【序章 聖獣使い】

2 神を護りし十の剣


 頬に冷たいものが触れた感覚で、フリアは目を覚ます。薄っすらと赤紫色の目を開ける。フリアの目の前では子狐の姿をしたリシュが甘え声を立てながら、湿って冷たくなった鼻面をフリアの頬に擦りつけていた。飯を寄こせと、朝ご飯の催促をしているのだ。
「分かったわよ、だから鼻を付けないでってば」
 フリアはそんなリシュをひょいと抱き上げると、台所へと向かっていった。
「じゃあ、早く飯を寄越せよ。こちとら腹ぺこなんだ」
 あれから、三年の月日が流れていた。けれども、そんな今でもフリアはあの日の出来事を、鮮明に思い出すことができていた。
 悪魔狩りという忌々しい行事の日に、赤い目をした悪魔の子、 赤イ目ノ子ソロナ・ライ・ジェンだと疑われ、磔刑に架けられた幼馴染のキアノ。今思い出してみれば彼の目は今のフリアと同じ、赤紫色だった。

 あの日、磔刑に架けられた彼、キアノは以来行方知れずになった。
 そしてフリアは、あの日にリシュと交わした契りにより、〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉になった。

 運命とはここまで不条理に、不平等に出来ているものなのかと、何度呆れたことだろう。とはいえ、今のフリアの生活に変化は然程無い。変わったといえば、髪と目の色が赤くなったこと。それと、子狐のリシュがちょこまかと常に付き纏うようになったことぐらい。それだけだ。
 昔は茶色かったフリアの瞳は、不気味なほど透き通った赤紫色になった。絹のようだとよく言われていた、栗毛の自慢だった髪は、どこか現実離れした緋色などという色に変わってしまった。でもこれは、隠してさえしまえば何の支障もなかった。出かける際には、目元まで隠れるくらいのフードを必ず、それも深く被ればいいだけ。それに気を使ってくれているのか、フリアの知り合いや友人たちも、〈聖獣使いシラン・サーガ〉であるということについては、特に触れないでいてくれている。その所為で関係が拗れたということも、今のところは特にない。不幸中の幸いだ。
 それに最近あった大きな変化を強いて言うならば、フリアの父、つまり国一番の鍛冶師であるシャンがようやくちょっとだけ折れてくれて、フリアが鍛冶師見習いになることを許してくれたということぐらいだ。
 初めのうちは「女が鍛冶師になるなど有り得ない!」や、「娘だろうが息子だろうが、とにかく俺の子である限りは鍛冶師など認めん! 俺が許さん!」などと散々怒鳴られたりしたものだが、五年間の間、フリアはずっと父にくっつき回り、粘りに粘って……やっと、だ。
 けれどもまだ、今まで触れることさえ許されてこなかった、鍛冶についての書物を読むことを許可された程度の段階でしかない。フリアが今出来る範囲の努力は、その書物を読んで理論を頭に叩き込むこと。本望では無かったものの、日々の努力を決して怠ってはいけない。この本たちが取り上げられてしまったら、フリアの夢はそれこそ終わってしまう。
「はい、リシュ。ご待望の朝ご飯よ」
 フリアの足にずっと纏わりついていたリシュはフリアのその声に、相槌を打つかのように「クゥーン」と鳴き声を上げる。フリアは台所の床下倉庫を開け、そこからリシュ用の大きな肉塊を一つ取り出すと、それを適当な大きさに切り分け、餌皿に載せた。
「なんだよ、これ。小さいじゃないか。もっと肉を」
「文句を言うなら、朝飯を抜きにするけど?」
「……わぁかったよ。チッ、少ねぇけどこれで我慢してやるよ」
 ぶつぶつと文句を零しながらも、肉塊を貪り食らうかのようにガツガツと食べていくリシュ。神に仕える聖獣といえども、やっぱり狐は狐、獣は獣。人間の言葉を話せるのと、姿を子狐から成体へと、自由自在に変化させることが出来るなどという化け狐の要素さえ除けば、ただの狐に変わりはないのだ。
 とはいえ、子狐に化けている時は、いくら外見が可愛くとも、その食べっぷりには恐ろしいものがあった。これが子狐に化けていないリシュだったのなら……とフリアは想像してしまいそうになったが、押し寄せてきた波を防波堤で跳ねかえす。恐ろしいどころの騒ぎでは、済まないのは確かだろう。
「……」
 ふとフリアは、肉塊を貪るリシュから、窓の外の景色へと視線を移す。外はまだ日が昇る前で薄暗かった。
 丁度、サイランの町の鍛冶師達が、皆一斉に起き始めて、始業する時間、明ノ三刻サ・ゼクテ(午前六時)だ。途切れ途切れながらも鉄を叩くカーンカーンという音が街に響き始めていた。
 フリアは幼いころから、ずっと聞き続けていたこの音が大好きだった。熱気が充満した鍛冶場も、赤く煮え滾った液状の鉄の色も、鉄のあの独特のにおいも、全てが、好きだった。だから将来は絶対に一流の鍛冶師になって、サイランで一番、そしてシアルン神国で一番の鍛冶の腕前と謳われている父をぎゃふんと言わせてやる。それがフリアという“一人の少女”としての夢であった。
「そういえばお父さん……」
 と、そこでフリアは気付く。この時間なら既に父は起きていて、鍛冶場からは鞴を踏んでいる音が聞こえているのが常である。だが、今日は何故か物音という物音は、鍛冶場からは一切聞こえてこなかった。その代わりに家のすぐ外から、男の話声が聞こえていた。そして考えてもみれば、母の姿も見当たらない。
「どこに行ったんだろ、二人とも」
 フリアがそう呟いた時、足もとに居たリシュがいきなり唸り声を上げたかと思うと、疾風の如く外へと飛び出して行ってしまった。
「えっ、ちょっとリシュ!?」
 フリアは、リシュの肉塊が綺麗に無くなった餌皿を片付けると、肌身離さず持ち歩いているはずのフードさえも被るのを忘れ、慌てて靴を履くとリシュの後を追い、即座に外へ飛び出していった。?






