【第八章 独眼ノ水龍】

3 龍憑きの男


「……ねぇ」
 短剣を研ぐ音だけが返ってくる。
「ねぇ、聞いてるの?」
 聞いては、いるのだろう。返事がないのは、いつものことだった。
 きっと、あの人は声を出すのが面倒臭いのだ。だって普段から、何か重要な用件でもない限り、一切喋らない人だから。丸一月、声を聞かないことだってあるし。
「ねぇったら!」
「大声を上げるな」
 母親に捨てられ、暗殺者に拾われてから早二年。二人で居るはずなのに、何故だか孤独を感じる。そんな生活にもエレイヌは、随分と慣れてきていた。
 この人について行けば、自分は生き延びられる。その証拠に、今でも自分は生きている。だからエレイヌは我慢する。たとえ外で遊びたくても、家の中で息を潜めて、男が帰ってくるのをずっと待つのだ。
 微笑う悪魔が子連れだということが知られれば、彼の仕事が減り、収入も減るかもしれないからだ。とはいえ必要最低限の金しか使わないという今の生活をこのまま続ければ、あと十年くらいは一切仕事がなくても暮らせることだろう。それでも、やはりお金は大事だ。消息の掴めなくなった母の背を見て、エレイヌはそれを学んでいた。
 お金がないと、世の中は不便だ。物が買えなくなるし、移動が出来なくなる。新天地を求めて旅立とうにも、やはりお金が必要になるのだ。だからこそ貯蓄は大事。その為にも、お金は稼いでもらわなければならない。エレイヌは知っている。だから、自分は黙って仕事に出た彼を見送り、仕事を終えて帰ってくるのを待つのだ。そうして時折、武器の手入れを手伝ったりしていれば、ちゃんと飯くらいは食わせてもらえる。
 だから今日も、孤独に耐えて頑張っていた。
 けれども、幾ら寛容に物事を見ようとしても、限界というものがある。
「足を洗う気はないの、パヴァル?!」
 パヴァルの大きな背中を、エレイヌは色の違う両目で睨み据える。かつて父親を暗殺者に殺された身としては、同業の暗殺者に匿われているというこの状況に、苛立ちを覚えていないわけでは無かったのだ。
 何よりエレイヌが気に食わなかったのは、命の重みを、価値を、尊さを理解しようとしないパヴァルの言動。実際に理解などしていないのであろう。そうでもなければ、あんな簡単に人を、それも何十人、いや何百人、いやそれ以上を殺せるわけがない。それも仕事で殺して、それでお金を稼ぐだなんて、やっぱり間違ってる。折角の武術の腕があるなら、もっと別なものに役立てるべきだ。エレイヌはずっとそう思ってきた。
 それを今、ぶちまけている。
「だから」
「何度も言わせるなって? 他に仕事がないだなんて台詞は、もう聞き飽きたよ! だってパヴァルぐらいの腕があれば、もっと他の仕事で食べていけるはずじゃん! パヴァルの腕を求めてる人はいっぱい居るはずなのに、どうして殺しの仕事にこだわるの?!」
「聞け、エレイヌ。これが最後の仕事だ」
「最後?」
 突然の、長年期待していたはずの返事に、思わず声が上ずってしまうエレイヌ。そして一度深呼吸をすると、エレイヌはもう一度声に出していった。「最後……?」
「この仕事が終わり次第、隊商の護衛に就くことになった。用心棒だ」
 相変わらず、声には覇気もなければ感情も籠っていない。淡々としている。そして一切視線を合わせようともしない。そんな態度は、いつも通りだった。それが至って普通の、本来の“パヴァル”という人間の素顔だった。
「そ、そうなんだ」
「…………」
「それで、今日の帰りはいつくらいになるの?」
「日が昇る前には帰ってくるだろう。それまでに荷造りをしておけ。三日後にはここを発つ」
「荷造りするような荷物もないよ」
 エレイヌは悪態をついてみるも、やはり反応は無い。そうしてパヴァルは徐に立ち上がると、外へと消えて行った。何も言わず、振り返ることもなく。
「……行ってきます、とかそれくらい言ってくれたっていいじゃん……」
 狭い部屋の隅で、エレイヌは溜息を吐きながら膝を抱えて座り込む。
 よく分からないけれど、胸騒ぎがする。今日に限って、なんでだろう。
 引き戸の隙間から差し込む月の光。その光にエレイヌは、不思議な恐怖を感じていた。






 最後の仕事、とはいえ特別な思い入れがあるわけではない。あくまでただの、仕事だ。それ以上でも、それ以下でも無い。普段通り、淡々と、着実に進める。それだけだ。その筈だった。
