【第九章 《光帝》継承】

2 銀の髪の女王


『今、目に見えている全てが嘘で、その嘘が大きくひっくり返ったら……どうする?』
 なんてことのない、話題だった。それを切り出されたファルロンは単純に、こう答えた。
 ごめん、サッパリ言っていることの意味が分からない。
「……なんだったんだ」
 既に浅い眠りについているユインの横顔を隠す、長ったらしい前髪。それを静かに上へと、ファルロンは掻き分けた。そして現れ出たのは、顔の左半分の大半をむしばむ醜い火傷の痕。
 この傷さえなければ、美人さんになってただろうに。
 そんな風に自分の母親がいつかのユインを憐れんでいたのを、ファルロンはふと思い出す。顔に傷のある女性は、お嫁になんか貰ってもらえないだろう、特に堅物なシャグライの人はね。そんなことも、言っていただろうか。
 そのとき、ガキだったファルロンはたしか、だったらオレがユンを貰うとか、そんな馬鹿げたことを言ったような気がする。そして母親に、ドタマに一撃を食らったのだ。
 冗談でも、そんなことを言うんじゃないよ、と。
「……なぁ、ユン」
 シャグライとラムレイルグには、絶対の掟というものがある。
 絶対。それは掟で民を縛り付けてこそ、その息を永らえてきたからだ。
 そんな両族の間に数ある掟の中でも、最も重い罪。
 それこそが、異なる族の者と契りを結ぶことだった。
「……って、起きてるわけもないか」
 二つの部族同士での結婚に、前例がないわけでもない。記録をさかのぼっていけばもっとあるのかもしれないが、最近でいえば一件、ファルロンが生まれる一〇〇年から一五〇年ほど前に、シャグライの男とラムレイルグの女が駆け落ちした後にアルヴィヌへ逃げたという話があった。その男女は同族から破門され、二度と山に帰ってくることはなかったという。
 そして、その夫婦の孫こそが、現〈聖堂カリヴァナ〉であるケリスその人であるとも言われていた。
「…………起きて……る……けど」
 ゆっくりと右目だけを開けたユインの紫色の瞳と、ファルロンの茶色の瞳が合う。そしてゆっくりと、ファルロンは体を起こした。
「起しちまったか」
「……気に、する……な」
 一言二言喋る度に、ユインは激しく咳き込む。
 だから無理して喋るなと言いはするが、ユインは大丈夫だと胸を張り、また咳き込む。どうせ、忠告したところでユインは止めやしないだろう。既にファルロンは、諦めていた。ユンに対して自分の体を大事にしろと言ったところで、右から左で耳を傾けやしないだろう、と。
 案の定、咳き込み始めたユインの背中をさすりながら、ファルロンは寝台の傍に置いておいた水の入った硝子のコップを手に取り、そっと渡した。
「ほらよ、無理すんなって」
「……」
 そうしてユインの咳も治まったころ。ユインがまた、口を開いた。「それで」
「ん?」
「……どうして、起こした?」
「ああ。さっきのヤツの……」
「今、目に見えているもの全てが嘘で」
「そう」
「それら全てが今、この場でひっくり返ったら……っていうの?」
「それだ」
 一度、ユインは咳払いをする。そしてファルロンを見つめて、短く、率直に言った。
「意味は……ない。気に、しないで」
「そうなのか?」
「そう」
 そしてユインは、にこりと僅かに微笑む。
「……おやすみ」
「ああ、おやすみ」





「〈大神術師アル・シャ・ガ〉さま」
「だから。どうしたんだね、クルスムくん?」
「これから、どっち……どちらへ、向かうん……イヤ、向かわれるの……です、か?」
「無理をして王都の言葉を使わんでもよいぞ」
「イヤ、でもそう言うわけにゃいかねぇだろッ……じゃない。いきませんので」
「私は山ノ民サラニンであろうが獣であろうが何であろうが、差別をするつもりはない。それに、もう少し肩の力を抜いたらどうだ。ざっくばらんで他人などお構いなしである君に、そのような他人の顔色を窺う際の言葉遣いなど似合わぬ上に、不自然だ」
「……なら、お言葉に甘えさせてもらうとするよ」
「そうするといい」
「俺ぁ毛頭、お前らに敬語なんざ使うつもりはねぇぜ。特に、そこのクソカラス」
「四つん這いのテメェに、ただのカラス呼ばわりされるたぁ聞き捨てならねぇな」
「やンのか、オラ? 飛べねぇ鳥に負ける気はしねぇがな。なんなら鳥の丸焼きにでもしてやろうか?」
「テメェがその気なら、やってやろうじゃねぇか、えぇ?」
「やめな、ウィク」
「メク、お前も一々他者からの挑発に乗るんじゃない。見苦しいぞ」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉と巨烏メクの後ろを付き添うように歩くクルスムは、着慣れぬ礼服に体を慣らそうと肩を回し、深く息を吸う。そんな彼女の緩められたシャツの首元には、申し訳程度に絞められた、虹色に輝く蛋白石のループタイが輝いていた。そして、クルスムの横を眠たげな眼でのろのろと歩くウィクも一度、伸びをする。けれどもそんなウィクの視線はどこか、メクの尻を狙っているようでもあった。
「そういや、しゃが様よ。山の人間にゃ、こんなカッコつけた服は似合わないだろうに、なんでよりによってこんな服をアタシに用意したんだい?」
「それは、簡単だ」
 クルスムの前を悠々と歩く〈大神術師アル・シャ・ガ〉は、振りかえることなく喋る。
「そのような服でも着ていないと、君たちはここで、仕えの者たちから舐められる。貴族に舐められるというのならまだしも、従者に馬鹿にされるようでは話にならん。今の君たちは猛獣部隊に所属している以上、軍人の一人であるわけだからな」
「王都の連中に舐められるのなら別に、慣れてるさ」
「そうだとしても、だ。私としても、本当は君たちに、君たちなりの動きやすい服装で居させてやりたいのだよ。だが、それを許されるようになる為には、君たちが最低でも〈聖水カリス〉ぐらいの地位を確立しなければならないのだ。そういうのも含めての判断だ。我慢してくれ」
