【第八章 独眼ノ水龍】

4 禁忌の門


 もしこれらが全て、始めから仕組まれたものだとしたのなら。
 その仕組まれた道を自分たち駒が、問答無用で歩まされているのなら。
「……あれは」
 その駒を操っているのは、一体誰なのだろう。
 それとも。
「……どうしたの、パヴ?」
 誰かに操られているのではなく、社会という大きな波に人間たちは飲み込まれて、民意と呼ばれるもの、もしくは集団を束ねる者の意思に、流されているだけなのかもしれない。
「ねぇ、パヴァル」
「見えるか、あの群れが」
「……んーと……馬?」
「……」
「でも、なんでこんな《神託ノ地ヴァルチケィア》の大砂漠のド真中に、馬の群れなんかが……」
「エレイヌ」
「なに?」
 そうとでも思わなければ今、自分が何故ここで話しているのか、その理由の説明のしようがなかった。説明するにも何も、理由は何もない。
「最前列の隊長の元まで行け。敵襲の可能性ありと伝えろ」
「敵襲?! で、でもここ、砂漠のド真ん中だよ!?」
「だからこそ、狙ってきたのだろう。こちらは食糧が今にも尽きようとしていて、弱っている者も少なくはない。その隙を、突かれたんだ」
「分かった、行ってくる」
 エレイヌは手綱を強く掴むと、自身が跨っている馬の尻を鞭で叩き、靴の踵部分に付けられた拍車を掛ける。馬は葦毛の鬣を向かい風に靡かせながら、先頭集団を目指し駆けて行った。
「おおよそ、ただの貧民盗賊の集まり、ってところか。……ちょいと突けば連携が崩れる烏合の衆とはいえ、数が多いのはそれだけで不利……」
 パヴァルが今居るのは、隊の中でも最後尾だ。
 この隊商に雇われている用心棒は、パヴァルを含め九人。先頭に配置されているのは、傭兵の出だという二人組の男。そして右側に配置されたのは貧困街で拾われたという、それなりに腕の立つ男女二人組。左側には元傭兵の男が二人。そして中でも特に重要な後方にはパヴァルとエレイヌ、そしてヴィディアの三人が置かれていた。
「……とはいえ、あれくらいの雑魚なら、俺一人で十分か」
 パヴァルは馬から飛び降りる。そして鞘に収めていた剣を抜いた。
「ヴィディア、俺の馬を頼んだ」
「独眼の水龍さん、また一人でやるつもりなん?」
「ああ、そのつもりだ」
 合流した隊商の中には偶然か否か、ヴィディアも用心棒として雇われていたのだった。
「……あほんだら」
「手助けなら不要だ」
「まーた、あんさん一人で戦果を挙げられたら、ウチの顔が」
「所詮、足手纏いになるだけだ。手助けは不要。何度も言わせるな」
 どういう運命の巡り合わせなのだろう。殺し損ねた相手と鉢合わせるのは、実に気拙いものである。
『……商人だったあの人が殺されたのは、分からんでもない。でもあの子の、デルーナの命まで奪うことは、なかったんとちゃうの?!』
『その家族を皆殺しにするよう、言われていた』
『……だったらなんで、ウチも殺してくれへんかったんや』
 隊商と合流してからの二ヶ月ほど。パヴァルとヴィディアとの間に流れる空気は、険悪そのものでしかなかった。が、しかし。
『あんさんがウチに対してやった仕打ち、全部赦したる。全部や、全部。家のことも、旦那のことも、娘のことも。せやからもう、この空気は仕舞いにしよ。いがみ合うのも、疲れたわ』
 ヴィディアからのその一言で、全てが終わった。
 その台詞を突き付けられた直後は、パヴァルも突然のことにわけが分からず、戸惑いはした。だが、そのあとにヴィディアが言った『ウチがあんさんのことを赦したら、きっとあんさんは更にしんどくなるやろ。だからウチは、あんさんを赦す。そんでその分、幸せになってやる』という言葉で、パヴァルはヴィディアの意図を全て察した。
 それが彼女にとっての、最大の復讐なのだと。
 何か一つでも、守るべき大事なものを、全ての人間が持っているとは限らない。とはいえ、大多数の人間はそれを持っている。それは財産であったり、親兄弟や親戚といった家族であったり、友人であったり、名誉や勲章であったり、誰か大事であった人の形見であったり。そして、それらを壊された人間が、壊した人間へと同じことをそっくりそのままお返しする。その行為を世の人は“復讐”と、そう呼んでいた。
 だがしかし、執着心のないパヴァルにはそもそも、壊したところで彼の心を痛めつけるものが存在しないのだ。
 だからこそ彼女は、彼を赦した。
 赦すこと以上の最高の復讐は無い。
 そんな言葉も、あるものだ。
「せやかて」
「いいか、馬を連れて俺から離れ、そして静かにしていてくれ」
 強い日差しが照りつけている中での、砂漠の戦闘。これ以上に辛い掛け合わせはない。ただ立っているだけでも、異常なほど暑い気温が体力を奪っていく。そしてここは潤いなどとは縁遠い、渇きだけが広がる砂の海。地下深くの水脈を探し出すには、相当な神経を擦り減らさなければならない。
「砂漠での戦闘はこちとら、大の苦手なんだがな……」
 パヴァルは砂漠の白砂に、蒼き刃の剣を垂直に突き刺す。そして片方しかない目を閉じた。
「……ちと水は足りないやもしれねぇが、まあ問題はないだろう。そうだよな、カリス……」
 水脈は必ず、深き地の底に存在している。何処であろうとも、例外なく。たとえ其処が、砂漠であろうと。
「さて、出番だぞ」
 パヴァルは地下の水脈からありったけの水を引き出すと、あとは神に全てを委ねた。加減も全て、龍神の気まぐれで決まることになるだろう。
「準備はいいか」
 パヴァルの足元を中心として、乾ききっていた砂漠の砂に湿り気が広まっていく。そして沸騰する水のように、砂がボコボコと音を立て始めた。
「……」
 パヴァルは目を閉じたまま、聴覚を研ぎ澄まさせる。盗賊の群れが迫り来ているのを感じた。
「……まだだ。まだ早い」
 砂に突き刺したままの剣の柄を、パヴァルは強く握りしめる。
「――……今だ、カリス」
 素早く引き抜いた剣。開けた左目。水は砂を掻き分け、噴火の如く噴き上がる。悲鳴は一瞬にして上がり、一瞬にして収まった。
「久々の食事はご満悦ってとこか?」
 雨のように地下水が降り注ぐ中、パヴァルの目の前からは何もかもが消え去っていた。広がっているのは果てがないように思える砂漠と、居るのは空中を悠然と泳ぎ回る水龍神カリスだけ。カリスは腹の虫も治まったのか、満足げな表情を浮かべる。そしてパヴァルが握りしめる剣の中へと、融け込むように消えていった。
「……さてと」
 指笛を短く一度だけ、パヴァルは吹き鳴らす。すると隊列を外れた愛馬が、パヴァルのもとへと駆けてきた。パヴァルは馬に跨ると、すぐさま隊列の尻に着く。
「さっすがパヴァル、今回も一瞬で終わったね」
 自分の役目を終えたエレイヌが、あたかも全てが自分の手柄であるかのように、誇らしげで満足そうな表情を浮かべながらそう言った。「ああ、そうだな」
「それでね、さっき隊長さんが言ってたわ。もうすぐサラネムに到着するって」
「そうか」
 遠く彼方には、山と思しき緑の影が薄らと見え始めている。
「サラネムねぇ。蛮族が居るから不用意には近付くな、だなんて噂はよく聞きはするけど」
「少なくとも変人は、一人は居るみたいだけどね」
 あの白髪のおじさん、元気かな。エレイヌがパヴァルの眼帯を凝視しながら、意味深に言う。
「白髪のおじさん? 誰やの、それ」
「随分前にね、パヴァルを気まぐれで助けてくれた変わった人なの。メズン、って言ってたかな」
「へぇ、パヴァルを……」
 こんな化けもんを助けよう思う変わった人も居るもんやね、とヴィディアは笑う。世の中まだまだ捨てたもんじゃないんだよ、とエレイヌも笑っていた。





