【序章 聖獣使い】

1 赤イ目ノ子



 そこは六千年もの長き歴史を持つとされる、幻の王国。神祖シサカの血を引くとされる王族、シアル王家が代々統治してきた、砂漠の世界『シアルン神国』。その国は大きく分けて、砂漠の楽園こと王都ブルサヌ、水害と貧困の町アルヴィヌ領、火山と鍛冶の都サイラン自治区、辺境の山岳地サラネムの四つに分かれている。
 また、その世界に他国という概念は無く、国を取り囲むように存在するのは果てなき樹海だけとなっている。

 樹海の先に何があるのか。
 それを知る者は誰も居らず、樹海の果てを探す者もまた居ない。
 過去にも、今にも、未来にも、誰ひとりとして存在しない。
 ……――そうである、はずだった。

「全く。どんな荒い金遣いをすれば、こんなふざけた財政報告書が出来あがるというんだ……?」
 『圧政』と『搾取』により維持されていた旧体制の象徴者であり、同時に『最悪の暴君』と呼ばれた《光帝シサカ》シェリラが病の床に臥し、常に緊張感で満たされていたシアル王宮に束の間の平穏が訪れた頃。女帝が退場した王宮内で着々と、新体制に向けた改革を進める男が居た。
「……シェリラが倒れ、ようやくこの目で財政を確認できるようになったと思えば。借金に、借金、借金ばかりじゃないか。それになんだ、これは。借金を重ねてまで購入したものが全部、衣服やら装身具だと? エディス・ベジェンが金欠だと騒いでいたからこそ、あらゆる部門の予算を削っているというのに。その裏側で、こんなバカげたことが……――あの女、王政の金を何だと思ってるんだ?」
 書類を片手に、ぶつぶつと独り言を呟きながら、廊下を歩く男の名前はシルスウォッド・シャグリィアイグ・シアル卿。純血ではない妾の子であることを理由に、赤子の頃に王家を弾き出され、幼少期をアルヴィヌの貧困街で過ごした後に、紆余曲折を経て再び王宮に呼び戻されたという、異色の経歴を持つ人物である。それ故、王宮に戻ってきたばかりの頃にはこっ酷い仕打ちを受けていたが、そんな状況も隻眼の龍を従えてからは一変し、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世していった。
 そんな彼は現在、文武資法ノ四大臣の更に上に立つ役職、“政ノ大臣”という大役を任されている。今や王政には欠かせない人物であり、彼を邪険に扱う者など王宮には居なくなっていた。
 ただ二人だけ、現《光帝シサカ》であるシェリラ・シャグリィアイグ・シアルと、その娘であるシェリアラを除いては。
「……あぁっ。こんなものをパヴァルが見ようものなら、何を言われるか分かったものじゃない。この件は、私とベジェンだけでどうにか手を打たなければ。だが、税収額を引き下げた今、どこから金を……」
 手元の書類を睨むように見ていて、後方になど全く気を配っていないシルスウォッドの後ろ。一人の金髪の少女が、ひょこひょこと飛び跳ねるように彼の背中を追いかけていく。そして少女は、大きな声で叫んだ。
「父上さま!」
 その声を聞いたシルスウォッドは、反射的に少女のほうへと振り返った。そしてシルスウォッドは、にこにこと笑っている少女を見る。
 藍晶石に似た、濃紺の瞳。最高級の金糸のように、細くきめ細かい、光り輝く金色の髪。あまり太陽の下に出ないが為に、白いままでいる肌。それはまさしく、シアル王家の人間である証だ。何故ならば、シアル王家の者以外で、このような身体的特徴をもつ者はシアルン神国には存在しないからである。
 だが、シルスウォッドは自分の目を疑っていた。彼は、この少女を知らなかったからだ。
「……」
 シルスウォッドは、シアル王家の者を全て把握しているつもりでいたし、実際にそうであった。
 本家に居るのは腹違いの姉、シェリラ。それと姪のシェリアラ。
 第一分家は自分と、現在はサイランに隠居している父親、シロンリドス卿だけ。
 それで第二分家には腹違いの兄であるラルグドレンス卿がかつては居て、その妻でありシルスウォッドの従妹にあたるシェルティナ妃も居り、その下には彼ら夫妻の子供がふたり居た。上の子がリストリアンスで、下の子がイゼルナだ。けれども今、第二分家で生き残っていることになっているのはイゼルナだけ。それもシェリラが、色々とやらかしてくれたからであり……――というのはさて措き。少なくともシルスウォッドは、目の前に居る少女に見覚えはなかった。
 となると、この子は迷子か? 
 まさか、とは思いつつも、シルスウォッドはそんな結論に至る。シルスウォッドはその場にしゃがみ、少女の視点の高さに自分の視点も合わせる。そして頬笑みを取り繕うと、少女に声をかけた。
「どうしたんだ? 家族とはぐれたのかい」
 すると少女は、愛らしい笑顔を浮かべる。
「えへへっ」
 なんだ、この子は。シルスウォッドがそう思った矢先。少女は両腕を大きく広げて、シルスウォッドに飛びかかってくる。いや、少女はシルスウォッドに抱きついてきたのだ。
「父上さまーっ!」
 シルスウォッドが抱えていた書類。その全てがシルスウォッドの手から離れ、床に落ち、散らばっていく。それでもなお、少女はシルスウォッドから離れようともしない。それどころか、ぎゅっと抱きつく力を強めていくばかりだ。
「……ち、父上? わ、私が?」
 シルスウォッドは困惑した。少女が自分に向かって言ってきたのだ。父上、と。
 だがシルスウォッドに娘など居ない。妻もいなければ、そのような関係になった女性も居なかった。そんなことに現を抜かしている暇などなかったからだ。この王宮の中で生き残るという、それだけを心に今まで生きてきたのだから。
 それなのに。
「……人違いじゃないのか……?」
 シルスウォッドはそっと少女を自分から引き剥がし、徐に立ち上がる。するとそこに、一人の白髪頭の老婆――侍女長レグサ・エンゲルデン・ベルナファス――が大慌てでやってきた。
「あら、まあシエラさま! こんなところに居たのですか!」
 レグサの登場に、少女は顔色を変える。少女はシルスウォッドの背後に隠れようとしたが、その前にレグサに捕まった。レグサは少女の腕を掴むと、自分のもとへと引き寄せる。そしてレグサは、シルスウォッドに頭を下げるのだった。
「申し訳ございません、わたくしが少し目を離したばかりに……」
「いや、別に構わない。だが、その――……レグサ。ひとつ、訊いていいか」
「ええ、なんなりと」
「その子は一体、誰の子だ?」
 するとレグサは顔を上げる。そしてシルスウォッドの目を、まじまじと見つめた。
「誰の子? シエングランゲラさまは、あなたさまのご子息でございましょうに」

