【第三章 紅の華、夜半に咲き誇る】

1 三十路は目の前、急げよ男


「……というワケなんだが、どう思う。クルスム」
「ファン」
「ん?」
「アンタ、意見を求める相手を間違ってねぇか?」
「そう、だな」
 狼や獅子といった猛獣を飼育し訓練するための施設、猛獣舎のその一室。
 肩を落とし頭を抱えるのは、シアルン神国猛獣部隊隊長ファルロン・セス。その横には、更に頭を抱え込んでいる蒼い顔をした青年ベンスの姿が。けれどもベンスの足元に寝転がるウィクは、そんな二人の苦悩を知ってか知らずか、気持ち良さそうに寝息を立てているのであった。
「リスタ、お前はどう思う」
 唐突に話題を振られ、一瞬驚いたような表情を浮かべたリスタ。けれどもすぐさま普段の笑顔に戻る。そして柔らかな声色で、即答した。
「私に聞かれても、困りますよ」
 開き直っているともとれる、その笑顔。その顔が、本能的に目を背けたくなるほどにまで綺麗に整った端麗な顔であることが、どこかクルスムの癪に障るのだった。
「そういうのはディダンやパヴァルに訊いたほうが、的確な答えが得られるんじゃないのですか? とはいえパヴァルは忙しいから無理でしょうけど、ディダンならいつでも暇そうにしてますので。退屈を紛らわせる為ならば、あの子は乗り気でやってくれるでしょうし」
「ディダンってのは……あのキノコ頭のチビかい?」
「ええ、そうです。彼は私と違って、とても賢い子ですから」
「狡賢いの間違いじゃねぇのか?」

