【第六章 帰す者、来たる者】

5 傷


 声を出すな。出すような真似をすればすぐにでも、その喉笛を掻っ切るぞ。

 首筋の動脈に、既に刃物が突き立てられていることくらい、目隠しをされていても分かった。そして経験から分かっていた。今、自分の首に刃物を突き立てているこの男は、自分が声を出そうが出さまいが、どちらにせよ首を切ることを。
 冷たい鋭利な牙が、まだ温い肌に触れている。一昔前の、目の前の恐怖から逃げ出すために狂った自分のままであれば、相手の威圧感、そして自分の感じている緊張感も何も、恐怖ではなくそれを快楽へと無理矢理頭を捻じ曲げ、今頃愉しんでいたことだろう。だが幸か不幸か、既にそれは普通の中に交じって過ごしているうちに、自然と矯正されていった。だからそれらは捻じ曲げられることなくそのままに伝わり、よって、平静を装いながらも左手の指先は頻りに、細かい震えを繰り返し続けた。
 知っている。既に左の足首が切り落とされていることも。
 知っている。右の太腿には短刀が骨まで貫き刺さっていることも。
 知っている。右腕も肘から先が既に胴体と繋がっていないことも。
 知っている。左の二の腕に刺さっている三本の短剣も、切り落とされた右耳も、剥がされた手指の爪も、心臓を突き破るように打たれている太い杭も。
 知っている。それでも尚、この肉体は、死ねぬことを。
 相手が飽きるまで続く、地獄を。
 今、自分が居る詳しい場所は知らない。ただ王都の、シャレーイナグラであることは確かだろう。外から聞こえる人と人の賑わいの声や喧噪、どんちゃん騒ぎや女の嬌声。王都一うるさい場所では何をしようとも、誰も気付きはしない。だからアイツは、ここを選んだ。
「なぁ、ヤムン。お前なんだろ」
 虚勢を張っている声は、片耳だけでもはっきり震えているというのが分かるほどに震えていた。
「首、切られたいのか」
「俺が、お前らに何をしたっていうんだ?」
 喉に刃がめり込んだ。宣言通りに掻っ切られた喉笛からは、それこそまさに笛のような、ピューピューという虚しいほどに気の抜けた音が鳴る。息を吸う度に、吐く度に、笛は鳴る。そして刃は喉から引き抜かれ、次に右の胸に刺さり、確実に肺に穴を開けた。苦しさが、虚しさが、遣る瀬無さが倍増されていく。それらから解放されることはない。傷が、癒えることはない。目に見えない傷だけは。
「お前は、邪魔なんだ」
 心臓に刺さったままの杭を踏みつけられ、杭は更に深く刺さる。
「長男でもなく家を継ぐわけでもない女のお前が、呪われた忌み子のお前が、何故その名前を賜ったのか。赦せないんだよ」
 そして次に、脇腹を蹴られる。
「忌み子は大人しく蔵に籠って、勝手に死んでればいいんだ。それなのにお前は、ラムレイルグの長の娘の手引きで蔵の外から出た。そして、一族の裏切り者のメズンに洗脳され俺たちに叛くようになり、勝手な行動を取り始めた」
 目隠しを外される。案の定、そこは薄汚い襤褸屋の中で、暗い闇の中に白い頭が六つほど並んでいた。
 一対六。普段の、万全な状態であればこの程度の相手など造作もない。だが、状況が違う。圧倒的に不利だ。左腕に刺さった短刀の刃先は床にまで到達し、引き抜くことは困難。右腕も肘から先がなければ振り回すことはできても武器を持つことは不可能。右足も失血により感覚が薄れ、動かせないだろう。左足も足首から先がなければ片足で立ち上がり体を支え、そして歩くというのは無理をすれば出来なくもないだろうが、残り僅かな体力を考えれば避けたい。
 こうなれば、打つ手はない。相手が飽きるのを待つか、幸運でも訪れて誰かが助けにきてくれるのを待つか。それしか、酸欠でジンジンと痛み始めた頭では思い浮かばなかった。
「イェガンだけでも俺たちにとっては邪魔だってんのによ、更に邪魔なお前が王都で、それも十本剣の 輩やから 共どもとつるみ始めたってンなら……分かってんだろうな」