「おう、やっぱり来てたのかェ」
 隊商の列がサラネムに着き、一段落した頃合い。パヴァルがラムレイルグの族長の補佐役だと自称した男、ガムスンに腕を掴まれ、問答無用で連れてこられたのは、山奥の水車小屋だった。一体全体何なんだ。パヴァルは腕を掴む男を睨む。と同時に水車小屋からは、見覚えのある白髪の男が、二歳にも満たないだろう少女を引き連れて出て来た。少女の髪の毛も真っ白で、瞳の色は紫。シャグライ族だというのは、見れば分かった。
「……メズン、だったか?」
「だったか、って……ンだ、この恩知らずがァ! 命の恩人の名前くれぇ覚えときやがれ!」
「一応は覚えていただろ」
「一応ってなァ、おい!」
 恩知らず恩知らず!などと罵りの言葉を矢のように乱射するメズン。そんなメズンを確認すると、それまでパヴァルの腕を強く押さえつけていたガムスンは、パヴァルを解放した。
「てことはだ、メズン。溝鼠みてぇに凶暴で、死んだ魚みてぇな蒼い目の眼帯野郎ってのは、コイツで合ってたワケか」
「……溝鼠で、死んだ魚……?」
「おうよ。そりゃァ、死んだ魚みてぇな蒼い目の眼帯野郎っつったら、曰くつきが多い隊商の中でも特に際どいだろうヨ。まぁ、何にせよ、ごくろーサン」
「…………」
「そいじゃぁな、メズン。また怪我人が出た時に」
「出来ればラムレイルグは、怪我人を減らす努力をしてくれ。お陰で俺ァ猫の手も借りてェくれぇだ」
「ラムレイルグの野郎ども全員が、ダグゼンみてぇに理性があればよかったんだがよ。生憎、そうじゃねぇんだわ」
 そしてガムスンはメズンの後ろに立っていた少女の前にしゃがむと、その子の頭を撫でる。えへへ、と嬉しそうに可愛らしい笑顔を浮かべた少女。そんな笑顔を見て彼は満足したのか、すぐさま麓の里へと駆け足で戻っていった。
「なんだ、アイツは」
「ガムスン・サジュだ。ラムレイルグに代々伝わる、“鷹紙飛ばしファラ・シャ・ルグ”の伝承者ヨ」
「ファラ・シャ・ルグ? 聞いたこともねぇな」
「要は伝書鳩と同じだ。それを鷹に置き換えたモンってだけヨ」
「へぇ、そうか」
 メズンの話を聞き流しながら、パヴァルは彼の後ろに立っている少女に目を向けた。少女は眼帯面のパヴァルに恐れをなしたのか、少し怯えた様子で、メズンの背中にしがみついているようにも見える。
「……おい、折角の俺サマの話をしかと聞いてるのか貴様」
「ああ、聞いてねぇな。それで、そこのお嬢ちゃんはお前の娘か?」
「コイツか」
 メズンはひょいと後ろの少女を抱き上げた。「娘じゃねぇ、姪っ子だ」
「へぇ」
「でも娘みてぇなもんだな。……コイツ、自分の親や上二人の兄どもより、どういうわけか俺、というか俺の持っている本が好きみてぇでな。親の目を盗んでは、ちょくちょくここに顔出して、勝手に読んでんだよ本を。ったく、面倒臭ぇったらありゃしねぇヨ」
 そう言うメズンだが、然程そのことを嫌がっているような素振りは見られなかった。逆に、鼻の下を伸ばしているかのようにも感じられる。
「とは言いつつも、結局は嬉しいんだろ?」
「一概にそうたぁ言いきれねぇサ。まあ、話の続きは上がってからでもしようじゃねぇか」
「……別に、長居する気はねぇんだが……」
 そう呟くパヴァルの手前。仏頂面のパヴァルに対しメズンに抱きあげられている少女は、可憐な笑顔を浮かべていたのだった。




 予想は出来ていた。
 通された部屋の中、床にはありとあらゆる珍本奇本が山積みになっている。それに加えて、どこもかしこも青臭かった。
「そっれにしても、くせぇな。なんだ、この家は……」
「しゃぁねぇ、我慢しやがれ。こちとら日夜研究に忙しいんじゃ」
「……お嬢ちゃん。お前は嫌いじゃないのか、この臭い」
 パヴァルは、メズンの横にちょこんと座った少女に流れで尋ねる。すると少女は首を横に振り「この匂いが好き。落ち着く」と、短く答えた。
「シャグライってのは、こうも変人ばっかなのか?」
「いいや、変わってんのは俺とコイツだけだろうなァ。他の奴らはただの堅物。現状維持が全て。生活をより良くする為に、新しい物を生み出そうたぁ思えねぇ連中ばっかしヨ」
「ふむ、技術の進歩か」
「お前ェサンは、どう思うんだ?」
 メズンから振られた、突然の質問。答えを用意していなかったパヴァルは、適当な言葉ではぐらかそうとした。「どうと訊かれてもな。……俺は、あまり賛同は出来んとしか言えん」
「ほう。そりゃどうして?」
「今ぐらいの文明が、ちょうど良いってもんだろ。サラネムは理想の形だ。人間が人間の為に自然を歪めようとするのではなく、人間が自然の中に慎ましく順応しようとしている。……大自然を敵に回すようになれば、人類はあっというまに滅びるだろうよ」
「滅びる、かェ」
「……」
「そういやお前ェサン、名前はパヴァルっつったな。それも蒼い目から察するに、北アルヴィヌの出身と見える。もしやお前ェサンが、大昔に天才とか噂されてたセルダッド家の」
「とうに過ぎた昔の話、封じたい過去だ。堀り返さないでくれ」
「……お前ェサンほどの頭があれば、もっと安泰な人生を歩めたはずだ。なんで、殺し屋なんかに堕ちた」
「さぁな、きっと安泰な人生とやらに向かなかったんだろう。もしくは見世物にされる生活に、嫌気が差したんじゃねぇのか?」
 少女は、薬学について記されている本を膝に乗せ、それを読みながら大の男二人の話を聞き流している。メズンはその頭を抱き寄せて、ぐしゃぐしゃに掻き乱す。そしてくぐもった低い声で、話を続けた。
「……まあ、お前ェサンのことはどうでもいい。問題は、コイツなんだ。コイツはちと上の兄弟、長男坊と上手くいってなくてヨ。次男坊とは、特にそういうのはねぇんだが」
「深刻な話なのか?」
 面倒事に巻き込まれるのは御免だ。そういう話なら止めてくれ。エレイヌを押し付けられた時の光景を、パヴァルは思い出す。エレイヌの二の舞は勘弁してくれ、と。
「コイツの名前は、ユインっつってな」
「……へえ」
「上に二人、兄兄弟が居るんだ。ヤムンとイェガンっつうな。特にヤムンとの相性は最悪で、目が合おうもんなら拳が飛んで足で蹴られるくれぇにヨ」
 メズンはユインが着ている服の長い袖をまくり、細く白い腕をパヴァルに見せる。年相応ともいえる、脆い細枝のような腕。そんな腕には、見ていられないような青紫に変色した痣が無数に残されていた。
「これを、実の兄がしたわけか。親は何かしないのか?」
「しないからこうして、俺ンところに毎度逃げ込んでくるんだろうが」
 ユインは自分の腕を軽く掴んでいたメズンの手を振り解くと、捲られていた袖を必死に伸ばそうとする。屈辱の印を、慌てて隠すかのように。少女の大きな目は、押し寄せた不安の大きな波に追い立てられ、カッと見開かれる。そして落ち着きなく、細い手指を絡みつけたり解いたりと遊ばせ始めた。それにすぐさま気が付いたメズンは静かに、その小さな背中を抱きしめる。
「……」
 姪っ子だと、メズンは先ほど言っていた。だが、娘のようなものだ、とも言っていた。
 きっと、親子としての血縁はないものの、メズンにとっては娘も同然で、ユインにとっては実の親よりも安心できる父親同然の存在なのだろう。その証拠とでも言うべきか、その姪っ子は今、メズンに抱きついて、その腕の中で声を上げ泣いていた。
「……逃げ込む、か」
 普通の親子よりも親子らしいと、パヴァルは素直に思えた。
 ヴィディアがいつか、エレイヌを見ながら言っていた。子供、特に幼い子供にとって親というのは、食べさせて学ばせて育て上げるそれ以上に、何かあった時には必ず帰れる、受け入れてくれる、そんな居場所でないと駄目なのだ、と。そうでなければ子供は何もかもを諦めてしまう。食べること、学ぶこと、眠ること、生きること、愛されること。

 お母さんに託されて引き取った以上、あんさんはちゃーんとエレナちゃんの父親にならんと、あかんとちゃうん?

 そんなことをヴィディアに指摘されたりもしていた。
「……最後の砦、か……」
 そしてヴィディア曰く、親から愛されることを諦めてしまった子は、まるで人形のようになるのだという。心の底から笑えない、心の底から怒れない、心の底から泣けない。逆に、それが出来る子供は、誰かに心の底から愛されていて、いつでも帰れる場所がある証なのだと。そうじゃないと、未成熟の心にはヒビが入って、壊れて、死んでしまう。疲れた心は癒せるけれども、壊れた心は元には戻らないのだという。
「まだ逃げ場があるだけマシじゃねぇのか」
「俺がいつまで、こいつの逃げ場で居られるか。……それが、分からねぇ」
「……」
「出来る限り、ろくでなしの長男坊ばかりを可愛がるあンのクソ野郎の代わりに、俺がコイツを守ってやろうたァ思ってンだけどな。俺もいつだって暇なわけじゃねぇし、山奥に入る以上、いつ死ぬかも分からねぇからヨ」
 そう呟きながら、メズンはパヴァルが携えたその剣を指差す。蒼い刃の、あの剣だ。
「それを使いながら、感じたこと、もしくは起こったことがあっただろ。龍神さまとは上手くやってっかェ?」
「ああ、そうだな」
 パヴァルはサラネムに来るまでの道のりで、何度か剣を振るった。必要とあれば、あの龍神を使役していた。相性は抜群で、龍神との関係も良好といえる。今のところは、なのだが。
 ……少々お喋りで厚かましく、やたらと恩を着せてくるのが難点だ。
「あの水の龍、何度かき使わせてもらっている」
「前にも言ったがヨ、その龍がカリスっつー神サンだ。そんで、その剣の名もカリス。その剣に、その神が封じられているわけなンだが……―――」
 メズンはそこで、口を噤んだ。そして静かに、傍に座るユインの頭を撫でる。
「……とにかく、いつかコイツが〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の世話になるだろう。この山にもそう長かァいられねぇだろうしヨ。そんときゃァ、お前ェサン。コイツを宜しく頼んだぞ」
「待て。俺は〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉などという神国の犬では……」
「いずれ、お前ェサンはそれになる。その剣がお前ェサンのもとにあるというのが、その証明」
 にたり、とメズンは口元を歪める。
「お前ェサンが望もうが望まないが、そう遠くないうちに、天上の導きがあることだろうよ」





