【第九章 《光帝》継承】

4 《光帝》継承


「こんな上等な服を着て、あなた……動けるの?」
「……分からん。礼服なんてのには、今まで縁が無かったからな」
「いつもの、ってわけにはいかないのかしら」
「申し出てはみたんだが、文ノ大臣が……」
「儀式の場で壇上に上がる以上、礼服でなければ駄目だとは言うけど。でもあなたはシルスさまの後ろに立っているだけなんでしょう? 今までは別に良かったじゃないの。それがどうして急に」
「それが、そうでもなくなったんだ」
 気だるい朝だ。何処までも気が重い。
 ベンスはシャツのボタンを下から上へと閉めて行きながら、窓布の隙間から外を覗き見た。朝と言っても、日は昇っていないし、肌寒かった。
 時刻夜明け前の、明ノ二刻ゼ・ゼクテ(前五時)。ベンスは毎朝この時間帯に、王宮へと向かっていた。故に夜明けの空は見慣れた光景である。
 だが、空ばかりは同じであっても、今日という日は普段と異なっていた。
「それって、どういうことなの?」
 フリアは青の宝石が嵌め込まれたループタイを手に取り、ベンスの首に巻き付け、締める。そして壁に掛けていた〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉専用の青い礼服、その上着をベンスに渡した。
「なんだか気難しそうな顔になってるけど……」
「パヴァルの代役をやれと、上から命令されたんだ」
「あ、あなたが?! でも、どうして」
「あのパヴァルが倒れたんだ。ルドウィルが言うには、なんらかの形で毒を盛られたということらしいが」
「それで、あなたが代役を?」
「ああ」
 ベンスは〈三日月ルヌレクタル〉を手に取る。
「何をやるのか私は知らないけれど、無理だけは……しないで頂戴ね」
「分かってるさ。俺はパヴァルの代役をやるだけで、パヴァルになりきるわけじゃない」
「……ルドウィルにも」
「伝えておくよ」
 アイツは頭がいいから無茶はしないだろうがな、とベンスは笑う。
「ともかく何も起きなければ、いいんだがな」
 今日は王族や貴族、〈聖獣使いシラン・サーガ〉たちが一堂に集い、そこで継承ノ儀が行われる。
「……そう、ね」
 フリアには、嫌な予感がしていた。
 人が大勢集まるところでは、何らかの異常事態が起きてもおかしくはない。
 大昔、子供の頃に見たあの光景のように。
「それじゃ」
「行ってらっしゃい」
 礼服を身に纏ったベンスの背をポンと押し、フリアは部屋から彼を追い出す。
「私も支度しなきゃ」
 部屋の隅に置かれた座布団から身を起こしたリシュが、むくりと体を起こす。そしてフリアを見て一声、クーンと鳴いた。





 王宮内に、落ち付きは無かった。
「それにしてもよ、しゃが様。なんでまた、こんな時に」
「元々、この時期に行う予定だったのだ。ただ予想外の混乱が同時に起きているだけで」
「本当に予想外なのかい?」
 クルスムは横に並ぶ、自分よりも若干背の低い〈大神術師アル・シャ・ガ〉を上から見下ろすように、三白眼の目で睨み据えた。彼女たちの背後を歩く、メクとウィクの間にも、緊張した空気が流れる。
「アタシにゃどうも、しゃが様ほどの御方がこんな事態を想定出来なかったはずがないと思えて仕方がないんだがね」
「……ははは」
「何がおかしいってんだい、しゃが様よ」
「流石はダグゼン氏の娘だ。父親に似て勘が鋭いな」
 はははっ、と高笑う〈大神術師アル・シャ・ガ〉。彼は満面の笑みで、こう告げた。
「予め分かっていたさ。リストリアンスが動き出すだろうということは。私たちはそれを分かっていた上で、継承ノ儀を仕掛けたのだ」
「やっぱりな。……最低だよ、アンタ」
 舌打ちをするクルスム。そう怒るな、と〈大神術師アル・シャ・ガ〉は宥める。
「我が良き友シルスウォッド卿にとっては、己の生傷を自ら不衛生な指で抉るような真似だったんだぞ?」
「そうかい。だが」
「それにあの龍神には、リストリアンス卿……というよりもその裏に居る人物をおびき出す為の囮となってもらった。まあ、少々キツめの毒を盛られたらしいが、アイツなら大丈夫であろう」
「水龍さんに毒を盛った?!」
「ああ。リストリアンス卿に、トラグロテの毒を塗りたくった短剣で、左胸のあたりをブスッとされたという話だ」
「トラグロテだって?!」
「それにユンくんについては、自ら犠牲になろうと申し出てくれた」
「……は?」