 忍び込んだのは、カレッサゴッレンに建つ武器商人の店だった。ここの店主は、サイランの腕利きの鍛冶師に特注で製造させ、それを販売し、常に最上級の切れ味を追い求めるという信念を、創業当初から貫き続けているということで有名だった。売り物にも、やはり定評がある。だが、パヴァルが世話になったことは一度もない。何の思い入れもない、ただの店でしかなかった。
 そして依頼は、ここの家族を全員殺せというものだった。だが、その中でも女には気をつけろ。そんな忠告を、依頼主から受けていた。
「女、か」
 男であろうが女であろうが、敵ではない。襲われたところで、負けることは無いだろう。そんな風に、知らず知らずのうちに自分の中で高をくくっていた。そしてそれが、敗因となったのだ。
 忍び込んだ家の中。二階の寝室で寝ていた店主の男を、パヴァルはすぐに殺した。とても安らかな寝息を立てながら眠っているうちに、永遠の眠りへと突き落したのだ。それは造作もないこと。この調子なら、何事もなく無事に終わらすことが出来るだろう。その為の算段を立てようとしたとき、隣の部屋からは赤子の泣き声が聞こえてきた。
「……」
 物音を立てぬようにと男の部屋を出ると、パヴァルは赤子の泣き声がする部屋へと忍び込んだ。暗い部屋の中央に置かれていたのは、真新しい木の揺り籠。パヴァルは静かに、揺り籠の中を覗きこむ。中では親の温もりを求めるように、太く短い手足をばたばたと動かして暴れ、言葉もない声で泣き叫ぶ、醜い赤子の姿があった。生後三か月ぐらいの大きさ。首もまだ、据わったばかりのように見える。
「……汚らしい泣き声だ」
 泣き声が、耳触りだった。
 赤子の体よりも大きい頭をパヴァルは乱暴に掴むと、その首を前へと倒した。癪に障る赤子の泣き声が、途端に止む。ふぅ、と安堵の息を吐いたのも束の間、今度は子を呼ぶ母の声が聞こえてきた。
「デルーナ?」
「……」
「デルーナ!?」
 二頭身の体は、力なく揺り籠の中に落とされる。部屋の扉が開けられた。扉の向こう側から、母親であろう女が現れる。だが、これは好機。探しに行かずとも、暗殺対象が自ら暗殺者の前へ現れてくれたのだから。
 そしてパヴァルは男を始末した刃を、女に向けた。
「もう赤子に息は無い。だが、恨むのであれば俺で無く、俺の依頼主を是非とも……」
 女の右手に握られていた、鈍光の刃。それが包丁であるとパヴァルが気付いたとき、女は既に怒りにまかせ、その刃先をパヴァルの腹に突き立てていた。
「……よくも、うちのデルーナを、よくも!!」
 腕利きの武人と同じくらいに、女の動きは速かった。突き立てられた刃は心ノ臓に当たることこそなかったが、その下部に位置する太い動脈を傷つけた。交差する目と目。淀んだ蒼い目は、怒り狂った淡褐色の目を見る。怒り狂った淡褐色の目も、淀んだ蒼い目を見た。
「……パヴァル……!」
「……?!」
 女は包丁の柄から、慌てて手を離した。そして、後退る。その隙に、パヴァルは逃げた。窓を突き破り、二階の高さから飛び降りる。逃げた。それまであまり思い出すことのなかった過去の記憶からも。
 そしてパヴァルは人通りのない裏道にまわり、物陰に身を潜めた。
「……クッ……ソ……」
 痛む胸。徐々に冷えて行く体。刺さったままになっていた刃を、パヴァルは無理矢理に腹から引き抜くと、血が溢れ出ていった。肉体から逃げるように出て行く血液は、まるで命そのもののようで、赤色であたり一面が染まった頃には、パヴァルの意識も薄れ始めていた。

 そうか、死ぬってのはこんなもんなのか。

 思わず、苦い笑みが零れる。こんな簡単に、死ぬものなのか。けれど恐怖などはなかった。漸く、この呪われた生から解放されるのか。そんな清々しささえ覚えていた。ならば焦らさずに、早く死なせてくれ。そう言おうと口を開きかけたところで、深い傷を負った腹がズキンと痛む。言葉の代わりに、口から出た血液。力が抜けて、腕はだらりと垂れる。するとその腕に、なにか冷たいものが纏わりついた。
「……やっと見つけたぞ……ハハハッ……」
 おぼろげな視界。顔を覗かせたのは、龍の頭のようにも見えた。あまりにも血を失った所為で、幻覚や幻聴でも引き起こしたのだろうか。その時は、そう思っていた。