 後ろで待機していた六人の中でも、特に図体の大きい一人の男が、ケタケタと卑しく笑い続ける片腕の男、即ち兄であった男の前に立つ。そして、図体の大きい男は自分に近付いてくるとその場にしゃがみ、体に刺されていた刃や杭を容赦なく引き抜いた。肉が、骨が、内臓が、擦れて、切れて、熱を生む。
 刃は刺される瞬間よりも、抜かれる瞬間のほうが痛みは激しい。それをあの男は、熟知していた。
「……フフッ、ヒヒッ……」
 自由を奪われた化物の体は痛みに悶え、引き抜かれる度に肉体は跳ね上げる。
 それはまるで猟奇的な曲芸。けれども相手は猛獣ではなく、かといって人間でもない。どちらにもなりきれない、哀れな化け物だ。
「お前ら、その汚ぇ体に切り落としたのを適当に繋げとけ。数十ダルも経った頃にはくっ付いてんだろうからよ。そしたらァ……」
 何故、人は理解の及ばぬ物事を異常なまでに恐れるのだろう。何故、人は自分たちとは異なる者を、集団から排除したがるのだろう。けれども何故、人は異形のものを遠退けたがるわりには、好奇の視線を浴びせつけるのだろう。
 きっと、それを行う側はなんとも思っちゃいないのだろう。相手が、自分と同じ痛みを感じる生き物だとすら、思っていないのだろうから。
「気が済むまで、それを嬲ってやれ。どうせ元は端金で売られた娼婦だったんだからな」
 離れていた四肢が、胴に付く。体は再び一つに戻ろうという動きを見せ始めた。傷口はドロドロと熱を発しながら溶け始め、やがて溶接を終え冷え固まった鉄のように痕だけを残し繋がっていく。肉も骨も、全て。痛くて、辛くて、苦しくて。けれどもその痛みから、自分の意思で逃れることが出来ないのだ。なにせ体が勝手に動くから。
 その肉体は自分のもののようで、自分のものではなかったのだ。
「あとだお前ら。そいつがまた声を出すようなことをしたら、二度と体が再生できなくなるくらいにまでギッタギタに切り刻んでやれ」
 やがて全ての四肢が戻ったとき、衣類を全て剥がされていた。だが抗う力も残されていない。恥ずかしいだなんてものじゃない、怒りすらも湧いてこない。ただただ、悲しかった。なんで自分だけ、こんなことをされなければならないのかと。
 子供の頃から、ずっとそうだ。人と違うというだけで、散々な扱いを受けてきた。親兄弟には何度も殺されかけたし、山を抜け出したあとも王都で散々な目に遭ってきた。シャグライだから、滅びた王族の末裔だから、誰よりも優れた神術の使い手だったから、忌々しき邪眼を持った化け物だったから。
 それにこんな自分を助けてくれた人たちは、皆一様に不幸になった。家族の中で唯一自分を庇ってくれた叔父は、庇ったが為に一度は父に殺されかけた。自分の不当な扱いに怒ってくれたクルスムとウィクは、その所為で大事件を起こしてしまった。それにファルロンは自分の所為で、精神が破綻してきてしまっている。
 きっと、自分なんか生きていない方がいいのだろう。何度もそう思った。消えてしまいたかった。今もそうだ。それなのに、己の身に巣食う化け物は、消えることを許してくれないのだ。だから、ずるずると引き摺っている。だから、今もこうして息を吸っている。だから、こうしてまた傷つき、傷つける。
「お前が“誉れ高き者ユイン”だって? 笑わせんなよ、ド畜生が」
 一人離れた場所でじっとこちらを見ていた片腕の男が、そう言いギロリと睨んでくる。憎悪と威圧、差別、嫌悪。ありとあらゆる負の感情が注がれた。
 と、その男の後ろ。何かが光っているのが見える。
 希望の燐片が、見えた気がした。
「……ッ……!」
 右手を伸ばす。その手の中に飛んできた冷たい剣が収まった。柄を強く握りしめる。そして願った、剣の中に封じられし者、雷神ラディアルレオナディアに。
