【第八章 独眼ノ水龍】

1 北アルヴィヌの溝鼠


 にゃーぅ。猫が鳴く。お世辞にも美しいとは言えない、みすぼらしく汚れた黒い毛並み。毛繕いをしなくなったのか、その猫――ここいらの住民からは、黒猫ソニアと呼ばれている雄猫――はどこか野暮ったい雰囲気を醸し出している。そんな猫の口には、鼠が咥えられていた。
 野良猫の鋭い牙は鼠の薄い皮膚を貫き、肉に突き刺さっていた。鼠の細い脚は不幸にもまだ息があるのか、ぴくり、ぴくりと痙攣している。猫の牙から逃れようと、悪足掻きをしているようにも見えていた。
「どうした、ソニア。また鼠を捕まえてきたのか?」
 にゃぅあん。猫は甘えた声で鳴く。そしてぽとりと、パヴァルの足下に猫は鼠を落とした。パヴァルはその場にしゃがむと、猫の頭を軽く撫でる。すると猫はもっとやってくれよ、と言わんばかりに顎を上げた。気持ち良さそうに目を閉じながら、ぐるぐると甘え声を立てて。そしてパヴァルは終わりの合図として二回、猫の頭をポンポンと叩く。何すんだよ、と猫はパヴァルの手に攻撃を仕掛けてきたのだった。
「可愛くない猫だなぁ、お前は。憎たらしいにもほどがあるぜ」
 昔からよく、猫にだけは好かれたものだ。パヴァルの前に現れる猫たちは、必ず死にかけの鼠を咥えてやって来る。そしてパヴァルが鼠の腹を短剣で開いてやると、喜んで鼠に食いつくのだ。
 それに比べ、犬には昔から嫌われていた。軒先に居る番犬も然り、そこいらに居る野犬にも、砂漠に居る白砂狼シャグディロゥにも、果ては「犬」と仇名される人間にまで、嫌われていた。前を通り過ぎようとしただけで吠えられ、噛みつかれ、襲われるのだ。馬鹿犬ファルロンも、神国の犬ケリスも同じ。パヴァルにだけは従わない。だからこそパヴァルは犬が嫌いだったし、自分が「神国の猟犬」と呼ばれることにも抵抗があった。そこはせめて、竜にしてくれと。だが猟竜、というのは聞いたこともない。それに語呂が悪い。
 まあどちらにせよ、パヴァルは猫には好かれるが、犬には嫌われまくっていた。
「なんでこうもお前ら猫は、俺の前に鼠を持ってくるんだか。それも溝鼠どぶねずみばかりだ。こんなデカい上に汚い鼠、出来れば近寄りたくもねェってのに……」
 キィー……と、か弱い声で鳴く憐れな鼠をパヴァルは掴み、その首をへし折る。細枝を折るような、ポキッという感触。鳴き声は途絶え、小さな鼓動も止まった。
「……それにしても、溝鼠か。奴らはどぶルでしか生きられないのか、それとも溝を好んでいるからこそ、敢えてそこで生きるのか……」
 息絶えた鼠を仰向けに地面に置くと、パヴァルは藍晶の裏から小刀を取り出す。そして小刀で鼠の腹を裂いた。切り口からは血が滲み、ぱっくりと腹が割れていく。小さな躯にぎっしりと詰め込まれていた、小さな内臓が露わになった。
「ほら、食え」
 目を輝かせた猫は、鼠の体にかぶり付く。ぴちゃぴちゃと音を立てながら、一心不乱に内臓を貪り食っていた。
「……」
 やはり生き物や命というのは、食うか食われるかのものでしか無く、意味もクソも、ありゃしないのだろうか。猫が見た目も気にせず、鼠に齧り付くさまを見つめながら、パヴァルはふと思い返した。
 それがパヴァルの持論であり、今まで誰も明確な答えを指し示してくれなかった疑問なのである。
「お前ら猫も、見るからに汚ぇメシを、よくも美味そうに食えたもんだな。流石の俺でも、生の鼠のはらわたなんぞ食えたもんじゃねぇってのに……」
 口元を紅く染めた猫は、パヴァルの顔を見て鳴く。にゃぅあぅんーあ! 飯食ってンだから喋りかけんなよ、とでも言いたげな面構えだ。
「ハイハイ、邪魔者はおいとまさせてもらいますよ」
 猫の湿った鼻面を、パヴァル指先でぺちんと弾く。猫はむすっとひげぶくろを窄ませて毛を逆立てると、長い尻尾をブワッと膨らませた。






 戻しなさい、パヴァル。その手に握られているものを、元の場所に戻すのよ。
 幼少期、何故両親は自分に刃物を持たせたがらなかったのか、当時のパヴァルには理解することが出来なかった。ただの包丁、ただの短剣、ただの鋏、その他諸々。ただ食材を切り、木を削り、紙を切り、そして生物を切るための道具。人間が、他の生物に対して自分の方が優勢であると示すための道具たち。
