【第六章 帰す者、来たる者】

3 父


 梯子を一際高い本棚に立てかけると、ルドウィルは梯子を昇っていく。
 ユン兄ちゃんの髪の毛と、同じ匂いがする。ただそれだけの理由でルドウィルが手に取ったのは、ある一冊の本。その背表紙には「薬草入門 超初心者のために俺様が特別に 手解てほどきしてやんぜ編」と書かれており、著者はメズンと記されていた。
 メズン。
 聞いたことのあるような名前だなぁ、と思ったルドウィルは記憶を少し辿ってみる。
『ユンとクルスムの、薬学の師匠がメズンっつー名前のクソジジィなんだ』
 前にファン兄ちゃんが、そう言ってたっけかなぁ。そんなことを思い出しながらルドウィルは本を携えると、ゆっくりと梯子を下っていった。
 出来るだけ母からは離れた場所の、目に付きづらいところにあった椅子に、ルドウィルは座る。別にそれ自体に深い意味はなかった。けれども、ルドウィルはあまり自分の両親、特に母親が好きではなかった。
 お母さんはいつも怒ってばっかりだし、何かにつけてはすぐ僕を置いてどこかに出かけて行っちゃう。エレイヌ姐さんに会うとか、リュンと出かけるとか理由を言って。
 それにお父さんとは、お休みの日でもない限りあんまり会わないし。だから王都に居るときに、遊んでくれるのはクル姉ちゃんとウィク、ラズミラ姉ちゃん、リッタ、それと偶にスザン。それで勉強を教えてくれるのはユン兄ちゃんだ。
「……」
 ルドウィルは一番、ユインが好きだった。お母さんやお父さんじゃ絶対に教えてくれないことを教えてくれる。それに「まだルドウィルは小さいから、きっと理解出来ないよ」と母親フリアがよく口にする言葉は、絶対に言わなかった。そして過剰に構うということも、だからといって無視をするということもなく、気を遣うとかそんなこともない。平気で雑用を頼んできたりもする。でもその感じが、居心地良かったのだ。だからユインの部屋にルドウィルは入り浸っていた。
 その次に好きなのは、ラズミラとリスタ、そしてクルスム、ディダン。彼らはなにより優しかった。
 ルドウィルはラズミラが淹れてくれる紅茶の甘い香りが好きだったし、リスタが焼いてくれる焼き菓子も好きだった。一緒にお菓子作りをやるのは、もっと好きだった。
 クルスムとウィクは、ルドウィルを猛獣舎に連れて行ってくれるし、そこで餌の肉塊の切り分け方も教えてくれる。クルスムがやっている檻の掃除を手伝うことも、ルドウィルは好きだった。
 そしてディダンは、ルドウィルにとって憧れの存在のようなものだった。ビシッと青の礼服を着こなし、四大臣の傍で忙しく駆け回る姿は、とてもカッコよく見えていたのだ。そんなディダンはルドウィルに、不要な書類の処分の仕方を教えてくれたし、時々その作業を手伝わされることもある。五枚刃の鋏を使って紙を細い線状に切って、それを特殊な薬液に漬け込んで、形が無くなるまで溶かして。そうして出来たどろどろの液体を他の部署に回して、また新しい紙を作ってもらう。地味に時間が掛かり、ディダンはとても面倒臭がっていた作業だが、ルドウィルはその作業が嫌いじゃなかった。無心になれる時間が、なんとなく嫌いになれなかったのだ。
 けれど王宮の中に居ると、身の回りのことは全て母がやろうとする。だからルドウィルはいつも暇をしているし、そのなかで部屋にある本は全て読み終えてしまった。でも、だからといって何もしないことは退屈で。かといって一緒に遊べるような同年代の友達というのは、王宮に居ない。時折、貴族の子供と出会えば一緒に走り回って遊ぶこともあったけれども、それも一度だけに終わることが多い。出会った子たちは皆、ルドウィルがアルダン隊員の子であるという理由から親に会うなと言われて、それで終わっていった。友達と呼べる友達が居ない。それがルドウィルの退屈を、更に色濃いものへとしていった。
 だからこそ、何かしらの役目を与えてくれる彼らが、ルドウィルは好きだったのだ。読み書きなどの勉強をさせてくれること、お茶の淹れ方を教えてくれること、お菓子の焼き方を教えてくれること、掃除の手伝いをさせてくれること。そんな何かをしているときが、ルドウィルは一番楽しかった。だから、そんな楽しみを奪う母のことが好きになれなかったのだ。
「…………」
 あまり読まれた形跡はないその本。けれども年数が経っていることは明白だった。紙は日に焼けて黄ばんでいて、かつては黒だったのかもしれないインクは、少し色褪せて赤っぽい色に変っている。
 見るからに古そうな本。だがその紙からは、褪せることない甘い香りが漂っている。思わず目を閉じてしまいたくなるような、その甘い香り。それは夏場になれば白い蘭のような花を咲かせるという、蔓草のヒェンディグ、その茎から取れる甘い油のその匂いに似ていた。
 そしてヒェンディグの香油は、ユインが好んで使っているものだ。
「ヒェンディグだから、サラネムの山奥……」
 そうしてルドウィルは、黙々と本を読み説いていく。癖の強い、ちょろちょろと速くも静かに流れていく水のようにくねくねと繋がっている文字は、いつも横で見ていたユインの書く崩し字にそっくり。故に一連の内容を読み終えるのにも、そう時間は掛からなかった。
「う〜ん……」
 超初心者のために俺様が特別に手解きしてやんぜ編。その通りなのかな、とルドウィルは思った。これくらいの基礎知識ならもうとっくにユン兄ちゃんから教わったな、という内容。
 その後も図書館の中を一通り探してみたルドウィルだったが、それ以降は目ぼしい本も特に見つからなかった。