「久しぶりだ。全く、手古摺らせおって。どれだけ我がお主を探したと思っておるのか……」
 先が二股に分かれた細長い舌を、蛇のように口から出し引きさせているその龍は、しゃがれた低い声でそう言った。その龍の体を、頭から尾にかけてパヴァルは見た。腕にまとわりつくその龍の尾。その身体は鱗では無く、水で覆われているかのように見えていた。
「なんだ、その顔は。まさか我のことを忘れているのか?!」
 パヴァルの首に纏わりついた水の龍は、うるさく喚き散らし始める。
「おい、おい! 我だ、カリスだ!! キミアの詰まらん罠に嵌まりおって、お主は一体何をしておるのだ!!」
「……」
 幻聴の類だとすれば、途轍もなくふざけたものだろう。だが幻聴であれば、いつかは消えるはず。そして消えた時には、自分は死ぬ。阿呆臭い。早く消えやがれ。水の龍を掻き分けようと伸ばそうとした腕が動くことはなく、代わりに胸がズキンと痛んだ。
「…………」
「おい? しっかりしろ、おい、ペルモ……―――!」





「ねぇパヴァル、起きてよ……ねぇったら!」
 鈍い痛みを伴う体を、揺すって強引に起こそうとするエレイヌは、甲高い声でキャンキャンと鳴く。半ば強制的に目を覚まさせられたパヴァルは、ゆっくりと左目を開けた。
 中途半端に見えている景色は、王都での一時的な仮住まいとして買い、明日には売り払う予定の襤褸屋の、今にも崩れ落ちそうな天井。と、視界の隅から顔を出す、二つの頭。エレイヌと思しき赤毛の小さな頭と、丸眼鏡を掛け、煙管きせるを吹かす男の白髪頭。
 お前は、誰だ。
 開きかけたパヴァルの口。だがそれは突き刺さるような腹の痛みに妨害され、閉じられるのだった。
「無理しないで、パヴァル。まだ傷が塞がってないの」
 そう言うエレイヌは、パヴァルの胴に巻かれた包帯の上から傷口を突く。軽く突かれただけなのだが、それでも体が訴える痛みは尋常ではない。パヴァルが唸り声を上げると、エレイヌは「めっずらしー」と笑う。その横で、見慣れぬ白髪の男は煙を吹かせていた。
「……あれほどの傷を負いながら、まさか生き返るたぁ流石の俺でも思いもしなかったなァ……。初めてだ、こんなとんでもねぇ輩はヨ」
「おじさん、だから言ったでしょ! パヴァルは怪物なんだって」
「ああ、化けモンだろうなァ」
「パヴァル、このおじさんがアンタを助けてくれたんだよ。怪我して気を失ってたアンタを、手当してここまで運んでくれたんだから! 右目だけはどうにもならなくて、使い物にならなくなっちゃったみたいだけど……生き返ってくれて良かった」
 自分の手柄でもないのに誇らしげにそう語るエレイヌは、パヴァルの右目があった場所に触れる。そのときパヴァルは初めて気がついた。頭に巻き付けられた包帯が、右目を重点的に覆っていることに。右目に怪我を負った覚えはない。……何故だ? そんな疑問が頭に浮かぶ。
「……それよりお前ェサン、自分が置かれている状況を理解してンのかェ?」
 白髪の男は、パヴァルの顔を覗き込んだ。そして男は、パヴァルの目の前に片刃の剣を翳す。それは蒼い刀の古びた剣。パヴァルの所有物ではなかった。
「これが何だか、分かるかェ?」
「いいや、見たこともないな」
「これが倒れてたお前ェサンの手に握られていたんだがなァ……」
 白髪の男は、丸眼鏡の下の紫色の目を細める。
「そして、果てはその右目。……呆れたもんだァ」
 白髪の男は、一体何が言いたいのか。パヴァルは理解に苦しんだ。呆れたもんだ、と言われたところで、知りたいのは俺のほうだ、と。
「助けてくれたことには礼を言う。だが……何が言いたいんだ、お前」
「テメェは龍憑きだ。龍神、それも偉大な武神に憑かれている」
「……龍憑きだかなんだか知らねぇが、だからお前は一体……」
「常人でありゃ神に近づいただけで、神の力に身を食われてしまうだろう。それがどうだ、今ここでお前はピンピンしてやがる」
「いや、ピンピンはしてない」
 やはり、わけが分からない。というよりも、男の話を理解しようとすらパヴァルはしていなかった。早く居なくなれ。そう思っていた。
「神がなんだ? ンなもんは知らねぇ。それに興味などなっ……――」
「旧オブリルトレ王家が大昔に編纂した神話、十武神叙事詩エフィカ・ディースラグ。開国神話の元になった文献群ヨ。その十武神が一柱、水神グッダルカリス」
