【第五章 神なる血脈】

2 幼子の背中


 天真爛漫てんしんらんまん天衣無縫てんいむほうな少女の高い声が、王宮の廊下に響き渡っていた。そして、そんな少女の声を追うように聞こえてきたのは、少女に仕える従者たちの、静止を求める悲鳴。その声に、シェリアラはふと頬を緩める。またあのお転婆ちゃんが来たのね、と。 「シェリアラさま。客人がお見えになられました」
 素っ気も無ければ愛想もない、ラントの声が扉越しから聞こえてくる。退屈そうに神話の書物たちを読んでいたシェリアラは、俯かせていたおもてをあげた。そして、厳重に閉められていた扉へと視線を移す。
「通しなさい」
 扉の取っ手がぐるりと回り、ゆっくりと開かれていく。合間に覗く青い手袋をはめた手と、色の無い灰色の瞳。微風に棚引く青いマントと、だるそうに垂れた銀色の髪。けれども瞬間見えたその顔は、誰かに媚びるわけでもなく、かといって何を考えているというわけでもない、無表情でしかなかった。
 昔はそんなじゃなかったのに、とシェリアラは過去のことをふと思い返す。〈聖水カリス〉の動きを見よう見まねで真似をしているラントと、ラントよりもっとうまく真似をしてみせる一人の赤毛の少女を、この部屋からただ眺めていたあの頃。とはいえその当時の記憶は、今となっては茶色掛かり古ぼけて、なんとなく美化されてしまっている節があった。
「……」
 あの頃は、何も知らなかった。
 今も、何も知りはしない。
 けれど、あの頃の私と今の私はたしかに違う。
 あの頃の私は、目の前に漠然と広がる“今”を、何も考えずに楽しんでいた。
 けれど今の私は、漠然と広がる、変化の無い、流れていくだけの時間を嘆き、憂うばかり。

 あの頃に戻りたい。
 制限された世界に、外があることを知らなかったあの私に。

 だから、それを真っ只中で満喫しているあの少女が少しだけ、羨ましかった。
「アリーお姉ちゃーん!」
 従者達の静止を振り切り、シェリアラのもとへと走って来たのは、叔父・シルスウォッド卿の一人娘であるシエラ――シエングランゲラ・シャグリィアイグ・シアル――だった。御歳四つ。肩までの長さに整えられた金色の髪と青い目は、彼女がシアルの王族であることを証明している。それは生まれる前から、既に誰かの手により生き方が定められていて、その運命に抗うことが出来ないのを意味していた。
 けれどもシエラは何故か、少しだけシェリアラと違っていた。
 何が違うのか、それはシェリアらには明確には分からない。けれど、何かが違ったのだ。
 それに彼女は、彼女の父親であるはずのシルスウォッド卿に、あまりにも似ていなかった。顔立ちや性格、仕草、クセ。何一つとして、一致するものはない。そして、母親が誰かも分からないのだ。
「あら、シエラじゃない。このお転婆さん、また叔父上さまに怒られるわよ」
 シェリアラの前に現れたシエラは、えへへと無邪気に笑う。すると、腰に差した剣を引き抜くような仕草を見せた。
「シエラ様の参上だぜ!」
 きらり、と眩しく輝く笑顔。白い歯を見せながら、彼女は満足げに笑っている。けれども、だ。シェリアラはムッと眉を顰める。
「シエラ、そのような汚い言葉はいけません。第一、どこでそのような言葉を」
 シェリアラは柔らかく咎める。するとシエラは不服げに、唇を尖らせた。
「だって。黒頭巾さんたち、つまんないんだもん」
 黒頭巾さん、というのは王宮に仕える従者たちのことを指している。
 王宮仕えの従者たちは、みな黒装束で身を隠している。顔は黒布で隠してもいた。その黒装束の姿から、シエラは彼らを“黒頭巾さん”と呼んでいるのだ。
「父上さまはお仕事で忙しいから迷惑を掛けちゃいけないって、〈聖水カリス〉のおじさんに言われるし。それに〈聖堂カリヴァナ〉のおじさんは、いっつも怖い顔しててシエラのお相手してくれないし、〈畏怖アルント〉のおにいちゃんはシエラのこと無視するんだよ。黒頭巾さんたちとはいっぱい、いーっぱいおはなししてるのに。それなのに、シエラがいっぱい、いっぱーい呼んでも全然反応してくれないんだよ。酷いでしょ、〈畏怖アルント〉のおにいちゃん」
「無視はいけませんね、〈畏怖アルント〉」
 少し皮肉めいたものを織り交ぜながら、中途半端に開け広げられた扉の外に立っているラントに、シェリアラは視線を投げかける。だが、ラントの視線は廊下の突き当たり、ただ一点を見つめたまま、微動だにしない。無論、無表情も変わることはなかった。
「ほら。〈畏怖アルント〉のおにいちゃん、また無視してる。ひどーい」
「酷いわねぇ、〈畏怖アルント〉ったら。けれどね、シエラ。話は逸らさないの」
 バレた、とシエラ舌を出す。
「一体、誰に教わったのですか。お姉さんに教えなさい。叔父上さまには伝えませんから」
「父上さまは別にいいもん。怒らないもん。でも、アリーお姉ちゃんに言ったら絶対怒るもん」
 シエラに対して手招きをするシェリアラは、傍の椅子に座るように促す。シエラはシェリアラの左横、金糸の刺繍が施された、赤い椅子に浅く座る。まだまだ短い足が、ぶらんぶらんと宙ぶらりんになっていた。
「……」
「怒らないから、言ってみなさい」
「…………」
 シエラの表情はムスッとしたままだ。
「そんな顔をいつまでもしてたら、折角の可愛いお顔が台無しになってしまうでしょう。ほら、早く言ってみなさい」
「――……〈聖水カリス〉のおじさん、だよ」
 シェリアラの整った眉が、ぴくりと動く。