 まずい、と〈大神術師アル・シャ・ガ〉は固まった。これは今の彼女に、出してはいけなかった話題だと。そしてクルスムも固まった。この期に及んでわけが分からない、と。
「……ユンが、自分から?」
「それは、まあ、守秘義務というものがある故にあまり話せんが……――」
「いいから、話せ。話すんだ、しゃが様」
 クルスムの足が止まる。〈大神術師アル・シャ・ガ〉を見るクルスムの目は、更に険しいものへと変わっていた。
「……そ、そうだな。儀式が始まるまでだ。こっちに来い」
 そして〈大神術師アル・シャ・ガ〉はクルスムたちを、手頃な部屋へと通したのだった。




「一言で言うのであれば、利害が一致したのだ」
 結界を張り終えた〈大神術師アル・シャ・ガ〉は一呼吸吐くと、椅子に腰を据える。クルスムはそんな〈大神術師アル・シャ・ガ〉の目の前の椅子に腰を下ろした。そしてメクは〈大神術師アル・シャ・ガ〉の後ろに、ウィクはクルスムの足元に膝を折る。
「そりゃ一体、どういうことなんだい?」
「それについては私にも守秘義務というものがある。故に詳しいことは言えない」
「アタシにはユンと親しい者として、知る権利があってもいいんじゃないのかい」
「それをユンくんが望んでいない。私はあくまで、ユンくんの意思を尊重したいのだ」
 今のユインは、昔とは違う。
 そんなことにクルスムは、とっくに気が付いていた。
 昔、といっても、ヤムンの事件からなんてもんじゃない。そのずっと、前から。クルスムがファルロンから送りつけられた挑戦状で、王都にやってきた、その時から。
 昔は単なる天才だった。好きなことにどっぷりとのめり込んで、その為ならば後先など考えずに突っ走る。馬鹿と天才は紙一重などとはよく言ったものだ。まさにその、典型的な例だった。
「どうしてだい」
 だが、王都で再会したあの時にはもう、どこか抜けていた一面が偽りのものになっているような、そんな気がしていたのだ。
「しゃが様よ」
 ユインの浮かべる笑みには、裏の顔が、心の闇が見え隠れしていた。そのことに、馬鹿なファルロンや他人を疑う事を知らない純粋なスザンは気が付いていなかっただろう。
 だが、クルスムは薄々勘付いていた。
「……アタシにゃ、どうも分からねぇんだ。納得がいかない」
「何がだ」
「どうしてあのユンが、わけの分からない行動を取っているのかが、理解出来ないんだよ」
「あのユン、とは?」
 〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉に紛れ込めば、ありとあらゆる情報が手に入ったはずだ。
 フーガルを殺せば、スザンが、シクが、手に入ったはずだ。
 高度な神術を扱えば、〈大神術師アル・シャ・ガ〉に濡れ衣を着せることが出来たはずだ。
 サラネムの山が火事になれば、山ノ民サラニンたちは怒り狂い、怒りの矛先は王都へ、シアルの王族へ、神国そのものへと向けられたはずだ。
 サラネムを治めていた女王、オブリルトレ王家の血を継ぐ者が、敵であるシアル王家の者に捉えられたとなれば、山ノ民サラニンたちの燃え滾る怒りの炎に油を注ぐこととなったはずだ。
 その先にあるのは、何だというのだ。
 これらはあくまでクルスムの推測でしかないが、その先にあるものは不幸な結末なのだろう。
「あの、単純だけど心根は優しかったユンが、どうして態と戦乱を巻き起こすような真似をしているのか。それがどうしても……分からない」
「分かっているではないか」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉はにこりと笑う。君は既に、答えに行きついている、と。
「……そりゃ、どういうことだい?」
「ユンくんや私、シルスウォッド卿などが一致したのは、そこなんだ」
「……?」
「大戦を巻き起こし、全てを滅する。過去のシエラ派シェリアラ派、などというのは、それから目を逸らさせるためにシルスウォッド卿が仕組んだ茶番劇だったのだ。だからシエラはそんな父親を憎んで、大臣の娘という肩書を捨てて、神国軍師団長へと変貌したのだよ。まあ、思春期の反抗のようなものだな」
「……まさか、そんな」
「これは謂わば清算だ。全てを元通りにするためのな」
「そ、そんな、馬鹿みてぇな話に騙されるほど、アタシゃ馬鹿じゃないよ」
 そう強がりながらも、クルスムの手は汗で湿り始めていた。足元で身構えるウィクの絶え間なく鳴り続ける低い唸り声は、次第に音量を増してきている。
