【第六章 帰す者、来たる者】

2 母


 夫婦円満の秘訣はあったりするの?

 夕食の後片付けも済み、怒りも辛うじて治まる兆しを見せ始めた頃。フリアは母であるフランダに、なんとなくだが尋ねていた。
「それはね……」
 取りこんだまま放置されていた洗濯物を畳みながら、フランダは笑う。ルドウィルは不思議そうに自分の祖母にあたるフランダを見つめながら、リシュの九本あるうちの一本の尻尾を掴んで遊んでいた。掴まれる度にリシュの尻尾はそれを拒むように、ルドウィルの小さな手を尻尾で叩き飛ばす。それでもくじけずルドウィルは、リシュの尻尾を掴みにかかっていた。
「男に、家に纏わる全てのものの選択権を握らせないことよ。何を買うにも、必ず妻の了承を得てからじゃなきゃ駄目っていうのを叩きこむの」
「へぇ……」
 思えば父は、自分の仕事に関係するもの以外、例えば家具や衣服、食料品などに関しては、何を買うにしても必ず市場まで母について来てもらい、購入の際には母にその了承を得ていたような気がした。
「一家の大黒柱、だなんてよく言うけどね、そんな状態の家は大体すぐに奥さんのほうが痺れを切らして出ていっちゃうか、みんな夫婦関係が上手くいかずに子供も家を飛び出ちゃったりしてギクシャクしたまま人生を終えるかのどっちかなんだから」
 夕食に久々ともいえる新鮮な生の牛肉を貰い、腹も気分も満たされたのか、リシュは満足げな表情を浮かべながら、フリアの膝の上で早々に眠りにつこうとしている。
「夫婦じゃなくても、男より女のほうが強い世界のほうが絶対に何もかもが上手くいくっていうのが母さんの持論なのよ。だって、《光帝シサカ》さまだって女性なわけでしょう?」
「それとこれとは違うと思うけどね」
 フリアはリシュを抱き上げ膝から下ろすと、後ろに置かれていた座布団の上にリシュを乗せた。
「シサカさま? それってユン兄ちゃんが言ってた神話の女神様のこと?」
 リシュの尻尾だけは飽き足らず、今度はリシュ自体を掴みにかかったルドウィル。ルドウィルはリシュを抱き上げ自分の膝の上に乗せると、その状態でフリアのほうへと向いた。
「ユン兄ちゃん……?」
「お世話になってるアルダンの方なの。ルドウィルを学舎に行かせられないから代わりに、彼が勉強を教えてくれてるのよ。学舎で学ぶこと以上のものをルドウィルに与えてくれるから、わざわざ学舎に通わせる必要もないのかなぁ、って思えるくらいでね」
 それを聞いたフランダは、不思議そうな顔をする。
「〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉は変わり者の武人ばかりだって聞いてたから、てっきり勉学に疎い人たちばかりだと思ってたけど、そうじゃない人も居るのね」
「ええ、まあ……色んな人たちが居るのよ、ははは……」
 本当にあそこには色んな人達が居る。悪い意味で。
「ねぇ、シサカ様って本当に居るの?」
 ルドウィルの純粋な視線が、フリアへと向けられる。学が高かったとは決して言えないフリアは、弐がい笑みを浮かべた。
 きっとルドウィルが言いたいのは、シアルン神国を治める王としての《光帝シサカ》では無く、シアルン神国という国を開いたとされる「開国神話」の光の女神、神祖《光帝シサカ》のほうなのだろう。神祖《光帝シサカ》の話はフリアも聞いたことがあるのだが……うまく説明できる自信はない。
「神話の《光帝シサカ》さまは居たんだよ、昔。でも今は居ないんだ」
 開国神話の最後の一節で、《光帝シサカ》は英霊ラントとの子を〈下界シャンライア〉に遺し、一人天に昇って〈天界アルラウン〉のルイメンという場所に還ったとかなんとか、神話学の先生に教わったような。フリアの神話に関する理解度とは、その程度でしかない。
「じゃあなんで、王宮にはシサカ様が居るの?」
「うーんとねぇ……」
 今のシアルン神国に、《光帝シサカ》は居ない。その跡取りで面倒なイザコザが起こったくらいだ。だがそんなことをルドウィルに教えるのは、まだ早いのだろう。
 だとすれば、なんと言えばいいのだろうか。
「えーっと、うん、その〜……」
「今、王宮に居らっしゃる《光帝シサカ》さまは、神話に出てくるシサカさまの末裔なのよ」
「まつえい?」
 困ったフリアを見かねてなのか、フランダは咄嗟にルドウィルの質問にそれらしく答えた。
「そう、末裔。シサカさまの血を継いだ子供たち。その子供たちがずっと、この国を守ってきたのよ」
「守るの? なにから?」
「なにから、でしょうねぇ……」
 ついに母までもが困り果てた。
「おばあちゃんにはちょっと、分からないわ」
 つまらない、と言わんばかりに頬を膨らませるルドウィル。
「そういうことは、帰ってからユインさんに訊いたほうが良いんじゃないのかな。それともお母さんと一緒に、明日図書館に行く?」
 ルドウィルの瞳は、純粋な好奇心の輝きを放った。
「うん! でもサイランの図書館ってどれくらいの大きさなの?」
 ここはサイランの中でも特に有名な鍛治町、レイグリャン。レイグリャンで唯一存在する図書館というのは、最近ルドウィルが味を占め始めた王都ブルサヌ一の大きさを誇る蔵書館と比べれば、屁でもないほどに小さい。蔵書は王都の蔵書館の一割もあるかないかではあるものの、神話に纏わる本なら必要最低限は揃っている。
 そうであるはずだ。
「蔵書館よりは小さいけど、行ってみる価値はあると思うな。もしかすると蔵書館にはない本もあるかもよ?」
 ただし、あったとしてもそれがルドウィルの、同じ年頃の子供たちとは比べ物にならない高度なものを求めるようになった好奇心を満たせるかどうかは、分からないのだが。
「行きたい! 明日、絶対だよ、お母さん!!」
「だから、明日は早起きよ。ほら、お父さんとお祖父ちゃんを呼びに行って、一緒に湯屋に行ってきなさい」
「はぁーい」
 居間に無造作に積み上げられたままの荷物の山から、自分の衣服と体を拭くもの、それと体を洗うものを一通り取り出し、それらを持つとルドウィルは、男二人の居る作業場へと向かっていった。おとうさん、おじいちゃん、と呼ぶルドウィルの声が外から聞こえている。
「それじゃあ、私達も行こうかしらね」
「そうね」
 フリアは荷物の山に目を向ける。これを明日、どうにか整理しなきゃな。ルドウィルは勿論、ベンスに整理整頓など任せられるわけがない。
 あの人は動くものしか興味がないし、読み書きに整理整頓、細かな物の保管、それらは苦手分野に相当する。以前は、彼の所有物は全てリュンが管理していたというくらいなのだから、端(はな)から期待はしてはいないのだけれども。
 そんなこんなとフリアは考えを巡らせつつ、取り敢えず自分の必要最低限のものと着替えを持って、フランダと二人、湯屋へと向かうのだった。