 バチバチッと音を立て始めた刃。刃は光を発し、その光はひとつの大きな獅子を描き出す。そして獅子は吠えた。
「何が、起こったんだ?」
 咆哮と共に、吹き飛ぶのは五つの首。首が落ちた胴には雷が落ち、黒く焼け焦げる。硫黄を含んだ蛋白質の焼ける嫌な臭いが、辺りに充満し始めた。
 六対一だった構図が、一対二へと変わる。光の獅子は隻腕の男、ヤムンに照準を合わせ、唸り声を上げた。たてがみからは火花が散り、轟く唸り声は大気を震わす。そして、光の獅子は動いた。
 光の獅子の前足が、ヤムンに狙いを定めて振り上げられる。けれどもその攻撃を間一髪で逃れたヤムンは、尾を巻き逃げる小犬のように、襤褸屋から逃げ出していった。死んだ取り巻きの者たちに一瞥もくれてやることはなく、我先にと。
 そんな男を光の獅子はそれ以上追うこともなく、大気に溶けて姿を消した。やがて召喚者はそこに崩れる。やがて剣〈獅子レオナディア〉が床に落ちたとき、彼女の化け物が歪み、影が二つに分裂した。
 暗闇の中から現れた傷のない白く細い腕は、壊れた化け物の傷だらけの肩を抱き寄せる。そして、閉じられた扉が再び開き、外から光が差し込む。
 差し込んだ光の中から顔を見せたのは、ヤムンではない別の人物だった。化け物が見たその人の髪は、金色に輝いている。そして暗く淀んだ青い瞳は、傷の無い腕を見た。
「外でダルラ……いえ、ダルトレイニアンス様が待っておられます。あなたさまは、ユライン邸へお戻りください」
 蒼い瞳は次に、化け物を見た。
「……替えの服は持ってきてあります。それに着替え次第、事務所に戻りますよ、ユイン」
 新しい藍晶の中には、服一式が包まれている。それを受け取る手の震えは、収まる気配を見せずにいた。





「あの、だからよ」
「……」
「誰に何をされたんだ」
「……」
「どうして、こうもまた……あぁっ、畜生!」
 何度も何度も、しつこく喋りかけても、返答は一切無い。視線もどこか一点を見つめたまま微動だにせず、目の前に居るクルスムのことを見てすらいない。クルスムはまるで、物言わぬ人形に喋りかけているかのような気分にさえなり始めていた。
「……これじゃ、何もかも振り出しじゃねぇかよ……」
 そんなクルスムの後ろでは、メズンが不味そうに紫煙を燻らせている。ウィクは大きな両前足を寝台の上に乗せ、生気を失くした人形を心配げに見つめていた。
 クルスムはムッと顔を顰め、腕を組む。と、そのとき。メズンがクルスムの頭を後ろから、拳骨でガツンッと叩くのだった。
「ボケナス、お前ェサンらはちぃと外出てろ。俺ぁコイツと、お前ェサンら抜きで話がしたい」
「げっ、待てクソジジィ。テメェ如きが俺様に命令するなんざ」
「黙らんか、犬畜生がァ」
「俺ぁ犬じゃねぇ! 獅子サマだ!!」
「……分かった、出ていくよ。ウィク、ここはメズンに従いな」
 つーかアタシの名前はボケナスじゃねぇってんだよ。そう悪態を吐きながらクルスムは、部屋を後にする。ウィクもまた、しゃぁねぇなと呟き、渋々クルスムについて行った。
 クルスム、ウィクが去ったのを確認するとメズンは、薬箱から以前〈大神術師アル・シャ・ガ〉から受け取った呪符を四枚取り出す。
「さてと。呪符とやらを使ってみっかェ」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉が言うには、この呪符を部屋の四隅に貼るだけで、とても強力な結界術を施せるのだというらしい。だが、実際にどのような効果が表れるのかを、メズンはよく知らない。メズンは一度もそれを使用したことがないからだ。
