【第三章 紅の華、夜半に咲き誇る】

2 学べよ少女


「ウチのパヴァルが、さっきはすまなかったね。まさかあんな風に連れて来るとは、想像もつかなかったものでね……」
 白い泡だらけになった、紅く長い髪の毛。フリアは少しの恥しさに、ほんのりと頬を赤らめる。対してリスタは鉄仮面のような笑みを顔に浮かべたまま、フリアの長い髪を黙々と泡だてている。その鋼鉄の仮面に隠れた素顔。深い深い、誰も触れることはないであろう秘めたる内では、昔に起きたとある悲しい出来事が思い出されていた。
 とはいえ、そんなことは露知らず。フリアという少女の眼中に、リスタなど存在していなかった。なにせ彼女は、今この瞬間に自分が居る、この変わった環境に心をときめかせ、そして心を奪われていたのだ。
 彼女にとっては、不思議だったのだ。ここは一体、どんな造りになっているのか、と。
「………凄い。きれい」
 壁一面に隙間無く、それも規則的に貼り付けられているのは、陶磁器製と思われる黒く小さな正方形の平たい板。フリアはそれに、そっと触れてみる。それらはどれも陶磁器らしくつるつるとしていて、氷のようにひんやりと冷たかった。そして床にも色違いではあるが、白い色の小さい陶磁器の板が、同じように隙間無く敷き詰められていた。
 そして今フリアが入っている、これまた白い陶磁器製の、人が一人、足を十分に延ばすことのできる大きさをもった浴槽。これもまた見事なまでに美しい曲面を描いており、その曲線美にフリアは思わず見とれてしまった。
 それと壁から伸びる、白く長い管。これにもフリアは興味をそそられた。何故ならば管の先には、如雨露の注ぎ口に似たものが付いていたのだ。先ほどリスタが後ろでゴチャゴチャとやっていたときには、その如雨露から水が出ていたりもしていた。
「誰が作ったんだろう、こんなもの」
 魔法、ではないのだろう。こうして実体があるのだから、なんらかの仕組みで動いているはず。けれどもフリアには、その仕組みがサッパリ分からなかった。まるで魔法のようにしか思えなかったのだ。
「ラントから聞いた話によればパヴァルがある時に突然、何かを思い立ったように浴場を改造してしまったらしいんです」
「パヴァルさんが、一人で?」
「いえ、あのパヴァルでも流石に一人では無理でしょう。今代の〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまと、サイランの職人たちと手を組んでやったと、聞いています。でもこの簡易浴場……バスルーム、と言ったかな。ともかく、これが意外にも役に立つんですよ。以前はここに大きな浴場があって、それも混浴だったんですけど、一人で入りたい私なんかは仕舞い湯まで待たなくてはいけなくて。それがとても煩わしかったんです。それに浴槽がこれくらいの大きさですから、少々大きなものを洗う時にはこれが便利なんです。大きすぎず、小さすぎず、丁度いいんですよ」
「この如雨露みたいなのって、なんていう名前なんですか?」
「えっと……シャワー、って言ったかなぁ」
「さわー?」
「シャワー、だね。……パヴァルはそう言ってた気がする……」
 しゃわー、とフリアは口ごもるように小声で呟く。バスルーム。シャワー。どちらもフリアには聞き覚えのない言葉だ。本でも、そんな言葉は見かけた覚えがない。
 それに “アルシャガ”という人物は一体、どんな人物なのか。その人と一度是非会ってみたいと、フリアは思った。
「リスタさん」
「なんだい?」
 フリアの髪から泡を、油を丁寧に洗い流しながら、リスタは笑顔で応答する。
「その、アルシャガさまって方は、どんな鍛冶師さんなんですか?」
 唐突に後ろ、即ちリスタのほうへと振り向いたフリア。先程までの心ここにあらずという気のない声はどこへやら、今のフリアは興奮しきった声色で、とても早口に喋っていた。振り返った際に濡れた髪からは水飛沫がびちゃっと飛んだのだが、今の彼女はそんなことなど気にしていない。リスタの服やら顔やら髪にそれらが掛かっていようが、気にも留めていなかった。
 一度、好奇心に火が付いてしまえば、彼女の好奇心の炎は止まることを知らない。その炎を静めることができる者は、この世のどこにも居ないことだろう。
「――……ん?」
 リスタは頬に付いた泡を濡れた手で拭いつつ、彼女が早口で放った言葉を理解しようと思考を巡らし始める。
「ですから、そのアルシャガって方は、どんな凄い鍛冶師なんですか?」
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまが、鍛冶……師?」
 リスタの濃紺の瞳が、点になった。まさかこの子、あの〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまを知らないのか、と。
「もしかして君、〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまを知らないのかい?」
「はい。だから是非とも会ってお話を」
 赤紫の瞳は、あくまで純粋なきらめきを湛えていた。
「残念ながら、それはちょっと無理かもしれないね……」
「どうしてですか?」
「どうしてって訊かれても、〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまはとても忙しい人だからね。それに、とても」
「とても?」
「自由気ままで神出鬼没な方ですから。あと〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまは鍛冶師ではないですよ」
「え?」
「え」