「図書館でなにか見つけられはしたのか、ルドウィル」
「ううん、全然。でもユン兄ちゃんの師匠だっていう人の書いた本は一冊だけ見つけたよ」
「師匠?」
「メズンっていう人。ファン兄ちゃんが前に言ってたんだけど、その人もやっぱ変な人なんだって」
「へぇ、変な人か……」
「パヴァルのおじさんなんか比じゃないんだって」
「パヴァル以上だって? 想像もつかないな……」
 ベンスはシャンの作業場、即ち鍛冶場にて雑用を任されていた。バケツに水を汲んでこい、その剣をこっちに持ってきてくれ、ああその槍はあっちの壁にでも立て掛けといてくれ。だが、そんな雑用など普段の業務に比べれば朝飯前。顔色一つ変えることなくただ淡々と、ベンスは命じられたものを遂行していた。そしてそれらも一段落し、休憩していた時。丁度母親と帰ってきたルドウィルは、なんとなくで父の様子を覗きに来たのだ。
「ねぇ、お父さん」
 話は振ってみたけれど、いざ考えてみれば話題が特にないことにルドウィルは遅れて気が付く。そして咄嗟に出た話。
「お母さんさ、最近なんとなくだけど……怖く、ない?」
 お父さんに怒られるかもしれない。反射的に口から「嘘です、ごめんなさい」という言葉が零れ出そうになる。と、それとほぼ同時に、ベンスは辺りを見回した。そして誰も居ないことを確認した上で、彼はルドウィルの目線と同じ高さになるくらいまでしゃがむ。すると、お母さんには内緒だぞと先に口封じをした上でこう言った。
「お前も気付いてたか」
「……うん」
 ルドウィルが今までに一度も聞いたこともないような溜息を、ベンスは吐いた。王宮の中で偶に見かけた時の、胸を張りしゃんと背筋を伸ばし歩く、見るからに凛々しく涼しい風が吹き込みそうなあの雰囲気からは想像もつかないほど、目の前の父の姿はあまりにも情けなかった。
「怖いっていうか、なんとなく不機嫌」
「…………全部お父さんが悪いんだ」
 次第に、ベンスの顔が青くなっていく。
「なにかしたの、お父さん」
「ははは、まあ……特に何もしてないんだが」
「じゃあなんでお父さんの所為になるの?」
「それはだな」
 ベンスの目が泳ぐ。
「……お父さんにも、よく分からない」
「えー! なんで、なんで?!」
 仕舞いにベンスは、頭を抱え始めた。
「……だから女性は、苦手なんだ……」
 リュンに聞いたことがある。君のお父さんは昔、とんでもない女性恐怖症だったんだよ、と。
 そんなベンスは未だに、エレイヌを前にすると狼狽することがあるという。その色気に戸惑うのか、もしくは独眼の水龍を従えている彼女のことを恐れているのか、はたまた過去にラントを捻りあげ、泡を吹かせたという話に恐れ慄いているのかは、本人もよく分かっていないようだが。
「じゃあ、なんでお父さんはお母さんと結婚したの? 女の人が苦手なのに」
「なんで、だろうな。そうなった経緯を実はよく覚えていないんだ」
「そんなこともあるの?」
「あるんじゃないの、か?」
 お母さんのことになるとお父さんはいつも、ぎこちなくなる。お父さんはお母さんのことが嫌いなの? ルドウィルがそう訊こうとした時、丁度作業場へと戻ってきた祖父のシャンがベンスを呼ぶ声が聞こえた。
「いいか、ルドウィル。今の話は絶対にお母さんには秘密だぞ」
「分かってるよ、お父さん」
 そして一度、ルドウィルの頭を大きく骨ばった手でぐしゃぐしゃに撫でまわすと、ベンスは去って行く。
『縁は異なもの味なもの、だなんてよく言うでしょう? 男女がどうくっついてそれからどうなるかだなんて、誰にも予測はできないもんですよ、フリアちゃんとベンスくんみたいにね。ねぇ、ユインさん』
 前にスザンが、お父さんとお母さんの二人を見ながらそんなこと言ってたっけ。それでユン兄ちゃんは「興味ない」って言ってたような気がする。
 そんなことを思い出しながらルドウィルは、煮えたぎる液状の鉄を真剣に見つめる祖父の顔と、その後ろで祖父の顔色を窺いながら掃除をしたりなんだりとしている父の顔を、工場の外から眺めていた。