「へぇ。最低でも水龍さんぐらいかい。あの人も、意外と影響力のある人だったんだねぇ」
「ああ。君たちの想像以上に、アイツは凄いんだ。隠れた実力者だぞ」
 そう言いながらも〈大神術師アル・シャ・ガ〉の横顔が、一瞬引き攣ったような気がクルスムにはした。だが、それに構うことなく、メクは饒舌に語り出さんとする。
「人斬りの技にゃ、ありゃ超人級だろうな。右に出るもんはいねぇだろうよ。それに、斬った証拠を揉み消すことに関していえば、神がかってるぜ」
「神がかってる。……そんなに凄いのかい?」
「ああ。最早、あれは神に等しいようなものだよ。人間の域をとっくに超えている」
「神に等しいか。〈大神術師アル・シャ・ガ〉も随分と好い加減なことを、易々と言ってのけるモンだな」
 ウィクはそんな皮肉を言う。だが、明らかな嫌悪を示すウィクの態度に構うことなく、あくまで〈大神術師アル・シャ・ガ〉は呑気に言った。
「神に等しいというのは、あながち的外れでは無いと思うのだがなぁ」
 どこか、腹の底が掴めない。
 クルスムはそう感じていた。言葉の節々には裏があるような響きがあるのに、それなのに発せられた言の葉の本質は、深いところを突きつめていけばいくほど、何故だか根無し草のようで、フワフワと浮いているだけのようにも思えるのだ。
「噂をすれば、ご本人登場ときた。あの不精髭の眼帯面、そろそろ見飽きたぞ」
 だからこそ目の前の男は、〈大神術師アル・シャ・ガ〉というものを勤め上げることが出来るのだろう。
「……どこに水龍さんが?」
「ほら、あそこだ。珍しくしかめ面して、腕組んで仁王立ちした竜王がいるだろう。相変わらずの死んだ蒼い目でこっちを睨んでる」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉が指を差した先。そこには、ある部屋の前で仁王立ちをしているパヴァルの姿があった。そして蒼い目は確かに、〈大神術師アル・シャ・ガ〉を睨んでいるようにも見える。
「竜王か。またけったいなことを」
「剣を構えた時の水龍は、本当に神と同じぐらいには恐ろしいぞ、聖獣よ」
「それならもう、龍神でもいいんじゃないのかい?」
「そうだな。龍神のほうがしっくりくるやもしれぬ」
 龍神、龍神、水龍神……などと呟き始めた〈大神術師アル・シャ・ガ〉を横目に、クルスムは扉の前に立つパヴァルを見た。
 他の者たちは黒装束で統一しているというのに、その中にポツリと一人だけ、藍色の羽織が混ざっている。そしてその横には白い頭と、陽の光を反射して光る眼鏡の硝子。
「……あ?」
 ちょっと待て、とゆっくりと歩いていたクルスムの足が止まった。何故、メズンがここに居る、と。
「……なんかイヤーなモンを見ちまったような気がするんだが」
 ウィクが嫌そうに目を細める。
「おお。客人はもう到着していたか。予定外だったな」
「客人?」
「ああ、メズンをここに呼び出したのだよ」
「また、どうしてだい? 薬師なら王都にでもいるだろう?」
 すると〈大神術師アル・シャ・ガ〉は初めてクルスムのほうを向き、赤紫の目を大きく見開いたのだった。
「まさか、知らないのか君たちは」
「何を?」
「シアル王家のお転婆娘がとんでもない火種を蒔いてくれたお陰で、サラネムの山、特にシャグライの村近辺が火事になったのだよ。それで今、シャグライとラムレイルグが壊滅的状況だと」
 全身の毛穴という毛穴から、気持ちの悪い汗が噴き出したのをクルスムは感じた。
「なんだって……!?」
 それまで緊張できつく握りしめられたクルスムの拳から、わっと力が抜けていく。
「……山が、燃えた?」
 山が、燃えた。
 同郷の仲間たちは今、自分が捨て去った山の者たちは今、どうしているのだろうか。
 死人は出ていないだろうか。
 クルスムの頬を、玉粒ほどの汗が滑り落ちた。




「そうヨ。燃えた。全部燃えた。まっ、イェガンの野郎が早ぇ段階で気付いたお陰でな、死人は少ねぇ。だがな、人間サマの住んでる区画がものの見事に全部燃えちまったモンでヨ。次に雨が降ったなら、確実に土砂は崩れてラムレイルグも終わりだろうなァ」
 そう言いながら顎を掻くメズンは、丸眼鏡の下の紫色の目を細める。重苦しい溜息を吐いた。「全部、山の人間が築き上げた六千年の歴史も、これで終わりだ」
「死人が、出たんだな」
「ああ。死人っつってもヨ、シャグライの本家、旧オブリルトレの人間だけだ。とはいえイェガンは生きている。だが、ヤムンや長老だったアイツらの親父、モガンは死んだ」
「……」
「これで、清々したサ。ユインの野郎にとっての、一番の障害だったモンは取り除けた。良かったんだ、これで」
「それで本当にいいのかい?」
「俺サマがいいと言っているんだ。これで、良かったんだ」
 ふぅ、と椅子にどかっと座りこむメズン。そして再び溜息を吐く。その顔に、皺が目立っていた。
「それより、アンタ」
「まさか金髪の小娘にアンタ呼ばわりされるたぁ思いもしなかったな」
「もう小娘って歳じゃないさ。ババァだよ」
「そうかェ、お前もババァの仲間入りしたのか」
「アタシがババァなら、アンタはもうジジィじゃない。お爺様、だろう」
「そうとも言えるなァ」
「だから、無理すんなって」
 閉じられた扉に寄りかかりながら、その横に立つ〈大神術師アル・シャ・ガ〉と何かを話し込んでいるパヴァルを、クルスムは三白眼の目でちらりと見やる。
 パヴァルとメズンは同世代であるはずなのに。それなのに。
 既によぼよぼの老人の域に足を一歩、踏み入れようとしているところなメズンに対し、パヴァルの外見は王都で初めて見た時の姿となんら変わりなかった。
 焦げ茶色の髪には白髪はなく、そこまで目立った皺が刻まれているわけでもない。強いて言うのであれば、少しばかり頬が痩せて、頬骨が際どくなった。それくらいしかない。
