンはその場に伏せ、飼い主を労わるように鳴く。ケリスの拘束から解放されたファルロンも、地べたにへばりついた。
「……逆戻りじゃないか、あの頃に……!」





「……駄目じゃないか、ユン。なんで、そんな……!」
 座り込んだクルスムは、呆然とユインを見つめていた。
 どうしていつも、こうなるの。
 そんな声が、聞こえたような気がする。
「……駄目だ……」
 ユインは前髪の下に埋まった自身の左目に、自分の左手の指を挿しこんだ。眼頭には人差し指が、眼尻には親指が、徐々にめり込んでいく。ユインの左頬を涙のように伝い、床に滴り落ちて行くのは赤い血液。次第に流れていく血の量は増していく。そして床に墜ちたのは、黒い目玉だった。
 その目は、武神ノ邪眼と呼ばれる予見の眼。ユインを苦しめ、そしてユインの全てを狂わせてきた、諸悪の根源だった。
「……駄目だよ、そんなの……」
 そんなユインの顎を掴み、顔を上へと向けさせたのはリストリアンス。彼はユインの顔を覗き込むと、無表情で言い放った。
 どうか、許してくれ。
 リストリアンスは、腰に差していた短剣を取り出した。そして有無を言わせずに、その短刀の切っ先をユインの右目に突き刺したのだった。
「……なんで、どうして、ここまで……」
 仰向けに倒れたユインの体は、激しい痙攣を引き起こす。呻き声が上がる。びくびくと、体は跳ね上がる。ユニの悲鳴が上がった。
「……ユン……!」
 誰か、助けて。ここから、出して。ごめんなさい。謝るから。
 途切れ途切れの声は、そう言っていた。
「クルスム! おい、大丈夫か!!」
 ごめんなさい。ごめんなさい。何でもするから、お願い、許して、お母さん。
 遠い遠い昔の、ある夏の日。柱に縛りつけられていた、齢三つにも満たない白い髪の少女が、泣きながら、そう懇願していた。目の前に立つ、自分の母親に向かって。
 そして外では一人の白髪の男、あの日のメズンが、ユインの父親に殴られていた。
 アイツは何も、悪くないんだ。だから、俺の話を聞け。
 そう言えば言うほど、メズンはユインの父親に殴られ、蹴られた。
 忌み子なんてのは、大嘘だ。何で信じない、俺の話を!
 歪に曲げられたメズンの左腕。でもクルスムには、何も出来なかった。
「……ああ、そんな……」
 それを遠くから、クルスムは傍観していた。傍観することしか、その時は出来なかった。
 あの頃は、一人じゃ何もできなかった。
 だってまだ、漸く一人で立って走り回れるようになった、そんな頃だったから。
 一緒に居たイェガンも、同じだった。ただ立ち竦んだまま、怖くて泣きながら、遠巻きに、傍観していた。
「クルスム!!」
 忌み子。お前なんか、生まれてこなければ良かったんだ。
 泣いて謝る少女をよそに、母親は台所から包丁を持ってきた。それで、少女を刺した。腕を、足を、腹を。それでも、少女は泣き止まなかった。
 何故なら、少女が人ではなかったから。
「……惨い……」
 泣いていた少女は、遂に首を刺された。飛び散った血潮、切れた喉笛からはピーピーと笛が鳴る。顔からは次第に血の気が失せていき、仕舞いには大人しくなった。頭がだらりと垂れ、力んでいた腕からも力が抜けていった。そして、メズンが叫んだ。何かを言っていた。あのメズンが、顔を赤くして怒っていた。だが、聞き取れない。クルスムには。それでも、少女が死んだわけじゃない。少女は、死ねないのだ。
「……惨過ぎる……」
 そうして一時的に動かなくなった少女の小さな体を、少女の親たちは裏庭の蔵に放り込んだ。二度と出て来れないよう、鍵を、鎖を、かんぬきに幾重にも巻き付けて。
 そんな光景をあの日、クルスムは見ていた。
 でも今まで一度も、それを思い出したことはなかった。
 それはあの日、心が、情緒が、まだ確立しきっていなかったから。
 幼い心の許容範囲を、遥かに超えた出来事だったから。
 その記憶を、固い金庫の中に、鍵を掛け、鎖で縛って、閉じ込めていたのだ。
「……アタシは……」
 自分を守る為に。
 目を逸らす為に。
 嫌な出来事を、消し去る為に。
 嫌な出来事と関連していた少女の記憶を、封印した。
 それまでの、楽しかった出来事も纏めて全部、封印した。
 自分を護る為に。
「……アタシが一番……!」
 偽善者だった。
 ユインを守るというのは、自分を守りたいから。
 ユインの過去に敢えて触れてこなかったのは、自分が目を逸らしていたいから。
 楽しい出来事を沢山築いてきたのは、辛くて嫌なあの出来事を消し去る為。
 だから辛いことも楽しいことも、全部新しく築き上げた。
 自分を護る為に。
「……ごめんよ、ユン……」
 でも。
 ユインの時間は、あの時からずっと、止まったままだった。
