【第一章 箱庭の夜】

1 グロウィンの調べ


 時刻は陰ノ刻ノクテ(午前零時)。従者や貴族など、大勢の人間が跋扈する賑やかなシアル王宮にも夜が訪れ、静寂だけが宮中を満たしていた。
「……静かね、とても」
 そう呟いた窓際に 佇たたずむ細い影――シェリアラという名の女――は、外の世界の夢を見ていた。大きな部屋とは不釣り合いなほどに小さすぎる窓を開け、そっと外の音に耳を澄ます。外の世界からは、夜想曲が聞こえてきていた。
 夜が更けると、いつも決まって王宮のどこからはグロウィン(リュートに似た弦楽器。大の男がようやく抱えられるような大きさのものをグロウィン、子供でも扱える小ぶりのものをギルウィンと呼ぶ)の調べが夜闇の澄んだ空気に乗せられて、シェリアラの元へと運ばれてくる。果たしてそれがシェリアラに向けられたものなのか、否か。それはシェリアラには分かりはしないが、その調べにそっと思いを馳せるのがシェリアラの日課となっていた。
 けれども、そのグロウィン奏者が誰であるかをシェリアラは知らない。きっとこの先も、知ることは無いだろう。
「……」

 シェリアラ・シャグリィアイグ・シアル。
 彼女は、神国を治める女王である《光帝シサカ》の正統後継者であった。
 それが約束された未来だと、純粋に信じていた。
 今までも、これからも。
 そこに疑いを抱く必要は、どこにもないはずだった。

 それなのに。

「……本当に私は……」
 神祖《光帝シサカ》のその清き血を継ぐ、気高く強かな者なのか。
 いいえ。今の私は、まるで鳥籠の中の小鳥だわ。
 幾度となく繰り返す自問自答の羅列。シェリアラはそれらに、少しだけ疲れを感じていた。自分でやっておきながら疲れるなんて、情けないわね。そんな本音が、愚痴となり音となり零れ落ちる。そして彼女の視線は、小さな窓からようやく見えるディア湖の湖面に釘付けとなる。
「なんて、綺麗なのかしら」
 湖面はまるで鏡のようで、反転した空の姿をそこに映し出している。空を彷徨う三つ月を、その中に留めていた。
「……皮肉なほどに」
 シェリアラは溜息を一つ吐く。純度の高い藍晶石らんしょうせきを思わせる、透き通った光を湛えた濃紺の目を憂いげに伏せる。ただ純粋な輝きを持った金色の長い髪は、哀しみを秘めた三つ月の光に照らされて、冷め冷めとした光を放った。





