【第五章 神なる血脈】

4 選択


「んー……駄目かぁー」
 扉に対して耳を隙間なくぴったりとくっつけたディダンは、顰め面でその太い眉を歪ませる。その横でケリスは、腕を組んで眉を顰め、仁王立ちをしていた。
「ねぇ、〈聖堂カリヴァナ〉。ユンがさっき言ってたんだけど、神術、特に結界術は、術者自身の気が少しでも散ると結界自体に乱れが生じるんだってさ。だから、運が良ければ中の話が聞こえるかもしれないって」
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉を侮るな。駆け出しの司祭などではあるまいし、そう簡単には乱れるわけがなかろう」
 扉を介して隔てられた部屋――武ノ大臣が鎮座する執務室の右隣の部屋、つまり政務室――の内側では今まさに、シルスウォッド卿と〈大神術師アル・シャ・ガ〉の二人が非公式の会談を行っていた。だが不思議なことに扉の外からは、内側の音という音は何も聞こえてこないのだ。まるで、その部屋だけ空間から切り離されているかのように。
「……厄介なもんだね、神術ってさ」
 それで先程ディダンは、王宮を訪ねていたユインをひっ捕まえ、〈大神術師アル・シャ・ガ〉がどんな術を掛けたのかというのを調べさせたのだ。
 ユインが言うには、結界術の類のものが六重に張られているということらしい。それにより内部から音を漏れないようにしているし、人という人も出入りできぬようにされているのだという。実際にディダンは入室を試みてみたものの、扉はぴくりとも動きはしなかった。ならばと剛腕のケリスが今度は入室を試みてみたものの、それでもまだ扉が動くことはなかった。
 そして困り果てたディダンは、ユインに対して「結界を破ってみせろ」という無茶を言った。勿論ディダン本人は冗談のつもりであったが、ユインもまた冗談で結界を破ってみせるだのと言い出し……。詰まるところ、一つ目の一番大きく脆い結界に亀裂を加えることは出来たらしいのだが、それ以上は無理だとユインは告げた。
 そんなディダンとユインを見守りつつ、呆れ返ったケリスが「〈大神術師アル・シャ・ガ〉相手に敵うはずもないだろうに」と溜息を吐いた途端、ユインは気を失って倒れた。相当な精神力を使い果たしたのだろうか、病人のように白かったその顔は、熱を出した子供の顔のように真っ赤に染まっている始末。そうして、そこを通りすがったファルロンに、気絶したユインを託したのである。
「……目には見えないのに、たしかにそこに存在しているんだもの。力の無い者には、為す術もないや」
 漸く盗聴を諦めたのか、ディダンは扉から頭を離す。そしてケリスの横へと並んだ。
「あー……つまんない」
 退屈そうに、ディダンは細い腕をぶらぶらと遊ばせる。大きな目では、窓の外の景色を見ていた。
「……またやってるよ、アイツ。姐御も前に言ってたけどさ、懲りないもんだね、馬鹿な男って。あのお節介な姐御に見捨てられる人間ってのも、中々珍しいよ」
 向かいの棟の廊下。黒装束の女性と見える従者に、じりじりと歩み寄る銀髪頭――即ち、ラント――を、ディダンの目が捉えた。そして、その方角をディダンは指差す。
「〈聖堂カリヴァナ〉。見て、あそこ。また〈畏怖アルント〉が、従者にちょっかい出してるよ」
 ラントがちょっかいを出そうとしている女の従者の奥には、男の従者も見えていた。そして、ラントが居るあたりにシェリアラの部屋があることから、ディダンはおおよその見当を付ける。
 きっと、自室を抜け出したシエングランゲラを、その従者であるカリラとジェンダン兄妹が追いかけてきたのだろう。となるとラントは、もう少しシエングランゲラをシェリアラの部屋に居させてやってはどうか、などと説得しているところなのだろうか。
 ……もしそうなのであれば、ケリスにバレたとき、とんだ大騒動に発展することだろう。
「あれは放っておけば良い」
 けれどもケリスは全くそのことに気付いていないようだった。冷徹にも思える薄紫色の瞳は、従者と親しげに話しているようにも見えるラントを睨むように見据えている。それは反省もせずにヘラヘラと笑うパヴァルを見ているときのような、とっくの昔に諦めの境地に達していたとでもいわんばかりのような、近寄りたくもないほどの汚物を遠巻きに眺めているかのような、凍えるほどに冷たい視線だった。
