【第六章 帰す者、来たる者】

4 来訪者


 二週間。あっという間だった。
 その間にルドウィルが何をやっていたのかといえば、特にやることもなく、暇さえあれば工場に出向いて、疵だらけの剣の刃を鍛え直す祖父と、雑用をただ淡々とこなす父を遠巻きに眺めていただけだった。時たま祖母や母に呼びとめられて家事の手伝いをしたりなどもしていたが、基本的にはモフモフとしたリシュを腕に抱いて、家の中をごろごろしていただけだった。
 読む本もなく、遊び相手も居なく、何もやることもなければやる気も起きることもなく。
「早く王都に帰りたいなぁ……」
 ずっと、それだけを考え続けていた。
 そしてサイラン滞在の最終日の前日。父と母は荷物の山と鍛え終わった剣を、庭に置かれたままの馬車の荷台へと詰め込んでいく。ルドウィルは出来る限り手伝いつつ、あとは小狐リシュを子供の細く柔い腕に抱きしめながら、リシュの温い毛をモフモフと撫でていた。
「来たか」
 二日がけで荷物を一通り積み終わり、丁度一段落した時。ベンスは来た道を見詰めながら、そう呟いた。
「パヴァルのおじさん?」
「ああ、そうみたいだ」
 近付いてくる馬の足音たち。そして地平線から這い出るようにして現れた影は、想定していた数よりも多かった。
「ねぇ、お父さん。なんか多くない?」
「……」
「馬って、二頭だけじゃなかったっけ」
「そのはずだったな」
「四頭も居るよ」
「…………」
「お父さん?」
 父の目元も、母の目元も引き攣っていた。
「……パヴァル、あいつはまた何を……!」
 四頭の馬の上には、四人の人影が見えている。一頭はパヴァルらしき人が乗っており、その横には手綱で繋がれたもう一頭が走っていた。そしてその後ろを走る一頭、そこには二人乗っているようにルドウィルには見えた。
 一人、その馬の手綱を握っているのは、色黒でとても筋肉質ではあるが身長はそこまで無い、どこか小柄の男性。そしてその後ろに乗る男は、笠を深く被っており、前の男とは対照的で細身に長身という、どこかユインを連想させる見た目をしていた。その男が背に背負った薬箱。見たことがある。ルドウィルは直感で感じた。ユン兄ちゃんが持ってるのと同じだ、と。
 そして、その横に並んで走る馬にもまた、深く笠を被った男が乗っていた。細身で小柄、ひ弱な印象を受けなくもないその男。誰だろう、と考えているうちにその馬四頭は家の前に着く。パヴァルはあんぐりと口を開けたベンスを見るや否や馬から降りると、ベンスの頬を一発抓るのだった。
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
「まあな。……それより」
「連れか? 気にするな、お前らには関係ない」
「…………あのな」
 抓られた頬をさすりながら、ベンスはパヴァルは睨み据える。「どこの馬の骨とも知れない人間を……」
「どこの馬の骨とも知れない、とは失礼じゃないのか?」
 パヴァルはまた、先程抓った場所と全く同じところを左手で抓る。そして空いている右手で筋肉質の男を指差した。
「こっちはラムレイルグの族長、ダグゼン氏だ。ほら、あの〈風雷ノ聖獣使いシラン・サーガ・キウ〉の嬢ちゃん、あれの親父おやっさんだ」
 三白眼の目といったキツい顔立ちは、クルスムと似ているように見えていた。そしてダグゼンと呼ばれた男の後ろに乗っている男を、次にパヴァルは指差す。
「それで、アイツが薬師のメズンだ」
「あ!」
 反射的にルドウィルが反応する。「ユン兄ちゃんのお師匠さんだ!!」
「ユン兄ちゃん?」
 顔を隠すよう、前に重心がいくように被られた笠を指で弾き、笠の下から顔を見せたその男。後ろで適当に結われている髪は老人のように真っ白で、髪と同じく白い不精髭を生やした顔には丸眼鏡を掛けていた。目は紫。シャグライの人間だというのは明らかだった。
「お前ぇサン見たことねぇガキだが、アイツの知り合いかェ?」
 パヴァルとおおよそ同じ年代であろう体だとは思えぬほどの、軽い身のこなしで馬から降りるメズン。そしてメズンはルドウィルににじり寄るように近づくと、その顔を覗き込んだ。
 そんなメズンから何かを感じ取ったのか、ルドウィルの後ろにフリアはそっと近付き、その小さな肩に手を置く。訝るような目で、メズンを睨んだ。
「ユン兄ちゃんに教えてもらってるんだ。薬草のこととか、字の読み書きとか」
 そんなルドウィルの言葉に、メズンは「へぇ」と感嘆を洩らす。
「俺ンところにゃ一切手紙も出しやしねぇクソ可愛かねぇ愛弟子も、いつの間にか弟子をとるようになってやがるかァ……」