 化け物。
 まさに化け物だと、実感した。
「ユンのことなら大丈夫だ。十本剣さんたちが護ってくれるよ。つーか、アタシだって居るワケだし、役に立つかは知らねぇが、ファンの野郎だって居るさ。気兼ねなく逝ってくれたって、構わないんだよ」
「俺もそうしたいところなんだがな、まだこの世にゃ未練があってだ」
「未練?」
「オブリルトレがこの六千年間記録してきた、確かに信頼できる正確な歴史を世に伝え、次の筆記者に役目を託さにゃならねぇ。先のは俺じゃなくとも出来るが、後のは俺がどうしてもやらにゃいけねぇのサ」
 それも終わらねぇうちは、おちおち死んでらんねぇのヨ、とメズンは笑う。
「候補とかは居るのかい?」
「それが居たら、今頃困っちゃいねぇよ」
「……そんなので大丈夫なのかい? 筆記者ってのは結構大事な役目なんだろう?」
 オブリルトレの筆記者。
 何千年もの昔、女王が直々に任命したという、正しい歴史を一切の私情を交えずに、ただ書に記し続ける役だ。
 その役は何十代、何百代にも渡ってサラネムの、主にシャグライを中心に守り続けられていた。それが今、途切れる寸前である。
「ああな、大丈夫じゃねぇのヨ。継がせる予定で今まで育ててきたユインにゃ、今や王都で囚われの身だ。これじゃ書き物を何のために教えて来たんだか、サッパリだ」
「イェガンは、どうだい。あいつならユンよりも、他人様が読めるような字を書けるだろう」
 ラムレイルグでもシャグライでも、まともに読み書きが出来る人間というのは限られている。いや、山の殆どの者は読み書きができる。それこそ王都やアルヴィヌよりも識字率は高く、子供は皆が学舎に通うことを義務づけられているサイランと同じくらいだろう。だが、他人でも読める字を書くことの出来る人間が非常に少ないのだ。
 どういうわけか、サラネムの人間が書くシアル文字は、ブルサヌやアルヴィヌ、サイランの人間が書くシアル文字よりも、非常にくねくねと歪んでいて、読み辛いとされている。崩されているのだ。どうしてそうなったのか、その原因は明らかになっていない。だが、読み辛いというのが明らかな事実であるのには、変わりなかった。
「アイツは今、ラムレイルグのヌアザンと共に、長老代理として混乱してる里の者どもを落ち着かせるのにてんてこ舞いだ。さぞ猫の手も借りてェくれぇだろうヨ。そんな大忙しな奴にゃァ、安心して託せねぇ。筆記漏れがあっちゃァ困るからヨ」
「もっと他に、シャグライに居ないのかい?」
「アイツらにゃぁ託せねぇのヨ。誰も正確な歴史に興味なんざねぇだろうしなァ。女王が忌み子にすり変わってる時点で、既に信用なんざできやしねぇ」
「……そうアンタが意地になってるようじゃ、決まるもんも決まらねぇじゃねぇか……」
 クルスムもまた、溜息を吐く。これではらちが明かない、と。
 そしてふと、疑問が浮かぶ。山が燃えたということは、メズンの家も燃えたということ。きっとあの家に、その歴史書というのはあったはずだ。
「なあ、メズン」
「ンだ」
「歴史書とかは、どうしたんだい? まさか燃えちまったなんてことは……」
「その心配なら御無用ヨ」
 そしてメズンは、扉に寄りかかり立つパヴァルを指差す。
「あの野郎に、あらかじめ残りは運ばせてあンのヨ。今頃、猫目の坊主かユインの部屋にでも、山積みになってるだろうサ」
「水龍さんが、かい?」
「そうヨ。それに、こんな事態も考えて、ちょくちょく猫目の坊主に書物は預けてあった。きっと、あの坊主の頭ン中に、内容は入っているだろうサ」
「なら、アンタはウィルに役目を託すつもりなのかい?」
 ルドウィルなら、安心できるのかもしれない。ユインに読み書きを習っているからだ。けれども。とクルスムは考える。あの子は好奇心ばかりが突っ走って、冷静さを見失いがちになりやすい。それに。
「でもよ。筆記者は、山の者じゃなくていいのかい? だって、そりゃ山の女王が……」
「歴史に山もクソもねぇ。兎に角、誰でもいい。歴史書を書き続けてくれればヨ。それに、あの坊主に俺は託す積りはねぇのヨ」
「なら一体誰に」
「おい、片目。お前はどう思う」
 突然、メズンはパヴァルに話を振る。
「おう、そうだな」
「……なんで水龍さんに……」
「あの〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉の吟遊詩人なんてのはどうだ」
「あの青髪の童顔か」
「そう、ソイツだ」
 ニヤリと笑うパヴァル。メズンも何かを考えているかのように、小さく頷いた。「そうか、そんな奴もそういや居たなァ……」
「まさか、あのスザンに……?!」
 それまで部屋の隅で眠っていたウィクが不穏な空気を嗅ぎ取り、むくりと体を起こす。パヴァルの横に立つ〈大神術師アル・シャ・ガ〉も、にこにこと不気味に笑いだした。





「話はユインさんから全部、聞かされてますよ」
 〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉事務所の一階、応接間。厚い硝子板の机を挟んで、対に並んだ長椅子に座った男たち四人―――スザンとパヴァル、メズンと〈大神術師アル・シャ・ガ〉―――と、床に座って己が主を待機している二体の聖獣―――〈水ノ聖獣シラン・セク〉であるシクと、自称かつては〈闇ノ聖獣シラン・ソ〉のメク―――の間には、奇妙な空気が流れていた。
「なんでまた、あの野郎が知ってンだ?」
「予知夢か、なんかなんじゃないんですか? 本人もそんな感じのこと言ってましたし、現にユインさんの言った通りに全てがここまで来てますし」
 一字一句たがルわないだなんて、なんだか不思議ですね。とスザンは然程何も感じていないかのように言う。お前の方がなんだか変だぞ、とパヴァルは言った。「変なモンでも食ったか、スザン」
「そんな変ですかね、僕」