「……」
 煌びやかなシアル王宮のその地下に存在する、地下牢。かつては囚人が一時的に収容されていたという話だが、今では使われていないはずである。囚人は囚われることなくその日のうちに、磔刑なり火炙りなり絞首なり、なんなりとで処刑されることとなっているからだ。
 だがその地下牢では、睨み合いが続いていた。
「久し振りだな、パヴァル」
「……ああ、そうだな」
 どうしてこうなったのか。鉄格子の中、錆びれた椅子に足も腕も縄で縛りつけられたパヴァルは経緯を思い返す。
 サラネムからブルサヌへと進行を進めていた隊列が、王都に入る関所を通ろうとしたときだった。突然、隊列を囲うように神国軍が現れて、神国軍を率いていた男が隊長に詰め寄ったのだ。隻眼の男と隻腕の女、それと連れだという少女を引き渡せ。さすればここを通そう、と。
「いや……微笑う悪魔、か」
「懐かしい名が出てきたもんだ」
 仕方の無いことだった。
 サラネムから預かった信頼と、たった三人の用心棒。どちらを優先すべきかは、天秤に掛けるまでもない。
「答えろ。一体、何人の人間を殺した」
「殺し屋として活動してきた頃のか? それとも隊商の用心棒をやっていた頃のか?」
「合計だ」
「残念ながら、殺した人間の数なんざ一々数えちゃいねぇよ」
「ふざけるな!」
 暗闇の中、僅かに部屋を照らす蝋燭の光を受け、灰紫色の目は瞋恚しんいの焔を燃え上がらせていた。
「貴様は人の命を、なんだと思っている!!」
「正義漢なのは相変わらずみてぇだな、ケリスさんよ。〈道化師ジェイスク〉になってまでも、夢と理想を追い掛けてんのか?」
「答えろ! 一体貴様は、人の命をなんだと思っているんだ!」
「なんとも思っちゃいねぇよ」
 怒りに突き動かされているケリスをじっと見つめ、嫌味に口元を歪める。と、その時。何者かの足音が聞こえてきた。
「ケリス、それくらいにしておけ」
 鉄格子を隔てた向こう側。暗闇から顔を出したのは、枯草色の髪に蒼い瞳をもった若い男だった。髪に輝きこそはないが、きっと昔は金髪だったのだろう。となると、この男は王族なのだろうか。王族だとしたら、一体何の用があってここに来た? パヴァルの頭の中には、次々と疑問が浮かぶ。その横でケリスは、驚いたように大声を上げた。「シルスウォッド卿?!」
「私はそこの男と、話がしたい。二人きりにさせてくれないか」
「この男は、あまりにも危険すぎます。二人きりになど」
「心配は無用だ。武器は取り上げたのだろう?」
「ですが」
「いいから、お前は下がっていろ。これは命令だ」
 シルスウォッドと呼ばれた男は、ケリスを睨みながらそう言う。するとケリスは不服気な顔になりながらも、黙って地下牢を後にした。
 地下牢に残されたのは、椅子に縛られたパヴァルと、鉄格子の向こう側に立つシルスウォッドだけ。そしてパヴァルは、小馬鹿にするような笑い声をあげた。
「いやぁ、驚いた。城下町上がりの変わった王子様だと聞いていたが、まさか腕利きの暗殺者と一対一で話したいと言い出すとはな。困った王子様だよ、アンタ」
「そうか。ならもっと困らせてやろう」
 そう言いニコッと笑うシルスウォッドは、どこからともなく鍵束を取り出し、それをパヴァルに見せつけた。えっ、とパヴァルは驚く。何故か。それはシルスウォッドが見せつけている鍵束が、先ほどケリスが腰に付けていた鍵束と同じものだったからだ。
 するとシルスウォッドは、何の迷いもなく鉄格子の鍵を解錠する。そして鉄格子の中に入り、パヴァルの目の前に来たのだった。
「随分と肝っ玉の据わった王子様だよ、アンタ。俺が怖くないのか?」
「暗殺者など、今更恐れる理由もない」
 そしてシルスウォッドは、パヴァルを椅子に縛り付けていた縄を短剣で切り、開放さえもしてみせた。
「……それにしてもだ、王子様。一体、何がしたいんだ」
「かつて世を騒がせた天才と、対等な立場で話がしたいだけだ。それと王子と呼ぶのはやめてくれ。私は純粋な王族ではないのでな。不愉快でしかない」
 パヴァルの、足の拘束は解けている。逃げようと思えば、逃げれた。けれどもパヴァルは、それをしなかった。何故なら目の前に座った男が、挑発するような視線を送り付けていたから。どうせ逃げやしない。シルスウォッドがそう踏んでいるように、パヴァルには見えていたからだ。
「それでだ、パヴァル・セルダッド。お前は……――」
「俺は前置きに興味はない」
 パヴァルはシルスウォッドの言葉を遮るように、低い声で鋭くそう言い放つ。そして、シルスウォッドを睨んだ。
「用件があるなら、簡潔に話せ」
 対等な立場で話がしたいと、目の前の男は言ってきた。男は鉄格子の鍵を解錠したし、ケリスがした拘束も解いた。何の目的も無いならば、このような馬鹿はしないはず。
 ならば目的は何だ。取引か?
「分かった、率直に問おう。お前は、どちらを選ぶ。殺人罪で火炙りもしくは馬四頭に四つ裂きにされるか、私に忠誠を誓う良き友となるか」
「へぇ」
「後者を選ぶというのなら、お前の連れだという赤毛の少女の未来を保障しよう。だが前者を選ぶのなら、保証は出来かねない」
 シルスウォッドの表情は、ぴくりとも動かない。パヴァルの眉にも力が込められたまま、緩む気配はなかった。
「法ノ大臣トラウディファス卿と政ノ大臣シロンリドス卿は、今すぐにでもお前の首を切りたがっている。もれなくあの少女も、処刑されることになるだろう。……さて、どうする?」
 それは形だけの問答。取るべき選択肢も答えもハナから一つしか用意されていなかった。
「仮にだ」
「……」
「俺が、殺してくれても構わないと言ったとしたら、お前はどうする」
「まさか」
 シルスウォッドの目は揺るがない。パヴァルもそのときに確信した。やはり選択肢など、そもそも用意されていないのだと。
「お前は自分だけが殺されるというのであれば、死を厭わないはず。だが罪なき少女の未来も道連れとなるならば、躊躇うことだろう。処刑を望まないはずだ」
「ヴィディアにでも吹きこまれたのか?」
「さあね、それはどうだろう」
「……はぁ」
 卑怯だ。パヴァルはそう感じた。全部、この男の言葉通りだ。自分一人だけならまだしも、エレイヌの命まで持ち出されてしまっては……――選ぶべき答えは、一つしかなくなってしまう。
 あの日あの時、あの母親から子供を預かってしまった以上、契約の履行を最優先にしなければならない。血の繋がりもない子供を、自分の罪に巻き込み殺すわけにはいかないのだ。
「分かった、分かったよ。俺に選択権はない、そういうことだろ?」
「あるとでも思っていたのか?」
「……ンなわけがあるか」
「なら、取引は成立だ」
 シルスウォッドはにこりと笑う。
「叙任ノ儀は〈革新リボルヴァルッタ〉同様に、省略する。今、この瞬間からお前は〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉が一剣、〈聖水カリス〉だ」
「そうかい。それじゃ剣を返してもらえるのか」
「返すもなにも、あの剣は本来シアル王家の所有物だ。水剣〈聖水カリス〉は昔に盗まれて以来、長いこと行方不明となっていたのだよ。一体全体、どこであの剣をお前は手に入れたんだ」
「さぁな、俺も知らん。死にかけて目が覚めたら、膝の上に置かれていたもんで」
「……酷い作り話だ」
「いいや、これが真実だ」
 パヴァルを疑いの目で見ながらシルスウォッドは、パヴァルに向かって剣〈聖水カリス〉を投げる。これも先程、ケリスに没収されたものだ。「……それよりだ、王子様よ」
「王子と呼ぶな。せめてもシルスウォッドと言ってくれ」
「分かった、シルスウォッド。お前はいつ、ケリスから鍵束やらこの剣をったんだ?」
「伊達にアルヴィヌの街を生き抜いていないのでな。生き残るためなら財布だって掏った」
「……あ、アルヴィヌ?」
「そうだ。私は父親であるシロンリドス卿と、従者の女との間に出来ためかけの子というやつでな。だが私を身ごもると母親は父親に捨てられたのだ。そして産まれた私は、母親の手によって東アルヴィヌに捨てられた。まだ乳飲み子だった頃にな。そこで心優しい老夫婦に拾われて八つになるまでアルヴィヌで過ごし、それからはベルナファス家という貴族に匿われて育ってきた。十五からは城下町の図書館で表向きは司書として働き、そこで軟禁。それで二年前、二十六で王宮内の蔵書館に移されて、王宮内での仮初の自由を手に入れたのだ。……常にケリスという、監視の目が付き纏うのだが」
「……妾の子、か。だから純粋な王族じゃねぇのか」
「ああな。だが近親相姦で生まれてきていないが故に、体は至って健康だ。……だが、私の話は今はいい。それより、お前に早速、仕事を頼みたい」
 今日一番のいやに真剣な眼差しが、パヴァルに向けられる。
「お前には」
「言わずとも分かった。今の要職を全員、ればいいんだろ?」
「……鋭いな」
 シルスウォッドは寂びれた笑みを、口元にだけ浮かべる。そしてパヴァルに、鉄格子の外に出るようにと手で促した。「だが、命はとらなくていい。社会的に抹殺してくれれば、それで十分だ」
「そりゃ随分とおぞましいな。命を取るほうが、よっぽど……」
「老いぼれたちの不正を暴いてくれ。奴らは税を横領して、どうやら自分の肥やしにしているらしい。だが、私には監視の目があって調査が出来ない。だからお前に頼みたいんだ」
「そうか。まあ、出来なくはないが、だがー……」
「民から搾取した資材で、高貴な身分のものたちが遊び呆けている時代を、いち早く終わらせなければと考えているのだ。私はアルヴィヌで育ったからこそ、あそこに貧困があることをよく理解している。貧困から脱却できない理由も、分かっている。その為には、既存の権力の破壊が必要不可欠だ。既得権益が蔓延る政治を、これ以上許してはならない」
 パヴァルは腕を組み、シルスウォッドの話を聞く。
「……」
 その真剣な眼差しは、大昔に見たケリスの目と似ているようにも思えた。いや、同じなのだろう。同じ、理想を追いかけ正義を為そうとする者の目だ。だが、ケリスとシルスウォッドは根本的に違っていた。
 理想を夢見て、無謀を掲げているのは同じ。けれども、根幹が違っている。ケリスは時の感情に任せた怒りが原動力なのに対して、シルスウォッドという男の原動力は、怒りというよりも呆れであるように見えていた。呆れているからこそ、その分だけ冷静で客観的である。感情に任せて、取り乱すような器ではないのだろう。
「気に入ったよ、アンタ」
 パヴァルはそう言い、ニヤリとした笑みを浮かべる。そして差し出した右手。シルスウォッドはパヴァルの右手に自分の右手を重ねると、その手を握る。パヴァルもまた、その手を強く握り返した。