 イヤ、悪い奴じゃあねぇだろう。
 そう、分かっちゃいるんだが。
 ……まあ、要するに僻みっつーヤツ、だな。

 器が小せぇモンだな、とクルスムは自らを毒突く。
「彼女を外に出すには俺は一体、何をどうしたらいいんですかね……」
 うあー……と情けない声を出すベンス。その肩をファルロンは、ぽんぽん、と励ますように軽く叩く。
「こればっかりは、しゃあねぇよ。普通でありゃ、親からまだ離れたくねぇ年頃だろうからなぁー。自ら家を出たわけでもなく、嫁入りってわけでもなく、顔も知らねぇ赤の他人、それもパヴみたいなのに連れ出されたのなら尚更に、ってトコだろ。現にクルスムだって、隙あらばすぐに逃げ帰っちまいそうでおっかねぇったらありゃしねぇし」
 ファルロンのその発言に対し、チッ、と舌打ちをするのはクルスム。
「別に、アタシゃアンタの嫁さんじゃねぇんだから、山に逃げ帰ろうが問題はねぇだろってんだ」
「俺個人としては、お前が逃げようが何しようがどうだっていいし、逆に居なくなってくれたほうがありがたいっちゃあ、ありがたいんだ。けどよ、そうするとパヴに俺が斬られっからよ」
「よく言いますよ、ファロン」
 顔をあげファルロンのほうを向くリスタ。と、それとほぼ同時にベンスもくすっと笑った。
「ラントとエレイヌから聞きましたよ。ギャランハルダで酒をあおった挙句に寝入ってしまったとき、寝言で『クルスム、俺だ、結婚してくれー……』って言ってたと」
「へ? 何言ってんだよ、お前。お、俺がそんなこと、言うわけないじゃないか。どうせ恒例の、エレナの姐御の冗談だろ?」
 徐々に表情が引き攣り始めるファルロン。声も妙に上ずっている。クルスムの目も、点になった。
「俺もその話なら、キャスから聞いた」
 追い打ちを掛けるようにベンスも同意する。キャスから聞いた、という言葉がファルロンの鋼鉄の心の唯一脆い部分を深く抉り取った。
 パヴァルとは違い、冗談めかしな嘘など吐かぬ、どこまでも真面目を絵に描いたかのようケリス。あのケリスが、それを言っていたのだ。
 要するに、それは事実。
 実際に起こったということなのだ。
「……だからあン時、パヴがクルスムの名前を知ってるような口ぶりをしてたのか……」
 赤くなった顔を更に赤くしながら、溜息と共に小さく呟く。
「……まあ確かに好きだった奴は過去に居たが、少なくともクルスムじゃあなかったし、クルスムなんて論外だぜ……」
 一気に顔が赤に染め上げられていくファルロンを横目に、今にも溢れ出そうな笑いを堪えるベンスとリスタ。当のクルスムはというと、こちらもまた今にも吹き出しそうなのを必死に堪えていた。
「お前まで笑うこたぁねぇだろクルスム!!」
 顔を真っ赤にして、額から大玉の汗を滴り落としているファルロン。間抜けとしか言いようのないその顔を見せつけられたクルスムは、堪らず目を背けた。けれども必死に抑えていた努力も虚しく、笑いの蓋は外れ、わっと笑いが噴火の如く体の底から込みあがってくる。遂に堪えられなきれなくなり、ブッと噴き出す。そして膝を折り、腹を抱え、大口を開け、ただ狂ったように大声で笑い転げる。ぎゃはは、あはは、アンタ、ホントにバッカじゃねぇの。そんなクルスムの大声に、ウィクが叩き起こされる。折角の眠りを阻害されたウィクは不機嫌そうに身を起すと、ファルロンに八つ当たりをするのだった。
「お前ェさんよ、まだトラウマなのか? 確かアレは、クルスムの反応が気になるから、お前告白してみろとかヌアザンに冗談で言われたんだろ。それでこっ酷い返り討ちにあったんじゃねぇか」
 ぎろり。ウィクの緑色の瞳に、殺意と嘲りの光が灯る。
「う、うっせぇぞウィク! 獣は黙ってろ!!」
 ファルロンはウィクの鬣を一房掴むと、それを乱暴に引っぱった。
「痛ぇじゃねぇか!」
「じゃあそのデッケェ口を塞ぎやがれ、犬畜生が!」
「犬畜生とは女神様のお使いである聖獣サマに利く口じゃねぇなぁ、おい」
「俺の相棒のサフィヤンよりお前のほうが、十分に犬畜生だと思うけどな」
「喋れもしねぇただの獣、それも狼なんざと俺を一緒にすんじゃねぇぞ、てめぇゴルァアアア!!」
 毛並みを逆立て、臨戦態勢をとるウィク。ウィクが上げる低い唸り声が場の空気を僅かに振動させ、クルスムの収まることを知らなかった噴火のような爆笑を一瞬にして静めさせた。
「おいおいおい、落ち着けてっばウィク」
「だがァッ!」
「今ここでコイツの首を噛み千切ったところで、アンタが犬畜生になるだけだぜ?」
「……」
 ウィクが唸るのをピタッと止めた。不服気にファルロンを睨み据え、口元を窄めながらも、その場にゆっくりとその巨体を伏せる。