「僕は、別にユン兄ちゃんの弟子とかじゃ」
「あとだガキんちょ」
 ニタリ、と不気味に笑うメズンはルドウィルにこそりと耳打ちをした。
「アイツぁよ、兄ちゃんじゃァねぇ。姉ちゃん、だ」
「え?」
「今度会った時に、後ろから抱きついてみやがれ。運が良けりゃあ触れんだろうさァ」
 メズンはルドウィルの頭をポンポンと軽く二回、撫でるように叩く。そして訝りと警戒心の念を微塵も隠そうとしないフリアをチラリと見やると「おっかねェ母ちゃんだ」と言い、スッとルドウィルから離れた。
「……で。そっちの男は誰なんだ、パヴァル」
 ベンスは、細身で小柄の男を睨む。この時、サイランに滞在していた二週間の中で初めてベンスが、〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉らしい表情を見せた。
「ああ、メズンの連れだ。イェガン。ユインの兄上殿だ。ちょっとばっかし根暗で大人しいが、メズンの野郎たぁ違って害は無い。気にするな」
「おい、片目。そんじゃぁまるで俺ぁ害虫みてぇな言いかッ……!」
「お前の“気にするな”はアテにならないから聞いているんだ。それにまた何故サラネムの者を連れてきた」
 一切の信用を抱かぬ目が、パヴァルを睨み据える。けれどもパヴァルは、あくまでそれを躱すだけだ。
「何故と聞かれてもなぁ。《神託ノ地ヴァルチケィア》の砂漠を通りかかったら、そこの害虫に捕まってな。王都まで案内しろっつわれてよ。まあ、案内を頼まれたわけだ。それ以上でも、それ以下でもない。俺から話せることは何もないさ」
 それを言われてしまえば、それ以上問い詰めることは出来ない。不服気な目でパヴァルをじっと見詰めながら、ベンスは眉根を顰めた。
「荷積みは」
「既に終えている」
「そうか。なら早く乗れ。出発だ」
 そう言いながらパヴァルは一〇ガレティグ金貨が三〇枚入った袋をシャンに投げると、連れていた二頭の馬を馬車に括りつける。ルドウィルはフリアに背を押されて、貧相な馬車に乗り込んだ。
「…………」
 ルドウィル、リシュ、フリア、ベンス。その四人が乗り込んだのを確認すると、馬は走りだす。揺れる車。外では祖父母が不安そうな顔で、ルドウィルらを見つめていた。ルドウィルは去り際に窓の内側から、そんな祖父母らに手を振る。すると祖母は笑顔で手を振り返してくれた。
「王都に帰るんだよね」
「ええ、そうよ」
 馬車の後ろから付いてくる二頭の馬と、それに跨っている三人を見ながらルドウィルは、彼らが普段暮らしているサラネムの山々の景色を思い浮かべていた。






 王都に帰ってきたルドウィル真っ先に向かったのは、事務所の二階にあるユインの部屋だった。この二週間の間に、訊きたいことは山ほど積もりに積もった。だから何の迷いもなく真っ先に。
 いきなり入るのもなんだかな、とルドウィルは扉を叩く前に中に居るかどうかを確認するため耳を澄ます。物音は何も聞こえない。もしかして寝てるのかな。なら邪魔するのは……。下で荷降ろしをしている両親のもとに戻ろうか、そう思いかけた時。部屋の中からは、物が幾つか落ちたような音と、しっかりしろと呼びかける男の声が聞こえた。
「ユン兄ちゃん?!」
 どうしたんだろう。慌てたようにルドウィルは扉を開け、部屋の中に入る。中ではサイランを出る前に会った、丸眼鏡を掛けたシャグライの男、メズンに抱きかかえられたユインの姿があった。気を失っているというわけではなさそうだが、見るからにぐったりとしている様子。そして半開きの口から零れている血が、何よりもルドウィルは気になった。
「おい、そこのガキんちょ!」
 突然のことにただ突っ立ていることしか出来ずにいたルドウィルに、メズンが檄を飛ばす。一瞬自分が呼ばれているということに気付けずルドウィルは、一度、自分で自分を指差しメズンに確認を求めた。
「そうだ、お前ェサンだ。いいか、ありったけの汚れても良いような布をこの屋敷ン中から掻き集めてこい。出来るだけ白くてデケェやつを、大量にな」
 出来るだけ大きな、汚れても良い布を大量に。ルドウィルには見当もつかなかったが、丁度そのとき慌ててクルスムとウィクが駆け付ける。クルスムの腕の中には六、七枚ほどの白くて薄くそれなりの大きさのある布、要は寝台に敷くシーツが抱えられていた。ウィクの背には更に、十数枚のシーツが積まれている。
「メズン、これでいいか」
「でかしたぞ、ボケナス二番弟子。それを隣の部屋に運べ。どうせ空き部屋だろ?」