「……なぜ? ただの道具だろ」
 アルヴィヌ領の中でも、治安が安定していて比較的富裕層が多いとされていた北アルヴィヌ。そんな北アルヴィヌを拠点とする名うての商人家の四男坊、末子として産まれたパヴァルは、上にいる三人の兄同様、三つになる頃には大抵の字の読み書きは出来るようになっていた。
 勉学の成績も優秀で、学舎に通う歳にもなった頃には既に、これから学舎で学んでいく課程を全て修了していたほどだ。そして卒業を間近に控えた頃には、その道の権威たちを議論で打ち負かすまでに成長していた。少年は、全ての事象を知っていた。物が動く仕組みも、水の循環も、天候がどういう理屈で変わっていくのかも、地震が起きる理屈も、時が流れる理由も、人間の臓腑の仕組みも。
 そんな天才少年は、勉学以外にも優れたものを持っていた。人の心を読むこと、気配を消すことに長けていたのだ。友達、という存在は特におらず、外で駆けまわり遊ぶということも特になかったのだが、兄弟の中では体力も一番あり、動きの機敏さも類を見ないものを持っていた。
 完全無欠のようにも思えた、その少年。だが完璧なものなど、この世には存在しない。必ず、何かしらの欠陥があるものなのだ。
 そんな彼の欠陥、それは感情の欠如だった。彼は痛みを痛みとして感じず、怒りも、憎しみも、喜びも感じなかった。幼いころから、ずっと。
 そうして遂に十歳になった時点でも、感情がその身に宿ることはなかった。それに伴い人間性も、彼には大きく欠けていた。
「いいから戻しなさい! あなたは、それを持ってはいけないの!」
「どうして? 納得できる理由を説明してくれよ」
「理由なんてないわよ! だからそれ以上は近寄らないで!!」
 淀んだ蒼い瞳に、色は何も映っていなかった。
 命の重み、儚さ、尊さ、価値。形のないものに、重みなどあるのだろうか。儚く散るものなのに、尊さなど求めてどうするのだろうか。そもそも本当に存在するかどうかも分からない、人が勝手に編み出した命という概念に、価値などあるのだろうか。
 分からない、分からなかった。
「お前は悪魔なんだよ、パヴァル! こんなことになるくらいだったら、お前なんか、お前なんか……ッ!」
 何故、今この女は泣いているのだろう。後ろに転がっているだけのただの死骸に、縋ろうとしているのだろう。ヴァルトという名の父親だったものに、ハジャルという名の長男、ルガルという名の二男だったものに。
「お前なんか、産まなければ良かったんだ!!」
「生憎、俺も好きで生まれてきたわけじゃないんだ。殺したければ、殺してくれて構わなかったのに」
「セジャル、逃げなさい! 早く、逃げるのよ!!」
「……うるさい女だ」
 そして少年は、女の首を斬り落す。その行為に、特別な意味はなかった。意味など、無い。ただ、どうせいつかは尽きる寿命とやらの終わりを、少しばかり早めただけなのだ。
 少年は転がっている死骸の頭を蹴り飛ばす。家の中から大慌てで逃げ出していく三男、セジャルの後姿を少年は見ていたが、逃げていく者に興味はなかった。そしてパヴァルは地下室へ行き、そこに保管されている金庫を開け、有り金を全て奪い取る。その上で家の中を、出来る限り荒した。食器棚を倒し、机を倒し、窓布を引き裂き、本を床に撒き散らした。こうすれば単なる強盗に襲われただけとでも、無能な憲兵に思わせられるだろうから。
「……」
 米蔵の番を任せられていた猫が鳴く。町はくらき闇の中に紛れていた。先の大戦の爪痕が今なお残る無法地帯アルヴィヌに、サイラン自治区や王都ブルサヌのような秩序による統治などは存在しない。そんなアルヴィヌの闇の中に、また一人、堕ちた者が現れた。





 それからのパヴァルというのは、気儘にアルヴィヌを歩き回る生活を送っていた。特に何も考えず、日雇いの仕事をしてみたり、暗殺の仕事を引き受けたりしていたのだ。そんな特異な生活を五年ほど送り続けていると、あるとき一人の青年に声を掛けられる。