 あるとき、一人の男はにやりと笑いながらこう言った。
 『樹海の果てがどうなっているのか、だと?
 馬鹿め、そんな単純なことも分からねぇのか』

 これは世界の秘密を暴いてしまった者が現れたが為に、世界に齎された災厄の物語。
 同時に、嘘も真も、神も人も運命も、まとめて全てを覆した男と、それに巻き込まれていった者たちの物語である。





 サイラン自治区の中心部の町ガムル、その一角にて。いかにも貧乏そうな酷い身なりをしている痩せ細った少年を、二人の体格のいい男たちが囲んでいた。
赤イ目ノ子ソロナ・ライ・ジェン赤イ目ノ子ソロナ・ライ・ジェン!」
「この悪魔め!」
 そんな言葉を吐き捨てながら、男たちは少年を殴り、蹴り、突き飛ばし、また捕まえては殴りつけていた。すると次第に、男たちの怒号に吊られて野次馬が集まり始める。そうして集まった、野次馬どもの前。二人の男は、少年の服を全て引き剥がしていった。
 すると一人の男が、自分の足下に置かれていた鞭を取り上げる。それには長短さまざまな長さの無数の革ひもが束ねられており、革ひもの先にはそれぞれ小さい鉄の玉が無数につけられていた。
 普段は、罪を犯したものにだけ浴びせられる鞭。けれども、今日は違っていた。
「……僕が、一体なにをしたっていうんですか!」
「うるせぇ、黙れ!」
「お前は悪魔だ、その目が証拠だ!!」
 男はその鞭を、何の躊躇いもなく少年に向かって振り上げた。ヒュンッと空気を裂く音が鳴る。少年の喉からは反射的に、痛みを訴える悲痛な叫び声が上がった。
 少年の悲鳴を聞いた観衆達は嬉々として、皆一様に騒ぎ始める。息を呑む者、悲鳴を上げる者、もっとやれと興奮したような声をあげる者。その恐怖と興奮の熱が、波立つ水面のように、段々と広まっていった。
 その場は、異様な熱気に包まれていた。遠くからそれを傍観していた栗毛の少女――フリア・シャネムという名の、鍛冶屋の娘――もまた、体をぶるりと震わせる。興奮しているのか、恐怖を感じているのだろうか、はたまた悲しみを覚えているのか。そんな、よく分からない衝動に襲われていたのだ。
「……どうなってるの、何が起きてるの……?」
 ただ一つ、確かに言えること。それは、この場に居る者たちが皆、浮足立っているということだけだった。
 そうして少年の皮膚が裂け、全身が血に塗れた頃合い。痩せた体に長らく打ちつけられていた鞭が、漸く男の手から離れ、地面へと落ちる。
「さっさと立て、この穢れた悪魔が」
 それまで鞭を振るっていた男が、少年に向かってそう吐き捨てた。すると少年はお祭り騒ぎの観衆を背に、覚束ない足取りで立ちあがる。
「死に場所まで、自分の足で歩いて行くことだな」
 そうして憐れな少年を先頭に据えた、磔刑場への行進が始まる。フリアはびくびくと震えながらも、その行進について行くことにした。