 けれども〈大神術師アル・シャ・ガ〉は俯きながら、小さく笑った。
「信じるも信じないも、君の自由だ。だが、ただ一つだけ伝えておこう」
「……なんだい」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉は立ち上がり、携えていた錫杖の頭をクルスムに向け、それでクルスムの額をコツンと叩く。
「このシアルン神国に生きる己を、否定しろ。そして思い出すんだ、過去を」
「……否定しろ、だって?」
「過去無き世界に、未来はない」
「……はぁ?」
「そう、思い出すのサ。本当の自分を。お前ェサンは、ラムレイルグのクルスムなんかじゃねぇ。そこの獅子のまやかしに、惑わされるンじゃァねぇぜ?」
 ウィクはメクに向かって、猛々しい吠え声をあげる。それに対してメクは、ケケッと嘲るように笑うのだった。
「……猛獣ことアレクサンダー・コルトちゃん、ヨ」





「……シャグライの女の人を、見ませんでしたか?」
 スザンは手当たり次第すれ違う者たちにそう声を掛けながら、シアル王宮の中を一人彷徨っていた。そんなこんなでシカトされまくり、時間だけが徒に過ぎていた頃。問いかけに応じてくれたのは、二人組の黒装束の女だった。
「ああ、シャグライの。それなら、あっちの方に歩いて行ってたわね。〈革新リボルヴァルッタ〉さまと、何やら口論してたわ」
 一人の黒装束の女は、甲高い声で離宮の方角を指差す。
「それは第二分家の女中、イゼルナさまに異常なまでに首ったけの、あのロンディンよ。きっと、あなたが探してるのはユインさまでしょう? ユインさまなら、ユダヌの祠の方に向かっていたわ」
 もう一人の黒装束の女は、正反対の方向を指差した。
「本当ですか?!」
「うそ」
「はい?」
「私、ユンさまなんて見かけてないわ」
 急な話の展開に、スザンは固まる。「……え? あの……ハイ?」
「何言ってるのよ、私たちの真横を通り過ぎになられていたじゃない。あの甘い香りは、絶対にユインさまだったわ」
「甘い香り?! なんなのよ、それ!! ちょっと教えなさいよ!」
「ヒェンディグの香油みたいな、甘い香りよ。あの白い絹糸のようなサラッサラの髪の毛が、そよ風に揺られてフワァってなった瞬間に、甘い香りもフワァって。もう最高にキュンキュンしちゃうんだからー!」
「なによそれ、アンタだけ良い思いしちゃって、ズルいじゃないのよ!!」
「ふふふん♪」
「……ズルイわー、ズルイ。許すまじ、絶対に許すまじ」
「ズルイと言えば、〈咆哮ベイグラン〉よねぇ。蛮族ラムレイルグ族如きが、気高きシャグライ族のユインさまに気安く近付くな!ってのよ」
「そうよ! 第一、男が男に近付くだなんて、汚らわしいったらありゃしないわ! ユンさまはお優しいから甘んじて受け入れて下さっているだけだっていうのに、いい加減気付きなさいっての」
「……ん? なにかが、おかしいような……」
「そういえば! さっきのユインさまは、様子がおかしかったわ。どうしてか知らないけれど、女装なんかしてなされたの」
「あの、ユインさんは……」
「えぇ?! まさか、ユンさま……ソッチ、だったの?!」
「でも、それでも美しかったわ……」
「うぅ……!」
「黒いドレスに、白くてきめ細やかなお肌がよく映えてて。憂い気な目に、奪いたいし奪われたいぷるっぷるの紅い唇……! お顔の傷なんて気にならないほどに、女よりも女らしかったのぉ〜。あぁ、私もシャグライに生まれたかったわ……」
「悔しいけど、あのロンディンも顔だけは綺麗だからね。シャグライは美形が多いのかしら」
「あの白い髪に白い肌、それに紫色の瞳ってだけで、物凄く神秘的なのに……! ああ、主神《秩序ウカル》さまはなんて不公平なのッ!」
「……あの、お二人さま」
「あ、ごめんなさいね、〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉さま。それで、まだ何か?」
「ユインさん、なんですが」
「ええ、ユインさまならユダヌの祠に」
「彼、といいますか、彼女と言いますか、とにかくユインさんは女性ですよ」
「え」
「うそよ。あんな滅多に居ない美男子が」
「今までは、男装をしていたんです。美男子……だったとは、僕は思いませんでしたけど、まあ美女だったってことです。性格については、多々問題アリですが。それにファルロンさんとは、そういう仲です。本人たち認めようとしませんが、明らかにそうです」
