【第五章 神なる血脈】

1 鼠


 静寂に包まれた闇の中。黒い影とそれに跨る淡い青の影は、あるものを待っていた。
「……」
 王宮裏手にひっそりと佇みながらも、どこか荘厳な雰囲気を感じさせる聖域、ユダヌのほこら。その中には、〈大神術師アル・シャ・ガ〉が管理する祭壇があった。
「来たか、〈水ノ聖獣シラン・セク〉よ」
 そこに夜の帳を縫って現れたのは、〈水ノ聖獣シラン・セク〉。一つの角を持ちし馬、シクだった。
「……あなたはこれで、満足したというのですか」
「ああ、勿論だとも。十分さ」
 苛立っているのだろうか。シクの蹄はしゃっしゃと音を立てながら、土をしきりに抉っている。
「何を怒っているんだ、シクよ。私は〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉から障害を、邪魔を、ゴミを一つ取り払ってやったまでだぞ」
 温もりを感じさせない乾いた笑い声が、空を震わす。その振動を肌で感じた時、シクの毛並みは穏やかな水面のように煌びやかで大人しいものから、次々に押し寄せる、荒れ狂う大波のように逆立ち始めた。
「……あの者は、決してそのような者ではありませんでした。我が主、スザンと固い絆で結ばれていた友だった。余計な手出しは」
「そうか? 私にはそうだったとは、思えんがな」
 冷徹な赤紫色の瞳が、シクを見下ろしている。
「高い金を出すとそそのかされれば、唯一無二の友である者を何の躊躇いもなく差し出すと返したあの者が、ゴミでなければ何だというのだ?」
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉! あなたはフーガルに、一体何をしたのですか!」
 そして赤みの強い唇が、引き攣ったような笑みを浮かべた。
「ただ試しただけだ。そのお固い絆とやらを、な。……ケケッ」






「〈聖堂カリヴァナ〉さま、〈聖堂カリヴァナ〉さまァッ!」
 武ノ大臣執務室の重い扉が激しく叩かれる。〈聖堂カリヴァナ〉の名を呼ぶ憲兵団第四小隊隊長の上擦り掠れた声が、それまで執務室内に停滞していた静寂をどこか遠くへと追い出した。
「入れ」
 ケリスは処理をしていた書類の山を机の脇へとずらすと、ペンを置き、着用していた片眼鏡を外す。それと同時に、それまで退屈そうに窓辺に座りながら、曇天の外を眺めていたディダンも立ちあがる。そしてディダンは、ケリスの傍に置かれた小さな椅子に座った。
「なんか慌ただしそうな感じだね。ふふっ」
「……お前は、黙っておれ」
 乱暴な手つきで開け広げられた執務室の扉。困惑と焦燥が入り混じった面持ちで、額から顎にかけて玉粒ほどの汗を幾つも垂らした第四小隊隊長が、姿を現すのだった。
 憲兵団第四小隊にケリスは、〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉である吟遊詩人スザンと共に王都へ来訪していた、同じく吟遊詩人のフーガルという男が、王宮に仕える兵士らしき男に殺害されたという案件を調査させていた。それについて何か進展はあったのか、とケリスが尋ねる間もなく、第四小隊隊長は、聞き取るのもやっとというような早口で、用件を述べ始めた。
「先日発見された、例の案件の兵士とみられる男の死体を荼毘葬だびそうへとまわしたのですが」
「……待て、私からは何一つ指示は出していないぞ」
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまからのご命令が出たので」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉。第四小隊隊長から発せられた言葉に疑問を感じ、表情を強張らせるケリス。ディダンは急な展開に、嬉しそうに太い眉を上げ、きらきらと目を輝かせる。無邪気そうに、悪意のある輝きを。
「その例の兵士が王宮に仕えていた者かどうかの確認は、どうなった」
「調べ上がっています。〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉に所属して居ないのは勿論のこと、近衛兵にも、憲兵にも、その他王宮と深い関わりのある騎士団やその他騎士団、そして過去王宮に出入りしていた武人も含め、誰一人として当てはまる者は御座いませんでした。そして把握している限りでのシアルン神国内に住まう国民にも該当者は居らず……」
「身元不明、という訳か」
「念の為、〈獅子レオナディア〉殿の当日の行動を調べましたが、調書を裏付ける証言ばかりが浮上し……」
「つまり、〈獅子レオナディア〉はどう考えても無実ってことでしょ。だから言ったじゃん、〈聖堂カリヴァナ〉。ユンを調べても、絶対に何も出てこないって。ドジで愚鈍なアイツに、こんな犯行が出来るわけないもの」
「ディダン、お前は黙っていろ」
「……ごめんなさい」
 無論、始めから予測は出来ていた。暗殺者の大半は、その身元を把握できない。ケリスはそれを、嫌というほど経験していた。