「ああ。普段のお前なら今頃、おりゅんみたく嫌だのなんだのと甲高い声でキーキー騒ぎ出してただろう。俺はそう思って用意を進めていたんだが……」
「そこですよ、そこ」
「そこ?」
 うーん、とスザンは目を瞑る。
「まあ、確かにユインさんにそれを切り出された時は正直、はぁ?ってなりましたよ。でも、僕が嫌だと言ったところで、パヴァルさんに説き伏せられるのは目に見えていたので、それに反抗するのも面倒臭いなって。それにファロンさんにも言われたんですよ。パヴとダンの話術にゃ誰も勝てねぇよ、って」
「よく分かってんじゃねぇか、あの馬鹿犬も」
「馬鹿犬なりにわきまえてるんでしょう。その馬鹿犬とベンスくんはこの間、ディダンくんに三下以下のボンクラにしてポンコツ呼ばわりされたとかで、二人揃って随分と凹んでましたし」
「まっ、違ぇねぇンだけどな」
 確かにファンの野郎はとんだポンコツだ、と頷くメズン。〈大神術師アル・シャ・ガ〉は堪らず噴き出した。
「なに、そんなに〈三日月ルヌレクタル〉と〈咆哮ベイグラン〉の二人は、使い物にならないのか?」
「そうでもなけりゃ今頃、シルスウォッド様サマが、剣もまともに振るえない、しようもない王族の演技なんざしてねぇだろうが。本来、ベンスの護衛なんざ必要ねぇんだよ。アイツのあの腕ならば」
「……え? それって、どういう……」
「それもそうだな。あの者は非常に演技が達者だ。どこぞやの誰かと同じくな」
「はっ、それはどなたはんのことでっしゃろか」
「その顔で北部訛りを使うな。お上品な北部に、貴様は似合わんだろうが気色悪い。お前の顔には、東部の汚い言葉遣いがお似合いだ」
「生憎だが、その上辺だけはお上品なアルヴィヌ北部が一応俺の生まれ故郷ってことになってるんでな。〈大神術師アル・シャ・ガ〉サマよ」
「その生まれ故郷とやらを去ったのは、何十年前のことなのだか」
「五〇年以上も昔だな。思い入れも何もない」
「それで故郷とよく言えたものだ」
「オイ、そこのお二人サン。無駄話はそれくらいにしといちゃくれねぇか」
 パヴァルと〈大神術師アル・シャ・ガ〉の間に割って入ったメズンは、議題を元に戻す。丸眼鏡の下の紫の目が、スザンを品定めするように舐め回していた。
「で、お前ェサンは筆記者をやってくれンのかェ?」
「まあ、そういうことです」
「ほぉ。またなんで部外者ともいえるお前サンが、こんなシャグライの面倒な伝統を引き受けようと思ったんだェ?」
「それは、暇だから……ですか、ね」
「暇だからかェ?」
「そうです、僕。今も昔も、ずっと暇なんです」
「ほぉ」
「そしてこれから先も、ずっと。予定も何もありはしないし、兎にも角にも暇なんです。それに、いつも行き当たりばったりだったんで、そろそろちゃんとした仕事というか、使命というか。そういうのも、長く生きる者なりに持たなければいけないのかなーって、そう思って」
 あまりにも、清々しいほどにまで小ざっぱりとしたスザンの答えに、メズンは一度、固まった。こんな奴に、託して大丈夫なのか、と。
 だが、あの片目もユインも、コイツを選んだ。少なくともそこに、理由はあるはずだ。
「要は何も予定もないから、引き受けたのかェ、お前ェサンは?」
「ええ。だって僕、〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉ですから。人よりも無駄に命が長いんです。それなのにただ、この狭いんだか広いんだかよく分からない国の中を、ただ意味もなく彷徨い続けるのもなんだかな、って」
 少し俯き、悲しそうな表情に変わったスザン。それでも、落ち付いた口調で話を続けた。
「そこをユインさんに指摘されたんですよ。いつ終わるのかも分からないような長い時間を、何の生き甲斐も持たずにただ徒に潰していくのは、自分の想像以上に精神的に応えるものだ、って」
「確かに、そうだろうなァ」
「仮に、長生きした普通の人の寿命が七〇歳とするじゃないですか」
「まあ、山だと大体それくれぇだな」
「シクが言うには、僕はその五倍くらいは、生きなきゃいけないらしいんです」
「へぇ。数奇なモンだァ」
「その所為で、〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉になった時から僕の老ける速さは、普通の人の五分の一くらいになってるんです。それに童顔だってのも加わって、未だに年は二〇そこらだろう、って言われるんですけど、考えてみればもう四十も過ぎてますし」
「確かにまだ外見は二〇ぐれェに見えるな」
「……この四〇年ですら長く感じるのに、まだ三百年くらい残ってるんですもの。それだけの時間が与えられたのに、ただ徒に潰していくのは惜しいし、きっと辛い」
「ふむ」
「それに、出会ったものたちを何らかの形で遺せれば、少しは淋しさも減るのかなって」
「一々別れが淋しいのかェ、お前ェサンは」
「そうです。淋しいんです。出会いがあれば、別れもある。それは当然のこと。たとえば、いつかは必ず、アルダンさんたちともお別れしなければいけない時が来るじゃないですか。でも、だからといって、こんな変な人たちをただ忘れていくのは、なんだか淋しい」
 スザンは横に座るパヴァルに視線を移す。そして少し愉快げに、ふふっと笑った。
「それに、パヴァルさんみたいな怪物が居たという記録が残れば、そこからきっと、色んな伝説が後世で作られていくかもしれないじゃないですか。そしたら……面白いと、思いません?」
「俺の伝説か? 気色悪ぃな」
「きっと、血みどろの吐き気モンになるだろうヨ」
「いえ、もしかすると水の龍と共に旅をする英雄に変わっているかもしれませんよ? ちょっと面白くないですか?」
「俺は興味ねぇな。第一、自分の死んだ後のことは、どうだっていい」
「そうですか。前から思ってたんですけど、変なところ冷めてて、なんか詰まんない人ですよね、パヴァルさんって」
