【第四章 ギャランハルダの踊り子】

2 立てば芍薬


 貧乏人の町を歩いていたときだ。
「……ッ、なかなかやるな、お前……――――イデデッ」
「あ、あの、その、ご、ごめん、なさい……」
 薄暗い路地から聞こえてきたのは、男の唸り声。それと震える喉で謝る少年の声。まあ、親殺しってとこだろ、と彼は見当を付けた。ここらじゃ別に親殺しなんてのは特別に珍しいことじゃないし、親に食べ物を横取りされてカッとなって殺したとか、怒り狂った親に殺されそうになったから、正当防衛として反射的に殺したとか、単に存在が邪魔くさかったから殺したとか、そんな類のことはごく普通にある。東アルヴィヌじゃ珍しくもなんともない出来事だ。
 いつもなら気にすることもなく、ただ通り過ぎていくだけ出来事。けれどもその時だけは、何故かとても気になったのだ。激しい後悔の念に苛まれている少年の声に、同情のようなものを感じたのであろうか。それとも、一体。あれから何年も経った今でも、未だに彼はそのときの感情を理解出来ずにいた。
 彼は出来るだけ音を立てないようにゆっくり、ゆっくりと、声の聞こえてきた路地裏の薄暗い闇の中に潜った。天には日が昇っている。けれども路地裏というのは、白昼の刻でも薄暗い。でも、そんなのはどうだっていい。そんなこと、どうだっていいんだ。暗いとか、明るいとか。常闇の中に生き、常に細心の注意を払っているパヴァルとは違い、根拠のない全能感に満ちていて、警戒心がガバガバになっていた彼は、そこまで気を配っていなかった。

 ただ、もしかすると。今、そこで唸ってる男が、何かしら持ってるかもしれない。
 だから、ちょっとそれをくすねようかなって。
 ただそれだけだし。
 それだけ、だった。

 横たわる大きな影と、その傍に座り込む小さな影に、彼は近づいていく。震える声がしきりに、ごめんなさい、ごめんなさいと謝っているのが、正確に聞き取れるようになるまで近づいた。
「……なんだよ。馬鹿みたいにずーっと、ごめんなさい、ごめんなさいって。どうせコイツ、死ぬんだろ。もうすぐ死ぬような虫けら相手に、何も謝ることなんてないじゃないか」
 小さな影の隣に並び、彼はしゃがみこむ。そして目の前に倒れている、大きな影を覗きこんだ。どうやら脇腹のあたりを、短刀で深く刺されたらしい。刺さったままの鋭利な刃からは、ピチャッ……という血が滴り落ちる音がする。彼は笑うように口元を引き攣らせながら、倒れている影の胸倉あたりを物色すべく手を伸ばした。
 と、そのとき。
「誰が虫けらで、どうせもうすぐ死ぬだろ、だって?」
 唸り声が、不気味な笑い声に変わった。
 まるで彼を馬鹿にして嘲笑っているかのような、そんな声だった。
 無性に腹が立った。
 彼の手が、指先が、腰に差した貧相な短剣の柄に触れる。大きな影はよろよろと起き上がる。思ったよりもその影は、大きかった。隣で怯える小さな影が、息を呑む。その小さくて細い体を、小刻みに震わせていた。
「……ほんと、笑えるぜ」
「なんだよ、なんなんだよ、テメェ」
 薄気味悪い何かを、彼は感じた。笑い声もそうだが、一体何だろう。そこに居る筈なのに、そこに居ないような。影からは気配という気配が、全く以て感じ取れなかったのだ。
 まるで、人でないみたいだった。悪魔かとすら、思ったほどだ。
 大きい影が、彼を見る。そして、笑った。
「へぇ……」
「ンだよ、気持ち悪ぃな。殺すぞ」
「ははは、案ずるな。今のお前程度の強さじゃ、俺を殺せはしないだろう。それにお前、アレだろアレ」
 なんだっけなー、と必死に思い出そうとしているかのように、影は鼻の頭を掻く。だが、それがとても演技じみていて、なにより嘘臭かった。
「…………」
 彼は短剣の柄を握り、構えた。そして言う。
「死ね」
「そうだ」
「あ?」
「お前、アレだよな」
「うるせぇんだよ、黙れ!」
「神速のリュンだろ、お前。へぇ。噂だと、大柄のジジィだの小柄のババァだのなんだので惑わされまくったがー……それが、どうだ。盗みが巧いだけの、卑屈なただのガキか。はぁ〜……――期待して損した。クソッ、パヴァルに良いように乗せられて騙されたってわけか。結局、ただの無駄骨かよ。あのジジィ、帰ったらただじゃおかねぇ。全部エレナにチクってやる……」