 立て続けに判明した汚職事件も遠い昔のこととなり、要職から老人が去って新鋭が揃った頃。〈聖堂カリヴァナ〉であった老騎士も行方をくらまし、空いたその座にケリスが任命されてから、早いことに十数年の時が経っていた。
「パヴァル!」
 エレイヌも遂にパヴァルの手を離れ、自身が生まれた地、繁華街カレッサゴッレンに酒場を設けることになった。
 酒場の名は「荒れ野の希望ギャランハルダ」。よりによって何故、騒がしいカレッサゴッレンなんかに店を構えたのか。そんなパヴァルの質問に、彼女は寂しそうに笑いながらこう答えた。

 ここで待っていれば、いつか母さんが顔を出してくれるんじゃないかなって。
 そう……思っちゃったの。

「パヴァル。お前宛ての手紙を鷹が運んできたと、あのキノコ頭のチビすけが」
 鎧姿がようやくさまになってきたラントが、パヴァルに一通の書簡を手渡した。「……鷹紙飛ばしファラ・シャ・ルグ、か。ということは、サラネムからの書簡だ。そりゃぁ本当に、俺宛てか?」
「そうじゃないのかと、ディダンは言っていたが。〈聖水カリス〉さまにではなくパヴァルに、だと」
 これを見ろ、とラントはある文を指でなぞる。ラントが指でなぞった文字は確かに、見覚えのある乱雑な崩し字で“片目のクソ野郎殿”と書かれていた。
「ああ。確かにこりゃ俺宛てみてぇだ」
 差出人の心当たりは一つだけ。メズンだ。
 パヴァルは受け取った手紙の内容に、ざっと目を通す。
「誰からのなんだ?」
「腐れ縁の薬師からだ。まあ、大した内容じゃない」
「そうか。それじゃ俺は」
「おうよ」

   ユインが烏の黒羽に連れ去られた。
   王都で見かけたら、十本剣のほうで匿っといてくれ。
   そいと、アイツの顔の左半分にゃ火傷の痕がある。
   あとは宜しく頼んだ。
 
   ――――お前の命の恩人より

「……ったく、どいつもこいつも人遣いが荒ぇったらありゃしねぇな」
 王都に居るシャグライ族。パヴァルには心当たりが一つあった。
 それは最近エレイヌが掻き集めた噂、セティナの遊郭に居るという百ガレティグ娼婦だ。白い肌に白い髪の、それは大層に美人な娼婦なのだというらしい。
 その名は、白百合レイリィ嬢。
「ちょっと待て、ラント」
 とはいえただ一つ、シャグライの特徴とはそぐわない点がある。それは彼女が赤い目をしていたと言う男が多い、ということだった。瞳はシャグライのような紫ではなく、潰した柘榴から出た汁のように美しい赤だったと。
「なんだよ。要件は済んだろ?」
「今晩、暇か?」
「暇……というか、まあ予定は何もないが……。それがどうした」
「なら仕事終わりに、エレイヌの店にでも来てくれ」
「あ、ああ……?」
 しかし調査のためとはいえ、パヴァル自身が遊郭に入るというのは気が引ける。それに自分は今や王都の有名人だ、警備兵に顔も割れているだろう。
 ならば、ラントに行かせれば。
「忘れんじゃねぇーぞ」
「……お、おう……?」




「へぇー。それじゃあメズンのおっさんに頼まれて、取り敢えずその……とにかく、その子、ユインちゃんを探してると、そういうことなの?」
 声を潜めたエレイヌはカウンターから身を乗り出し、パヴァルの耳元で囁く。
「それ、本当なの? 俄かには信じられないんだけど」
「本当だ」
 パヴァルはエレイヌに、メズンからの手紙を差し出した。それに一通り目を通すとエレイヌは、更に声を潜めて僅かに笑う。
「ホント、アンタって人はなんだかんだでツいてるわね。悪運が強いっていうか、なんていうかさ」
「……なにが、言いたいんだ?」
 するとエレイヌが指差したのは、裏部屋への出入り口。
「二階の、一番手前の部屋にね。白い葡萄酒が入った瓶が二本あるんだけど、ちょっと取ってきてくれないかしら」
「分かった」
 裏部屋には、住居として利用されている二階へと繋がる階段が架けられている。そして二階に三つあるうちの一番階段に近い部屋。そこは普段エレイヌが、寝室として利用している部屋だ。そこの部屋に、嬢が居るということなのだろう。
「エレイヌ」
「あ、でもちょっと……」
 再び前のめりになり声を潜めるエレイヌは、神妙な面持ちになりながら再度パヴァルの耳元で囁く。
「……ただ、ちょっとね。ちょっとなんだけどー」
「そうもったいぶらずに言いやがれ」
「……ちょっと、乱離骨灰らりこっぱい状態なの」
「どういうこった、そりゃ」
「要はね」
 エレイヌは周りの男どもが好き放題にぎゃーぎゃー喚き騒いでいる様子を一度確認したうえで、パヴァルに視線を戻す。一度深呼吸をし、眉を顰め、溜息とともにこう零した。
「……あの、ね。私が路地の裏であの子を拾った時には、もうずーっと泣きじゃくっててさ。話が出来るような状態じゃなかったのよ。服もね、お年頃の女の子なのに粗末なもんだったから、今は私のお古を無理矢理着せてるんだけど……」
「それで、今はどうなんだ」
「今は、寝てるわ。寝てる。というかー……寝かしたの。ちょっと一発、拳をブチ込んでね」
「で?」
「だって、酷く怯えてたんですもの。クスリはいらない、あんなのいらない、欲しくないって。錯乱してるみたいだったわ。呂律も回って無かったし。まるで……」
「レデタッド、か」
「私も、そう思ってね」
 レデタッド(主に大麻を指す。麻薬類の総称)。
 乾燥させた麻の花を擂り潰し、出来た粉を刻み煙草に振りかけて、煙管で吸う。もしくは、粉をそのまま水とともに飲ませる。使用すると、一時的な高揚感が訪れるらしい。だが高揚感が切れてしまうと、地獄が訪れる。食欲不振になったり、わけもなく苛立ったり、悪夢を見るようになるという。とはいえ麻の花で作るレデタッドは、依存性が低い。煙草と比べれば、よっぽどマシでさえある。でもそれは、一度だけという話。繰り返し使用すれば依存度は高くなるだろう。そして頭は、もれなくイカれる。
「そんなわけだけど、宜しくね」
「ああ、頼まれた。と、それとだ」
「なぁに?」
「あとでラントの野郎が来るかもしれないが、来たら適当にあしらっといてくれ」
「えっ、なんでアイツが?」
「なんとなく誘ったんだよ」
「身代わりでしょ、どうせ」
「まあ、そういうとこだ」
 そしてパヴァルは、カウンターをひょいと飛び越える。するとエレイヌは、怒りだした。
「ちょっと、独眼の水龍さん! カウンターの出入り口ぐらい、回って行って頂戴な!!」
「それくらい許せ」
「もう! 大事な商品が割れてくれたらどーすんのよ!」