 ユインの心は、あの時からずっと、壊れたままだった。
「……」
 ユインとクルスムと、ヌアザンと、ラズミラと、ファルロンと。
 五人で、笑って遊んで怒って喧嘩して泣いて仲直りした、あの頃。
 それも全て、仮初の包帯だった。
 仮初だから、脆い。
 仮初だから、あっと言う間に壊れて、破けて、なくなった。
 彼女が本に読み耽けて、研究に熱を注いでいたのは、傷から目を逸らしたかったから。
 夜に遊び回っていたのも、その時だけでも、忘れ去りたかったから。
 それらは全て、ユインなりの自己防衛だった。
「…………」
 時折、メズンが「発作」だと言っていたものの正体も、クルスムは知っていた。
 発作なんかじゃない。発作で血を吐いているわけじゃない。
 そんなことくらい、本当は分かっていた。
 それでも、メズンはそう言っていたから、それを鵜呑みにしていた。
 鵜呑みにして、信じるほかに、どうすることも出来なかったから。
「…………ああ!!」
 自分ではどうすることも出来ない極限状態に晒された時。馬は時に、身っ食いをする。自分の体を自分で噛んで、傷つけ、痛めつけるのだ。
 勿論、それは馬だけじゃない。兎、犬、猫、猿、鳥。人だって、例外じゃない。
 ユインのそれは、身っ食いも同然だった。
 時々彼女は自分自身の体を、腹を、包丁で刺していた。死にたかったのだろう。刃が貫通して、柄まで体にめり込むくらいに刺して、でも死ねない。残るのは、痛みと生傷だけ。それでも、刺すのだ。いつか死ねるかもしれない。そんな、僅かな希みに掛けて。でも、それは叶うことは無かった。だから今も、彼女は苦しんでいる。自分に、傷を刻んで。
「おい、クルスム!」
 クルスムの膝の上、ウィクの大きな前足が乗っていた。そして目の前には、クルスムを心配げに見つめるウィクの顔が。
「……ウィク」
「クルスム、聞いてくれ」
「ああ」
「ユンはもう、駄目だ」
「……」
「感情が、暴走しちまってる。メズンがああなっちまった以上、もう誰にも、アレは止められねぇ。今度こそ完全に、“ユイン”は崩壊したのさ」
 ユインだった化け物は、言葉にならない声で叫んでいた。それは断末魔にも似たような、聞いた者の鼓膜を破りかねない破壊的な悲鳴。怯えながら、泣きながら、怒りながら、笑いながら、怒りとも憎しみとも悲しみともつかない薄気味悪い奇妙な声を、上げていた。
「……でも」
「諦めろ。これ以上あの魔性の女に関われば、お前もファンも、人生そのものをぶっ壊されるぞ」
「……」
「目を醒ませ、クルスム。全部、夢だったんだ。“ユイン”なんてのは、始めから存在しなかったんだよ。アレはただの、幻だったんだ。いつまでも夢に酔っているな。お前らしくないぞ」
 ウィクの低いいましめの声が、クルスムの目を醒まさせる。
 全部、夢だった。
 共に過ごした日々は、吸ったら消える甘い蜜のような、一時的な幻想だった。
 始めから、全部。
 甘い蜜以上の、嘘はない。
「……そう、だな」
 クルスムは、ファルロンのほうを見やる。ファルロンはファルロンで、ケリスに何やら諭されているようだった。厳しい表情を浮かべたケリスに、両肩をガッチリと掴まれ、ファルロンは何かを言われている。そんなファルロンからは、魂が抜けおちてしまったかのような虚しさが感じられた。
 そして叫び声を上げ続ける化け物に、パヴァルが近寄る。
「少しの間、静かにしててくれ」
 それだけを短く言うと、パヴァルは化け物の鳩尾を目掛けて、拳を捻じ込んだ。瞬間、それは気を失った。そしてパヴァルは化け物を肩に担ぐと、〈大神術師アル・シャ・ガ〉を手招きで呼び寄せ、次に壇上のシルスウォッドを見た。
「シルス。コイツを政務室の横の空き部屋に運ぶが、問題は無いか」
「ああ、問題無い。だが、最低限暴れないようにはしておいてくれ」
「了解だ」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉は手に持った錫状を一度コツンと打ち鳴らし、立ち上がる。メクも立ちあがると、一人と一羽は、パヴァルの後に続いて行った。
「〈聖堂カリヴァナ〉、〈道化師ジェイスク〉」
 シルスウォッドは、床に膝を付くリストリアンスに憐みの目を向けながら、こう言い放つ。
「この愚か者を、地下牢に放り込め」
「はっ」
 ケリスによって両腕を掴まれたリストリアンスは、渋々立ち上がる。ディダンは下唇を噛みしめ、何やら物言いたげな様子。けれども当のリストリアンスは特に抗うような素振りは見せず、だがその目は、シルスウォッドを確実に睨んでいた。
「……全く、とんだ騒ぎを起こしてくれたものだ」
 憂い気にそう呟くシルスウォッド。そんな彼の横顔を眺めながら、彼の本心はまた別の何処かにあることを、鈍感なベンスは感じ取っていた。