 彼はその影に、とても馬鹿にされているような気がした。実際、馬鹿にされていたのだろう。
「ッるっせぇ!!」
 彼は身を前に乗り出し、影に向かって怒鳴り散らす。その、僅かな隙だった。そこに、付け込まれた。
「……なッ!?」
 彼が固く握りしめていたはずの短剣。それを大きい影は、一瞬にして叩き取ったのだ。
「隙がないだなんて噂されてたが、それどころか隙だらけじゃないか。……チッ、つまんねぇな。やっぱり剣術にかけては、独眼の水龍以上の逸材は居ないっていうワケだ。……まあ、それもそうだろうな。あんな化け物を上回るものが居てもらっては困りもんだし」
「……」
「オマケに盗みを働いて、人を殺すことしか能がない、下劣極まりないゴミ以下ときたか」
「…………」
 ボクのなにもかもを、頭ごなしに否定されている。
 そんな気がしていた。
 そうだ、確かにボクは卑屈だ。
 盗んで殺すことしか能がないというのも、事実だ。
 でも、この環境で生き抜く為には、どうしても必要だった。
 それを否定されたら、一体、どうやってこの環境で生き抜いていけと。
「自分を責められても知らねぇよ、じゃあどうやって生きていけって言うんだよ、って顔してるな」
 彼の右肩に、冷たい手が置かれる。
「……俺に付いてくるって言うんだったら、俺がお前に相応しい仕事を紹介してやらなくもないぜ? ただし殺し屋とか、そんなんじゃないぞ。もう少し、表向きは真っ当な仕事だ。そこのお前もな」
「……」
「……まあ、アルダンに捕まったからには最後、始めからお前らに」
「ンだよ」
「拒否権なんて、ないけどな」
 ニタリと影が笑ったのが、暗がりの中でも何となく分かった。そして彼が気を抜いた瞬間、影に首根を掴まれ、あっという間に担ぎあげられる。彼もそうだったが、さっきまでしゃがみこんでいた小さい影、彼と同い年くらいの少年も、担がれていた。
「なんだよ、なんなんだよテメェは!!」
「俺か? それは王都に着いたら話すさ。取り敢えず今は、黙っとけ」
「はぁ?! この状況で黙れって言うのかよテメェは!」
「うるせぇガキだな、お前。エレナ以上にキーキーとよく騒ぎやがって……」
 大きい影は数歩歩いただけで、担いでいたはずの少年ふたりを投げ捨てるように下ろした。わざわざご丁寧に担いでくれた、その意味はあったのかよ、と彼が疑問に思ったその瞬間。彼の鳩尾に、固く握りしめられた拳が一発捻じ込まれる。まるで、身を裂かれるかのような衝撃を、そのとき感じた。そして暗い裏通りに、空から一筋の光が差し込む。影の髪が銀色の輝きを放ったのを、ぼやけていく視界の中で彼は最後に見たのだった。






「そろそろ起きろ、ガキ」
 肩を激しく揺すぶられて、彼は目を覚ました。そして聞こえてきたあの声に驚き、思わず飛び上がってしまう。その拍子に彼に被せられていた白い毛布は、ふわりと宙を舞った。そうして毛布は彼の顔を覆うように落ち、被さる。彼は被さった毛布をがむしゃらに剥ぎ、床に叩きつけるように投げ捨てると、声がしたほうに体を向けた。
「……!」
 そこにはあの時の大きい影の正体であろう、銀髪の男――のちの“ラン兄”こと〈畏怖アルント〉ラント――が、偉そうに腕を組みながら、胡坐を掻いて床に座っていた。
 今でも、リュンは思う。ラントは何処か人間離れしてて、不気味だと。とはいえアルダンにはラント以外にも、人間離れしているのは大勢居る。変人の掃き溜めとか、変人の巣窟だと言われているくらいなのだから。パヴァルが呼び出す水の龍とかだってそうだし、ユインは本当に人間なのかっていうくらいにはワケが分からなかったりする。ヴィディアは女性で、しかも生まれつき左腕がないにも関わらず、パヴァルに追随する武勲を誇っているし、ディダンはあの年であれだけの頭脳を持っているし、リスタは美人にして謎が多いし更にゲテモノ好きだし、ベンスはありえないぐらい馬鹿だし。……と、そんなのはさて措き。逆にアルダンでは平凡なほうが珍しいくらいで、平凡を絵にかいたようなファルロンやケリスなどは、物凄く浮いているほどだ。
 そう、物凄く。とっても。