 流石に何日もお風呂に入っていなかったのは、まずかったな。
 数日分の汗や垢も落ち、綺麗サッパリとした体。ごわついてダマになっていたり、絡まっていたりしていた髪の毛も、元通りのさらさらとした髪質に戻っていた。
 濡れた身体の水気を、リスタから渡されたタオルでフリアは拭い取り、脱衣所に置いてあった女性用の衣服を手早く纏う。
「アルシャガ様……かぁ」
 リスタによれば、“アルシャガ”というのは探せば歴史の文献資料に名前は載っているんじゃないのか、というくらいに有名らしい。
「別に知らなくてもいいと思うんだがな、〈大神術師アル・シャ・ガ〉については。逆に知らないでおいてもらいたいくらいだ」
「なんでよ」
 フリアの足下を歩いていたリシュは、不快そうな声で言う。
「特に今代の〈大神術師アル・シャ・ガ〉は特にな。あやつの言動は全く以って読めん上に、なんと言ってもヤツに付き纏うメクのクソカラスが厄介だ。独眼の水龍よりも、奴は好かん」
「リシュがなんと言おうとも、私は知りたいの。それに会ってみたいの、〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまに」
 リシュはむすっとさせた黄色い瞳で、フリアを見据える。
「……深入りだけはするんじゃないぞ」
 そしてそれだけを吐き捨て、フリアに背を向けると、そそくさと早足でどこかに向かおうとした。
「ちょっと、待ちなさいよリシュ!」
 逃げ出そうとするリシュの尾の付け根を掴み上げ、フリアはそのまま抱き上げる。離せと暴れるリシュ。だが、小さな子狐の姿では人間に勝てるはずもなく、あっという間に諦めたのか、手足をだらんとさせ、されるがままにと大人しくなった。
「うーんと、それじゃまずは書斎に行ってみようかな」
「それより俺は、飯を食いたい。誰かさんが部屋に籠ってる所為で、昨日は丸一日食っていなかったからな」
「リシュ、まだご飯の時間じゃないでしょ?」
 そんなことより早く行くわよ、とフリアは早足で目的の書斎へと向かっていった。
「……」
 知は人に恵みをもたらす。
 だがこの世界は、一つの事を考え始めれば必然的に、それとは対になるものも生まれるように出来ている。
 そう。知は恵みを齎す半面、同時に災いを齎すこととなるのだ。

 一つ一つは、小さな軋み。
 だがそれも幾重にも重なり続けていけば、やがて巨大な歪みとなることだろう。

「……〈大神術師アル・シャ・ガ〉、か」
 決して、並の人間たるものが触れてはならぬような、膨大な叡知の化身。
 それに触れるという行為の重大さを、溢れ出る好奇心に踊らされている彼女には、気付く由もないだろう。
「なにぼーっとしてるのよ、リシュ」
 〈聖獣シラン〉の記憶は仕えるべき主、つまり〈聖獣使いシラン・サーガ〉が代われば、以前の代での記憶は全て、何らかの絶大なる絶対的な力により抹消される。リシュも例外ではなく、フリア以前の〈聖獣使いシラン・サーガ〉については思い出すことができないのだ。名前すらも、思い出せやしない。
 だが、何故だろうか。
 以前にも似たようなことがあった、そんな気がリシュにはするのだ。それと同時に、漠然とした嫌な予感もしていた。
「ああ、分かった分かった。そう急かすな」
 リシュはどこか重い足取りで、意気揚々と先を歩くフリアの後ろを、小さな体で必死に追う。
 それと同時にリシュは、どこからか注がれる視線を感じていた。