「放っておけばそのうち、嫌というほど痛い目を見るだろう」
「なんだか随分と意味深長な言い回しだね」
「…………」
 突然、ケリスはディダンに黙るように手で指示を出す。ディダンは口を噤み、そして出来るだけ足音を立てぬようにゆっくりと扉のほうへ近寄った。
「……!」
 さっきまでは、音は何一つとして扉をすり抜けることは無かったのに。
 そのとき、声がハッキリと聞こえてきたのだった。
「貴殿が私のこの話に乗るのだというなら、そう遠くない将来に、私がこの手で世界を正すと約束しよう。この次元に住まう者たちにとってそれは望まぬ未来、忌むべき結論になろうとも、こうすることこそがきっと正しいのだろうからな」
 それは確かに〈大神術師アル・シャ・ガ〉、その人の声だった。
「その茶番は、どれくらいの役者を擁するのですかな」
 続けて、シルスウォッド卿の乾いた声も聞こえた。
「……それは私の話に乗ったと取っても、宜しいのだな?」
「ああ、それで構わない」
 ディダンはそのときに初めて、計り知れない恐怖というものを感じた。
 話の前後が読めない。それに正すというのは、何を正すのか。望まぬ未来とは一体、何なのか。それともこの人は、世界を破壊しようとでもしているのか? まさか、ありえない。〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまのような方が、そんな馬鹿げたことを考えるだなんて、そんなこと……――――
「理解の早い者は嫌いじゃないぞ、シルスウォッド・シャグリィアイグ・シアル卿よ」
 その人は、笑っている。
「シャグライとラムレイルグの混血の、図体ばかりが大きいあの男や神話の大英霊と違ってな。それに貴殿が動くというのならば、あの竜王も動くことになるだろう。心強い味方が、増えてくれそうだ」
「その点については、保証は致しかねないだろう。あくまで奴は、自分の物差しで動いているに過ぎない。常に忠実であるとは限らないのでな」
 ディダンはちらりと、横に立つ巨大な壁のような男に目を向けた。
 ケリス・シャドロフという男が、シャグライとラムレイルグの混血二世にあたるという話は、いつかヴィディアから聞かされていた。
 シャグライのずば抜けた背の高さと、ラムレイルグの筋肉質な体格の二つが合わさっているとしか言いようのない、ケリスの屈強な巨体。それに少しばかり白っちゃけた茶色の髪は、年齢が理由というわけではなく、ヴィディアが言うには昔からそのように白っぽかったのだという。そして紫色の虹彩といえば、シャグライの象徴でもある。シャグライとラムレイルグの混血ということに、疑う余地などありはしなかった。
「……」
 そして次にディダンは、向かいの棟に居るラントを見た。
 開国神話の大英雄にして、初代〈畏怖アルント〉の運用者であるとされる英霊ラント。神話に登場する英霊ラントは、白い肌に色のない瞳、光輝く銀色の髪をしていて、青い鎧を身に纏っていると言い伝えられていた。そして向かいの棟に見えるラントの容姿は、同一人物か生まれ変わりなのではないのかというほど、その英霊の特徴に一致していた。それは偶然なのか、はたまた運命だったのか。そればかりは、神のみぞ知るというところなのだろう。
「結界が破られたらしい。外で誰かが話を聞いていたようだな」
 すると扉を隔てた室内からはパチンと一つ、耳に痛い破裂音が鳴り響く。そして遂に痺れを切らしたケリスは扉を強引にこじ開けると、中へと押し入った。
「シルスウォッド卿!」
「ちょっと落ち着けってば……――って、え? どういうことだよ」
 そこにあったのは一つの机と二対の椅子。それと火の消えた燭台が四つ。
「……」
 燭台の蝋燭からは、白い煙が昇っている。どこか煙たいその部屋の中、平静と佇むシルスウォッド卿の姿こそあれども、〈大神術師アル・シャ・ガ〉の姿は見当たらなかった。