 元来メズンは、神術とやらを否定的に見ていた。何故ならその力が、どれだけ強大なのかを理解していたからだ。結界術など序の口に過ぎない。神術は、干ばつの支配する砂漠に土砂降りの雨を降らせることも出来れば、不毛の大地を豊穣の地へ変貌させることも、作物が実らぬようにする呪いを掛けることも、澄み切った川を毒の水に変えることも、男たちを不能にすることも、女たちを不妊にさせることも出来てしまう。
 だからこそメズンは、口を酸っぱくしていつもユインに言っていたのだ。絶対に神術を使うなと。たとえ苦しむ者を救うためにだとしても、絶対に使ってはならぬと。その力は最後に不幸しか齎さないのだから、と脅すように言ったこともあった。強大な力を手にしたが為に、惨めな最期を遂げていった先人達の記録を、何度も何度も読み聞かせた。
 けれども、メズンは知ってもいた。ユインが神術を使って、ちょっとしたイタズラを友人らに仕掛けていたことを。やんちゃ盛りのガキだから、と小さなことには目を瞑ってきたのだが、はたしてそれは正しいことだったのだろうか。やはり、細かいと思われるぐらいに叱っていた方が良かったのだろうか。今になって、そんな後悔の念に苛まれる。
 神術を扱えること。もし、それが周りの者たちにバレていなければ、こいつはここまで迫害されることはなかったかもしれない。
 だが後悔とは、後に悔むと書くものである。決して先には立たないのだ。
「……まさか、この俺サマが神術を使うことになるたァな……」
 手に取った呪符を、メズンは部屋の四隅に貼り付けていく。そうして四枚目の呪符を貼り終えたとき、ピリッと痺れる感覚が頬を伝った。
「……これが、結界術……」
 試しに扉を、メズンは開けようとして見る。だが扉は、どんなに力を入れてもビクリともしなかった。そしてメズンは、ずれた丸眼鏡を正す。虚ろな瞳のまま表情を変えることのない、人形の横に座った。
「だんまりを続けちゃぁいるが、どうだ、調子は」
 返答はない。期待もしていなかった。
 首の傷、それを見れば分かる。それに恐怖心が先を行って、声など出せる心の余裕も、今はないのだろう。
「相変わらず体ばっかは丈夫だが、それ以外は脆いようだなァ」
 仕方のないことだ。こればかりは、あの無責任な“長老”とやらの所為なのだから。
 メズンはとうの昔に縁を切った、あの一族のことを思い返す。誇り高き人の王、オブリルトレ王家は遥か昔に滅び去り、残党が山奥に逃げ込んでからは、こうも落ちこぼれてしまったものだと。そして永過ぎた空白の時間の間に、伝えられるべき伝承は廃れ、歪められたものが今に残ってしまった。
「ユイン」
 体調こそ落ち着いているものの、精神面での傷は計り知れない。
 何をされたのか、それも全て体の傷を見れば分かった。そして誰に何をされたのかも、どうしてそうなったのかも、必然的にメズンには分かった。一瞬で判断できるように、嫌でもなってしまったのだ。
 首筋の、蛇に噛まれた傷。おおよそ山奥にはわんさかと居る、弱い神経毒を持つ毒蛇ヒグルファディラの仕業であろう。死に至ることはまずないが、毒は弱いものの効き目が早く、噛まれれば数秒で体の自由が少しだけ利かなくなる。そうして動きが鈍くなった時に、どこかしらに連れ込まれ、暴行を加えられたのだろう。
 四肢を切り落とされ、首を切られ、腹を、胸を刺され……。思い浮かべるだけで、吐き気が催される。
「……」
 もし、コイツが仮に死ぬことが出来るなら、一体どれだけ楽になれるのだろう。俺も、コイツも。
 そんな考えが過ってしまうということに、メズンはぶつけどころのない怒りを覚えた。か細い背中に背負わされた宿命はあまりにも大きすぎて、あまりにも哀しすぎたのだ。
「ヤムンに、遭ったんだな」
 そのとき初めて、メズンとユインの目が合った。揺らいだユインの瞳。メズンは乱れていたその白い髪を揉みくちゃに掻き乱し、勢いに任せて抱き寄せる。小刻みに震える背中。涙で服が濡れ、浸みた部分が生暖かくなっていくのを感じながら、メズンは黙って天井を見つめていた。