 十五年ぶりに入るレイグリャンの湯屋。そこは昔と何も変わってなかった。そこで久し振りに再開した幼馴染たちは、皆一様に立派な母親となっていて、その腕にはルドウィルより三、四歳くらい年上の子供たちを数人抱くようになっていた。そんな子沢山で大変じゃないの、とフリアが訊けば、幼馴染から返ってきたのは「それよりあのお転婆フリアが結婚して、子供も居るって言うのが驚きだよ」という答えばかり。王都についても、どんな所なのかとか、どんな男が居るのか、最近の流行はなんだとか、そんな質問を雨のように降る矢の如く次から次へとぶつけられたりもした。
 そしてフリアが気が付いたことは、サイランの人たちは案外王都を過大評価しすぎているということだった。王都ブルサヌの繁華街カレッサゴッレンは、サイランでいうガムルと変わりはない。それに王都の城下町シャンリアレと、サイランのレイグリャンを比較すれば、どっこいどっこい。王都民シアランサイラン領民サシランでは、生活水準には然程差がないのだ。どちらが上か、と言われても同じくらいとしか言いようがないほどにまで似ている。
 だが、王都というと「煌びやか」で「絢爛豪華」という言葉に繋がってしまうのは、あまりにも美しすぎるシアル王宮の印象が強すぎる所為なのだろう。
 そうして幼馴染たちとの短い会話を楽しんだ後、帰路でフランダはフリアに言った。
「フリア」
「どうかした?」
「私も、もう“おばあちゃん”って呼ばれるような歳になってたのね……」
「……」
「あなたが結婚して子供もいるっていう話は、常連のお客であるパヴァルさんからお父さん……おじいちゃん、かしらね。そのおじいちゃんを通じて何年か前から聞いてたけど、いざそれが目の前になってみると、なんていうの、こう……実感が湧かないものね。それでもルドウィルが、無性に可愛いく思えるの。なんだか、それも不思議なものよね」
「そういうものなの?」
「みたいよ」
 女性特有の、母性というものなのだろうか。
 フリア自身もあまり、自分に子供がいるというそれに、確かなる手応えは未だに掴めずにいた。気がついたら出来ていた子供を、周りの手を借りながらでなんとなく育て上げてきて、今もその道の途中。でも自分の子供はなんだかんだで可愛いと思える。それが親である自分や父親である彼よりも、何の血縁もない、いわば近所の一風変わったお兄さんというような人に懐いていることに、薄々気付いていながらも。
「まあそれはいいんだけど、お父さんったらもう、あなたの連れてきたお婿さん……ベンスさん、だっけ?」
「そう。ベンス」
「そのベンスさんを気に入ったみたいね。弟子にしてやっても良いだなんて言い始めてるくらいよ」
「そうなの?」
「そうよ。一回、目で見ただけで流れを覚えてくれるから、言葉で説明しなくてもいいんだって」
「それはちょっと違うわ。あの人、すっごい馬鹿でね。言葉で説明されたら理解出来ない人なのよ。目で見て、やってみて初めて理解するの。だから命令を一度聞いただけじゃ理解出来なくて、他の人に迷惑を掛けてるのよね。仕事が出来るんだか、足引っ張ってるんだかがよく分からないのよ」
「そうなの。なら目で見て体で動作を覚えなきゃいけない、職人のほうが向いてるんじゃないのかしら」
「一理あるかも」
「……でも、あの時の青鎧を着ていた男の子がフリアのお婿さんになるだなんて、予想も出来なかったわ。何もかも、想定外のことばかりが連続で続いてて、これじゃお父さんもお母さんも近いうちに急にポックリ逝っちゃってもおかしくないわ」
「そんな縁起でもないこと言わないでよ、もう」
「それもあなたが、無鉄砲で計画性のない親不孝な娘だから悪いんでしょう?」
 嫌味な笑顔を浮かべながら、皮肉をぶつけてくる母フランダ。フリアの記憶の中にある“母親”よりも少しだけ、彼女は大らかになったような、丸くなったような印象を受けた。
「……それよりね、フリア。ルドウィルの顔を見せに来てくれて、ありがとう」
「え?」
 母は静かに、微笑んだ。