「そんな」
「そんなの、うそよ!!」
「そ、それでは、僕は失礼します。ありがとうございました!」
「ちょっと待ちなさい、〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉さま!」
「私たちからの話は、終わってないわ!」
 そうして集めた情報によりスザンが辿り着いたのは、〈大神術師アル・シャ・ガ〉が守る聖域、ユダヌの祠だった。
 輝かしいシアル王宮の裏手にひっそりと佇む、神聖な空間の中。曇天の空の下、そこには空を見上げて立っているユインの姿があった。
「……ユインさん」
 聖域に足を一歩、スザンは踏み入れる。ピリッとした静電気のようなものが、肌を縫うように伝う。
「どうして、こんな所に」
「……」
 スザンの声に気付き、ユインは振り向いた。先ほどの侍女が言っていたように、白い肌を、肩から胸のあたりが開いた黒のドレスに包んでいた。だがきっと、こんな服は彼女の趣味ではないのだろう。ぎこちない足運びが、その証明だった。
「クルスムさんもファルロンさんも、ルドウィルくんも、ラズミラさんも、怒ってましたよ」
「……そう」
 視線は合わない。スザンの視線は空を見上げ、ユインの視線は地面へと向けられていた。
「僕も正直、あなたに怒っています。こんな勝手なことをしてくれて。エレイヌさんも、ヴィディアさんも、ベンスくんもリュンくんも、皆さん怒ってますし、何よりケリスさんなんて、怒り心頭すぎて誰にも止められない始末です。パヴァルさんなんか、あなたの巻き添え食らって、今は死の淵を彷徨っているところです」
「……そう」
「どうしてこんな真似をしたのか、是非とも一から説明して頂きたい限りです」
「……無理」
「なんで、ですか」
 ユインは瞼を閉じる。スザンは目を見開いた。
「どこから、話せばいいのか。……それが、分からない、から」
「そうやってはぐらかすのは、もうやめて下さいよ」
「……」
「ユインさん」
 スザンに背を向けたユイン。そしてユインは、やっと聞こえるような声で言った。
「……ただ、言えるのは、これだけ。あの時、フーガルを殺したのは」
 静かで冷たい、矢のような風に乗って、そんな言葉が聞こえた。
「……どうして、なんですか」
 スザンの青い目が揺らぐ。その視線は、ユインの背に向けられていた。
「じゃあ僕の、この王都で潰した時間は一体何だったんですか。どうしてフーガルは、殺されなきゃならなかったんですか」
「……」
「答えて下さいよ、ユインさん。ねぇ!」
「……」
「アンタはどれだけの人間を、僕みたく騙してきたんですか! ファルロンさんもクルスムさんも、ルドウィルくんも……アルダンの全員を、アンタの味方をしてくれていた人たち全員を、騙し騙しでここまで来たってことなんでしょう?! じゃあ本当のアンタは、何なんですか! どれが本当で、どれが嘘だったんですか!!」
 返答は、なかった。
「反論も出来ないんですか?! じゃあ全部、嘘だったってことなんですか!?」
 答えて下さいよ、とユインの背中に掴みかかろうとしたその時。スザンは後ろから、自分の首を掴まれた。
「それくらいにしたらどうだい、〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉。それだけ怒鳴りつければ、少しは気も済んだことだろう?」
「……リスタさん」
「違う。私は、リストリアンスだ」
 上っ面だけの、綺麗な笑顔を見せたリストリアンスは、スザンの首根を掴んだまま、聖域から出た。そして祠から離れた場所で、スザンを突き飛ばすように解放する。
「聖域は、文字通り神聖で厳かな場所だ。怒鳴りたいのであれば、余所でやれ」
 突き飛ばされ尻もちをついたスザンに、リストリアンスは上から憐れみの目を向ける。そして自身は、祠へと戻っていった。
「待て!」
「その命が惜しいのであれば、私の邪魔をしてくれるな」
 冷徹な青い目が、スザンを見下ろしている。
「……そんな、あなたは……」
 人って、たった数日の間にもこんなに人格が変わってしまうのか。
 スザンはユダヌの祠のある方角を見詰めながら、一人地面に突っ伏した。





「……これを、俺が」