「ですが、幾らなんでも話が急過ぎるのではないのでしょうか?!」
 家のすぐ目の前に見た事も無いほど豪華で、豪勢な装飾が施された馬車が着いていた。僅かに差しこむ朝日に照らされ金銀の煌びやかな光を放つその馬車は、まるで御伽話の世界から飛び出してきたもののようにも、フリアには思えた。
 そしてフリアの父・シャンは、そんな馬車の中から降りてきた一人の男――一張羅と言ってもいいほどの上等な衣に身を包んだ、枯草色の髪に碧い眼の壮年の男――と、なにやら言い争っていた。一々、鼻につく権高な物言いや、馬車の中から降りてきたということから察するに、役人や貴族なのだろうか。それとも、シアル王家の象徴ともいえる金髪碧眼を持っているのだから、王族の人間なのだろうか……?
「これはシアルン神国の現《光帝シサカ》、シェリラより仰つかった命令だ。神と同等である《光帝シサカ》の命に背かうつもりなのであれば、今すぐここで貴様の首を取ってもいいのだぞ」
 男が腰に差してある剣の柄に手を掛けようとする。男の静かな気迫の籠った声に、怯えているのだろう。母は父の横で、ただビクビクと立ったまま震えていた。だが父は珍しく焦りの色をあらわにし、男が言葉を続けようとしたのを大声を上げて遮った。
「お待ちください、シルスウォッド卿!」
 父の額から汗が噴き出て、それがポタポタと地面に零れ、落ちる。
「……これ以上、私に待てというのか、貴様は」
 “シルスウォッド卿”と呼ばれた男は呆れたような声でそう吐き捨てると、今度はしっかりと剣の柄を握りしめていた。男の顔に狂気とも嘲笑ともつかぬ不敵な笑みが浮かぶ。鞘からは剣が引き抜かれ、その傷一つない美しい刀身が日の目を浴びた。
「……現《光帝シサカ》には、シェリラには、もう時間があまり遺されていないのだよ」
――お父さんが、危ない。
 その時、突然フリアの背後にリシュが現れる。リシュは小さなその身を翻すと、瞬く間に本来の白く大きな九尾の化け狐へと変化した。
 剣は振り上げられる。夜闇の切れ間から差しこんだ神々しい朝日を、その刀身は鈍く照りかえす。上げられたのは母の悲鳴。フリアの体の底からは、怒りといった負の感情全てが爆発を引き起こし、それが噴火しながら煮え滾る溶岩のように、蒸気を上げながら体外へと勢いよく噴き出し始めていた。
 フリアは細い脚で力強く、地面を蹴りあげる。自分が十五の乙女とは決して思えないような図太い叫び声を上げながら全力で走っていることなど、最早どうでも良かった。今、考えているのはただ一つ。見るからに脆そうな、あの刀身を砕く。
 それだけだ。
 その時、リシュが狼にも似た遠吠えを上げた。フリアの上には青白い燐光が現れ、それが彼女の体に降り注いでいく。光はフリアを包んでいった。そしてリシュは大声を上げる。
「女神《業火シレイヌ》に仕えし聖獣、リシュの名の下に命ず。汝、万物を断ち穿つ裁きの斧槍。我が声に応えよ。――……出でよ、シュロンダイヌ!」
 きつく握りしめられたフリアの拳。その中には、何か長い棒状の物が握りしめられている。フリアは再び地を蹴りあげ力強く飛び上がると、静かに目を閉じ、今、自分が握りしめている火花を散らすそれを力いっぱいに振り下ろした。
 金属同士がぶつかり合い、擦れ、傷つくような不快な音が周囲に響き渡る。そして、音は止んだ。