 刑場は、ガムルの街道近くにある高台だった。
 この高台は昔から磔刑場として名が知れており、殺風景な磔刑場にただ一本だけ聳え立っている十字架の縦木は、いつ見ても自然と背筋が凍りつき、冷たい風が吹き抜けていくような、そんな何かを秘めていた。「……」
 そして刑場に着くや否や、少年の口には葡萄酒の入った杯が強引に押し当てられた。
 葡萄酒の中には、没薬が混ぜられているのだ。没薬は、痛みを少しだけ和らげてくれる効果がある。だから十字架に架けられる前の囚人に最期の情けとして、没薬を混ぜた葡萄酒を一口だけ飲ませてやるのだ。
 そんな光景を見つめながら、フリアは思う。でも、和らぐのは所詮少しだけだ。可哀想に、とフリアは小さな声でそっと呟く。けれどもそんな少女の呟きに耳を傾ける者など、その場には誰も居なかった。
 そうこうしていると、裸で血塗れの少年は仰向けに寝かされた。十字架の横木に沿うように広げられた少年の両腕からは、血が滴り落ちている。そして少年の両手首には、それぞれ二ラグン(約二十センチメートル)ほどの鉄釘が打ち込まれ、横木に固定された。少年の顔が、苦痛に歪む。するとまた観衆からは、歓喜の雄叫びが上がった。
 そうして少年の両手首が固定されたところで、十字架の横木は徐々に吊りあげられていった。横木は、もともと建っていた十字架の縦木と垂直になるように組まれていく。そして十字架が組み終えらると、少年の両足の甲にも、手首に打ち込まれたものと同じ鉄釘が打ち込まれ、縦木に固定された。
 足の甲に打ち込まれた釘の下からは、血が滲み溢れる。血は十字架の縦木を伝い、地面に滴り落ちていった。
 けれども、まだ本当の悲劇は始まっていなかった。
「……嘘でしょ……?!」
 十字架に架けられた少年のもとに、突剣を持った一人の男が歩み寄る。すると男は、少年の直腸のあたりにその突剣を突き刺した。少年の口からは、呻き声と共にどろっとした血液が溢れ出る。観衆たちからは、汚いだなんだという吠え声が上がりだした。
 そして突剣の男は次に、液体が溢れんばかりに入ったバケツを持ってくる。液体の正体は、あたりに立ち込め始めた臭いから察するに油だ。すると男は、その油を少年の体にこれでもかと浴びせつけた。そんな横では、幾人の男たちが十字架の足もとに薪の束を積み始めていた。
 そして薪が積み終わると、突剣を持った男が大声をあげた。
「去れ! 悪魔に取り憑かれし子、赤イ目ノ子ソロナ・ライ・ジェンよ!」
 十字架の足もとから火の手が上がる。炎はごうごう燃えあがり、一瞬にして少年の体を包み込んだ。少年の悲鳴が火の中から上がると、観衆たちからは歓喜の悲鳴が飛び出した。
 だが一人だけ、フリアだけは見ていた。その哀れな少年の目が炎に照らされ、紫色に輝いたのを。彼の瞳は紅玉のような赤ではなく、葡萄酒のような赤紫色であったのを。
「違う、あの子の目は赤じゃない……!」
 そう呟くとフリアは周りの人間達を押しのけ、悲劇の舞台へ向かっていった。足を一歩、また一歩とフリアは進める。ただひたすら、前へ、前へと、人を押しのけ進んだ。
「やめて! その子は、その子は赤イ目ノ子ソロナ・ライ・ジェンなんかじゃないわ! 目を、瞳の色をちゃんと見るのよ!」
 そのとき。汚らしい罵声を浴びせ続けていた観衆たちの視線が、一瞬にして少年からフリアへと移った。フリアの背筋は凍りつく。
 でも、ここまで来たんだ、下がるわけにはいかない。
 フリアはゆっくりと一歩、また一歩と踏み出す。そして突剣の男の目の前まで、フリアは進んでいった。
「瞳の色は悪魔の赤じゃない……――紫よ」
 フリアがそう告げると、突剣の男は驚いたようにカッと目を見開いた。と、その瞬間、男の口からは黒い液体が溢れ出る。