「ファン、アンタもいい加減大人になれってんだよ」
「お前にだけは言われたくないわ、クルスム」
「黙れ遅刻魔」
 クルスムとウィクの目が、静かにファルロンを睨み据える。それまで赤かったファルロンの顔も、一気に青ざめていった。特に三白眼の、研ぎ澄まされた刃を連想させる鋭い視線は、背筋に冷たい何かを這わせるには十分すぎる材料だった。
 ぎりり、とクルスムが歯を鳴らす。ファルロンの表情は引き攣り、無数の大粒の汗が額からは染み出ていた。そして、流石にこのままではマズイとでも思ったのだろう。努めてにこやかな笑みを浮かべたリスタが、二人の間に割って入り仲裁をするのだった。
「落ち着いてください。とにかく、本題に戻りましょう?」
「だってよ、クルスム」
「……ウィク、前言撤回だ。こいつの喉首を」
「本題に戻しますよー! 要するにベンス、あなたは〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉のあの少女を、自分から外に出れるようにしたい。それが出来なくとも最低限、食事ぐらいはまともにしてもらいたい、ということですよね?」
「ああ」
 そう返事をしながらベンスは、俯き加減で下唇を噛む。
「思ったんだけどよ、ベン。お前が自分から俺たちに助言を求めに来るなんて、そういや珍しいよな。そんだけあのお譲ちゃん相手に手ぇ焼いてんのか?」
「…………」
 無言で頷くベンスに、苦笑いを浮かべる一同。
「ランにまず相談した。けど」
「どうせ俺は忙しいから他を当たれ、とか一蹴されたんだろ?」
「その通りだった」
「忙しくねぇクセにな、アイツ」
「……?」
「リュンにしてもお前にしても、アイツに騙されてんだ」
 問題のフリアの護衛兼監視役を今、ベンスは任されていた。
 〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の事務所内の空き部屋を彼女に与えたのはいいものの、彼女は一度そこに入ったきり、部屋の隅に縮こまったまま動かないのだという。食事等の生命を維持する上で必要最低限の行為を行うとき以外は、全く以てそこを動くことはなく。あのお節介のリュンですら、手を焼いているということらしい。
「想像以上に酷いな、そりゃ」
「あのおりゅんですら、お手上げなのか」
 とはいえその食事すらもまともに摂っていないのが現状であり、風呂ですらも随分と長いこと入っていないらしい。
 ベンス曰く、初めてサイランで彼女を見たときの美しい髪は、今となっては幻であったのかのように消え去ってしまったのだという。美しさの名残は何処にも無く、肉眼でも分かるほどにまで毛の一本一本が酷く傷み、毛並みは乱れに乱れているというらしい。それが閉じられた暗闇に浮かび上がる様を思い返すと、あれは魔女だったのではないのかとベンスは言った。
「それはない」
「女の子に対してその言葉はあんまりですよ、ベンス」
「いや、でもアレは」
「思ってても普通の子にゃ言っちゃいけねぇな」
「クルスムみてぇな奴になら、言っても大丈夫だろうけど」
「黙れ、ファン」
 そんな彼女を、ベンスはどうにかしようと思考は巡らせてみた。……のだが、彼女は幾ら今は酷い成りをしていたとしても、女性であることには変わりがない。男である彼が不用意に体に触れれば、どんな目で見られるかなんて分かったものではない。思春期でただでさえ敏感になっている十五の彼は、そんなことばかりに思いを巡らせて、結局は埒が明かなかった。
「いやぁ、ベンス。それは流石に考え過ぎですよ……」
「逆に女性のほうから触れに来られるリスタ様がそれをお言いになられても、説得力が御座いませんなぁ?」
「……それは嫌味ですか?」
「むくれた顔ですらお美しいとは。実に殴りてぇツラだこと」
「なんでそんな意地悪なことばっか言うんですか、ファロンは」
「嫌いだからじゃねぇのか?」
「……そんなぁ……」
 そこでベンスは、まずリュンを頼ってみた。
 だが、結果だけを言えば、リュンのどんな説得もどんな強攻手段も、フリアには効かなかった。そしてリュンの提案で、次はラントに一度相談をしてみることにした。
 けれどもラントには、忙しいという理由で断られた。無論、ラントが無理なのであれば更に多忙であるケリスなどは最早論外であり、取り敢えずそれ以外を当たることにしたのだ。
「ラントの野郎は、ただ単に面倒臭いだけだろ」
「そんなことは……」
「ありえます。ラントなら。なにせぶー垂れ駄目ラントですから」
「なんだい、そのへんてこなあだ名は」
「パヴァルが、昔ラントに付けたあだ名ですよ。いつまで経っても成長しないし努力もしない、その割には不平不満を一丁前に垂れる、って」