「……」
「なんだ、その不服気なツラは。口尖らせて、お前はアヒルかよ」
 そのときの彼にとってその部屋、つまりラントの部屋は、見たこともないような景色も同然だった。
 なんてことない木の板を組み合わせて作られている床と、一切汚れのない綺麗な白い壁。それくらいであれば金持ちの家で目にしていたし、気に留めることもなかっただろう。けれども、気になったのはそこではなかった。
 部屋にあるものといえば、簡素な窓と必要最低限のものだけを揃えたというような質素極まりない家具たち。それと、さきほどまで彼が寝ていた寝具。固い白の枕と薄っぺらの真っ白な掛け布団、厚みのない真っ白な敷布団、ごわごわの真っ白な毛布と、白ばかりの安物尽くし。
 まるでこの部屋は、今にも借りた家を追い出されそうな貧乏人の部屋そのもの。けれどもラント自身の身なりは貧乏人とはとても言い難く、それなりの生活を送っている人間らしい小奇麗な身なりをしていた。だがそれなりに金を持っている奴であれば、家具にせよなんにせよ、もう少し高くて質の良いものを選んで買うはず。それにこの部屋には、まるで生活感がない。
 それがとても、薄気味悪く感じられたのだ。
「……変な奴だな」
 彼はラントに対して、素直に感想を述べる。するとラントは、ムッとしたように眉間にしわを寄せた。
「俺は断じて“普通”だ。きっとお前は、本当の変人を見たことがないんだろ。独眼の水龍パヴァル・セルダッドと会えば、それまでの価値観を全てひっくり返らされてふっ飛ばされるぞ。アイツは、正真正銘の狂人でな。そりゃぁ、もう……――」
「やっぱ、変な奴だ」
「……パヴァル以上に血生臭かったガキに、言われる筋合いはないってもんだ」
 彼のおでこをラントは、バチンッと指で弾く。彼は反射的に目を瞑った。鈍い痛みが凄い速さで、背筋に伝わり全身へと流れる。ぞくっと体が震えた。「何すんだよ!」
「性根の腐りきったガキでも、やっぱガキらしい顔は出来るんじゃねーか」
「……うるせぇ、ヘンジン」
 彼は舌打ちと共に、ラントへ悪態をぶつける。するとラントは、くすくす笑いながらゆっくりと立ち上がった。脇腹を少しだけ庇うようにして。
 と、そこで彼は思い出す。
「そういや、アイツ……」
 あのとき、ラントに拉致される前。その場には「ごめんなさい」と謝り続ける少年が確かにその場に居たはずだし、その性根はラントによって彼と一緒に拉致されたはずであった。それなのに、そいつの姿はここにない。どこに連れて行かれたんだろ、と彼は首をかしげたのだった。「今、どうしてんだ」
「アイツってのは……――ああ、多分ベンスのことか。下の階で、大人どもの歓迎会に無理矢理付き合わされてるさ。それに今日はエレナが台所に立っていたから、宴で死人が出るかもしれん」
「……」
「いやぁ、でも、あのとき殺す気で刺してみろとアイツには言ったが、まさか実際に刺されるとは思ってもいなかった」
 ラントはなんてことないといった笑顔で、驚きの発言を軽ーいノリで言い放つ。その姿に、彼は呆然とさせられた。こんな奴について来るべきじゃなかった、と後悔した。――……というか、もともと好きで来たわけじゃない。強制的に、有無を言わさずに、拉致されたのだから。
 とまあ、そんな感じに内心悪態は吐いていたけれども、まんざらでもないと思っている自分が居ることに少しだけ、彼自身が驚いていた。
「……」
 普段であれば、相手の喉元を掻っ切って、金を奪って逃げ出していただろう。
 でも、どういうわけか、そんな気になれなかったのだ。
 逃げたところで、どうせまた捕まるだろうし、第一逃げ場なんて何処にもないことくらい、気づいていたのかもしれない。
「は? え、じゃあそのベンスっていう奴は、アンタに言われたから、アンタのことを刺したっつーワケ?」
「そうだ。パヴァルと賭けをしてたんだよ。アイツが前々から目を付けてたっていう少年、つまりベンスに声を掛け短剣を渡し、その剣で俺を刺してみろと言う。それで俺がベンスに刺されたらパヴァルの勝ち、ベンスがうろたえたら俺の勝ち、ってな。……あー、これで俺の今月の給料が零になった……」