 血?
 いや、血じゃない。
 なんだろう。
 ……怖い。

 フリアは後退り、男の体から離れていく。そして、ある程度の距離が開いたときだった。男の体にだけ、天から雷が降り注いだのは。
「………キャッ?!」
 それからは次々と、高台に数多の轟雷が降り注いでいった。眩む視界。雷の激しい音に阻まれて、次第に人の声や物音も、何も聞こえなくなる。それでも、人々が戸惑い、嘆き、我先にと逃げ惑っている今の状況は、よく分かった。恐怖が、蔓延していたのだ。
 フリアはその場に蹲り、頭を抱えて泣き叫んだ。何が起きてるの、もう分からないよ、と。
 すると、フリアの耳元で誰かが優しい声で囁く。
「大丈夫、フリア?」
 この声はあの幼馴染の……――――
「キアノ……?」
 そのときフリアの中で、全ての合致がいった。
 フリアはゆっくりと顔を上げ、幼馴染の少年の顔を確かめた。彼は血塗れになったその顔で、フリアに微笑みを向けている。苦しくないの? 痛くないの? どうして、こんな酷いことをされたの? なんでで、そうやって他人に微笑んでいられるの? 私だって加担してたかもしれないんだよ? 訊きたいことは山ほどあった。けれども、それを口に出そうとしたところで、フリアの口からは嗚咽しか出なかった。
 怖い。今、周りで起こっていることが怖い。その怯えた心に、自分よりもずっと傷つき、ぼろぼろになっているはずの幼馴染の優しさが沁みていく。フリアの目から涙はぽろぽろと零れ落ち、遂には止まらなくなってしまった。
「フリアは帰らないと、ね」
「……キアノ……」
「僕が、送っていってあげるよ」
 少年が、フリアの肩にそっと手を置く。そうして世界が、一瞬だけ白に包まれた。