「それで、荼毘葬にまわしたということについてなのですが」
「手短に話せ」
「それにより出てきた焼骨が、どういうわけか人のものではなく」
「人を燃やしたのに、出て来たのが人の骨じゃないってことなの?」
 好奇心の余りに口を挟むディダン。ギリッとケリスに睨まれる。「……ごめんなさい」
「まるで鼠の骨のようなとても小さなものだったのです」
「なんだと……?!」





 第四小隊隊長の案内で火葬場に案内されたケリスと、それに付き纏うように付いてきたディダン。そんな二人に対してまず始めに見せられたのは、灰だらけの銀盆に載せられた、小さな小さな骨たちだった。骨の一つ一つは指先ほどの小ささだったが、それが何らかの小動物の前足の骨であるということは、解剖学の素人でも一目で分かった。
「まだ全て拾い終えておりません故に、今のところはこれだけなのですが」
 そう言った白い衣服に身を包んだ男が、ケリスのほうへと歩み寄ってくる。荼毘の担当はこの者らしく、白い衣は煤こけ黒っぽくなっていて、何より灰の臭いがこびりついていた。そして男の後ろには、灰の山が出来上がっている。どうやらこの山こそが、荼毘に付した際に出た灰らしい。それに辺りには、肉食の獣や人間が焼け焦げたときの不快な臭いが立ちこめていた。
「本当に、あの男の死体を荼毘に付したのか?」
「はい、確かに。火を焼べるまでは、あの男の死体だったと思われます」
「火を焼べるまで?」
 白装束の男は目を伏せる。ケリスは腕を組み、眉を顰めた。そしてディダンは興味津々という感じに、茶色の大きな目で、その小さな骨たちをじっと見つめている。
「木製の棺桶に入れ、それを敷き詰めた薪の上に設置し、松明から火を薪へと焼べ、燃やしました。そして棺桶全体を火が包み込んだ時、棺桶の中から鼠のキィー……という鳴き声が聞こえたのです」
 俄かには信じ難い、作り話めいた話ではあった。「それは、真なのか」
「勿論でございます。お疑いになられるのでしたら、この場に居た他の者どもにも是非お訊き下さい。確かに燃やしたのはあの男の死体であった筈ですし、火を焼べたその時の鼠の鳴き声は、他の者たちも聞いているはずです」
 私が〈聖堂カリヴァナ〉様に嘘を申したところでなんの利も御座いませんし、とも白装束の男は言う。
「棺に入れる際に鼠も同時に入った、ということは無いのか」
「絶対にあり得ません。荼毘に付す前に、何度も私めで確認を致しました。それに、だとしたら人間の骨も見つかっているはずで御座います」
「骨も焼けて灰となった、というのはあり得ないのか」
 自分で問うておきながらも、実に馬鹿らしく不毛な質問だとケリスは心の中で嘲笑う。そんな質問しか浮かびあがらないほど、突然目の前に突きつけられた問題は、あまりにも馬鹿らしく不毛だった。
「人の骨が灰になるのでしたら、鼠の骨なんて残りはしないでしょう。それに人の骨が灰になるほどの火は、ここではまず出せません。何せ、死体一つを焼ききるのすら、やっとというものですから。それだけは絶対にあり得ないと言い切れます」
 男の目線が一度、左上を向く。それをディダンは見逃さなかった。目線が左上を向くというのは、実際にあった物事を思い返しているということで、逆に右上を向くときは嘘を吐いているとき。即ち、この男は少なくとも嘘を吐いていないということになる。
「〈聖堂カリヴァナ〉、この人は嘘を吐いてないよ。この人が言ってることは、信じるに値すると僕は思う」
 ケリスの薄紫の目が、白装束の男をじっと見据える。その眼力に慄いたのか、男は数歩後退った。男の肩には力が籠り、肩が僅かに上がる。やがてケリスの眉に籠っていた力が僅かに抜けると、白装束の男は安堵の溜息を洩らし、肩に籠っていた力を抜いた。そのさまを見ながら、ディダンは口元を、ケリスに気付かれぬようにそっと手で覆う。その下で、少し口角を上げていた。
「荼毘に付すようにと指示を出したのは、〈大神術師アル・シャ・ガ〉で間違いないのだな」
「私は憲兵団第四小隊隊長からそのような伝達があっただけなのですが……――そのように指示を出したのは〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまだと、伺っております」
「それさえ分かればよい。引き続き、その鼠らしき骨を掻き集めてくれ。全て集まり次第、私のもとへ報告するように」
「了解いたしました」
 そして白装束の男はまた銀盆を手に取ると、金属製の長い箸のようなものを片手に持ち、再び灰の山の捜索に当たり始めた。それを確認するとケリスとディダンは男に背を向け、王宮へと戻っていく。
「何故、関係の無いはずである〈大神術師アル・シャ・ガ〉が、今になって口を挿み始めた……?」
 歩きながらケリスは、独り言のように呟いた。
「関係が無かったら、口は挿まないもんじゃないの?」
 ディダンの無邪気な目が、ギラリとした光を帯び始める。