「確かに空きだが、別にこの部屋でも問題ないんじゃ……」
 ルドウィルは改めて、ユインの部屋を眺める。特段散らかっているというわけではないし、逆にいえば自分の所有物に対してだけ発動されるその神経質さ故に、物が多いわりには綺麗サッパリ片付いている。
 だが、根本的ともいえる問題が一つあった。
「このクッソ青臭ぇ部屋じゃあ、流石の俺様でも集中できるわけがあるかボケナスがァッ!!」
「アンタの住処も、この部屋に負けず劣らず青臭ぇだろうが」
「うるせぇ、黙って運ばんかボケナス二番弟子!!」
 そう怒鳴ると、メズンは立ち上がりざまにユインをひょいと抱き上げる。そんなメズンはとても大きかった。お父さんやパヴァルのおじさんよりも細いのに、力が強そう。変人、とは聞いていたけれども、それ以上のなにかを見せつけられたルドウィルは、叫びたくなる衝動を禁じえないでいた。
「ほれ、とっと運ばんか!」
 早足で去っていくメズンとクルスム。付いていこうとしたルドウィルだが、そこでクルスムに「ルドウィル、アンタは下に居る父ちゃん母ちゃんを手伝ってきな」と突き放され、渋々外で荷降ろしをしている両親のもとへと戻るのだった。






「それで、ラムレイルグの次期族長ってのは、クルスムではなくヌアザンになり、シャグライんとこも族長は、今のところ暫定はヤムンになったってことですかね」
 事務所の客間。苦し紛れに下唇を噛みしめながら、目の前の男からいかに視線を逸らすかということに神経を費やしているファルロンと、その対象、強面に定評のあるクルスムの父、ダグゼンの二人が向きあうようにして、客間に設置されていた長椅子に座っていた。そして気配を消すように、ダグゼンの隣にはシャグライ族の男、ユインの兄にあたるイェガンも座っていた。
「ああ、それで間違いはないだろう」
 表情を変えることなく短くそう返したダグゼン。彼の顔から出来るだけ目を反らしながら、ファルロンは焦りを必死に隠そうとしていた。部族同士の小難しい事情を飲み込み理解するのに、少々時間が掛かっている。普段あまり使わぬ頭を使っているため、頭はもう破裂寸前だった。
「……それで、そのことをクルスムは……」
「あいつはもう既に知っているだろう。決定した際にガムスンが鷹を飛ばしていたからな。知らないのはお前くらいだ」
「ああ、そういえばそんなこともあったような気がしなくも……」
 そんなことも、あったような気がする。十年くらい前、クルスムがもう山には戻れないだろうと見切りをつけ、それを書き留めた書を飛ばした。そしてその四日後に戻ってきた、鷹の足環に括りつけられていた書簡。ファルロンはその内容を見てはいなかったが、きっとその書簡には、ヌアザンらのことが記されていたのだろう。俺は馬鹿だし、何より当事者でもなければ関係者でも何でもないから、知らせる必要もないとアイツなりに判断したんだろう。なんだか腑に落ちない。頭では理解しつつも、心ではもやもやとした何かが渦巻いていた。
「前置きは以上だ。本題に移ろう」
「本題?」
 今のが本題では無かったのか。今にも引き千切れそうなファルロンの思考の糸が、金切り声を上げ始めた。
「どうやら随分と混乱しているようだな」
 やはり、気付かれていたのか。苦い笑みを零しつつ、ファルロンは頭を掻く。
「……ハイ」
「それでだ、お前たちは今幾つくらいになったんだ?」
「幾つ、というと年齢とかですか」
「それ以外に何がある」
「あ、えっと……」
 自分の年齢など一々数えたこともあまり無かったが、クルスムがウィクを連れて王都にやってきたあの時が互いに二十四だった。そして現在、それから十五年も経っている。
四十路よそじも目前ですね……」
 そうか、もう自分は三十九なのかとファルロンは思い返す。年齢などあまり気にも掛けていなかったが、それなりの良い歳だ。それで未だに華の独り身。約三十年ほど続く片思いは一向に実る気配もなし。獅子を冠するお天気屋のあの珍獣を振り向かせるのは、男とか煌びやかで華やかな色恋沙汰よりももっと、こう……身近に広がるありふれた現実の中から見出される、些細な意味の無い小さなものたちなのだろう。葉っぱ一枚にも敵わぬほどの、アイツの見えている世界の中での俺という存在の小ささ。だが、今更告白しようとかそんなことは思わない。こんな歳で今更結婚して子供生まれたところで……何がある。負担。負担だけだ。そしてなにより、過去に友人同士の冗談から発展して嘘の告白をした際にとんでもないとばっちりの返り討ちに合わされたトラウマから……って、あーもう止めてくれ、散々だッ!!