「――……リア、フリア?!」
 母親らしき人物が、地面に倒れこんでいる少女の、泣き腫らされた頬を叩いてみたり、肩を掴み、激しく揺すぶってみたりしている。そうして二十ダル(二十分)が経った頃だろうか。少女が瞼を開き始めた。
「……おかあ、さん?」
「そうよ、お母さんよ。こんな所で倒れてて、一体何があったのよフリア?」
 少女―――フリア―――は母親の手を取り、ふらふらとした足取りで立ち上がる。そして、首を傾げながらこう言った。「何が、あったんだろ」
「とぼけてないで、話しなさい! お母さんもお父さんも、フリアがいつまで経っても帰って来ないって、物凄く心配したんだから!」
「そんなこと言われても……」
 あの場であったことを説明しろ、って言われても出来るわけないし、私が知りたいくらいだよ。フリアは心の中でそんな愚痴を零した。
 フリアは母親に頼まれ、ガムルにおつかいに行っていたのだ。夕飯に使う鶏肉を買ってきて欲しい、というものだ。けれども、フリアがガムルに着いた時にはどこの店も閉まっていて、商店街には人一人としていなかった。だから、いつも人がいっぱい居て賑やかなガムルの広場に出れば、商店街に誰も居ない理由を誰かに教えてもらえるかもと思い、広場に向かったのだ。そして、その途中途中で人々が「赤イ目ノ子ソロナ・ライ・ジェン」という単語を呪いのように口々に呟いているのを聞き、フリアは初めて思い出したのだ。今日だけは普通の日じゃない。十年に一度の、悪魔狩りの日だということを。
 フリアにとって、悪魔狩りは初めてのこと。だから気になって大衆について行ったら……――ああ、もう。思い出したくない!
「……それと、フリア。今あなたが抱きかかえているその狐は、何かしら。ちょっと、不気味なんだけれど」
「えっ、狐って……」
 母親はフリアが腕に抱えている白い子狐を指差し、気味悪がるような表情を浮かべる。そしてフリアはその時、初めて自分が子狐のような生き物を抱きかかえていることに気が付いた。
「狐?」
 フリアは狐をじっと見つめる。
 子狐のようだが、何かが違うような気がする。尻尾が、多いのだ。九本も生えている。それに尻尾の先端が燃えていた。
「……なんなの、こいつ……」
 そんなことをフリアが呟いた時、フリアと狐の目があった。なんだか嫌な予感しかしない。そう思い、フリアが子狐を地面に下ろしたその瞬間、フリアの視界は一瞬にして紅に包まれた。辺り一面を、燃え盛る炎に囲まれたのだ。
「キャッ!?」
 あまりにも突然すぎる出来事に戸惑い、狼狽えるフリア。突如地面から噴き上がった紅の炎の壁の向こう側からは、母親の叫び声が微かに聞こえる。逃げ道など、どこにも無かった。
「……えっ、どうなってるの……」
 いや、寧ろ逃げる必要が無いかのようにフリアには感じられた。
 確かに炎は燃え盛っている。けれども、熱くも無ければ、息苦しくも無かった。とても暖かくて、居心地の良いようにさえも思えていた。例えて言うなら、暖かい毛布の中。奇妙な安心感が、体の底からじわりじわりと、滲み始めている。
『そなたが女神《業火シレイヌ》の清らかなる炎を、その魂に宿したる者か』
 すると、どこからか声が聞こえてきた。だがその声に応える間も無く、フリアの左肩がジンジンとした痛みを訴え始める。左の肩口は、今まで見たことがない程にまで赤く腫れあがっていた。
「一体なんなのよ!」
 フリアはわけも分からず、そう叫んだ。と、そんなフリアの目の前に、白く輝く美しい毛並みをもった巨大な狐が姿を現す。それが九本の尾を持った狐だということをフリアが確認した時には、既に炎の壁は消えてなくなっていた。そして、フリアの目の前に現れた狐は、フリアの赤く腫れた左の肩口に、湿っていて冷たい鼻面をゆっくりと押し付ける。すると痛みは、徐々に消え失せていった。やがて狐が鼻面を離した頃には、もう肩口の腫れは引いていた。だがその代わりに左の肩口には、赤い紋章のようなものが刻まれていた。
 炎を象ったような不思議な紋章。どこかで、見た事があるかも。フリアは直感でそう感じた。
「新たなる我が主……」
 狐は静かに、フリアに向かって頭を垂れる。今までの謎の声の正体は、この狐だったのか。フリアはそこで初めて気が付いた。
「……えっ、狐が、しゃべっ……―――」
「〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉、フリアよ」
 時が止まったように、感じた。

 私が聖獣使いシラン・サーガ
 ガムルでの出来事といえ、私ったら夢でも見てるんじゃないのかしら。本当に夢だったらいいのに。
 ……いいえ、これは夢。
 夢なの。
 誰か、夢だと言って。

「我が名はリシュ。〈聖獣シラン〉が一、火を統べる女神《業火シレイヌ》に仕えし〈炎ノ聖獣シラン・レイ〉」
 炎ノ聖獣シラン・レイ。伝説で聞いた事があった。
 火を統べる女神、そして、鍛冶屋の守り神《業火シレイヌ》に仕える、真っ白で、大きな体を持った、美しき聖獣、リシュ。
 その九尾の尾からは、常に途絶える事のない、どんな火よりも暖かく、そして明るい火が 燈ともっていると言われている狐。伝説上の存在だと思っていたそれが今、目の前に居る。そして、私を主だと言った。
 〈聖獣使いシラン・サーガ〉。
 女神のしもべ、聖獣を従え、その力を行使することが出来るという、神に選ばれし人間。
 どうやら自分はそれになってしまったらしい。
「……フリ、ア……?」
 自分の母親である筈のフランダが、異形を見るような眼差しで、フリアを見ていた。集まっていた人間達も皆、フリアを見つめながら、声を潜めて、ヒソヒソと話している。まるで見世物のような気分だ、とフリアは思った。フリアの横では、リシュがその毛並みを逆立たせ、群衆に向かい唸り声を上げている。
 皆が、それもお母さんまで、私を白い目で見てる。怒りよりも、悲しさで胸がいっぱいになりかけていた。
 フリアは崩れるように、その場に座り込んだ。