 ケリスに呼び出されたベンスは早朝、執務室に出向いた。そこでケリスから渡されたのは、蒼い刃の剣〈聖水カリス〉。ケリスが言うには、ルドウィルが運んできたのだというらしい。
 そして今、その剣はシルスウォッドの横に立つベンスの手に握られていた。
「壊す、のですか」
 〈聖水カリス〉を握りしめながら、ベンスは疑っているかのように目を瞬かせた。
「そうだ」
 目の前に置かれた、木の杯。それは聖杯カリスと呼ばれる、継承ノ儀に必要な聖遺物だった。
 どうしてこれが、聖なる杯と呼ばれるようになったのか。それは殆どの者が知らない事柄であるし、それを運べと命じられたベンスは勿論、知りなどしなかった。
「ですが、どうしてこのようなものを壊す必要が」
 だが、そんなベンスでも幾つかの疑問を抱いていた。
 それは『聖杯を、その剣〈聖水カリス〉で壊せ』という、シルスウォッドからの命令だ。その内容は、ケリスから伝えられたルドウィルの伝言とも一致していたのだ。
「今更どうして壊す必要があるのか、とでも言いたいのだろう」
「はい」
 聖杯を眺めていたシルスウォッドの背を見つめながら、ベンスは頷く。
「俺は頭が良くないので、それをどうして壊さねばならないのか、それがよく分かりません。ですが、代々シアル王家に受け継がれている宝物だということは知っています。〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉に受け継がれている十本の剣同様に貴重な物だとすれば、次代に遺しておくのが……」
「その聖杯で葡萄酒を頂くことで《光帝シサカ》の座を継承したことが、神の名において認められる。それは、知っているな」
 シルスウォッドの視線は、聖杯ただ一点を見つめていた。だが不思議なことに、彼は聖杯に触れようとは一切しない。ベンスには、意図的に触れないようにしているようにも見えていた。
「はい、勿論です」
「聖杯にシェリアラが触れれば、彼女は《光帝シサカ》の座を、皇位を継ぐことになる」
「……シエラ、さまは」
「シエングランゲラ。彼女は自分自身の意思で、《光帝シサカ》の座を拒んだ。……彼女がそう望むのであれば、それを尊重せねばならない」
 大人しくしていれば良かったものを、とシルスウォッドは小声で呟く。その横顔は“父親”の顔ではなく、“支配者”の顔だった。
「とはいえシエングランゲラは、聖杯に関係ない。関係があるのは、シアル王家だ」
「……」
「どうして壊さねばならぬのか、それが分からないと、そう言ったな」
「はい」
「聖杯は、皇位を継ぐ際の証のようなものだ。それが無くなってしまえば、シアル王家は、《光帝シサカ》は、どうなるのだろうか」
「……!」
 ケリスがよく言っている。どんなに下らない書類であろうが、担当の者が確かに一度は目を通したという証明がなければ受理できない、と。そしてディダンも言う。証明が証明がと五月蠅し面倒臭いけれども、それがお役所のお仕事というものなんですよ、と。
「……継承が、認められない」
「その通りだ」
「ですが、何故」
「……それは、自分の頭で考えるといい」
 冷淡な声で、シルスウォッドは続ける。
「〈三日月ルヌレクタル〉よ。その剣がお前に託された以上、お前の役割は聖杯を破壊するという役を与えられた〈聖水カリス〉の代役を演じきることだ。そこに必要以上の意義を求めるでない」
「……」
「じきに、儀が始まる。お前は聖杯をシェリアラの御前へと運び、彼女に渡す前にそれを叩き斬り、破壊するだけだ。聴衆たちの前で、見せつけるように」
 ベンスは無言で頷く。そしてシルスウォッドはベンスの方へと向き直ると、聖杯を見ながら言った。
「〈三日月ルヌレクタル〉。聖杯を政務室へと運べ。開式までそこで保管する」
「はい」
「ただし聖杯に触れる際に、くれぐれも〈聖水カリス〉を体から離すでない」
「何故、でしょうか?」
「聖杯というのは、元は占術の際に扱われる呪具であったらしくてな。迂闊に触れれば、命を持っていかれるとされている。……滑稽な話ではあるがな。それを打ち消すために、聖杯の運搬者は、生命の象徴である水の神〈聖水カリス〉の剣を携えるのが、儀礼なのだ」
「そうなのですか」
「ああな。さあ、分かったのであれば、それを政務室に運ぶんだ。お前の仕事は、これからだ」
 シルスウォッドは小さくほくそ笑む。その微笑は、どこか狂気を孕んでいるようだった。
「……はい」
「その後の指示は、ディドラグリュルから受けるといい」