「まあそれはいい。ユインの様子はどうだ」
「どうって、まあ相変わらずですよ。自由気儘で放蕩の限りを尽くしてるって感じで。ふらっと出かけて薬屋とかに立ち入っては、あれがないこれは不備があるだのと文句だけ言って出て行ったり、部屋に籠って書き物してたと思ったら、何日間もぶっ続けで寝たり」
「ぶっ続け、か。因みにどれくらいだ」
「どれくらい……」
 何故、ダグゼンがそのようなユインのことについ々自分に問うてくるのか。馬鹿なファルロンには瞬時に察することが出来なかった。ダグゼンと、ユインの育ての親であるメズンが旧知の仲であるというのは知っているし、その関係でダグゼンがユインを気に掛けていたのも知っていた。
 けれども。ラムレイルグの次期族長の話から何故、そこに飛ぶのか。荒くれ者の集まりでもあるラムレイルグを治めるその族長であるダグゼンは、とても理知的で頭のきれる人だ。だから何らかの意図がある、はず。そこまでは分かる。だが、理由がファルロンには分からなかった。
「ざっと九日くらいですかね、最近は。前は丸一日くらいとかだったんすけど」
「……メズンの予想は当たっていたか。ならば王都に来て正解だったな……」
 へ? ファルロンは一瞬、硬直する。あの、メズンのジジィも来てんのか、と。
「メズンのじじぃも来てるんすか?!」
「来ているが、会わなかったのか?」
「ええ、勿論。なんでまたアイツまで!?」
 ファルロンはメズンが大の苦手、いや、大嫌いだった。アイツは俺がユンとつるんでる、特に二人だけになった時は必ず邪魔しにくるというか、ご丁寧に茶々を入れてくるのだ。あのクソ眼鏡ジジィ、と心の中で舌打ちをする。何しに来やがった、と。
「……ファルロン」
「はい?」
 呆れた、という風に口を一文字に閉ざしたダグゼン。なんとも言えぬ面持ちで、ファルロンを見据えていた。
「分からないのか、俺が言いたいことを」
「……すみません」
 大凡こうなることは分かってはいたし慣れてはいるがな、とダグゼンに呆れられる。こういう時、クルスムや次期族長に選ばれたヌアザンは、一々説明されずとも察することが出来るのだろう。
 俺とアイツらじゃ出来が違うし、器も違う。ハナから分かり切った明白な事実であるし、自分にもそちらの能力については期待などしていなかった。けれども、いざこのように障壁にぶち当たってみると、その自分の出来損ない具合を痛感させられ、歯痒くなるのだ。
「ヤムンとその連れが王都に潜んでいる可能性があるんだ」
「……ヤムン……」
 ヤムン。それはユインの二人いる兄のうちの、一番上の兄だ。だが何故それを俺に話すんだ、とファルロンは思う。合点がいかない。「それならクルスムに伝えたほうが」
「あいつに下手に知らせれば、何を仕出かすか分からん。クルスムもそうだが、ウィクも危険だ。既にウィクは過去に、ヤムンの右腕を奪っている。命まで取られる騒ぎになれば……分かるな?」
「はい」
「既にパヴァルという男が、それらしい人物を複数人、王都で見たと言っている」
「……」
「くれぐれも、この件についてはクルスムには一切知らせるんじゃないぞ」
 クルスムと同じ、三白眼の目がじっとファルロンを見据えている。
「私からも、お願いします」
 この時、初めて顔を上げたイェガンの紫の瞳には、心もとない今にも消えてしまいそうな篝火だけが、僅かに燈っていた。
「……分かりました」
 それまで空中を彷徨っていたファルロンの鋭いツリ目の視線の先が、初めてダグゼンの視線と交差した。
「ラムレイルグの誇りに掛けて、塵から出でし汝の命が塵へと戻るその時まで、かの者を護り通せると誓えるか」
 族長から言い渡される、その者に対しての最初で最後の勅令。本来であれば婚礼ノ儀の際に言い渡される台詞ではあるが、明らかにその内に含んでいる意味が違うのは、ファルロンでも分かった。
「……鷹狩の一族ラムレイルグの誇りに掛けて、誓います」
