【第七章 炎の申し子】

1 燕の憂鬱


 サイランを訪ねたのも二年前の出来事となり、ルドウィルも八歳になっていた。
「……なんで空って、青いんだろ。それに、空の先には何があるのかな。女神さまの国? それとも、何もないのかな……」
 ルドウィルはその日、朝早くから母親のフリアと大喧嘩を起こしていた。
 喧嘩の発端は、些細なことだ。ルドウィルが猛獣舎の鷹の話をフリアにしたのだ。話といっても、リスタの指笛を合図に飛び立った鷹が、悠然と空を舞う姿が格好良かったという、そんな趣旨のもの。けれどもフリアはその話に、眉を顰めたのだ。そしてルドウィルに言った。そんな危険な動物が居るところに行ってはいけないと。それに対してルドウィルは反発したのだ。どうして禁止されなきゃいけないの、僕は王宮から出ちゃいけないの、そうしてルドウィルは事務所から飛び出したのだ。それで今はこうして、王宮の庭園に設置されている椅子に座り、ぼーっとしているのである。
 と、そんなルドウィルの横。スザンが静かに腰を下ろす。ルドウィルの後ろには、いつからかシクが佇んでいた。
「……あ、スザン」
「やぁ、ルドウィルくん。空なんか眺めて、どうしたの?」
「空の先には、何があるのかなって」
「んー、何があるんだろうね。神話では女神の国〈天界アルラウン〉があるって話だけど。そうじゃないって言ってる人も居るからねぇ。本当のところは、どうなんだろ」
 スザンは青い空を見上げて、うーん、と首を傾げる。
「あ、でもパヴァルさんが言うには、空の先には宇宙っていう空間が広がっているらしいよ。真っ暗な空間で、重力がなくて体が浮くんだって。けど空気がないから呼吸ができないとかなんとか……」
「ウチュウ? なに、それ?」
「うーん。僕は宇宙が何かを知らないから、上手く説明できないよ。今度パヴァルさんに訊いてみたらどうかな」
「……ねぇ、スザン。なんで、パヴァルのおじさんがそんなことを知ってるの?」
「あの人、学者さんだからね。色んなこと知ってるんだよ」
「パヴァルのおじさんって、学者さんだったの!?」
「そうなんだよ。まあ、僕もつい最近知ったんだけどね。今まではやっちゃいけないってされてた人体の解剖を、パヴァルさんはやっちゃったらしくてねぇ。それに解剖した人体の模型を、蝋で作っちゃったんだ。でもそのお陰で、今までは分からなかった体の仕組みとかが分かってきたんだって。今じゃその道の権威らしいよ」
「人体の模型?」
「うん。僕も見たけど、かなり気持ち悪かったよ。城下町の図書館に展示されてるからー……――ルドウィルくんも今度、お母さんと一緒に見に行ってみたらどうかな?」
 お母さんと一緒に。
 その言葉に、ルドウィルは表情を曇らせた。母親とどこかに出かけることを、想像出来なかったのだ。
 そんな人体模型を見に行きたいと言ったものなら、母は嫌な顔をするに決まっている。汚らしいとか、なんとか言って。それに母は、パヴァルを毛嫌いしている。パヴァルが作ったという物など、見ることを許してくれるわけがない。
「あっ、そうだった。ルドウィルくんは、お母さんとあまり上手く行ってないんだっけ」
「……まあ、うん」
 今までも、母であるフリアは、ルドウィルがやりたいという物全てを頭ごなしに否定してきた。

 母は王宮の中に入るなと言う。何故なら危険だから。
 母はディダンにはあまり近寄っていけないと言う。何故なら危険だから。
 母は猛獣舎に行くなと言う。何故なら危険だから。
 母はクルスムについて行っていけないと言う。何故なら危険だから。
 母はユインと話してはいけないと言う。何故なら危険だから。