「了解です」
 ベンスは聖杯を持ち上げる。案外それは小さなもので、木でできているという点を除けば、少し大きめなビアグラスのそれと大きさは大差なかった。そして聖杯はとても軽く、強い力で持ち手を握ってしまえば、容易に砕くことができそうな脆ささえも感じられた。
「どうした」
「いえ、特に何も」
 聖杯に施された、龍の意匠とベンスの目が合う。
 龍の目に嵌め込まれた紫色の宝石が、赤色に変わっていた。





「……あのあほんだら共は、またとんでもない無茶をしでかしてくれやがったわね」
 第二分家の離宮。そこでヴィディアは曇天の空を見上げながら、舌打ちをする。開けられた窓から吹き込んだ風が、いつの間にか白くなっていた長い髪を揺らした。
「ただでさえパヴのことで頭がいっぱいなのに、ユン坊ちゃんまで……!」
 エレイヌは頭を抱え、重苦しい溜息を零す。荒っぽくなった口調は、やり場のない怒りの表れだった。
「それにシルス卿も、〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまも、どういうつもりだっていうのよ。こんな時に、継承ノ儀を執り行うだなんて、シェリアラさまに負担を全て負わせる気だっていうの?! どうかしてるわ!」
「……うぅ、あぅっ……うわぁぁぁぁぁああああ!!」
 ロンディンは本日三八回目の涙を、イゼルナから渡された綿の柔らかい布で拭い、布で口を覆うと盛大に叫ぶ。
 嘘だ、そんなの嘘だ。ユインが女だっただなんて、そんなの嘘だ。
 だが、流石に喉も潰れかけ、舌も回らなくなってきたのか、その絶叫は言葉にすらもなっていなかった。
「……ロディー……」
 そんな状態で地べたに座り込み立ち上がろうともしないロンディンの肩に、イゼルナは慰めるようにそっと手を置く。そんな彼女の視線もまた、世界のどこか果ての地でも見つめているかのような虚ろなものだった。
「それにしても、一番の問題はパヴや。論外や」
 床に視線を落としたヴィディア。苛立ち、殺気立った声色。そんな中、彼女の脳裏を過ぎるのは眼帯男の嫌味な微笑。握りしめられていた拳には、力が込められた。「……今頃、どこで何をしてるんだか」
「私が、目を離してうっかり寝ちゃったばかりに……」
 それは今日の早朝のこと。朝早くに起きることがないと有名なエレイヌが顔を真っ青にして、開門一番にヴィディアのもと、即ち第二分家当主イゼルナが幽閉されているこの離宮に駆け込んできたのだ。そして彼女が言い放った一言。
 パヴァルが、消えた。
「私が、いけなかったの。隙を見せればあっという間に、煙のように消えるような人だって分かってたのに。私ったら、もう……」
「エレナちゃんに、責任はない。せやから、そう項垂れないの。アレばっかしは、誰にも止められるようなもんやあらへん。それにベンちゃんの息子であるウィルちゃんでも、パヴの逃亡に気付けなかったんや。エレナちゃんに、気付けるわけが」
「でも、ヴィッデ……」
「心配せんでもアレは、忘れた頃にひょっこり自分から出てくるやろうし。……きっと、今は息を潜めていないといけない時なんやろ」
 ふと、ヴィディアの視界の端に、一人の男の影が入り込む。その影は、離宮に向かって歩いていた。
「……あれは」
「どうしたのですか、〈革新リボルヴァルッタ〉」
 険しい表情に変わったヴィディアに気がついたイゼルナは、そう問いかける。
「噂をすれば、シルスさまのご登場や」





 シェリアラは突然のしらせに、耳を疑った。
「……継承ノ儀が、今日執り行われるというのですか?」
 今更、《光帝シサカ》を自分が継ぐことになるとは、彼女は予想もしてもいなかった。
 何故なら、《光帝シサカ》などが居なくともシアルン神国という世界は、シアルン神国という政治は動いていけるということが、彼女は勿論、宮の者たちは皆、分かりきっていたからだ。
 資ノ大臣エディス・ベジェンが財政を掌握し、運用。文ノ大臣ルディガント・パデモッダ・チャニラスが司祭や神官、文献管理官を統括。法ノ大臣ヤンダル・ガルト・ヴァルダスが罪人を裁き、武ノ大臣ケリス・シャドロフが憲兵団やシアル騎士団、サイランやアルヴィヌなどに派遣している駐屯兵や〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉を統括。政ノ大臣シルスウォッド卿がその全てを取りまとめ、〈大神術師アル・シャ・ガ〉が全ての最終決定を下す。その影で〈聖水カリス〉が暗躍して適度に権力者を間引き、均衡を保つ。