 フリアは固く閉じた瞼を恐る恐る、ゆっくりと開く。標的であったはずの、鼻につくあの金髪の男は既に剣を鞘に収めていた。だとしたら何故、私が振り下ろした何かをしっかりと受け止めらているような感覚があるのだろう。疑問に思ったフリアは、視線を金髪の男から自分が握りしめていたものへと移していった。
 握りしめていたのは、鮮やかな火花を巨大な斧部の先端から散らしている大きな斧槍だった。柄は、自分の身長とほぼ同じ長さもある。こんな代物、見たこともない。初めて見るものだ。驚愕しながらも、どうやって作ったんだろう、などとフリアが感心していると、金属が擦れ合う音が再び鳴った。
「……斧を、下ろして戴けませんか」
 斧槍の向こう側。抑揚のない静かな青年の声が聞こえ、フリアは我に返る。そして慌てて斧槍を下ろすのだった。そんな彼女の目に見えたのは、風変りな青色の鎧を纏った一人の青年だった。
 獲物を虎視眈々と狙う、狩人を連想させられるような力強い光を湛えた緑色の瞳。けれども、そんな瞳の光とは不釣り合いなほどに、その顔には表情がなかった。まるで感情というものを持っていないかのように、無表情。その青年の手には、三日月のように反りかえった刀身を持った、一風変わった赤い剣が握り絞められていた。そして、その剣の刀身には深い疵が一つ刻まれている。フリアは考える。今、この斧槍で削ってしまった痕だろうか、と。
「……あ、あの。その……」
 とにかく謝らなければいけないと思い、咄嗟に頭を下げるフリア。だが、言葉がそれ以上続かない。恥しさに襲われ、耳が熱くなる。穴があるのならば飛び込みたい。まさにそんな気分だった。
「下がれ、〈三日月ルヌレクタル〉」
 そんなフリアに青年がなにかを言いかけようとした。けれども、それを遮るように金髪の男が鋭い声でそう言い放った。三日月ルヌレクタル。そう呼ばれた青年は、それまで握っていた剣を腰に差した鞘に素早く納刀すると、男の後ろに下がる。その青年の口元が僅かに引き攣り、目元が強張ったのをフリアは確かに見た。
 この人も、アイツが嫌いなのかな。それとも……。
「明日の早朝、遣いを寄越す。その時には必ず、そこに居る〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉の娘を引き渡してもらおう」
 男はフリアの両親に向かい、そう吐き捨てる。去り際に青い目でキッと父を睨み据えていきながら。
「ですから!」
 父は再び啖呵を切りかけたが、途中で言葉を止め、よく実った稲穂の先のように頭を下げる。それよりも先に男が馬車へと乗り込んでしまったが故に、諦めたのだろう。
「今日中に、娘さんの旅支度を」
 青鎧の青年は、それだけを言うと、両親のほうへ一礼をする。
「待ってください! 娘を、フリアをどうするおつもりなのですか?!」
「それは……」
 母が青鎧の青年に泣きつく。
「私の口からは、説明できません。……ですが後日、〈聖水カリス〉がこちらに出向きますので、その時にお訊き下さい」
「…………〈聖水カリス〉、か」
 感情など一切籠ってなどいないように感じられる、淡々とした声で、青い鎧の青年は、そう言った。遠退いていくその背中を呆然と見つめながら、フリアの母フランダは、その場に泣き崩れる。
「お母さん……」
 けれどもそんな母にフリアは、何もしてやることができなかったのだった。