 俺のことは、覚えてるか。
 自分がどこから来たのか、覚えてるか。
 育ての親の、薬師のことはどうだ。
 自分の名前は、覚えているのか。

 答えは全て同じだった。覚えていない。知らない。分からない。
 赤く泣き腫らした瞳の色は、紫色。顔の左半分を隠すように垂れ下がった前髪の下にはメズンの手紙通り、酷く焼けただれ変色し固くなった皮膚があった。
「自分の名前すらも、覚えていないのか」
 パヴァルが以前、メズンに再び呼び出されてサラネムを訪れたのは六年前のこと。金髪の少女と共に弓を構え、獲物の鹿を射止めていた、男装の少女を遠巻きに見たことがあった。その少女が、ユインだ。
 その時にメズンは、ユインが直に九つになると言っていたことから察するに、今は十五、六といったところだろう。娼婦としては丁度買い手の多くなる年頃であり、同時に最も多感で傷つきやすい微妙な年頃でもある。そしてシャグライとなれば尚更に、欲しい人間は多いだろう。多少の怪我があろうとも、それだけで高値で取引されるのだ。
「今はレイリィって、呼ばれてる」
「だが、そりゃぁ本名じゃぁねぇだろ」
「……ユ……」
 お、と思った。少しは覚えているのかもしれない、と。「ユイン。聞き覚えはあるか」
「……」
「どうだ」
「……分かんない」
「そうか」
 少女は俯き、口を噤む。その指先は絡みついては解かれ、また絡むの繰り返しを何度もしている。その瞬間、ありとあらゆる疑念が取っ払われ、パヴァルの中で確信へと変わった。
「お前は」
「……ねぇ」
「ん?」
 先ほどまではパヴァルが一方的に問いかけ、少女の返答を待つという会話を繰り返していた。それが今、例外が発生した。少女の方から、話しかけてきたのだ。
「なんで、あなたはこっちに来ないの?」
「こっちに来る? どういう意味だ」
「だって」
 エレイヌが無理矢理着せたというネグリジェの袖口を、少女がぎゅっと握るのをパヴァルは見た。
「セティナは、男の人は女の体を求めて私のもとに来るって言ってた。だから、それを何があっても絶対に拒むのは……」
「あのクソ女か。そいつの言っていることは間違いだ、鵜呑みにするんじゃねぇ」
「……え?」
「だが、その答えを知るには、お前はあの狭い遊郭から抜け出さなきゃならねぇ」
「……」
「生まれ故郷に帰りたいか? 俺は、お前の育ての親父から、お前を連れ戻すように頼まれている。だが、行くも行かまいも決めるのはお前さん自身だ」
「親?」
「ああ、お前の父親だ。白髪の変人。薬師のメ……」
 そのとき、下の階から突如悲鳴が上がる。エレイヌの悲鳴だ。パヴァルは窓から外を覗き込む。ギャランハルダに雪崩れ込まんとする野郎どもの姿が、見えた。「……なんだってんだ、コレは……!」
「……何が、起きたの」
「お前はここで待ってろ。出来ればそのベッドの下に潜って隠れていてくれ。そして絶対に、部屋の外から出るな。いいな。ことが済んだら、また戻ってくる。それまでこの部屋から一切出るんじゃない、分かったな」
「……」
 少女はこくりと頷く。それを見るやパヴァルは部屋を飛び出し、一階へと駆け下りたのだった。
「エレイヌ!」
「パヴァル! ちょっと手を貸して!」
 カウンターの上に立っているエレイヌは、ほうきをブンブンと振り回している最中だった。そんなエレイヌの周りには、伸びている男どもと、割れて飛び散った瓶やらグラスやらの破片が散乱している。
「おいおいおい、なんだってんだ、この惨状は!」
 綺麗に並んでいたはずの机も全てが床になぎ倒され、壁に吊るされていたカンテラも床に落ち、蝋燭に燈っていた火も消えている。店内は荒れに荒れていた。
「あの野郎が、わけの分かんない面倒な御客人どもを連れ込んでくれたのよ!」
「あの野郎?」
「ランよ、ラント!」
 エレイヌが指差した先、そこには複数の男に袋叩きにされているラントの姿があった。ラントが一人を蹴りとばしたかと思えば、また一人、二人とラントに覆いかぶさる。何してやがんだ、とパヴァルは思わず零した。ちんたらしてねぇで、とっとと蹴散らせ、と。
「……あの野郎、それでも〈畏怖アルント〉か?」
「〈畏怖アルント〉に相応しい器じゃないから、あんな醜態晒してんでしょ?! いいから、とっととアイツを救助して、御客人を追っ払って頂戴な! ただし峰打ちッ……――」
「分かってらぁ。たっく、手間かけさせやがって」
 パヴァルは鞘から剣〈聖水カリス〉を引き抜く。その切っ先を、袋叩きにされているラントと、それに群がる人の山に向けた。
「おい、てめぇら!」
「なんだ……――って、おいおい、マジかよクソッ!!」
「独眼の水龍サマの管轄下に手ェ出すたぁ、どういう了見だ?」
「……独眼の水龍ッ……!!」
 数人の男どもは音を立てぬようにと、抜き足差し足忍び足でギャランハルダから逃げて行く。
 独眼の水龍。有名になれば、戦う手間も少しは省けるようになるものだ。
「あくまでここに居座るってンなら、俺の剣の錆にするまでだが……」
「……ま、待ってくれ!」
「死にたくなけりゃァ武器を置いて失せろ! さもなくば、斬り伏せるまでだ!!」