「普通に考えてみたらそれって、関係大アリってことじゃない。それに、僕たちが今まで一番疑っていたシルス卿やパヴァルが、この件には全く以って口を挿んで来ないどころか、無関心でさえあるんだよ。城下町で人間が殺されること自体は珍しくもなんともないだろう、所詮揉め事が転じて刃傷沙汰へと発展しただけだ、ってパヴァルは言ってたくらいだし。……だとしたらさ、こう考えるのが筋じゃない?」
 どこか自信に満ちた表情で人差し指を立て、その先をケリスへと向けるディダン。
「シルス卿はそもそもこの件に関わっていない、ということか」
「そして、首謀者は〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまである可能性が高い、と」
 あぁ、なんて僕ったら天才なんだろう、とディダンが冗談めかしに言い放つ。
「ああ、確かにお前は天才だ。だが、だとしたら消えた死体と、鼠の焼骨の関係はどう説明する?」
「そんなの簡単だよ。だって、〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまだよ? そこら辺に居た鼠を捕まえて、神術で人間の姿へと一時的に化かしたんだよ、きっと」
「随分と信用できない仮説だな」
 するとディダンの口調が、それまでのどこか余裕のあるものから、真剣そのものへと変化する。
「でも神術って、人知を遥かに超えてるものでしょ。アルシャって言うくらいなんだからさ、人間の域を超えて、それこそ神の域の代物なんだろうし。勿論、僕だって自分で言っておきながらもなんて馬鹿げた話だって思ってる。だけどさ」
「……」
「こんな馬鹿げた話も通用するようなものだと、思わないの?」
 ディダンの話を聞きながら、ケリスは思う。この少年の思考はとても柔軟だ、と。それは特異な年頃であるが故の、これ、という固定観念を鵜呑みにしない――俗に“捻くれ者”と非難される――考え方と、この少年に与えられた天賦の才による恩恵なのだろう。そして何より、大人であれば当たり前であると一蹴し考えもしないような事象にこの少年は目を向け、それらの本質を一瞬で見抜いてみせる。それは時に当たり前のことであり、実に突飛なことでもあった。
「言われてみれば、そうだったな」
「だから、〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまを……」
「いや。それは無理だ」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉の権能は、《光帝シサカ》の権能を遥かに凌ぐとされている。
 ケリスらが下手に動き、それがもし発覚してしまった場合、〈大神術師アル・シャ・ガ〉が一体どのような手を使ってくるのか。その予測は、ケリスの百戦錬磨の明晰な頭脳を以てしても、ディダンの天才的な閃きと頭脳を以てしても、不可能に等しいことだろう。政ノ大臣シルスウォッド卿の忠犬、独眼の水龍パヴァル・セルダッドなら見破れるかもしれないが。
 そして今代の〈大神術師アル・シャ・ガ〉というのは、温和であった先代とは正反対と言っても過言ではない。
 行動の予測は出来ず、その心理はディダンですら読み解けぬほど複雑で、不明瞭だ。
 ベンスやリュンと然程歳は変わらないであろうその姿で無邪気に笑いながら、きっと影では天より高く海より深いその知識を悪用し、知略で着々と事を進め、その薄汚れた本性を隠しているのであろう。
 本性がどれくらい汚いものなのか、それはまだ姿を完全に表していないので計り知れない。だが、だからこそ恐ろしいのだ。
 今代の、あの〈大神術師アル・シャ・ガ〉は。
「デスヨネー。アンタに、ここぞという決断力がないことは知ってた。パヴァルなら今、強硬手段に踏み切るっていう選択をするとこだったのに」
 慎重で堅実なケリスと独断専行で無責任なパヴァルを比較しながら、不服げに頬を膨らませるディダン。焦燥の念に駆られているのか、唇を少し尖らせ、鼻を頻りに掻いている。
「機会が巡って来たときに、行動に移す。今はまだ、その時ではない」
 ケリスの声色は思索を巡らせている最中の、普段よりも低く、そして少し掠れた、心ここに在らずというものになっていた。
「誰であろうとも、この件については決して口外するんじゃない。分かったな、〈道化師ジェイスク〉」
「分かってるよ。たとえ《光帝シサカ》さまに訊かれたとしても、僕は言わないさ。だって僕、口は固い方だから。……とはいえ、シルス卿に訊かれたら洗いざらい吐くけどさ。だって隊員をクビにできる権限を唯一持っている上官だし、やっぱアルダンを追い出されるのは嫌だし。というか今この瞬間もパヴァルは、どこかで僕たちのこの話を盗み聞いているだろうけど」
 ディダンは軽い調子でそう言いながら、軽い笑顔を浮かべる。するとケリスは重い調子で、呟くように言った。
「……特に」
「ん?」
「〈獅子レオナディア〉にだけは……――」
 ケリスの灰紫の瞳は眼光鋭く、どこか遠くの“何か”を静かに睨み据えているようだった。?