 が、ディダンは幾ら口が巧いとはいえ自分より四つ年下で、齢十一。そんなディダンに頼るなど、ベンスとリュンの二人の自尊心がそれぞれ許さなかった。
 だからといえ、パヴァルやヴィディアなどという色々と危ない人物、要するに危険人物に任せせれば、結果が良かれ悪しかれ、どうなるのかなど予想が出来ない。それに関しても二人一致で、その二人にだけは相談しないことにした。
 そんなわけで次に二人は、アルダン随意の変人でありながらも単純で天然でバカと名高いユインのもとに向かってはみたのだが。……その時のユインはどういうわけか、全身に包帯をぐるぐると巻かれており、尚且つ近寄りたくもないほど精神を病んでいるように見えていた。なのでその時は話しかけることをする前に、二人は諦めて帰ったという。
「ロディー嬢の件の後か」
「そうだな。あれは酷かった」
「ロディー嬢?」
「まあ、色々あってだな」
「それはアタシらの内輪の事情さ。アンタにゃ関係ないよ」
「……すみません」
「クルスム」
「なんだよ……?!」
 そうしてベンスは消去法的に、獅子や狼といった大型の猛獣を扱うファルロンと、鷲や鷹という猛禽類を扱うリスタ、それと偶々その場に居合わせていた〈風雷ノ聖獣使いシラン・サーガ・キウ〉であるクルスムと、その聖獣ウィクのもとに来たのだという。
「頼む。もう他に頼める当てがないんだ」
「ガキが頭下げんなって。ガキのうちは自信があろうが無かろうが、とにかく胸を張ってろってんだよ」
 深く頭を下げるベンスに対し、クルスムは呆れた口調でそう吐き捨てる。そんなクルスムの左肩を一発、ファルロンは強く叩いた。
「お前は黙ってろ、アホ」
「アホはどっちだ、大馬鹿ファン」
「いい加減やめにしたらどうですか、二人とも」
 鋼鉄のように思えた笑顔を初めて歪めてみせたリスタは、少々きつい口調で二人を諌める。リスタの本気の苛立ちを感じ取ったクルスムは反射的に、ファルロンの胸倉を掴みかけていた手を引っ込めた。そしてクルスムはその時に初めて、ベンスが自分たち二人に対し、とても冷たい眼差しを投げかけていたことに気がついた。そんなクルスムの横でリスタは、容赦なく話を進めていく。
「その彼女、フリア……でしたっけ?」
「フリアだ」
「取り敢えずは彼女を無理矢理にでも連れ出して、事務所の一階にある浴場に連れて行きましょう。野宿をしているわけでもないのに何日も体を洗っていないというのは、一人の少女として如何なものかと思いますのでね」
「でも、どうやって連れ出せと? 今まで何度も失敗してきているのに」
 ベンスが顔を顰める。と、そこでファルロンが何かを閃いたかのように目を見開き、口も開いた。
「お前もリュンも馬鹿だな! お前らぐらいの年の子絡みの件なら、そーいうのに一番手慣れてるヴィッデにやらせりゃいいのによ。だってヴィッデがお世話してるイゼルナさまだって、お前らと同い年くらいなわけだろ? パヴだって、お前らに剣術の指導をしてくれてるワケだ」
「いや、でもヴィッデはまだしも、パヴは」
「だから、だよ。俺からすりゃパヴもランも大して変わらんと思うがな」
「……大して、変わらない?」
「ああ、そうだ。それにヴィッデも一応仕事は入っちゃいるが、今日はほぼ暇だって言ってたぜ。パヴは分からんが、この時間帯ならギャランハルダにでも居るんじゃねぇのか。 なんなら、今すぐ俺が呼んでこようか?」
「……パヴにヴィッデ、か……」
 ベンスは更に頭を抱え、溜息を吐く。
「それならファロン、あなたはギャランハルダに向かって下さい。パヴァルかリュンが居たら、両方とも事務所に連れて来て下さい。リュンについては、女ものの衣類をある程度調達してくるように言いつけておいて下さい。きっと最近の流行とやらに一番詳しいのは、彼でしょうからね。その間に私は先に、事務所のほうで準備をしておきますので」
「おうよ。……命令されンのは気分が悪いぜ……」
「ベンスとクルスム、とウィク。あなた達は、ヴィディアを頼みます。きっと離宮に居るでしょうから、そちらに」
「……しょ、承知、した」
「アタシもかい?!」
「ええ、あなたも。ここでファロンと二人、延々とくっちゃべってたくらいなのですから、暇なのでしょう?」
 にこっ。
「……分かったよ」
「呑み込みが早くて助かります。では、宜しくお願いしますね」
 リスタのにこやかな笑みにより強制的に追い出されるクルスムら。不本意ながらも取り敢えずは言いつけ通りに、ファルロンはパヴァルとリュンを、ベンスとクルスムとウィクはヴィディアを、それぞれ探すことにした。