「……うおァッ!」
 今だ!と大慌てでラントは飛び出し、エレイヌの背後、即ちカウンター裏へと逃げ込んだ。独眼の水龍に怯え、硬直している野郎どもは、目の前の怪物に気を取られてラントのことなど気にもかけていない。助かった、とラントは安堵の息を洩らすのだった。「なんとか生き延び……」
「アンタ、ちょっとなにやってんのよ!」
「へ?!」
「へ、も言い訳もなしッ! 〈畏怖アルント〉ともあろう御方が、戦わないでどうすんのよ!! それも女を盾にするとか言語道断! というかアイツらなんなのよ!!」
 カウンターの上からは、エレイヌの冷めた視線がラントに送りつけられる。けれどもあくまでラントは、毅然とした態度を取っていた。
 アイツらは何なんだ、と言われたところで、それはラントのほうこそ知りたい事柄である。こっちは道を歩いていただけなのに、いきなり奴らに身に覚えのない難癖をつけられて、追われる羽目になったのだから。
「知らねぇよ、そんなこと! ただ道を歩いていただけなのに、いきなり奴らに襲われたんだよコッチは!! アイツらはレイリィ嬢が、白い女が、シャグライの女がなんたらかんたらとか言っていたが……」
「レイリィじょ……!?」
 その瞬間、エレイヌに向かって、折れた椅子の脚が飛んできた。エレイヌは寸でのところで躱したが、体勢を大きく崩し、カウンター裏へと落っこちる。そんなエレイヌを、ラントはすかさず両腕で受け止めた。
 すると、そのとき。裏部屋の扉がガチャリと空いた。
「……えっ……」
 エレイヌは目の前に現れた少女を見た途端、固まってみせる。
ちまたで噂のレイリィ嬢ってのは、コイツで間違いないのか」
 ラントもエレイヌと同じものを見ると、そう確認をした。
「……そうなのよ、ね」
 裏部屋の扉から顔を覗かせたのは、シャグライの少女だった。
 慌ててエレイヌはその少女の腕を引くと、カウンター裏へと姿を隠させる。その一連の様子を、パヴァルも見ていた。片方しかない蒼い目が、驚愕のあまりに見開かれる。なにやってんだよ、おい。声は出ていないものの、唇はそう動いていた。
「なんで降りてきちゃったのよ、アンタ!」
 少女の肩を抱きよせながらエレイヌは、問い質す。すると少女は震えた声でこう言った。「……だって、騒がしかったから」
「私が戻るまで、部屋から降りてきちゃダメってあれほど言ったでしょ。あとで王宮にあなたを連れて行って、保護の手筈を整えてあげるからって……もう!!」
「……一人は、怖いよ」
「確かに怖いかもしれないけど、でもー……」
「お願い、一人にしないで!!」
「今は静かにおし!」
 再び泣き叫びそうになったシャグライの少女の口を、エレイヌは強引に手で塞ぐ。次にエレイヌは、ラントを睨むように見るのだった。
「ラン。アンタ、アイツらの剣は見た?」
「剣?」
「そう、剣よ。腰に下げてたでしょう?」
「なんてことない、安物の片刃だったような」
「違う、そっちじゃないわよ!」
「じゃあ、なんだっていうんだ?!」
「柄よ、柄!」
「柄?!」
「どんな風に、収まってたの?! 逆手持ちで、銀糸で織った布が結ばれてた!?」
「……」
 ラントは思い返す。ギャランハルダへ向かう道中で、絡まれた男たちが携えていた剣を。
「ああ、その通りだ。逆手持ちで、銀の布きれが結ばれていた」
「てことは遊郭の傭兵隊だね。脱獄者を捕えて獄中に送り戻す、あのアバズレクソ女セティナの犬よ」
「じゃあ狙いはコイツか。なら話は早い」
 エレイヌが押さえつけていたシャグライの少女の頭を、ラントは掴むと立ち上がる。そしてカウンターから顔を出した時、全身血染めのパヴァルに、ラントはぎろりと睨まれた。
「ラント」
 パヴァルの足元を中心に、血の海が広がっている。先ほどまでラントを袋叩きにしていた男たちは、首を斬られて積み上げられ、小さな骸の山を成していた。
「……嘘、だろ……?」
「俺に、殺されたいのか」
「違う、違う! ちょっと待て落ち着くんだパヴァル」
「黙れ。その口を塞ぎ引っ込まねぇと、今すぐその喉首を掻っ切るぞ」
「あ、ハイ……分かった、分かったよ、だから〜……」
 ラントの頭上を、短刀が掠り、背後の壁へと深く突き刺さった。髪の毛の一、二本が切れたような気がしたような、しないような。ともかくそんな気がした。
「……次は首を狙うぞ」
 頭から、被った他人の血をダラダラと流すパヴァルの左手には、もう一本の短刀が握られている。そしてパヴァルは、それを投げるような仕草を見せた。
「あ、いや、だから、その〜……」
「いいから、すっこむんだよ!」
 エレイヌは立っている二人を力づくで引っ張り、カウンター裏へと再び引きずり落とす。
「何をするんだエレナ!」
「あほんだらは黙らっしゃい! ……それに、峰打ちで済ませろって言ったのに。なんなのよ、あの有様は!!」
「俺を責めるなよ。パヴァルに文句を言ってくれ」
「分かってるわよ!! 最低の日よ、今日は。ふざけんじゃないわ」
 そしてエレイヌが白い少女の手を握ろうとしたとき、当の彼女の姿が何処にも見当たらなくなっていた。代わりに聞こえてきたのは、黒いドレスを着た女の嫌味な声だった。
「お久しぶりね、シマ荒らしのエレイヌさん?」
 黒いドレスの女の名は、セティナ・カルヴェ。繁華街カレッサゴッレンの最奥に聳え立つ、汚らわしき遊郭を支配する女帝だ。奴隷商を中央で束ねている黒幕とも噂される、どこまでも黒い女である。
「ええ、そうね。ごきげんよう。……このアバズレのクソババァがッ!!」
 対峙した、赤と黒の女。赤いドレスの女は背後にへっぴり腰の〈畏怖アルント〉をはべらせ、独眼の水龍にそっと視線を送る。対する黒いドレスの女は、白い少女をその黒い腕の中に抱え込み、傭兵隊を呼び寄せた。女たちは切迫した雰囲気を醸し出しながら、睨みあう。静かながらも、熱い戦いだ。
「あら。アバズレクソババァとは、随分なことを言ってくれるじゃない?」
「そっちこそ、アタシは正々堂々、真っ当に商売してるのさ。シマ荒らしとは、女の子たちを性奴隷扱いするクソババァに言われたくはないね。いいから、その子を寄こしな」
「何故? 私はこの子を、大金を叩いて買ったのよ。あなたにどうこう出来る権利はないわ」
「あのねぇ、その取引が違法だから」
「この子は私のとっても大事な商売道具であり、泣き顔が可愛いらしい玩具でもあるの。そこらに転がっているような、替えが利く可愛くもない消耗品の女どもとは違う。この華奢な体で、沢山、沢山稼いでくれるからね」
「人を道具だなんて……!」
「そうよ、道具。美しく可愛いく愛らしく性的な、お人形さん」
 エレイヌは、セティナを睨みつける。ラントもまた、ようやく腰に携えた神剣〈畏怖アルント〉を引き抜いた。
「聞き捨てならんな」
「あらあら。《光帝シサカ》の盾であられる〈畏怖アルント〉ともあろう御方が、こんなところで愛人を作るなんて……」
「ただの幼馴染だ。もっと言えば、兄弟みたいなものだ」
「アンタは黙らっしゃい、ラント」
 雑魚の処理を終えたパヴァルが、エレイヌらのもとへ向かおうと脚を一、二歩進める。するとパヴァルに気付いたセティナは、足元に落ちていた短剣を拾い上げると、その切っ先を押さえつけていた白い少女の首筋に当てた。
「待ちなさい、血まみれの水龍さん。それ以上あなたが近づけば、私はこの子を殺さねばならなくなるからね」
「……殺すの?」
 少女は、セティナを見る。
「いいえ、あなたを殺したくはないわ。でもあなたにとって害になる、この男たちがあなたに近づくようなら、やむを得ないの」
「……害?」
「そう、害」
 そしてセティナはパヴァルを指差した。
「あいつは、冷酷無慈悲な殺人鬼よ。あなたも見たでしょう? あいつが、人を大勢斬っていたのを。悪い奴なの」
「悪逆非道で股の緩い尻軽女にゃァ言われたかねぇな」
「……悪い」
「そうよ、悪いの。隙あらばあなたを殺すつもりだったのよ」
「あ? 俺はただコイツを」
「……殺される?」
 紫色の目が見開かれ、血走る。
「そして、あの女。あの女はあなたのことを何も分かって無い。可哀想に見える女の子を助けて、救った気になりたかっただけ。結局、自己満足なのよ」
「ええ、そうよ。自己満足よ! それの、何が悪いっての!!」
「醜いわね」
「アンタのほうが、よっぽど醜いさ!」
「……」
「聞きなさい、レイリィ。あなたの居場所はもう何処にもない。私のもと以外には、ね。そうでしょう?」
「そんなことないわ、騙されないで!」
「……イヤ」
「なんでイヤなのかしら。だってあなたにはもう、帰る場所なんてないのよ? 家族に、帰るべき場所から追い出されたから、あなたはココにいる。そうでしょう?」
「……イヤだ」
「どうして? カルッグの香りのするあなたは、最高に美しいというのに」
「……嫌だ、もうやめて……」
「どうして?!」
「イヤ! こんなところに、もう居たくない!」
「うるさい」
「なんで、なんで私はここに居るの!? 私を、お父さんが探してるってあの人は言ってた! 離して、ねぇ、放してよ!」
「……黙れ、この穀潰しが……!」
 セティナは背後に侍らせた、傭兵隊へと白い少女を突き飛ばす。
「あとでそいつにレデタッドを盛っといておくれ! そしてカルッグの原液を塗りたくるんだよ! 今晩は金になる客が詰まってるんだ、急ぎな!! その代わり、客を全て追っ払ったら、あんたたちの好きにしな」
「御意!」
「ちょっと待ちなさいよ、クソババァ!」
 ギャランハルダを後にする遊郭の一軍。外に出てまで思いの丈をぶち撒け怒鳴るエレイヌをよそに、ラントはギャランハルダの中を眺める。
「ああ、どうしよう……」
 パヴァルにより斬り捨てられた、骸の山と血の海。自分がうっかり招き入れてしまった、招かれざるご客人が荒してくれた店内。何もかもが、滅茶苦茶だ。
「……」
 果たして誰が悪いのか、とラントが考えた時。すぐに答えが出た。

 だって、自分はパヴァルに呼ばれたから、ここに来た。その道中でエレイヌが撒いた種により芽吹いた芽に絡まれて、それに足を引っ張られながらもなんとか辿り着いたギャランハルダに入ってみれば、いざ始まったのは大乱闘。そして始まる大殺戮。乱闘の原因となるものを引き入れてしまったのは確かに俺だが、でも殺戮をやりやがったのはパヴァルだ。
 だったら全部、パヴァルが悪いんじゃないのか。
 そうか。……そうだ!


「パヴァル」
「さてと」
「……ん?」
「これを片付ける。お前も、エレイヌと表に出てろ」
「あ、ああ……?」
 その後、パヴァルからの「終わったぞ」という言葉を受けて店内へ戻った、エレイヌとラントの二人。だがそこに広がっていたのは、全てが全て綺麗サッパリ取り払われた、がらんどうで水浸しのギャランハルダ。机も椅子も、酒樽すらもない。エレイヌはそれを見るなり金切り声で叫び喚き怒り、パヴァルとをラントをギャランハルダから追い払う。
 その後一カ月の間、エレイヌはその二人を一切店に立ちいらせはしなかったのだった。