 静まり返った政務室。静寂だけが場を満たす閑散としたその部屋の中には、椅子の一つに腰を掛け、憂い気に俯く一人の男が居た。

 貴方はとても重要な選択肢を、取り違えた。
 何を血迷っていられるのか。
 今一度頭を冷やし、冷静に事を考え直すべきです。

 珍しく怒りを露わにしたケリスが、去り際に投げ掛けてきた言葉。その言葉がふと、シルスウォッドの頭に思い浮かぶ。そして後悔の念に苛まれた。

 血迷っている。たしかに、その通りなのかもしれない。
 だが。

「よぉー、シルス。暗い部屋に一人籠って考え事か? せめても明かりくらいつけやがれ、目が悪くなるぞ」
 音もなく開けられた扉と、聞こえてきた男の声。それと遅れて鳴る、扉をコンコンッと叩く音。蝋燭に火が灯され、暗かった部屋が少しだけ明るくなる。そしてシルスウォッドは顔をあげ、政務室に入ってきた男を見た。
「扉を叩いてから入れと、何度も言っているだろう」
「叩いただろ?」
「順序が違うと言っているんだ。……全く、驚かさないでくれ」
 反省しているような素振りを見せず、どこかヘラヘラしているような笑みを浮かべる男は、独眼の水龍こと〈聖水カリス〉パヴァル・セルダッド。とはいえシルスウォッドは、分かっていた。パヴァルはわざと、順序を逆にしているのだと。そうすることで、自分の他に誰も人はいないと伝えてきているのだ。
 仮に、何者かに尾行されていたのであれば、パヴァルは誰にも疑問に思われないような、自然な振舞いをしてみせることだろう。頓珍漢(とんちんかん)とも思える振舞いをしてみせるのは、さし迫った危険がないことを言葉なく伝えてきている証。これぐらいふざけられる余裕が今はある、と言っているようなものなのだ。
「それで、何の用だ」
「とぼけても無駄だぜ、シルス。何故、俺がお前のもとに来たのか。どうせ分かっちゃいるんだろ?」
 出来るだけ音をたてないように警戒しながら、パヴァルは静かに政務室の扉を閉める。そしてシルスウォッドに近寄るや否や、ふざけた笑顔を消し去った。
「……〈大神術師アル・シャ・ガ〉が接触してきた、そこまでは計画通りだ。だが事故が起きた。ディドラグリュル・ダナディラン・ドレインスだよ。あのガキが、断片を知っちまった可能性がある」
「……ああ、分かっている。ケリスはともかく、ディドラグリュルは危険だ」
「いいや、お前は分かってない。ヘマはするんじゃねぇと、あれだけ言ったよな? 結界術の呪符を貼るようにと、俺は言ったはずだぞ」
 低くなったパヴァルの声。椅子に座るシルスウォッドを見下ろす蒼い目は、静かな怒りを湛えている。パヴァルのその目は一方的にシルスウォッドを責めるものだったが、シルスウォッドには責められるいわれはなかった。彼は完璧に、パヴァルの指示通りに動いた。けれども想定外の事故が発生したのだ。
「いや、私は呪符を確かに貼った。そのうえで〈大神術師アル・シャ・ガ〉が、更に結界を強化したんだ。だが何があったのか、結界を何者かに破られたのだよ」
「何者ってのは、誰だ?」
「それは、分からない。顔を見ていないのでな。〈大神術師アル・シャ・ガ〉が言うには、〈大神術師アル・シャ・ガ〉と同等、もしくはそれを上回る力を持った者だというのだが……そんな者が、この国に居るのか?」
 シルスウォッドのその言葉を聞いた途端、パヴァルの顔色は一転する。
「……」
「パヴァル?」
「……居る。ああ、一人だけ居るさ。〈大神術師アル・シャ・ガ〉なんて比じゃない女がな」
「女?」
 パヴァルの目からは、シルスウォッドに向けられていた怒りが引いていく。その代わりに、怒りの矛先は別のものへと向けられた。
「オブリルトレの女王だ」