「お母さんのさ、どこら辺が嫌だったりする?」
 他に誰も居ない庭園の中、スザンがルドウィルと目を合わせることない。その青い瞳は、澄み切った淡い青の空を見つめたままだった。
「どこらへんって言われてもなぁー……」
「例えば、急に怒り出したり、不機嫌になったりとか」
「あ」
「あなたの為なんだから、とかをよく言うとか」
「あっ」
「どっちも図星かな」
 気まずそうに、スザンから視線を逸らすルドウィル。その通り、図星だったからだ。「……ははは〜……」
「やっぱり、そっか」
「そっか、って?」
「ああ、うん。今のは一般的な男性からの女性に対する偏見とか、嫌なところって言うのを挙げただけなんだ。もっと言うと、ユインさんの真逆を言ってみただけだよ。まぁユインさんって言っても、昔の彼女になるのかなぁ……」
 いつからかスザンはユインのことを 「じと目さん」と呼ばなくなった。
 始まりは、およそ五年ほど前のこと。「浴場には誰も居ない」というディダンの言葉に騙され、入浴中のユインを見てしまって、その顔に桶を投げつけられ鼻の骨が折れたとき。スザンが言うにはその時に「見てはいけないものを見てしまった」のだという。それ以来スザンは、恐れと敬いの念をこめて、「ユインさん」と呼ぶようになった。
「……なんで、おれの母さんはあの人なんだろう」
「まあね、そんなことを言ったところで生き物は誕生も、そして誰のお胎から生まれてくるかも選ぶことは出来ないから」
「……」
「ですが」
 それまでずっと、一切喋ることなく黙っていたシクが初めて口を開く。
「普通の生命は誕生は選べなくても、その後の選択肢は自分で選ぶことができます。生きて自分の力で状況を切り拓くも、そこから逃げるも、もしくは全てを終わらしてまた新たな生を得るというのも、普通だからこそ選択肢は無数にあるのです」
「普通……」
 はたして自分は、普通なのだろうか。
 庭園から見える、王宮内を行き交う人々――黒装束に身を包んだ従者たちや、礼服を纏い宝飾品で着飾った貴族たちなど――を見つめながら、ルドウィルは考える。〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉と〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の間に生まれた子供は普通なのか、と。
 自分がもし普通なのであれば、自分から離れて行ったあの子たちは一体何だったのだろう、と。
「おれは、普通なのかな」
「普通だと思うよ。もっと言えば、普通の中でも恵まれているほうさ」
 スザンはルドウィルのほうを向き、にこっと笑った。
「だって、今着ている服だってお母さんに最近買ってもらったばっかりの新しいものだし、毎日リュンくんに洗濯してもらえてるから綺麗でしょう。食べものだって一日三食、食べれるだけのお金もある。ユインさんに教えてもらったから、読み書きだって出来るでしょう? 特殊な障害があるわけでもなく、普通に、のびのびと今まで育ってきた。これ以上に恵まれていることがあるかな」
「……恵まれてる?」
「僕が小さい頃を過ごした東アルヴィヌなんかは、ブルサヌとは比べ物にならないくらい貧しいところだったんだ。大人も子供も読み書きできないのが普通で、その日の食べ物にだってありつけるかどうか分からなかったくらいだもの。働いても一銭の銭にはならないし、そうなったらもう何もかも奪い合いになるよね。みんな死に物狂いで、持ってる者から奪いあってた。時には殺し合いにだってなってたんだよ。みんな、生きるっていう選択肢の取り合いさ。勝負に勝つか負けるかで、生死が決まっちゃうんだから。それに比べたらブルサヌなんて、平和だよ。本当に」
 青い瞳が再び、空を見上げる。
「同じ空の下で、今も飢えに苦しんで死んでる人がいる。小さな諍いから殺される人がいる。……なんて、目の前で起こりえない限りは実感も湧かないよね。それも恵まれている証拠だよ。でも知らないほうがいい、あんなヒトが人以下に成り下がっているような環境。幸福な側面だけを見ていても生きていけるんだから、その裏の哀しみなんて、わざわざ覗き込む必要はない」
「……」
「仮に、自分が底なしにも思えるとても深い川の中で溺れていたとして、他にもそこに人が大勢溺れていたとする。そしてそこに板が一枚、投げ込まれたとするでしょう」
「板?」
「そう、板。その板に掴まれば溺れずに済むけれども、その板に掴まれるのは一人だけだとする。そして君が、その板に掴まったとするよね」
「……うん」
「だけど、勿論みんな生き残りたいからその板に掴まりたい。だから群がってくる。そしたら君は、その人たちを……どうする?」
「どうするんだろう」

 闇は深い。その奥にある虚無は、底がない。嵌まっちまったら最後、抜け出せねぇんだよ。
 だからお前みたいな何の覚悟もないガキは、下手に首を突っ込むべきじゃない。
 それにな、こればっかりは一人の力でどうこうできる問題じゃねぇんだ。
 ……分かったなら、闇を見ようとするな。引きずり込まれるぞ。

「分からない」
 それは以前、ある子供が盗みを働き、店の店主と思しき男に道の真ん中で殴る、蹴るの暴力を振るわれていたのを見かけたときのこと。その時に一緒に居たパヴァルに対してルドウィルは、なぜあの子は物を盗んだろう、と尋ねた際に、パヴァルが無表情で返してきた言葉だった。その時はよく意味を理解出来ずに、ただ言葉尻だけを捉えて、なんて無責任なことを言っているんだろうと思っていた。今考えなおしてみても、実に無責任な言葉である。
「多分、君は、というより君だけに限らず、生命を維持する為に体が本能的にその人たちを退けようとすると思うんだ。だから君はそのまま板に掴まって生き残り、その他多勢は溺れて死んでしまうだろう。その様を、君は見ていたいと思うかい? 人が溺れて、死んでいくさまを」
 スザンは顔を少し俯かせ、目を閉じる。
「……でも、なんとなく無責任なような気もしなくないな」
「けれども、個々の個体が存在する全ての生命の罪や責任を背負う必要は、何処にもないのです」
 シクの空を溶かしたような淡い青の鬣が、庭園を流れた微風に棚引いた。
「表と裏の世界を見てきて、その肌で空気を感じてきたものが皆、幸せであり賢いとは限りません。どちらも見てきた上で聡く強くなった者は、私が知る限りでは皆〈大神術師アル・シャ・ガ〉となる運命の中にありました。そうでない者の殆どは、たとえ今は恵まれた表の環境の中で過ごしていたとしても、それでも裏の世界に怯えながら過ごしているものです。案外あなたのすぐ近くにも、そんな人が居るのですよ」
「近く?」
 ルドウィルはスザンに視線を向ける。するとスザンは「少なくともそれは僕じゃない、別の人だよ」と言った。それは苦し紛れで、まるで何かを隠しているかのようで。
「何か、隠してる?」
「いや、まあね」
 スザンは焦っているように、鼻の頭を掻く。
「君がもう少し大人になって、両親からも自立して、口も堅くなってある程度見聞を広めた時に、教えてあげるよ。……まあ僕が話すその前に、もしかすると他の人から聞くかもしれないけどね」
「もう少し大人になってって、いつくらい?」
「今ルドウィルくんは、八つくらいだったけ」
「うん。八歳」
「じゃあ、そうだなー。早くて……五年後くらいになるかな。十三歳で、君のお父さんは一人前と認められて剣を振るようになったって聞いたし」
 でも、その前にお母さんと仲直りしないとね。そう言うとスザンはルドウィルの背中をぽんぽんと二回叩き、事務所に戻るよう促した。