「そもそも、コイツの根っこは、水の素養を持ち合わせておきながら、カラッカラに干からびてるようなモンだァ。情けも何もありゃしねぇ、ただの人斬りヨ。仕事の時にゃ馬鹿演じてるが、ガッツリ素に戻ってる時にゃァ無言に無表情、どこまでも無口になり果てる」
「なんか意外ですね。全然知りませんでした。やっぱアンタ、馬鹿じゃなかったんですね。リュンくんのほうがよっぽど馬鹿だったんだ」
「余計なことは言わんでいい、老害メガネが」
「冷血漢たァよく言ったもんだ。まっ、面白みを求める方がアホらしいってわけヨ」
「ははは。独眼の水龍の血は赤くない、っと」
「血管を流れてンのは冷たい氷水ヨ」
「それはちょっと冷たすぎませんかね」
 ははは、とスザンは笑う。だがメズンはすぐに真顔に戻り、丸眼鏡の下で目を光らせながら、スザンを静かに見据えた。
「で、お前ェサンが俺様の跡を継いでくれると、それでいいんだな」
「ええ、そうです。僕なんかでよければ、喜んで」
「本当に、それでいいんだな。それに、古代シアル語は読めるか?」
「勿論ですとも。ユインさんにみっちりとご教授して頂いたので、読めるようになりましたし、書けるようにもなりました」
「……そうかェ。なら、上等だな」
 ふぅ、と一息ついたメズン。そしてゆっくりと立ち上がると、スザンに向かってニヤリと笑った。
「……どうか、されました?」
「お前ェサンに譲ろう、筆記者を」
「あ、はい」
「歴代の書物は全てそこの片目に運ばせた。場所はソイツが知ってんだろうヨ。後で読むといい。だが、もし読むのが面倒臭ぇってンなら、その書物の内容が全て頭ン中に入っているユインか、少しは目を通したであろう猫目の坊主に聞くといい」
「え、あ……お?」
「仕事のことは全部、後継ぎとして育てたユインに叩きこんであるからアイツに聞いとくれ。そんじゃ、俺ァ最期の仕事があるんで行かせてもらうヨ」
「あ、ちょっと待って下さい、メズンさん!」
 少ない荷物をまとめて、さっさと立ち去るメズン。老人の背を見送りながら、スザンは肩を竦めた。
「取りあえず、ユインさんに聞けばあらかた分かるってことですよ……ね?」
「そうなんじゃねぇのか? あれはアイツの娘であり弟子であるからな」
「……はぁ。また猛獣舎に戻らなくちゃ。地味に王宮から遠いんですよね、あそこ」
「それは、ご愁傷さまに」
 それくらいの距離で愚痴を漏らすな、とでも言いたげなパヴァルの冷たい笑いを作り笑顔で躱しつつ、スザンは視線を逸らす。〈大神術師アル・シャ・ガ〉の横に佇む大きな黒い影、 即すなわちメクと目が合う。
「それにしても、まるで遺言みてぇだな。最期の仕事、ってヨ。なぁ、〈大神術師アル・シャ・ガ〉」
 ケケッと笑うメクに、無言で首を縦に振り、同意の意を述べる〈大神術師アル・シャ・ガ〉。シクも澄んだ青い目をゆっくりと閉じ、少し顔を俯かせる。
「……遺言、ですか。そうだと思いたくはありませんけども……」
 口ごもるように小さく、不明瞭な声で呟いたスザンの横。片目しかない水龍神は呆れたように一度、舌打ちをしていた。





 今日のダルラは、朝からとても機嫌が悪そうだった。
「ダルラ」
「……悪いが、今は一人にさせてくれないか」
「でも」
 現ユライン家当主、ダルラことダルトレイニアンス・ヴィネディガ・ユライン憲兵団第三中隊副隊長。
 彼のもとに朝一でやってきたのは猛獣舎の鷹。鷹の足環には、書簡が入れられていた。その書簡に今、彼は頭を悩ませていたのだ。
「……ユニ。お願いだ、今は一人にさせてくれ」
 書簡は〈聖堂カリヴァナ〉から直々に送られたものであるらしく、紙の左下隅っこには武ノ大臣ケリス・シャドロフの署名がなされていた。そして紙には分かりやすく簡潔に、ありのままの事実が書かれていた。

 リストリアンス・シャグリィアイグ・シアルは、生きている。

「でも、あなたが一人でどんなに考え込んだところで、何も解決はしないのでしょう?」
 ユニと呼ばれた、シャグライを思わせる白い肌に白い髪、紫の瞳を持った細身にして長身の女は、白い眉を顰め、白樺の細枝の様な指で、俯くダルラの顔の輪郭をなぞった。
「それに、〈聖堂カリヴァナ〉さまはあなたに状況を伝えただけ。“あなた”に何をして欲しいとまでは、その手紙には書かれていないわ」
「けれども、あの〈聖堂カリヴァナ〉ともあろう御方が、何の考えもなしに私のような〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉ではない一介の軍人、ある意味では部外者とも言うべき者に、このようなものを送りつけるとは到底考えられないのですよ。……ただリストリアンスとは大昔、ちょっと付き合いがあったというだけなのに。でもユニ、あなたにこの件は」
「それがね。私も大いに、関係があるのよ。現に私も、リストリアンスさまをこの目で見ちゃったわけだしね」
「……そうでしたね」
 ユニはダルラの手の上に自分の手を乗せ、ダルラの垂れ目を真摯な眼差しで見つめた。
「それでね、ダルラ。怒らないで聞いてちょうだい。私は昨日、〈聖水カリス〉さまと会ったの」
「〈聖水カリス〉が君に、接触しただと……?!」
「大丈夫、何もされてないから。だって私ならこうして今、あなたの前に居るでしょう? それよりね、ダルラ。馬を出したいんだけれども、いいかしら」
「どこに行くというんだ?」
「……実は……」
 ユニは少しはにかみながら、窓の外に視線を送る。ダルラは立ち上がり、窓の外を覗き見た。
「……分かった。君がそう言うのであれば、そうしよう」
 表にいつの間にか出ていた馬車の前、憲兵団の一員であるダルラとしてはあまり好ましくはない〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の猟犬、かの悪名高き独眼の水龍が、そこには立っていた。




「……そう申されましてもー……」