「ユン坊ちゃん、いつもありがとねー。この軟膏、とっても助かってるの。なんて言ったって、おりゅんちゃんがしょっちゅう傷を作るもんだから……」
 午前中は店が空いていない。故に、午前中にギャランハルダへと足を運ぶのは決まって〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の誰かであり、それは高確率でエレイヌの弟子であるリュンであったり、エレイヌの恩人……と一応はなっているパヴァルであったりする。もしくは、薬の補填で訊ねてくるユインだ。
「《神託ノ地ヴァルチケィア》の大砂漠でしか採れない草の、葉からとれる液を使ってるんだ。滅多に見つからない上に、その草が生えてる近辺には水源もあって、その影響で白砂狼シャグディロゥが群がるし、白砂狼シャグディロゥもそれを食うから、値段も馬鹿にならないんだ」
「ちゃんとお駄賃は払わせてもらうわ。で、その草はなんていうの?」
「エベロラだ。デカいのだと一ガスク(一メートル)くらいになるんだが、植物にしては珍しく、茎がないヤツで」
「茎がない植物って……どういうこと?」
「茎がない分、葉が熱くなってるんだ。それが茎代わりみたいなもん。緑色ののこぎりみたいな葉で、それに白い棘が付いててさ。その葉をへし折ると、中から透明な、とろとろした液体が出てくるんだ。それが軟膏の材料。因みに出てくる液体は、粉の寒天を混ぜて、冷やして固めると食べられるんだ」
「えっ?!」
「結構うまいし、肌が瑞々しくなって若返ったように見えるとかなんとかで、サラネムの女はこぞってエベロラに飛び付くんだ。それに保湿効果もある。だから更に値段が高くなって」
「え、それじゃあこれも食べられるの?」
「加工してないやつを傷に塗っても充分効くんだが、これは少し効能を早めるために他のヤツも混ぜてある。だから食えないことはないけど、あんまりお勧めは出来ないね。苦い薬草とかも混ぜてあるから、多分美味しくないよ」
「あらそうなのね。ちょっと残念だわ、ユン坊ちゃん」
「ちゃん、は余計だよ」
 改修されて数年が経った、酒場ギャランハルダ。改修費は約七百ガレティグ。その改修費は全て、荒らした張本人であるパヴァルが支払っていた。
 そしてユインがどういうわけかユライン邸から回収され、〈獅子レオナディア〉を取り合えず賜ってから、二年くらいの月日が経過していた。
「まあどっちだっていいでしょ? ユン坊ちゃんは、女の子なんだから」
「……ッ!?」
「大丈夫。ラントもパヴァルも、その件に関しては一切口を開いてないから。それに、アンタがユライン邸に居た理由も、適当にそれっぽいのつけて、口裏合わせてあるし。あのケリスさんにすら真実を言ってないくらいなんだから。ねぇ、パヴァル?」
「ああ、そうだ。シルスにゃ言うまでもなくバレたが、ケリスは言わなければバレやしない。だから、感謝しやがれ」
「随分と恩着せがましいな」
「幾らでも恩を着せてやらぁ。お前の親父の分もな」
「……親父?」
「メズンだ」
「ああああ! 聞きたくもねぇ! その名前、二度と言うな!」
「どこまで恩知らずなんだ、テメェは」
「というかなんでお前が知ってんだよ、アイツを!」
「古い付き合いなんだよ。お前がおしめ外れたばっかの頃に、お兄ちゃんに虐められるーってメズンに泣きついてたのだって、俺は知ってんだからな」
「は? 俺がいつメズンに泣きついたって?」
「だから言ったろ、お前がまだ赤ん坊を卒業したての頃だ。きっと記憶は無いだろう。あン時のお前さんにゃ、山の連中はゾッコンしてたぜ。確かに可愛い可愛い女の子だったが……それがどこで道を間違えてこうなったんだか」
「男のフリしてるほうが色々とラクなんだよ。リスタだって、そうじゃん」
「リっちゃんは違うわよ、あの子はちゃーんとした男の子。女の子よりも綺麗なお顔をしてるけどね。でもそれはさて措き、ユン坊ちゃん。夜に街中を出歩くのは、やめなさいね」
「……え?」
 何で知ってんだよ、と目を見開くユイン。エレイヌはすかさず、痛いところをグリグリと突っ込み始めた。
「ユン坊ちゃんの噂と、ランのしょーもない噂がしょっちゅう飛び込んでくるのよ、私の耳に。だから、もう足は洗いなさい」
「……ハイ」
「セティナ・カルヴェは死んだ。アンタはもう、娼婦のレイリィじゃないの。〈獅子レオナディア〉のユインなのよ。そういうのを一切やるなとは言わないわ。でもね、相手を選びなさい。あなたの軽率な行動が、〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の、果ては王政の信用を失墜させることになるのよ」
「……」
「あの馬鹿犬ファロンちゃんだって、アンタの事情は知ってるわけでしょう? それに仲良いんでしょう、アンタたち」
「ただのダチだ」
「知ってる。だから、ファロンちゃんに構ってもらいなさい。あー、でも他の子に手を出しちゃ駄目だからね。特にリっちゃんは絶対にダメよ。私が許さないんだから」
「なんで?」
「なんでって……まあ、なんていうか、弟とか妹みたいなものだからねぇ。ダンちゃんもそうよ、絶対にダメ。あとベンちゃんも。おりゅんは……」
「そもそも興味無い」
 エレイヌは勿論、パヴァルもユインの心は既に見透かしていた。ユインが誰に好意を抱いているのか、を。また相手のほうも、少しはユインを意識している素振りを見せている。奔放過ぎるユインの性格が、その人物とくっついてくれることで落ち着いてくれるのであれば、彼女らの恋路を応援しなくもないのだが……――いかんせん、面倒臭い事情が絡み合っているため、パヴァルもエレイヌも、その思いは敢えて表に出していない。
「最後に一つだけ質問していいかしら」
「答えられる範囲なら、構わないよ」
「ユン坊ちゃんは、一人が嫌いなの?」
 そんなエレイヌの質問に、ユインは恥しげに鼻の頭を掻く。「……まあ、そうなんだよねー」
「どうして?」
「どうして?! ……ま、まあ……まだガキだった頃に、突然親父に蔵の中に閉じ込められて……」
「どれくらい?」
「五、六年くらい。多分、クルスムが気付いてくれなければ、今もあの中だったかもしれない」
「クルスムってのは、ラムレイルグ族長の一人娘の、あのたくましい嬢ちゃんか。たしか〈風雷ノ聖獣使いシラン・サーガ・キウ〉だったな」
「ああ、そうだ。……なんでそんなに知ってんだよ、気味悪ぃじゃねぇか……」
「お前ン家の、兄弟間の確執だって知ってんぞ」
「……あー、もう。わけ分かんねぇ」
「それにしても」
 エレイヌはじっと、ユインを見つめた。
 大人だとしても、食べ物も飲み物も無いような環境に何年も置かれれば、生き物である以上、餓死してしまうはず。それなのに、どうして。
「……それでよく、生きていたわね」
「そんな身体だから、疎まれたのさ。きっと」
 ユインはカウンターに置かれたままになっていた薬箱を背負うと、笠を深く被る。じゃあな、と次なる目的地へ出向いた。
「あれが、元は百ガレティグ娼婦のレイリィ嬢だったとは思えないわね」
 ユインの後姿を見送りながら、エレイヌは眉を顰めた。「まるで別人よ」
「まず、女にゃ見えねぇな」
「色気も何もないんですもの」
 ラリってイカレてたあの子と同じには思えないわ、とエレイヌは笑う。
「今の姿が、あの子の素なのかしら」
「そうだろうよ。あん時は手に負えねぇとんだ泣き虫かと思ってたが、蓋を開けりゃ単なる天然ボケときた」
「そうね。確かに変なところが抜けてる。……それで因みにだけど、メズンのおっさんはユン坊ちゃんのこと、どう言ってたの?」
「ああ。さっきも言ったが、ユンの野郎がまだ二歳児だった頃は大層ゾッコンしてやがった。だがな、十歳児になったぐらいで俺が山に行った時にゃ、『とんでもねぇ天災だ』とかほざいてやがったぜ」
「まあ、たしかにあの子は天才ね」
「テンサイっつっても、天の災いの方の天災だ」
「ああ、そっち。それもそれで、納得ね。で、二歳児の頃はどうだったの?」
「そりゃぁ、な。確かに可愛かったよ」
「見たの?! ズルイわー」
「ああな。メズンに限らず、ラムレイルグの里の奴らもチビのユンにゃ大半がゾッコンしてたぜ」
「私も見たかった」
「お前はそん時、ヴィッデと一緒に居ただろう。山の麓、ラムレイルグの里で、男衆に可愛がられてただろうに」
「そうだっけ」
「そうだ」
「……ああ、そうだったわ。ガムスンのおじさんが、お菓子くれたのを覚えてる。そういえばラムレイルグの男たちって、子供にやさしい印象があるのよね」
「そりゃ、ガキだったお前が可愛かったからじゃないのか」
「あら、褒めてくれてるの?」
「中身は、可愛かねぇクソガキだったが」
「……ホント、一言余計よね」
 早朝の内に洗い、丁度乾いた頃合いのグラスを、エレイヌは食器棚に陳列する。
「でもさ」
「なんだ」
「思い返してみると、色々あったなって」
「……そうだな」
 並べたグラスの列には、エレイヌの顔が映る。まだまだ若いと思ってたけど、そうでもないのかな。そんな思いが、エレイヌの頭に浮かびあがって、消えた。
「だって、なーんだかんだで、私が一番一緒に居たのはパヴァルよ? 自分のお父さんよりも過ごしてる時間は長いし、なんだか奇妙な感じ」
「……」
「初めの頃は無口だし、話してても詰まんないし、なにより殺し屋だし、それで正直嫌だったけど、隊商の護衛の任についてからはさ、なんか、こう……丸くなったよね」
「大して変わらんと思うが」
「断然丸くなったよ。というか、無駄に口数が増えた。だってさ、昔のパヴと今のパヴは、まるっきり別人みたいで、同じ人だとは思えないんですもの。だって、昔のパヴァルは大口開けてヘラヘラ笑ったりなんかしなかったでしょ」
「それも、そうだな」
 グラスを一通り片し終えると、エレイヌはカウンターの一席に腰を掛けていたパヴァルに目をやる。先程まで、ユインをおちょくりながらニヤニヤ笑ってたというのに、今はどうだろうか。まるで別人であるかのように、無表情に成り果てていた。
「って言ってると、ほら、素に戻ってる。無表情になってるわよ。それじゃ昔の、殺し屋のパヴァルになっちゃう」
「……馬鹿を取り繕うのも、結構な精神力を擦り減らすんだぞ?」
「そんなこと言ってたら、シルス卿はどうなるのよ。あの方だって、本当は物凄く聡明な人なのに、ずーっと貪欲な愚か者の演技をし続けているのよ?」
「それが仕事だからだろ?」
「パヴァルだって、大口開けてヘラヘラ笑う馬鹿を、人前で演じることが仕事みたいなもんでしょうに」
「偶の息抜きぐらいさせてくれ」
 パヴァルは昔から、仕事のときには大口開けてへらへら笑う馬鹿を演じてきた。馬鹿のほうが、真面目な人間よりも早く、相手の懐につけこめる。ああ、こいつは馬鹿なんだと油断させられるからだ。
「それは一人の時にやってよね。今は、一人じゃないでしょう?」
 昔は、一人だった。一人は気楽だった。人前にさえ出なければ、演技をしなくてもいいからだ。
 だがここに来てからは、そんな環境がガラリと変わった。常に誰かが傍に居る。それはとても便利だが、煩わしくもあった。誰かが自分を見張り、そして誰かを自分が見張る。常に、緊張感が漂っているのだ。
 だからその空気を打ち消す為に、紛らわすために、相手に感じさせないように、演じる。大口を開けて、へらへらと笑う、能天気でひょうきんな姿を。
「……そうだな」
「あーん、もう! だからその顔! 独眼の水龍が溜息まじりに『……そうだな』とか、似合ってないのよ! それはあくまで、微笑う悪魔だった頃の顔でしょ?! シャキっとしなさいよ、シャキっと!」
「分かった、分かった。だからそう、耳元でキャンキャン騒ぐな」
「そう、今のその顔よ。水龍サマはそうじゃなくっちゃ」
 そして、エレイヌは日時計を見た。八角形の盤に描かれた円の中心部に立った木の棒の影は、午前と午後の境界の、五ダル前を少し過ぎたところに落ちている。
「あら、もうこんな時間だったの」
光ノ刻システ(正午)か」
「正確には、 火ノ四刻ロ・シルテ(午前十一時)と五七ダルってとこかしら」
「どっちだって大差ないだろうに」
「まあ、そうなんだけど。ってことは、そろそろお間抜けな乱舞姫が来る頃合いね。独眼の水龍さまは早くどっかに行った方がいいんじゃないのかしら?」
「それもそうだな」
 リュンはパヴァルを毛嫌いしている。それはとても、子供らしい些細な理由からだ。
「あの野郎ときたら、俺を見るたびにブーブーと文句を垂れやがる」
「同時に入隊したベンちゃんは、国一番の剣豪から剣術指南を受けてるのに、なんでボクには教えてくれないんだよー、っていうのは事実なんだし。言われても仕方ないんじゃないのかしらね」
「とはいえ、アイツにゃ剣術の才能なんて微塵もなさそうだがな。確かに動きは俺よりも素早いが、持久力に欠けている。重い鉄の剣なんざ持たせりゃ、すぐにヘバちまうだろうよ」
「そっか。そういえば〈丘陵ルズベラ〉は、元は装飾品みたいなものだったわね。刃も透明な硝子細工ってくらいだし」
「それに踊りの方が、あの無駄な素早さを活かせるだろう?」
「まあ、それも事実なんだけど。って、もしかして、ランに入れ知恵したのって……」
「俺さ」
「やっぱり。アイツがそこまで、おりゅんちゃんを見切れてるとは思えなかったから」
「ああな。アレの目はとんでもねぇ節穴だ」
 と、その時。裏部屋の勝手口から、誰かが入ってきた音がした。
「噂をしてれば、ご本人が来たようね」
「邪魔者は消えるとするか」
「そうね」
 立ち上がり、ギャランハルダを後にするパヴァル。それと入れ違いになる形で、ギャランハルダに裏部屋から入ってきたリュンは、一瞬だけ見えた後姿に目を白黒させていた。
「姐さん、今誰か来てたの?」
「ええ。馴染みのお客さんよ」
「こんな時間に?」
「こんな時間に来る馴染みのお客さんなんて、決まってるでしょう?」
「え? 誰ですか、それ」
「鈍いわね。どう考えたって、アンタの同僚しか居ないでしょうに」
「えー、そうですかー? 暇してる奴なんか居ましたっけ」
「居るわよ、大勢」
「キャスですら手に負えない、自由人のユン兄とか?」
「まあ、さっきまでユン坊ちゃんも居たわね。いつもの軟膏を届けてもらってたの。けど、今出てったのは違う人よ」
「思いつかないんですけど」
「パヴァルよ」
 リュンは大きな猫目を見開く。
「なんで、あんな奴が?!」
「これでも、古い付き合いなのよ」
 ふふっ、と笑うエレイヌと、嫌そうに口元を引き攣らせるリュン。
「古い付き合い?」
「色々あったのよ。まっ、そんなことより早く仕度なさい。稽古を始めるわよ」
「はーい」
 間延びした、気のない返事で応えるリュン。それと被せるように、外では猫が愛想も可愛げもなく、汚い声でニャーォと鳴いていた。