「……カリス」
 幻覚で見た、水の龍。名はカリスだと、言っていたような気がした。
「生死を司り、洪水や津波を引き起こす水の神だ。きっとカリス神はお前ェサンを気に入ったのだろう。だからお前ェサンは生きていて、カリスがお前ェサンに憑いている」
 そんなはずがない、あれは幻覚だ。パヴァルは自分に、そう言い聞かせる。神話の中の神が実在するなど、そんな馬鹿げた話があるだろうか。開国神話ですら信じていないというのに、今初めて聞いたサラネムの神話とやらを信じろとは無理がある。
 それなのに、何故。
 冷めきっていた心が、揺らいでいるのだろう。
「要するにテメェは既に、純粋な人間じゃねぇってことヨ。だが、あくまで神でもねぇ」
「じゃあ、パヴァルはなんだっていうの?」
 エレイヌも今になって、白髪頭の男に不信感を抱き始めたのだろう。嫌悪の混じった眼差しを男に向けながら、エレイヌは尋ねた。
「私には人間にしか見えないけど」
「半分は人間、半分は神。化け物、とでも言うべきだろうなァ。それにお前ェサン、武人かなんかかェ?」
「……ああ、そうだ。殺し屋だった」
「過去形だなァ、何かあったのかェ?」
 パヴァルは虚ろな蒼い目で、不気味な笑みを浮かべる紫の目を睨む。詮索をしようとでもしているのか、この男は。疑念ばかりが頭を過る。
「仮に何かがあったとしても、お前に語る義理はない」
「そうかェ」
 白髪の男は、持っていた剣をエレイヌの膝の上に置く。
「この剣は持っていくといいだろうサ。武神サマがお力を貸して下さるだろうからヨ。何より、お前ェサンの水とその武神サマの水は、相性抜群のようだからなァ」
 そして立ち上がる白髪男。その序でに男は、革製の眼帯をパヴァルに向かって投げる。その顔は、老いぼれの老人ではない。それなりに若い男だった。
「俺ァ薬師のメズンだ。見ての通り、シャグライ族のモンさ。……破門されってけどヨ。怪我についちゃァ適当な処置を施しといたが、その回復力なら今日一日安静にしてりゃァ治んだろう。あとだ、その目は眼帯で隠しとけ。目ン玉をえぐられてンだ、感染症の予防もある。万が一眼帯が切れたりなんだりでで無くなったときは、サラネムに来い。ラムレイルグの里に入り、族長のダグゼンの野郎にメズンのもとへ案内しろーとでも言や連れってってくれんだろうさ」
 メズン、そう名乗ったシャグライの薬師は薬箱を背負い、そそくさと襤褸屋から出て行く。
「眼帯か」
 なんてことのない、ただの革製の眼帯。だがこれから先、これを着けて行動せねばならないのかと思うと、片目しかない不便さを改めて思い知る。右目だけでは、空間が上手く認識できないのだ。このような状態で剣を振るうことは愚か、普通の生活すら送れる自信もない。そんな不安が、少なからず存在していた。
「なんか、パヴァルが眼帯って似合わないね。急に胡散臭いおっさんみたいになった」
「……」
「パヴァル?」
「……エレイヌ、お前は早く寝ろ。明日は早くにここを発つんだ」
「それは私の台詞だよ。パヴァルこそ、今日くらいちゃんと寝てよね」
 それじゃ、おやすみなさい。寝具を出し、床に敷くとエレイヌは、そう時間も経たぬうちに眠りへと就く。健やかな寝息が聞こえてきた。
「…………どうした、もんか」
 瞼を閉じ、体の力を抜く。体は不思議と冷えた。秋の暮れ頃の夜、というのもあるのだろう。だが、それ以上に冷えた。例えるならばそれは、床一面に張られた氷水の中に横たわっているような感覚だった。
「……」
 エレイヌがいつの間にかパヴァルの脇へと移していた片刃の剣を、パヴァルは音を立てないよう気を遣いながら、静かに手に取る。ひんやりとした冷たさが、元より体温の低い肌を伝い、骨の髄まで沁み入る。
「……ん?」
 すると剣の柄を握る腕に、何かが纏わりついてくる。水だ。水の蛇だ。蛇は決して離すまいと、パヴァルの腕を締め付ける。そんな姿が、暗闇の中に見えていた。
――ペルモンドよ。お前は自分の宿命を、忘れているのか。
 龍の声が、頭に響く。
――お前は戻らねばならんのだよ、あの……――
 スッとまどろみの中に、意識が引きこまれていく。
 カリスが一体、何を伝えようとしたのか。最後までカリスの言葉を聞かなかったパヴァルには、知る由もなかったし、興味も無かった。