「なあ、ガキ」
「俺の名はガキではなくてベンっ……」
「居ねぇじゃねぇか、あの二人」
「………」
 第二分家の為に設けられた小さな宮殿。通称、離宮。ヴィディアが居るであろうとは思っていたが、そのどちらも居ないらしい。侍女たちがそう言っていた。
「……予想外、だったな」
「それも、事務所に向かったとは」
「なら、良いじゃねぇか」
 ウィクは踵を返す。
「事務所に、行こうぜ」





 クルスムらが事務所に辿り着き、フリアの部屋の前まで訪れたとき。少女の甲高い悲鳴が、扉の向こう側から聞こえてきていた。
「やめて! 放して、下ろして!!」
「こりゃ一体、中はどうなってんだか」
「なぁー」
 クルスムが溜息を零し、それに被せるようにウィクも気だるげな声を上げる。と、そのとき。ベンスが何かを感じ取った。
「……下がれ」
「なに?」
「パヴァルだ。蹴破る」
「扉を? まさか」
「パヴァルは扉を滅多に手で開けない。いつも蹴破ってこじ開ける」
 それまで扉の目の前に立っていた一同は、左右に分かれる。そして……――!
「なっ!!」
「おあっ?!」
 ベンスの予言通りに、扉は盛大に蹴破られた。前に倒れた木の壁は、蹴破った張本人に容赦なく踏まれていく。
「そう言わずに、お譲ちゃん。引き籠りは体にはよくないぜ? ユンみてぇになっちまう」
 赤い髪の少女フリアを肩に抱き上げながら、扉を蹴破って出てきたのは独眼の水龍パヴァル・セルダッド。そんなパヴァルの通り過ぎざま。ベンスに投げかけられた、フリアの視線。それは彼の心へと突き刺さり、鈍い痛みを……――だが、ここは嫌でもパヴァルに任せなければならない。
 そして続いて出て来たのは、暴れる〈炎ノ聖獣シラン・レイ〉子狐リシュを抱えたヴィディアだった。それとしたり顔のファルロンと、膨れっ面のリュンの二人も出てくる。リュンに関しては「あとで扉を直せよバカバカバーカッ!」とパヴァルの背中に向かって大声で叫んでいた。
「よお、おめーら。遅かったじゃねぇか」
 今、目の前で起きている出来事をその目で見ておきながらも、まるで何事もないかのように、笑顔でクルスムらに挨拶をするファルロン。完全にファルロンが油断しきっていたその瞬間、ファルロンの鳩尾にはクルスムの強烈な一撃が捻じ込まれるのだった。
「ナニが、遅かったじゃねぇかだよ!」
「お前こそ、いきなり何しやがるんだ!」
 拳がのめり込んだ鳩尾のあたりを護るように両腕抱えながら、クルスムを睨み据えるファルロン。そんなファルロンをクルスムは、その三白眼の目を更に見開き、威圧的な雰囲気を発しながら、ぎろりと睨んでいた。今にも掴みかかりそうな二人を横目に「ああ、また始まった……」と呆れるのはウィクとベンス。そんな嫌な空気の漂う中、空気を察していないリュンは無謀にも自ら険悪な空気へ飛び込んでいった。
「やぁーだ、もう! 喧嘩しないでよ、ファロンとおばさん!」
 膨れっ面のリュンは、クルスムとファルロンの間に割り込む。だが、それだけではない。おばさん、とたしかに言った。ベンスの顔は、ぴくぴくと引き攣り始める。

 何をやってるんだよ、リュン。

「なんだよ、ベン。ひっどい顔だな。そんな顔でボクを見ないでよ」
「……どうにでもなれ」
「へ? え、あ、ボク、なにかベンにしたっけ?」

 お前はどうしてそんなに、変なところで俺より鈍感なんだ。
 その分、お気楽でいいのかもしれないが。

 きょとん、と首を傾げる目の前のリュンを呆然と見詰めながらベンスは、リュンの右隣りにいる人物――即ち、クルスム――の握りしめられた拳を見る。手の甲に血管がピキッと浮かび上がるさまを、視界の隅で捉えた。
「俺は、もう、知らない」
「だからなに? ボクがベンに何かした? 俺はもう知らないって、何が?」
「……おい、神速のリュン」
 ドスの利いたクルスムの声が、リュンの名を呼ぶ。
「……もしかしてボク、マズイこと言ってた感じなの?」
「気付くの遅ぇよ、おりゅん」
 本能的に、何か危険なものを感じ取ったのだろう。真顔でそう指摘したファルロンは、口を動かすと同時に二、三歩後ろに後退る。ベンスもウィクも同様にクルスムから離れた。そして足並みを揃えてリュンも、少しばかり殺気立っているクルスムから離れる。けれども、間に合わなかった。
 リュンの右肩をクルスムが、右手で掴む。それはもう、まだまだ華奢で細く脆そうな骨を、有無を言わせず砕き折ってしまいそうなほど力強かった。
「キャッ?!」
 リュンを頭頂から足先まで、その身体を品定めでもしているかのようにクルスムは一通り見ると、今度はバンッとリュンの背中を押し飛ばす。
「――……テメェはとっとと、買うモン買ってきやがれ」
「……!」
 恐怖により見開かれたリュンの目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
「返事はァッ!!」
「はっ、はい!!」
 そして脱兎の如く、いつもの倍以上に速い足で外へと逃げていくリュン。その後ろ姿を、ベンスは明た眼差しを送りつつ、黙って見守っていた。