「アンタさ、ホントに変人だな。いや、馬鹿なんじゃねぇのか?」
 会話から分かるとおり、ラントの第一印象は最悪そのもの。
 能天気のバカ。
 まさにその言葉がピッタリだ。
 けれどもラントは脳天気のバカだとかそんなことはなくて、(表向きは)真面目で誠実で有能で非凡な精鋭中の精鋭な――でも実際はどうしようもないサボり癖のあるクソみたいな――人間であるとリュンが知ることになるのは、もう少し先の話である。
「そうだな。取り敢えず俺は、パヴァルの口車に乗せられたバカだということにしておこう。まあそれはさて措き、お前。名前はリュンだったか」
「名前は、ない。ただリュンって名乗ってるだけ」
「そうか、ならリュン」
 にやっ。何かを企んでいるかのように、ラントの口角が上がる。
「大人の女に風呂に入れられて、体の隅々を綺麗に洗われるのは、どんな気分だったか?」
 ハッとそのとき、彼は初めて気が付いた。自分の髪が濡れていることに。思えば、なんとなく体がサッパリしているような気がする。体から汗や土、泥、血の臭いがしない。却って良い香りがするくらいだった。それに赤黒く汚れていたはずの手が綺麗になっているし、本来の肌の色が露わになっている。服も、薄汚れたぼろ布みたいなものでなく、目の前でニタニタ笑っているラントが着ているような、アルダンの藍羽織り姿だった。
「……どういうことだよ、これ……」
「お前が気を失って大人しくしてる間に、ヴィッデが風呂に入れたんだ。お陰で広い広い浴場の床が一面、ありとあらゆる汚物が混ざりに混ざりきったヘドロだらけになっちまってるんだがな。湯船の中なんてのはヘドロの海だ。ああそうだ、ヴィッデっていうのは〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉、長ったらしいから通称はアルダンとか十本剣っていうんだが、まあウチに所属している女の隊員でな」
 アルダンの説明なんて、そんなことはどうだっていい。
 その時の彼には、女性に風呂に入れられた挙句に寝かしつけられたというその事実が、とても耐えられない侮辱にしか感じられなかったのだ。昔の彼にとって女性という存在は、ありとあらゆる穢れを具現化したものだった。きっとだらしのなかった母親を見て、そんな固定観念が植え付けられたのだろう。だから、そんな女性というものに体を触られたり、全裸を見られたっていうことが許せなくて……――――
「ああああああああ!!」
 彼は発狂して、怒り狂った。
「ふっざけんなよ、はぁ?! なんで、なんで女なんかに、女なんかに!!」
 激昂した彼は荒ぶる感情に身を任せて、ラン兄の胸倉に掴みかかろうとする。けれども体格で既に負けていたために、勝敗は一瞬で決まった。ラントにちょっと脚を引っ掛けられただけで、彼は態勢をあっという間に崩し、その場に転げ落ちるように尻餅をつく。頭上からはラントが、呆れ返ったような目で彼を見下ろしていた。
「リュン。取り敢えずだ、一旦落ち着いて頭を冷やせ。で、ある程度頭の中で情報を整理して、理性でこの状況を理解できるようになってから、下に降りて来い。いいな。そしたら気絶するほど馬鹿みたいに香辛料がきいたクソ辛いエレナの飯じゃなく、別のうまい飯でも食いに行こう」
 この状況を理解しろって、本気かよ。頭イカレてやがる。そのときの彼は、そう思った。因みに今でもリュンは、似たようなことを度々思う。ここにいる連中、みんな頭イカレてやがる、と。
 そしてラントは、そのまま何事もなく、部屋から出て行こうとする。けれどもラントは扉の取っ手に手を掛けた際に、ふと何かを思い出したのか、尻もちをついたまま、不貞腐れてぶー垂れている彼のほうに振り返った。
「そういや自己紹介を忘れてたな。俺は、ラントだ。ラントでもランでも、好きに呼んでくれ。苗字とかはない。ラント、だけだ。それじゃぁな」
 ラントは最後にニコッと殴りたくなるような、クソ爽やかな笑みを浮かべ、扉をバタンと大きな音を立てて閉める。そしてそれきり、戻って来なかった。
「……言ってることが、ことごとくワケわかんねぇっつーの……」
 取り敢えずその日の彼は、用意された寝具の中で気が済むまで寝ることにしたのだった。