 そうして今のシアルン神国は、保たれている。
 それのどこにも、《光帝シサカ》が介入する余地はない。
 介入する必要も、ないのだ。
「ええ。あなたさまはそこで、玉座に座っていればいいだけです」
 ラントは静かに、礼服に着替えさせられたシェリアラの前に跪き、頭を垂れる。
「あなたさまの身は、私がこの身を以てして御護りさせて戴きます」
 前《光帝シサカ》シェリラが亡くなってから、一体幾年の時が過ぎて行ったことだろう。その間に私は、何を学んだのだろう。シェリアラの頭の中に、自責の念という濁流が押し寄せ、あっという間に思考を飲み込んでいった。
「……私が、《光帝シサカ》に……」
 長い時間だけが、徒に過ぎて行った。
 子供だと思っていたシエングランゲラは、いつの間にか大人になり、王宮を去っていった。
 かつては宮中の鼻つまみ者だった叔父のシルスウォッド卿は、王制を中心から作り変え、今では誰もが信頼を置く中心人物となっていた。
 そして誰もが疎んでいた第二分家のイゼルナは、今では誰からも好かれる人気者になっている。
 今ではシェリアラが、除け者となっていた。
「シェリアラさま」
 抑揚のない、落ち付いるようで、どこか冷え切っている乾いた低い声で、ラントはシェリアラの名を呼んだ。そのラントの顔に、表情は無い。穢れ無い灰白の瞳は、シェリアラの淀みきった心を見透かしているかのように輝いた。
「……なに?」
 それが〈畏怖アルント〉の威光。取り繕わなければいけない、表向きの凛々しい姿。
「あなたさまは一体、何を勘違いしていられるのでしょう」
「……〈畏怖アルント〉?」
「シルスウォッド卿が、あなたさまに何を求めていらっしゃると、お思いですか」
「……」
 シェリアラは、一歩二歩と後退る。口を噤み、黙るしかなかった。
 怖かった。
 叔父上さまが、何を私に求めていらっしゃるか。
 その、たった一つの答えが。
「シルスウォッド卿は、あなたさまに」
「……やめて、言わないで」
「何も」
「〈畏怖アルント〉!」
「何一つとして、求めていらっしゃらないのです。民も同じことを思っております。ただ、《光帝シサカ》の座に大人しく、黙って、座っていること。ただそれだけを」
「やめなさい!!」
 こみ上げる怒り、不安、戸惑い。取り乱したように、シェリアラは甲高い声を上げ、跪くラントから視線を逸らした。
「出て行きなさい、〈畏怖アルント〉! 二度と私に、その顔を見せないで!!」
 ラントは無言で立ち上がると、シェリアラに背を向け、頭を下げることもなく、足音も立てずに去っていく。
「……二度と顔を見せるな、か。俺も出来ればそうしたいぜ……――クソッ」
 ラント自身も、戸惑っていた。これで本当に、良かったのだろうか、と。
 シルスウォッド卿に命令されたのだ。シェリアラに、我が真意を伝えろ、と。そして命令通りにラントは彼女に、それを伝えた。
 シェリアラは、ただ《光帝シサカ》の座に大人しく座っていることだけを、望まれているということを。
 そしてシルスウォッド卿は、それ以上は何も彼女には求めていない、即ち、余計なことは何もしてくれるなということを。
 なんて厄介な、ご時世だ。
「ラントさま」
 そのとき背後から聞こえた老女の声が、ラントを呼んだ。
「レグサか」
 侍女長レグサ・エンゲルデン・ベルナファス。かつてはシェリアラの乳母をしていた従者で、王宮の中でも最高齢者だ。宮中の誰よりも宮中のことを知りつくしている、古株の中の古株であり、それは文武資法ノ四大臣やシルスウォッド卿、果ては無礼不躾の傍若無人パヴァル・セルダッドですらも、彼女に対しては頭が上がらないといわれているほどだ。
「職務中は〈畏怖アルント〉の名で呼んでくれと何度も」
 わざわざ振りかえらなくとも、ラントには声の主がレグサであるという判別はついていた。従者の中でラントを“ラント”と呼ぶのは、彼女ぐらいしか思い当たらないからだ。
 だが、そこは礼儀として振りかえる。案の定そこには黒装束に身を包んだ白髪の老女、レグサが佇んでいた。そして彼女は、半透明なアルゲン織りの黒布の下で、複雑そうな笑みを浮かべながら言った。
「シェリアラさまのこと、ありがとうございます」
「感謝をされるようなことは」