「居るのでしょう、〈聖水カリス〉殿よ。そのような潜みになど隠れていないで、いさぎよく出てきたらどうです」
 王宮裏手の祭壇、ユダヌの祠。それまで祠の中で瞑想を続けていた〈大神術師アル・シャ・ガ〉は、一人突然喋り始めた。そして〈大神術師アル・シャ・ガ〉は振り返る。祠の前の石段。そこには、突っ立っているパヴァルの姿があった。
「言われんでも、出てきている」
「それで、目的は」
聖杯カリスだよ」
 祠の中に封じられた、何の変哲もない木の杯。それは代々シアルン神国に受け継がれてきた、とある王族から力づくで奪い取った戦果である。そして、今にも芽吹かんとしている災いの種そのものであった。
「もうじき執り行われるのですか、継承ノ儀が」
 この聖杯が祠から持ち出されるということは、《光帝シサカ》継承ノ儀がじきに執り行われるということを意味していた。
 継承ノ儀にて新たな《光帝シサカ》は、この聖杯で葡萄酒を頂くことにより《光帝シサカ》と認められる。それが習わしとされているからだ。
 葡萄酒とは、支配の象徴。時にそれは、神話の悪魔の血に置き換えられて語られる。古の女王が、討ち取った悪魔の首から滴る血をこの聖杯で受け止め、その血を飲み干したという伝説があるからだ。
「さあ。それはどうだろうな。シルスにでも聞いてくれ」
 そしてどういうわけか、〈聖水カリス〉にしか聖杯カリスは運び出せないとされていた。〈聖水カリス〉以外の他の者がその杯に触れてしまうと、たちまち杯に魂を吸われてしまうのだというらしい。だが、その呪いを〈聖水カリス〉の担い手は、その身に憑く神の力を以てして無効にすることが出来ると言われている。
 それこそが〈聖水カリス〉が〈聖堂カリヴァナ〉と同等とも言うべき権力を持つ理由であり、それが〈聖水カリス〉がカリスたる所以であり、この杯にそのような呪いを掛けた“女王”の目論見もくろみの全てだった。
「何か裏がありそうな言い回しですね」
「それは、どうだかな。竜神のみぞ知るってヤツだ」
 パヴァルはずかずかと祠に踏み入ると、祠の奥に安置されていた硝子の箱を叩き割る。その中から、乱暴に聖杯を取り出した。
「コイツぁ貰ってくぜ」
「ええ、了解です。ですが、その前に一つだけ、訊かせて下さいませんか」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉はコツン……と、握っている錫杖の尻を石の地面に叩きつける。
「思い出したのですか、全てを」
「ああな。お前もその仰々しい態度から察するに、自分の立場を思い出したってとこだろ?」
 そう言いながらパヴァルは、手に持った聖杯を一度左右に振った。
「死んだはずの人間が、こんな形で生かされてるたぁ酷ぇ話だ。お前がこれからどう動くのか、そんなことは俺の知ったこっちゃねぇ。俺は俺のやり方で、事を押し進めさせてもらう。だが、きっと最終的な目標は同じなわけだろう? まっ、仲良くやろうじゃねぇか、〈大神術師アル・シャ・ガ〉サマよ」
「……」
「いや。アルスル・ペヴァロッサム、か」
 パヴァルのその言葉を聞いた途端、〈大神術師アル・シャ・ガ〉の横に立っている黒烏のメクがケケッと不気味に笑い出した。
「流石だ。今も昔も隠密をやってるだけはあるじゃァねぇかェ!」
 パヴァルの目には、卑しい光を燈される。
「……ペルモンド技師官」
「ここではお前のほうが、格上だ。格下である俺に対して、仰々しい態度を取る必要はない。不自然だ」
 ニタッと嫌味に笑ったパヴァルは白い歯を見せながら、蒼い目でメクを睨み据え、聖杯を握る手に力を込める。
「鳥、テメェの皮も今に剥いでやるから見てやがれ」
「ははっ、愉しみに待っといてやるぜ」
 災いを封じていた禁忌の門は今、開かれたのだった。