 渋い顔をしたラズミラは、向かいに座るユライン夫妻に対し、申し訳程度に頭を下げる。ラズミラの横に座るルドウィルもまた、居心地の悪さから肩を竦める。対するユニもダルラも、うんざりとした溜息を洩らした。
「どうしても、会わせてもらいたいのです。彼女に」
「でも、私たちとしましても、キャっさま……っし、失礼しました……か、〈聖堂カリヴァナ〉さまからの許可がない以上、他の方々と接触をさせるわけにはー……」
 自分の持ち得ている知識を全て活用しながらも、どこか片言な丁寧語で話すラズミラは、目の前の夫妻から視線を逸らしながら、口をもごもごと動かす。
 あの馬鹿兄貴は、貴族様の前では何をしでかすか分かりはしないから、外に追いやってる。それに唯一、猛獣舎の中で頼れる人間であるクル姉も、今は諸事情により猛獣舎に居やしない。それにリッタはどういうわけかここ数日行方知れずだし、かといってルドウィルはまだ十五歳だし、頼るには値しない。
 ここは私が、あの馬鹿兄貴の代わりにどうにかせねば。……とは思うのだが。
「どうして、ユンはそんなにも厳重に……」
 ユニが紫の瞳を少し伏せながら、藍晶を纏ったルドウィルに視線を送る。その静かな視線に、ルドウィルは一瞬たじろぐと同時に、腹の底に冷たい風が吹き込んだような、奇妙な感覚を覚えた。
 ユニ・ヴィネディガ・ユライン夫人。
 彼女はまるで同一人物であるかのように、ユインに似ていた。
 もしかすると双子なのかもしれない、ともルドウィルは一瞬考えたが、どうもそれは納得がいかなかった。ルドウィルは少なくとも、ユインから双子の姉妹が居たなどという話は聞いたことがないからだ。それに、仮にそのような存在が居たのであれば、親代わりのメズンや、幼馴染のクルスムやファルロンといった人たちから、そんな話を聞かされていたことだろう。
 だとすれば、彼女は何だ。
 そう思いながら、ユニに視線を送り返したルドウィル。再びユニが何かを喋ろうと口を開こうとしたとき、二階からパヴァルが顔を覗かせた。その左肩には、下ろせ下ろせと細い腕をジタバタと振り乱すユインが担がれている。
「おっと、ユライン夫人。そりゃちょっと〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉としちゃァ触れられたくねぇ、少々神経質な話題だな」
 ユインを担いだまま階段を悠々と降りてくるパヴァル。その様子を他の者たちは、ただ目を丸くして見つめていた。そしてルドウィルたちが座る長椅子まで近づいてきたパヴァルは、ラズミラの横の空いている空間に、担ぎあげていたユインを叩き落とす。
「え、あ、水龍さ……ひゃぁぅッ?!」 
 背負い投げ。背中から、少し弾力のある固めの長椅子の上に落っこちたユイン。巻き添えを食らうようにラズミラも、ユインが落ちた拍子に椅子から飛び上がった。
「ユン、テメェも少しは体を動かせ。部屋に籠り切って書き物なんざし続けてたら、折角〈獅子レオナディア〉時代に俺がみっちり鍛えてやった体も、なまっちめぇじゃねぇか」
 少しはルドウィルを見習え、とパヴァルはユインを白い目で見据える。ユインも負けじと、紫のじと目でパヴァルを睨み返す。だがパヴァルはそれを無視し、身構えたダルラのほうに視線を移した。
「そういや〈聖堂カリヴァナ〉がどうたらこうたらだのと言い合ってたな、ダルラ卿サマよ」
「ああ、そうだ。〈聖堂カリヴァナ〉さまからの許可が得られない以上、面会は許されないと」
「なら、そんな細けぇことは気にしてもらわなくて結構だ」
 そしてユインの頭を、パヴァルはわしっと掴む。
「もし、仮に〈聖堂カリヴァナ〉から咎められたとしてもだ、〈聖水カリス〉が許可をしたと言えば、万事解決だ」
「そんな簡単にことが進むわけが……」
「いや、それが進むんだな」
「いや、でも」
「〈聖堂カリヴァナ〉とて同じ聖の字を担ぐ片棒である〈聖水カリス〉が許可を下したとなれば、それ以上は何も口は出せまい。そういうわけだ、安心しろ」
「そんな……」
 ユニは目を瞬かせながら、パヴァルとダルラを交互に見やった。「そんな簡単に済ませられるようなことでは……」
「だーから、気にするな。〈聖水カリス〉が神国の猟犬なのであれば、〈聖堂カリヴァナ〉は、武ノ大臣は置物の犬だ。俺は放し飼い故に自由に動き回れるが、アイツは動けない。自分では、外界を見て回ることが出来ないだろうよ」
「……というと?」
「要は、アイツの目自体は節穴だ。それを補うために、〈聖水カリス〉が居るんだからよ。だが、その俺が黙ってる限りはバレやしねぇってことだ。だから、気にするな。あんたらなら、こいつを好き放題に引っ掻きまわしてくれても構わねぇよ」
「……待て……パヴァ……」
「そういうわけだ。ラズミラ、お前さんはユインを引き摺ってでも連れて、お客人を別室にご案内するんだ。ルドウィル、お前は……」
「いつもの道を十周走る。そして腕立て五十回。分かってるよ、おっさん」
「そうだ。お前は理解が早くて助かる」
「で、水龍さん。別室ってドコにご案内すれば」
「……それに比べ、お前ら兄妹は揃いも揃って……」
 パヴァルの顔から、それまで浮かべ続けた薄気味悪い笑みが消え去り、表情そのものが消え失せた。
 あの無頓着にして無関心な独眼の水龍の、そう簡単には切れやしない筈の堪忍袋の緒が今、ブツリと切れたのだ。
 それをすかさず察したルドウィルとユインの視線は交差する。苦笑いを浮かべるルドウィルは、サっと立ち上がり、そそくさと舎屋の外に出ていった。ユインも立ち上がり、ユライン夫妻の手を取って、二階の自室へと案内する。
「……少しはその無駄に大きいドタマを使いやがったらどうだ!」
「ひゃぅっ?!」