「シルスウォッドより、話は伺っております。シェリアラさまには、あれぐらいが丁度いいのです。……なにも、ラントさまが気に病むことはありませんよ」
 私がシェリアラさまを甘やかしすぎてしまったのです、とレグサは笑う。ラントの右手を、今にも折れそうな細枝のような両手で包んだ。
「シェリアラさまは、開式までは私めがお目付をしておきましょう。ですので、ラントさま。昨日は、一睡もなされていないのでしょう? なら、あなたは仮眠を取られてください。式は長丁場になるのですから、体は常に動ける状態にしておきませんと。それが〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉たる者の本分で御座いましょう?」
「……すまんな」
「お気をつけて……」
 レグサは、ラントの手を離す。細められた老女の目は、悲しそうにラントの背を見つめていた。
「……」
 すると入れ違いで、二人組の侍女がやってくる。黒装束の女たちは声を潜めて、なにやら話し込んでいた。
「ね、そうよね。派手にやってもいいって言われても、どこまでやればいいんだか。加減がよく分からないわ」
「……で、今回の儀式。一体いくら掛かってるんだかね」
くりやの料理長は、シルスさまから直々に盛大にやってくれって言われたから、ド派手にバーン!と一発咬ましたる、って言ってたけど。……ベジェン大臣の金切り声が、当分轟きそうよねぇ」
「やぁねぇ、もう。普段ですら既にキンキンとウルサイのに」
「……でも、ケチで有名なシルスさまは、今頃胃が痛くて仕方無いんじゃないのかしら」
「……師団長になっても、シエラさまの浪費癖が治らないって、呆れておられましたものね。それも、そのお金を何に使っているかが分からないらしいじゃない?」
「……そうよねぇ、ちょっと気味が悪いわよね。それで、ベジェン大臣が一喝入れたけど、結局何も解決されていないらしいですし」
「……シルスさまも大変よねぇ。アルヴィヌの貧民たちのことでも随分と頭を悩まされていられるのに、貴族の権力争いにも巻き込まれて、ベジェン大臣の愚痴を聞かされて」
「……ねー。本当にそう思う」
 ひそひそと、噂話に噂話を重ねる侍女たちの背中。その背を、老女は叩いた。
「何をここでしているの。あなたたちには、仕事があるでしょう?」
「レグサさまッ!?」
「今日の儀式は、盛大な規模で催されるんですから、あなた達が動かなくてどうしますか!? 厨では料理人たちが手を休めることなく働いているというのに、給仕のあなたたちは、一体何をしているというの?! それに、今日の分の給金はシルスウォッドさまとエディスさまが特別に弾んでやるとおっしゃられているのです! その意に応えるよう、あなた達も働きなさいな! この老婆一人に、全て任せる気なのですか?!」
「あのベジェン大臣が、ですか?!」
「そうです。あの資ノ大臣エディス・ベジェンが、今日の日だけは特別にと、言っておられているのです! その期待に添うよう、働くのが道理というものでしょうが!!」
「すみません、今すぐにでも!」
 懐かしい。私にも、こんな時期があった。
 散り散りになっていく黒装束の女たちを、レグサは見送る。
「……どうか」
 《光帝シサカ》継承ノ儀。
 毎年、決まった時期に行われる騎士たちの叙任ノ儀とは違い、そう滅多に 催もよおされるわけでは無い。だからこそ、継承ノ儀は盛大に行われるのだ。
 王宮内は普段とはケタが違う、異常なまでの忙しさに包まれる。そして、その喧騒に隠れるように、裏では様々な思惑が交錯するのだ。
「……いえ。祈っても、無駄ですわね」
 離宮に向かう前に、偶然に顔を合わせたシルスウォッドが見せた乾いた微笑が、レグサの脳裏に思い起こされる。
「……」

 リストリアンスがこうして動いてしまった以上、もう引き返すことは出来ないようでな。
 イゼルナにも、全てを教えねばならぬときが来たのだ。

「……シェリアラさまの支度が、まだ……」
 知らないことほど、幸せなことはない。けれども、力もない私のような人間が、何かを知ってしまったところで、何かを変えられるわけではない。
 だからこそ、祈ることしかできないのだ。
 不幸なことが、必要以上に起きないようにと。
「あらやだ、もうこんな時間……!」
 レグサは窓から、外を眺める。
 曇り空の下、華やかな衣装に身を包んだ者たちが、庭園にぞろぞろと集まり始めていた。