 あの眼帯の胡散臭い男。
 シエラに善からぬことを吹き込もうとしてるのね。

「〈聖水カリス〉のおじさんってね、ものすっごーく面白いんだよ。この間はシエラにね、“りゅうじんさま”を見せてくれたの! そのりゅうじんさまがね、おじさんのお友達なんだって! お水で出来たりゅうじんさまはちょっと怖かったけど、でもかっこよかったの。それにね、それにね、シエラに話しかけてきてくれたんだよ、りゅうじんさま! シエラね、初めはりゅうじんさまがなにを喋ったのか分かんなかったんだけど、おじさんがね、シエラちゃんが物凄く可愛くてりゅうじんさまはもう食べちゃいたいくらいだって言ってるって教えてくれたの。あとね、あとね、おじさんがね、色んなことも教えてくれたんだー。お水がぶしゃあって地面から噴き出す泉があるっていうアルヴィヌっていうところとか、剣を作ったりしてる人たちがいっぱい、いーっぱい暮らしてるサイランっていうところとか、いろーんな動物さんたちと一緒にサラネムっていうお山で暮らしてるラムレイルグっていう人たちのこととか、あとね、あとね……」
「シエラ」
 優しげに、にこやかな笑みを浮かべていたはずのシェリアラの表情は一転、とても厳しいものになっていた。
「アリーお姉ちゃん……?」
「〈聖水カリス〉なんていう危ない人とは関わってはいけませんと、あれだけ申し上げていたでしょう?! なにもされていないというのは不幸中の幸いですが今後一切……」
「だから、アリーお姉ちゃんは絶対怒るって言ったの!」
 一瞬輝きを取り戻していたシエラの目は、またムスッとしたものに戻る。
「〈聖水カリス〉のおじさんは怖くないもん。危なくないもん。面白いもん。眼帯付けてるからって変な人じゃないもん! 父上さまのお友達だもん、悪い人なんかじゃないもん!」
「……あぁ、シエラ……」
「いろんなこと知ってるもん! いろーんなこと教えてくれるんだもん!」