「腕の立つ者を探していた。成功したあかつきには報酬は弾んでやる。だから、手を貸してはくれないか」
 それは南アルヴィヌの、とある町に立ち寄ったときのこと。偶然肩がぶつかってしまっただけの男に逆上され、襲いかかられたのだ。だが、パヴァルはそれをアッサリと撥ね退け、男を追い返した。すると、その光景を見たある青年――若かりし頃のケリス――が、パヴァルへ声を掛けてきたのだ。
 当時のケリスは貧困街に住処を置く青年のうちの一人でしか無く、パヴァルはそんなケリスに興味すらも抱いていなかった。無視して通り過ぎようとしたくらいだ。けれどもケリスは、パヴァルの腕を掴み引き留めようとした。何度も振り払われようが、しつこく。そんなケリスに呆れたパヴァルは、取り敢えず話だけは聞くことにした。
「――どうだ、乗ってくれるか?」
 ケリスが持ち掛けた話というのは、聞くからにふざけた話ではあった。
 その話とは、南アルヴィヌのとある地区を治めているという三流貴族の家を襲い、そこから財産を奪い出すというもの。仲間はケリス以外にもう一人、ヴィディアという名の生まれつき片腕の女が居るということも言っていた。
「変わった奴も居るもんだ」
 やはり、興味はなかった。だが、今のところは予定など何もない。丁度、暇をしていた。
「興味はねぇが……いいぜ、乗ってやろうじゃねぇか」
 計画も、杜撰ずさんなものだった。乗り込んで、奪って、逃げて、町にばら撒く。ヴィディアは厨房に入り食料を持てるだけ盗み出し、ケリスは金庫から金を持ち出し、パヴァルには偵察を任せる。判断は状況により、臨機応変に。要は各自の勝手だと。
 イカれてやがる。パヴァルは率直にそう思った。仕掛けるのは今日の夜だと告げられた際には、呆れを通り越して何も感じなかったくらいだ。
「……」
 そして無事に、勇敢と無謀を履き違えた杜撰な計画は、事無くして終えることが出来たのだった。ヴィディアは食料を奪い、ケリスは金銀銅の貨幣を、そして紙幣も奪った。大胆不敵に乗り込んでいったにも関わらず、何故誰にも悪事が見つからなかったのか。
 それは見つかる前に、屋敷に住まう者全ての息の根を止めたからだ。
 誰が。
「俺だ」
「何もそこまでやれと……」
「始めから手緩てぬるいんだよ、お前ら」
 パヴァルは乗り込むとすぐに寝室に侵入し、その家に住んでいた者たち――当主やその正室、子息や孫、従者たち――を全て、殺した。起こさぬように気を使いながら、首の骨を折った。そうしてその後に、ヴィディアとケリスの二人と合流したのだ。
「やるなら、徹底的にやる。それが俺の信条だ」
 そんな青年達が起こした事件を、町人たちは「アルヴィヌの義賊」と囃し立てた。悪政を敷く、人間の風上にも置けぬような領主を殺し、金を奪い、食糧を奪い、それらを餓えた町人に配った“英雄”だと。
「だが、クソ野郎だろうと、人間であるには変わりないだろ!?」
 ケリスは怒り、パヴァルに掴みかかる。けれどもそこには隙しか存在していなかった。パヴァルはケリスの腕を掴むと、膝を動かぬようにと固定し、そのまま地面にねじ伏せる。
「わけの分からねぇ夢や理想を掲げる前に、それを実現できるだけの力を身に付けてから、それをほざけ。綺麗事の性善説が、一番不愉快だ」
 淀んだ蒼い目は、まだ純粋さを残したケリスの目をただ見ていた。とても冷徹な眼差しで。そんな二人を交互に見るヴィディアの目は、理解に苦しんでいた。
 非現実な夢や理想を掲げる友人と、腕は立つが人としてはいささか疑問が残る見知らぬ青年。どちらも現実的じゃない、それだけは分かっていた。逆に言えば、それしか分からなかったのだ。
「これで用は済んだろう? 俺は抜けさせてもらう」
 パヴァルはにたりと笑う。
「報酬は受け取らせてもらうぜ」
 一つの小さな麻袋を、パヴァルはケリスからふんだくるように奪う。チャリチャリ、という貨幣がぶつかり合う音が鳴った。
「あんさん……」
 ヴィディア、ケリスの二人に背を向け、パヴァルは立ち込める霧の中に姿を消していく。彼の目はもう既に、陽の当たる明るい世界では無く、光も射さぬ闇の中だけを見つめていた。