「何度言ったら分かるのかね、貴殿は。彼女こそが《光帝シサカ》の正統後継者だ。彼女の額には、聖光ノ紋章が薄らとではあるが刻まれている。それと不純な心を持った貴殿には見えないであろうが、私は以前に彼女の傍に〈光ノ聖獣シラン・シ〉であるサノンが居たのを、しかとこの目で見たのだよ。それが証だ。彼女には《光帝シサカ》を継ぐに当たっての、最も重大な二つの要素を持ち得ている。彼女こそが、次期《光帝シサカ》にふさわしい人物だ。余計な争いの種を、撒こうとしないでくれ」
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉、貴様の言い分は分かる。だがシェリアラを《光帝シサカ》にするわけにはいかぬのだよ。暴君であったシェリラの二の舞など、私は……――」
「まるで神にでもなったかのような、偉そうな口ぶりですなぁシルスウォッド卿よ。何度も言わせるでない! 《光帝シサカ》の正統後継者に必要なのは聖光ノ紋章、即ち〈光ノ聖獣使いシラン・サーガ・シ〉であることなのだ! シエングランゲラ妃はそれに当てはまらぬ。彼女では、無理なのだよ!」
「貴様こそ年端のいかぬ子供でありながら、何を偉そうな口を叩いているのだ」
 夜も更け始め、暗くなった王宮の中庭。枯れ草色の長い髪を靡かせる壮年の男――政ノ大臣シルスウォッド・シャグリィアイグ・シアル卿――と、齢十五ほどに見える少年のような男はそこに居た。
 少年のように見える彼は心底、このシルスウォッドという男に呆れかえっていた。それも、そのはず。明らかに見え透いている己が欲望の為だけに、本来であれば愛すべき自らの愛娘、それも一人娘を、生贄として捧げようとしているのだから。
 なんて浅ましいのだ、と彼は心の中で嘲笑う。いい年をした大の大人、それも人の親が、こんな醜態を晒してまで留めておきたい地位や名誉、金というものは、それほどまでに魅力的なものなのか、と。
 私だったらそんなものよりも、食料の安定のほうがよっぽど嬉しいのだがな。自身の過去を思い出しながら、彼はそう考える。まあ生まれながらにして裕福な暮らしを送ってきた王族や貴族達には、貧民たちの苦しみは理解できぬのであろう。
 何せ貧民というのは、“穢れた”“忌々しい”“人間以下”だからだ。
 神の子孫とは、実に気楽な御身分だ。
「それは私の台詞だ、シルスウォッド卿よ。確かに見かけはこのような子供の姿ではあるが、私の頭の中にある膨大な量の知識は、貴様如きが三十回生き返ったとしてもその一割も得られないであろうほどのものだ。そんな〈大神術師アル・シャ・ガ〉に対し、そのような口をきくとは。死後が思いやられるというものだ」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉と名乗った小柄の少年のようにみえる彼は、盛大な溜息を一つ吐いてみせた。
「生憎だが死後の世界になど、私は興味がないのでな。主神やら何やらかは知らぬが、どうとでもすればよい。大事なのは、今あるこの瞬間に生きるものたちだけだ」
「まるで聞き覚えがある言葉だな。……どこぞやの龍神が、同じ言葉をほざいていそうだよ……」
 大司祭〈大神術師アル・シャ・ガ〉。神術を窮めし者、高位の司祭である。そして神術とは、偉大なる五大女神の力を祈祷や呪詛などにより一時的に借り得て、その力を自由自在に操る呪術のことだ。
 一つの技を窮め、それを使用するにしても、多大なる体力と精神力が必要となり、一度操ろうとしただけでも酷い場合には死に至る可能性すらもある、危険な術。それを〈大神術師アル・シャ・ガ〉は、現存する限りの全てを窮め、全てを完璧に操る事ができるとされている。
 けれども、彼は言う。それは神術の扱い方を分かってないだけだ、と。神術を使って死ぬような馬鹿は、一体何を神術でしでかそうとしていたのか理解に苦しむわ、と。
 そして〈大神術師アル・シャ・ガ〉は、この世のすべての事象を理解しているとされている。歩く知の宝物庫。学者の中には、そう呼ぶ者もいるらしい。事実〈大神術師アル・シャ・ガ〉はたしかに、この〈 下界シャンライア〉と呼ばれる世界で起こる全ての事象を知り得ている。だがその知識を人に分け与えることは、決してなかった。知識を他に明かさぬ理由は、〈大神術師アル・シャ・ガ〉にしか分かり得ない。故に、そんな〈大神術師アル・シャ・ガ〉は誉れの対象であり、同時に畏怖の対象でもあった。
「〈聖水カリス〉と私を、同じ扱いにしてくれるな。あやつと私は」
「ただの友人である、でしたかな。……聞き飽きた言葉だ。かの龍神も、全く同じ台詞を吐いていた」
 そして〈大神術師アル・シャ・ガ〉となる者が代々受け継いでいるのが、“竜王錫”という名の忌々しき錫杖であった。
 蝙蝠のような翼を広げた飛竜と、とぐろを巻いた蛇の意匠が施され、飛竜の背には赤紫色の大きな宝玉が埋め込まれている、美しくもありおどろおどろしくもあるその錫杖。けれどもそれは、ただの錫杖では無かった。その錫杖は、錫杖そのものと共に、歴代の〈大神術師アル・シャ・ガ〉の魂の記憶を、蓄積された知識を受け継がせる、いわば契約の印、忌まわしき呪具だった。
 そしてこの錫杖と契約を交わした暁には、それまであった人生や名前、金も地位も名誉も、その他の何もかもを奪われ、代わりに〈大神術師アル・シャ・ガ〉としての力と、独特な赤紫色の瞳、淡い青の髪を手にすることになる。失うものも大きければ得るものもまた大きく、同時にとても大きな責任が付きまとうようにもなる、出来ればなりたくなかった役職だ。
「……はぁ」
 そう。偉そうなことを口にしたりはしているが、実のところは彼自身も〈大神術師アル・シャ・ガ〉というものに嫌気がさしていた。
 好きでなったわけではない。
 これは全て主神《秩序ウカル》の采配、運命の巡り合わせ。
 自分にそれを拒絶するという選択肢は残されてなどいなかったし、かといって死ぬのは御免だった。故に仕方なく、今まで積み重ねてきたものの全てを捨て、甘んじてその運命を受け入れたのだ。

 泥水を啜ってでも、生き延びたかった。
 ただ、それだけだったというのに。

「……」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉になって良かった点を強いて挙げるのであれば、巨烏のメクに出会えたということぐらいだ。メクは少々おしゃべりな点が煩わしくもあるが、それ以外は良き相棒でもあり、同時に馬よりも頼もしい旅の足になってくれる。これだけは喜ばしき神の采配であった。
「貴様が何と言おうと、シエングランゲラを《光帝シサカ》にする。そうせねば、ならんのだよ。……私は姪であるシェリアラを、赤子の頃から見ていた。母親であるはずのシェリラよりも、長く。だからこそ、言っている」
「無駄だ。シェリアラ妃よりも証が濃く出ている第二分家のイゼルナ妃の名を挙げるならまだしも、シエングランゲラ妃には証が出ていない。それよりも、証云々以前に若過ぎる。まだ稚児であろう? 話しはこれで終わりだ。《光帝シサカ》は、シェリアラ妃だ。それでいいだろう。波風を起こすようなことは、やめてくれ」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉は去り際に、それだけを言う。そんな〈大神術師アル・シャ・ガ〉の口からはまた、盛大な溜息が洩れたのだった。