【第一章 箱庭の夜】

2 待ち人来たらず


「本当に、兄上様はお亡くなりになられたのでしょうか」
 一人の女性は月明かりだけが微かに差し込む薄暗い部屋の窓際で、ディア湖を見つめながらそっと呟く。窓から静かに吹き込む夜風に、金色に輝く長い髪は弄ばれていた。
「ディーン、貴女はどう思いますか?」
 《光帝シサカ》と同じ濃紺の瞳を侍女に向けたのは、シアル第二分家当主のイゼルナ・シャグリィアイグ・シアル。イゼルナの急すぎる問い掛けに、ディーンと呼ばれた白い髪に紫色の瞳を持った侍女――シャグライ族出身のロンディン・ウェルザポ――は戸惑いを見せた。
「あ、あの、えっと……」
 これはロンディンが、他の侍女から聞いた話。イゼルナの兄はある日突然、両親のラルグドレンス卿とシェルティナ夫人と共に、イゼルナだけを残して失踪してしまったのだという。以来、イゼルナの兄も両親も消息が掴めないのだという。
 イゼルナの兄はそれはとても美しく、そして優しいお方だったのだという。少なくともロンディンは、他の侍女たちからそう伝え訊いていた。というのもロンディン自身、その人に会った事も無ければ、その人の名前すら知らないのだ。
 けれども、そんなロンディンにも一つだけ分かることがある。それはゼルナが、その兄を心の底から敬愛しているのだということだ。
「どこかで、今も生きていらっしゃいますよ」
 ロンディンは自分に言い聞かせるようにそう言う。
 彼女もまた、ある人を探していた。
「……きっと、大丈夫ですから」
 サラネムの山中にひっそりと、姉妹族ラムレイルグと共に暮らしている部族、シャグライ。
 彼女の幼馴染であり許婚であった男は一族の掟を破り、ある時突然山から居なくなってしまった。けれどもシャグライ族にとって、掟は絶対。その中でも特に尊ばれるのは、男女の間で交わされる掟だ。親同士が決めた婚約は絶対で、それを子が勝手に破るなどというのはあってはならぬことなのだ。
 だから彼女は、王都に来たのだ。その男が王都に居ると伝え聞いたから。見つけ次第、山へと連れ戻す為に。
 ただ、王都の何処にいるかまでは見当は付いていなかった。それどころか王都に来てみれば、あの男に関する情報が溢れかえっているばかりで、どこにいるかを絞ることが出来なかったのだ。どこどこの露天商と薬草の値段についてで揉めていただとか、青天井の下で学者に通えない子供たちに読み書きを教えていたとか、ギャランハルダという酒場で店主の女に叱られているのを見たとか、それ以外にも色々と。そうしてロンディンは困り果て、城下町シャンリアレで路頭に迷っていたそのとき。哀れな彼女に救いの手を差し伸べてくれた、一人の男が居た。右目に眼帯を着け、無精髭を生やした胡散臭いその男は、名前をパヴァル・セルダッドと名乗っていた。
 そして、その男が教えてくれたのは『王宮に居ればその男に会えるかもしれない』ということ。それと、『王宮は今、主に女性の働き手が足りなくて困っている』ということだった。
 だから、彼女はここに居る。当面はここで食いつなぐための金を稼ぎ、侍女として働く。その中であの男に会ったら、即刻あいつを山に引き摺ってでも連れ戻す。
 それだけだ。
「そういえば、ディーン」
「はい、なんでしょう」
「湖の騎士、という噂を聞きましたか?」
 再びディア湖へと視線を移したイゼルナが、ロンディンに問いかけた。
「それが、どうかされたのですか?」
「今、誰かがディア湖の畔で、グロウィンを奏でているのですよ。貴女が探している方もグロウィンが弾けると、前に言っていらしたでしょう? ですから、もしかしたらと思いましてね……」
 そんな偶然は滅多に起こり得はしませんけれどもね、と苦笑するイゼルナ。金色の髪が、窓から吹き込んできた夜風に吹かれ、揺れる。それが月の光に照らされて、煌々とした光をちらつかせた。