 悪い人なんかじゃないもん。
 シエラの言葉を横目で聞いていたラントは、思わず吹き出しそうになった。あれは十二分に“悪い人”に入る人間だろ、と。
 金次第でなんだって請け負う、元・何でも屋。それに善悪という概念がない上に、善を働こうとも思わなければ、悪が間違っているものだとも思っていない。人の死やら不幸やらは自明のものとして気にもかけなければ、平然と人を殺してみせる。それも衝動に任せて殺すのではない、理性で殺してみせるのだ。狂人の他ならない、あんな男。それが、悪い人なんかじゃない? おいおいおい待ってくれ、お嬢ちゃん。そりゃあまりにもヤツを知らなすぎるぜ。こりゃ、本性を知ったときにゃ大泣きするこったろう……。
 ……だが今は、職務中。吹き出して笑うなど、ご法度だ。またキャスの野郎にドヤされちまう。ラントは必死に、今にも吹き出しそうな衝動を堪える。だが努力は空しく、ついうっかり吹き出してしまう。そしてそんな締まりのない姿を、シエラに付き従う男女の従者――黒装束に身を包んだ、ジェンダン・フィグスとカリラ・フィグスの兄妹――に、見られてしまったのだった。
「〈畏怖アルント〉さま?」
 黒衣の男、ジェンダンは、戸惑いを露わにしながら小声でラントに声を掛ける。
「すまん。……今のは見なかった事にしておいてくれ」
 しまった、と手で顔を覆い隠しながら、ラントのほうも小声でそう返した。「ああ、はい……」
「やぁだ、もう〈畏怖アルント〉さまぁ〜♪」
「……」
「〈畏怖アルント〉さまほどのお方でもぉ〜、人間らしいところって、やっぱりあるんですねぇ〜」
 黒衣の女、カリラはどこか間延びした口調で、にこにことした笑みを浮かべながら、そんなことを言った。そこでジェンダンはすかさず、カリラを肘で小突く。「失礼だろ、カリラ!」
「でもぉ〜、その意外性が可愛いじゃないですかぁ〜」
「そりゃ一応、俺だって人間だからな。感情の一つや二つくらい……―――」
「何かおかしなことでもありましたの、〈畏怖アルント〉」
 鋭利な青い刃、つまりシェリアラの険しい視線が、ラントへと注がれる。表向きは妃に揺るぎない忠誠を誓い、彼女を護り、付き従うという任をラントが任されてから約三年。今のような殺気を帯びた視線を妃
 シェリアラから向けられたのは、人を苛々させることに定評のあるラントでも初めてのことであった。
 エレイヌからは常日頃のように向けられていたというのは、さて措き。
「いえ、お気になさらずに……」
 そう言いながらラントは、ゆっくりと半開きであった扉を閉める。かちゃり、と鍵がかかった音が聞こえたところで、ふぅと一息吐いた。
「あの、〈畏怖アルント〉さま」
 扉を閉めた途端、そわそわとしだすジェンダン。彼の目は、不安そうに揺れている。
「なんだ、まだ用でもあるのか」
「シエラさまを……」
「……あっ」
 王族を取り巻く周りの貴族たちは現在、シェリアラ派とシエラ派という二つの派閥に分かれ、度々論争……というより、程度の低い揉め事を起こしていた。故に、シェリアラとシエラが会っていて、尚且つ楽しげにお喋りを繰り広げている、などという状況は、本来であればあってはならないものなのだ。
 とはいえ、当の本人たちは事情を一切知らされていない上に、シエラのほうは遊びたい盛りの年頃である。仕方ないと言えば、仕方ないのだ。
 ……それはともかく。争点は次代の《光帝シサカ》をどちらにするべきなのか、ということになっており、先代の《光帝シサカ》シェリラが亡くなってからは、激化の一途をたどっている。
 だが、何故今更そのようなことで争っているのか。ラントには、疑問に思えて仕方なかった。
「そうか、シエングランゲラさまが中に居たか。しまった……」
 《光帝シサカ》というのはとうの昔に、ただ崇められ、祀られるだけの存在となっていた。
 大昔、神祖シサカが王であった時代には、《光帝シサカ》その人自身が政を動かしていたりなどもしていたと伝え聞くが、それはあくまで大昔の話。今は違う。
 今の体制では、言うなれば《光帝シサカ》は金色の髪で青い瞳を持つ、聖光ノ紋章がその体に現れている女性であれば、誰でも構いはしないのだ。そしてシェリアラには、その条件が全て揃っている。けれどもシエングランゲラには、聖光ノ紋章がない。だからなにも争う必要はないのだ。シェリアラ以外に、正統後継者はいないのだから。
 たしかにシェリアラは、歴代の《光帝シサカ》たちと比べれば、その額に現れている聖光ノ紋章の濃さは限りなく薄い。だが、それはさして問題はない。薄かろうが、その印が女性に現れていればいいのだ。まあ聖光ノ紋章が薄いというのは、その代にはもう一人、同じ印が逆に濃く、ハッキリと現れている者が居るということを暗示しているわけなのだが……――それがシエングランゲラでないことは明らかである。
 とはいえ、そのもう一人を探すということが無ければいいのだが、とラントは憂う。もしそうなった場合、駆り出されるのは〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉であるからだ。
 無論、そんなのは御免だ。仮に、駆り出されるのが政ノ大臣の懐刀であるパヴァルだけだとしても。
 だからこそ、そんな面倒臭いことに発展するその前に、さっさと〈大神術師アル・シャ・ガ〉がシェリアラを《光帝シサカ》と認めて、正式な儀式をちゃちゃっと執り行い、ぱぱーっと承認してしまえばいいだけなんだ。
 それなのに。一体、あの〈大神術師アル・シャ・ガ〉は何を企んでいやがるんだ。
「あと五ダルくらいは、待ってやったらどうだ。まだシェリアラさまにしても、シエラングランゲラさまにしても、お互いに話し足りないだろうしな」
 と口先ではカッコいいことを言いつつ。ラントは後でこのことがケリスにバレたときに、一体どんな言い訳をすべきかということにだけ思考を巡らす。
「そうしてあげたいのは山々なのですけれども……」
「後で私たち、レグサさまに怒られちゃいますぅ〜」
 それどころかクビにもなっちゃったらどうしてくれるんですかぁ〜、と大きな胸をゆさりゆさりと揺らしながら、カリラはぶーぶー文句を垂れる。思わず胸に向いたまま固定されそうになる視線を必死に上へ、上へと向けさせながらラントは、城下町に住まう大半の女が瞬殺で落ち(ただし、エレイヌは除く)る笑顔で、軽く言ってのけた。
「安心しろ。もしそうなった際には、武ノ大臣のほうに俺からうまく話はつけといてやるさ」
 きらりと輝く笑顔の裏。青い手袋の中では、青白い手を冷や汗で湿らせているラントであった。