 ファルロンの鋭い目付きに相応しい、鋭い眼光がようやく宿った。
「その言葉、しかと聞き届けた」
 ダグゼンはそう言い、静かに頷く。
「女王を護る、山犬となれ」






「起きたか」
 ぴくりと一瞬、握り返した細い指先。その僅かな感触を感じ取り、握った手の先、その相手に声を掛ける。それと同時に、それまで静かに部屋の隅で窮屈そうに寝ていたウィクもその声で目覚め、伸びをしながらゆっくりと上体を起こした。
「起きたのか、ユン」
「いや、アタシの勘違いだったみてぇだ」
 影が差した白い顔は老けを感じさせず、まるで一人だけ時の流れから置いて行かれたようだった。
 今のユインの姿は、王都で奇遇にも再会した時の姿と丸っきり、なんら変わりはない。クルスムはそんなことを考えながら、握った手に力を少し込めた。
 あの〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉のスザンという詩人のように、ユインももしかすると年老いる速度が並みの人間以下になっているのかもしれない。そんなことを考えつつ、クルスムは目の前でぐったりと横になっているユインの細い体を見る。

 羨ましくはあるが、それはそれで不気味だよな。
 当人たちは、どう思ってんだか。

「……変わらねぇよな、ユインの顔は」
「だな」
「アタシはどんどん老けてくってのに、なんでだろうね」
 先ほど、メズンが手荒療治を加えたと言っていた。最近は随分と部屋から出てこないなとは薄々気がついては居たものの、まさかその部屋の中で一人、九日間近くずっと悶え苦しんでいたのかと思うと、メズンが駆けつけ騒ぎ立てるまでは、どうせいつもの学者肌に火が付いただけなのだろうと全く以て気付くことが出来なかった自分を、責める他にはどうしようもなかった。
 ガキの頃にユインは、時折発作を起こすことがあった。血を吐きながら苦しみ悶えていた。その対応もメズンしか出来ないことから、常にユインの傍には必ずメズンが居たものだ。けれども歳を重ねる毎にその回数も減っていき、その発作のことすら頭の隅から忘れ去られていた。
 その末に起こったのが、この失態。
 血塗れになっていた布を寝台から降ろし、適当に床へと投げ捨てる。そしてクルスムは紫の毛布を乱暴に手に取ると、それを広げてユインの腰のあたりまで掛けてやった。
「……」
 眩しいほどに白い肌は少しばかり半透明で、皮膚の下を通る幾筋もの青い静脈が透けて見えている。これを美しいという者が居ることを、クルスムは勿論知っている。けれどもクルスムは、薄気味悪く感じていた。まるで生気のない白い肌。それが死者の土気色の肌を連想させるのだ。
 と、そのとき。クルスムの目に一つの傷跡が留まった、
「……ん?」
 ユインの胸元。それも左、心ノ臓のある辺り。短刀で刺されたような、比較的新しめの生々しい傷が刻まれていた。そして掛けたばかりの布団を剥がし、その体をよく見ていくと、他にも右腕の肩口や両足の太腿の付け根のあたりにも、似たような生傷が刻まれていた。
 まだユインが眠っている内に、軽く手当を済ませておこうか。そう思い手元に置きっぱなしにされていた、メズンが使っていたのであろう暖められた葡萄酒にクルスムが手を伸ばした時。ユインが何かを呟いたような気がした。
「……!?」
 けれども驚いたクルスムがそちらを向けば、ユインを目は瞑ったままだ。
「気の所為か」
「……あ……」
 いや、気のせいではない。ユインの口が微かに動く。
 寝言、だろうか。
「…………あ……ッ……」
 悪い夢でも見てるのか。そんな結論に頭でたどり着いたとき、もう既にクルスムの手は動いていた。バチンという音が鳴る。猫だまし。手を、叩いたのだ。
「目ェ覚めたか」
 薄らに開いた紫の右目。焦点は定まっていない。
「服、取ってきた方がいいかい?」
 やつれ顔のその目もと。赤く腫れあがっていた。