「あの馬鹿犬もベンス同等に、人ン話を聞き内容を理解するという能力に欠けてとるが、妹のお前はお前で、自分で考え行動するという能力が欠落している! お前ら、自分の年齢を考えろ! 世間一般でありゃ、ルドウィルぐらいの子供がいてもおかしかねぇ年齢なんだぞ?! そっれがどうだ、ルドウィルは随分と自立したもんだが、お前らはいつまで経っても他人を頼ってばかりだ。お前らは何だ、去勢された所為で心は永遠に子猫なままの飼いネコか?!」
「私はネコなんかじゃありません〜……」
「なら、少しは自分で考え行動しろ! 俺含めお前らが常に頼ってきた人間の、残りの寿命はそう長かぁねぇんだ! 俺もケリスもヴィディアもシルスもメズンも、明日にはお陀仏してるかも分かりゃしねぇんだぞ! 俺だってこの老体に鞭打って仕事こなしてンだ。そろそろ暇の一つや二つぐれぇ欲しいもんだぜ、ったくよ」
「老体? そんな年でしたっけ、水龍さん」
「こちとら今年で六十七だ! それに、俺たちの代が居なくなれば、次はお前らがココを引っ張っていく立場になるんだぞ?! そこを分かってンのか!?」
「はぅ……」
「返事は『はい』か『いいえ』だ! それになんだその気の抜けた馬鹿丸出しの返答は! 言葉にすらなってねぇだろうが!!」
 ラズ姉、ごめん。心の中で小さく謝罪をしながら、扉越しに聞こえた、何年か振りに発せられているパヴァルの怒号に、ルドウィルは耳だけを傾ける。
 だって本気で怒った時のパヴのおっさんは、あの弁の立つダン兄でさえも太刀打ちできないぐらいに、恐ろしいから。
「……あと三十ダルくらいは、パヴのおっさんのお説教ってとこかぁ……」
「あの、ルドウィルくん?」
 ルドウィルの前にいつからか立っていたスザンとシク。スザンは引き攣った笑みを浮かべ扉をじっと見つめながら、手汗を握っていた。
「あのパヴァルさんが、珍しく随分と怒り心頭になってるみたいだけれども、どうかしたの?」
「ラズ姉がヘマこいたんだ。ファン兄が居ないのだけが、不幸中の幸いだよ」
「ラズミラさんが、か……。それでなんだけど、ユインさんって今、居るかな」
「居るけど、今はお客さんが来てて、ちょっと……」
「そうなんだ。……じゃあちょっと、待とうかな」
 近くに置かれていた適当な木箱に腰をおろしたスザンは、静かに空を見上げる。シクも黙ったまま、スザンの横に膝を折った。
 果てしなく広がる空は蒼穹そうきゅう。雲はなく、どこまでも澄み渡っている。それを漠然と見上げているスザンの青い目から、ルドウィルは何か不穏なものを嗅ぎ取った。
「用件なら、オレから後でユン姉ちゃんに伝えることもできるけど……」
「今はどうしても本人から聞かなきゃいけないことが、てんこ盛りになっててね」
 何かを隠すように作り笑顔を浮かべたスザンは、静かにルドウィルを見た。
「けど、その前にルドウィルくんにも教えてもらいたいことがちょっと、あってね」
「オレに?」
「うん、そうなんだ」
 ふと真顔になったスザン。青い目が、少し淀んでいるように感じた。
「この国の歴史について、メズンさんから教わったことが何かあれば少しでも良い、僕にも教えてくれないかな。出来ればずっと昔のこと。シアルン神国という国が成立する前の話を」
「……どうして?」
「色々と、あってね」
 気まずそうにスザンは、視線を下へ逸らす。「話すと長くなるんだ。だから」
「色々じゃ、分からない。さっきからなんだか様子がおかしいよ、スザン。一体何を、焦っているの?」
「……死に急いでる薬師さんから、筆記者の役を継いだんだ」
「スザンが、筆記者を?」
「そうなんだ、それでなんだけどね」
「うん」
 一度、呼吸を整えるスザン。深く吸い込んだ息を吐きだすと、俯きながら口を開いた。
「サラネムの山が燃やされたんだ、神国軍の手によって。シャグライの人はラムレイルグの里に逃げたって話だけど、人が住んでいる辺りの山の木々の大半が焼けてしまった以上、少しでも雨が降ってしまえば、山は完全に崩壊するかもしれない」
「サラネムの山が、崩壊?」
「……それに、この件でリスタさんが……いや、リスタを騙っていたリストリアンス卿が、アルダンから神国軍側へと、寝返った。そして《光帝シサカ》の有力候補であるシェリアラさまの首を、狙っている」
「待って、どういうことだよそれ?! リッタが寝返った?! わけが分からないよ! なんで、寝返る必要があるのさ?! それに、どうしてシェリアラさまを!!」
「リスタじゃない、彼はリストリアンス卿なんだ。シルスウォッド卿の甥で、イゼルナさまの兄。男であるにもかかわらず、《光帝シサカ》の証とも言うべき聖光ノ紋章を肩に、シェリアラさまよりもハッキリとクッキリと出てしまったが為に死んだことにされていた、哀れなリストリアンス卿だったんだ。アルダンに居たのも、パヴァルさんの監視下のもと、その存在を外部に漏らさない為。だから全てから解放された彼は今、我こそはと《光帝シサカ》の座を狙っている。でも彼が《光帝シサカ》になるためには、どうしてもシェリアラさまが」
「分かったよ。リスタは裏切り者、そういうことなんだろ?! じゃあそれと神国の歴史が、なんの関係があるのさ?!」
 勢いあまってルドウィルは、スザンの胸元を掴み上げた。混乱して、わけが分からなくなって、急に沸き上がった怒りとも悲しみとも何ともつかない感情のやり場が、分からなくなっていた。そんなルドウィルの勢いに飲み込まれ、スザンは何も言えなくなる。そしてその時、ようやくシクが声を出した。
「破壊と再生の歴史は、途絶えることなく常に繰り返されてきました。人の欲望があるからこそ破壊は止まず、その度に壊されたものは再生されてきたのです。他人のものを奪いたい余りに様々なものを破壊し、破壊されたものをまた、人々は手を取り合って作り直し、そしてまた破壊してきました。そして今、まさに大きな破壊が、その影を再び見せ始めたのです」
「だから、どうしろっていうのさ!」
「被害を最小限に食い止めるためにも、かつての破壊が起こった歴史のことを詳しく知っておきたいのです。どのようなことをしたからこそ、どんな被害が起きたのかと。それを事前に知り得ておけば、先に手を打つことが出来る。不要な犠牲は、避けられるかもしれないのです。その為にも、神国という国が制定される前の歴史、シャグライ族の祖先に当たるオブリルトレ王家と、シアル王家の間で起きたという大規模な戦のことを、知っておきたいのです」
「……暮ノ戦記ラゴン・ラ・ゲルテ、白金戦争」
 ルドウィルは大きな猫目を見開いた。そして、スザンを解放する。
「……十武神ディースラグの封印が解かれし刻、我は明けの明星と共に、再びこの地へ舞い戻る。二羽の 烏からすの鳴き声で、水は溢れ、風は荒び、火炎を纏いし死の竜巻が、神の降りた地を汚すことだろう。民も王もそこには無くなり、ただ 獣けだものどもが、始を待つのみになる……」
「その詩は、一体……」
暮ノ戦記ラゴン・ラ・ゲルテ、最終章の一節。宵の明星の 詩うた」
 それは遥か昔の時代に記された、とある叙事詩。神国がまだ三つに分断されていた時代の黄昏に起きた、白金戦争と呼ばれる大戦の歴史に脚色を加えて書き起こした物語である。その時代の文献が極めて少ないこともあり、 暮ノ戦記ラゴン・ラ・ゲルテは当時を知るための重要な手がかりとして、学者たちに重宝されていた。
「宵の明星? 誰のことを指してるんだろう」
 スザンの問いに、ルドウィルは答える。
「この詩はオブリルトレ王家の女王が、シアル王家の女王シサカに自分の首を差し出す前に、シアルの民に放った言葉だって、メズンのおっさんは言ってた。だから宵の明星は、女王を指すと捉えるのが妥当だと思う。けど」
「……けど?」
「明けの明星は、誰のことだかさっぱり分からない。それに、あくまで仮にだけれども、この詩が現実となるのであれば……」
「……うん」
「その女王様は一体、何をしようとしてるんだろう。それにあの人は……」
 想像したくもない恐ろしい光景が、ルドウィルの頭の中に浮かび上がる。
「……分からない。何が、どうなってるんだ」
 政略的な陰謀とか、そんな陳腐なものじゃない。もっと大きな、漠然とした、それこそ世界そのものをひっくり返してしまうような、そんな何かが、動いているような気がする。
「怖い。もう何がなんだか、分からないよ」
 なんてことない同じ空の下で、何かが胎動を始めている。
 それがどんなものなのか。ルドウィルには、知る由もなかった。





 運命にあらがう道など、始めから存在なんかしていない。
 抗おうと考えるだけ、無駄なんだ。
「これが、あなたの出した答えだというの?」
 一通り話を聞き終えたユニは、目の前に座るユインを凝視した。
「どうして? どうしてユンは、そうやって悲観的にしか物事を見ようとしないの?!」
 ユインは下唇を噛み、下を向く。そして小声で呟いた。
「……もう何も、見たく、ない……んだ」
「見るって、何を」
「……目に……見える、もの、全て。……未来……を」
 顔の左半分を隠すように垂れている前髪を上へと掻き上げたユインは、ケロイドに覆われた左目の瞼をゆっくりと開けた。
「……武神ノ邪眼……」
「ぶじんの、じゃがん?」
 ユニはその異形の目を見せられ、戸惑いを隠せずにいた。
「……未来を見通せる、宝玉。……目として……の……機能は、ない。目……を……開け……ば、延々と、未来を見せ続け……ッるだけの、呪、い……!」
 ユニは酷く咳き込み始めたユインの横に席を移ると、その背中をさする。
 ユインの左目――武神ノ邪眼が一つ、未来を見通す宝玉――は、黒かった。どこまでも深く続く暗い闇を溶かしこんだかのように、真っ黒だった。そんな黒の中にポツリと、紫色の虹彩が浮かんでいる。でも、それは目ではなかった。目のように見える石。未来を見通す呪いの掛けられた呪具。
「……こんな姿に、なってまで……今更、生きて、いたくなんか……ッ……ない……」
「そんなこと、言っちゃ駄目よ」
「……自分が、昔、何を……して、きた……の、か……思い出せ、ない、のに……ッ……」
「ユン!!」
「……今も、昔も……どうして……!」
 なんで誰も、俺のことを殺してくれないの。
 それはとても大昔であり、それと同時にそれほど昔ではない話。狂ったように笑いながら彼女は、病院の屋上に立っていた。フェンス越しの柵の外に立って、笑いながら、泣きながら、叫んでいた。
 こんな惨めになるくらいなら、もう終わりにしてくれよ。
 そうして彼女が足をわざと踏み外そうとしたとき、駆け付けた大勢の大人たちの手によって、彼女は病室へと引き戻されていった。それでも彼女は、押さえつけられながらも、叫んでいた。
 消えたい。死にたい。治る見込みも無いのなら、このまま植物みたいになるくらいなら、まだ動けるうちに、まだ自我があるうちに、殺して欲しい。全部、終わらせてよ。
「ユン」
「…………」
「顔色が悪いわ。それに少し、熱もある。無理をさせてしまったようで、ごめんなさいね。今日はもう、ゆっくり休んで。私は帰るから」
「……ユニ……」
「ダルラも待たせちゃってるし。また今度、機会があったら……会いましょう」
 まるで、何かに呪われているかのようだった。
 全ての運に見放されたどころか、何処に居るのかも分かりはしない神様にも見放されたような、恨まれているかのような、そんな惨めささえも、感じてしまう。
「それにしてもどうして、私たち」
 何も悪い事なんてしてこなかったはずだ。
 他の人に恨まれるようなことなんて、やってこなかったはずだ。
 それなのに、どうして。
「こんなことに、なっちゃったのかな」
「…………」
 ユインに背を向けたユニは、乾いた笑顔を浮かべる。
 誰が悪いわけじゃない。ただ、運が悪かっただけなんだ、全部。
 私もユンも、エリーもラニーも、アルスル先生も。
「私たちがこの世に産まれたこと自体が間違い……だったのかな」
 ユニは顔を上に向け、深く息を吸う。熱くなった目の奥、そこから漏れ出した生温い涙に潤む目を、誤魔化すために。