ウォーター・アンダー・
ザ・ブリッジ

ep.13 - Shadow of Trauma

「……あの、エローラさま。大丈夫ですか?」
 肩を落とし、蒼褪めた顔を俯かせ、受付所前の長椅子の右端隅に座る一人の男に、役所の職員がそう声を掛ける。何かの病に罹っているのではと思えたほど、その男の顔色が悪かったからだ。
 場合によっては救急車を呼ばなければならないし、最悪の場合は衛生局に通報する事態に陥る。なので国が定めたマニュアル通りに、職員は対応しているのだ。状況を見極めるために。
 しかし職員の問いかけに男からの応答はなく、彼は俯いたまま。男の目は開いているが、その眼球が動く様子もなければ瞬きすらもなく、意識清明であるとは言い難い状態だった。なので彼の耳に、職員の声が聞こえているかは定かではない。だが「三分ほど呼び掛けを繰り返す。応答がなければ救急車を――」とマニュアルに書かれている以上、これを最低三分は続けなければならない。
「大丈夫ですか? 私の声が聞こえているのであれば、どうか返事を……――はぁ。駄目だな、こりゃ」
 どうしたものかと声を掛けた職員が狼狽えていると、職員の背後から女性の声が聞こえてきた。
「あぁ、すみません。彼、軽度のてんかん持ちなんです。昔に脳出血を起こして倒れたことがありまして、その後遺症というか。……まあ、しばらくすれば元に戻りますし、いつものことなので。気にしないで下さい」
 職員にそう説明したのは、ブリジットだった。それから彼女は椅子に座ったまま、動く気配が見られないペルモンドの腕を掴み、彼を立ち上がらせる。そして彼女は彼に肩を貸すと、彼を支えるように歩いた。
「用事は済んだから、帰るわよ。我が家に」
 返事もなければ、笑いもしないし怒りもしない。まるで人形のような姿になったペルモンドに、ブリジットはそう囁いて穏やかな微笑みを浮かべる。その背中を見送りながら、役所の職員は小声で呟いた。
「……なんだか様子がおかしいぞ、あの二人。まさかとは思いたいが……」
 そう呟いた職員の横に、別の職員がやってくる。つい先ほどまで、ブリジットが提出した書類を受理する作業をしていたその別の職員は、呟きにこんな言葉を返した。
「私、今ちょっと『やらかしたかも』って思ってるのよね。あの女性、絶対に怪しい」
「やっぱり君もそう思ったか」
「出された結婚許可証に不備が無かったから、仕方なく受理したけど。でも、普通に考えておかしいと思わない? 奥さんを三週間前に亡くしたばかりの男性が死後離婚したと同時に、別の女性と結婚するだなんて。それに死後離婚の手続きを済ませたのは当事者である男性ではなく、相手の女性ってあたりがきな臭いというか、なんというか……」
「でもさ、だからといって……」
「そう、私たちにできることは何もない」
「そうなんだよ。そこなんだ」
「……でも、万が一のために福祉課に知らせておきましょう。男性の方は明らかに正常じゃなかったから」
「ああ、賛成だ。福祉課に情報を流しておこう。もし仮に何かあったら、寝つきが悪くなりそうだしね……」


+ + +



 彼女にとって、彼はまさに“運命の相手”というものだった。
「あぁ、えっと、そ、そうなのかい。なんていうか、その……一気に、気味が悪くなってきたなぁ。いや、もちろん君のことは愛しているよ。それは変わりない。だけど、やっぱり白狼っていうのが……」
「あなたに白狼さまを好きになれとは言わないわ。でも、白狼さまは私の一部であるの。そこは、理解しておいてほしい」
 キャロライン・ロバーツ。彼女が“白狼”という存在と出会ったのは、彼女がまだ三歳だったころ。ある冬の夜、夢の中に白狼が現れたのだ。
 その夢の世界はあたり一面が真っ白で、床もなければ天井もない、白だけの何もない空間だった。そんな殺風景な景色に、幼いキャロラインが一人でぽつんと取り残されていた。夢の中で彼女は、心細さから恐怖心に襲われて泣いていた。そんな時に、白狼が彼女の前に現れたのだ。
 白狼というのはその名前の通り、真っ白な毛皮の狼の姿をしていた。白狼の瞳は緑色で、それはまるで美しく加工されたエメラルドの宝石のよう。それから白狼は、こう名乗ったのだ。
『私はジェド。玉鏡の片割れ。人間からは白狼と呼ばれている存在。あなたの一族を代々見守ってきた者だ』
 当時のキャロラインには、白狼が話す堅苦しくて難解な言葉が理解できなかった。伝わってくるのは、なんとなくの雰囲気だけ。だがその雰囲気すらも難しいもので、三歳の幼子には到底理解できるものではなかった。
 しかしその白狼に、キャロラインは恐怖心を抱かなかった。逆に彼女が感じていたのは、懐かしさと温もり。そして両親のハグよりもよほど暖かくて、心強い。大好きな祖父母の家に遊びに行った時のような、安心感と嬉しさが込みあがってきたのだ。
「私にとって白狼さまは、もう一人のおばあちゃんっていう存在なのよ。いつ、どんなときでも、傍に居て見守ってくれる。そういう存在」
「それは“おばあちゃん”っていうより、死んだ先祖の霊魂って感じじゃ……」
「まあ、そんなところ。似たようなものよ」
 難しい話をする白狼であったがその話の中でも唯一、当時のキャロラインにも理解できた話がある。それは将来連れ添うことになる伴侶の存在。ティンウッドだかシリルヴォルトだか、そんな変な名前の男だと、白狼は予言したのだ。その男は赤縁の丸眼鏡を掛けていて、ブロンドにしては少し暗くて赤茶色っぽい、しかしダークブロンドよりはもう少し明るい髪色をしていて、さらに古い時代のことが好きという変わった嗜好を持っている、と。そして念を押すように、白狼はこう言った。

 そう遠くない未来に、彼は間違いなくあなたの前に現れる。
 ただ、チャンスは一度だけ。
 その機会を逃したら最後、二度と未来を変えることはできない。
 全てはあなたの働きに懸かっています、キャロライン。

 そうして、その十六年後。白狼の予言通り、キャロラインの前には一人の男が現れた――いや、正確には一人の男が目の前を通り過ぎて行った。その男は赤縁の丸眼鏡を掛けていて、髪は枯草色で、優しそうな顔をしていた。一目見て運命の人だと確信したキャロラインは、このチャンスを逃すまいと人目を憚らずに彼に声を掛けた。生粋の地元住民であるにも関わらず、留学したてで土地勘のない大学生のふりをして、知っているどころか常連である店へ行くための道を、わざわざ彼に尋ねたのだ。
 そうして捕まえた男は考古学オタクの大学生。その名も、シルスウォッド。
 二人の出会いはキャロラインが彼に道を尋ねたことがキッカケだったが、二人が交際に発展したそもそものキッカケは、シルスウォッドの一目惚れ。運命も幽霊も唯一絶対の神も聖書も悪魔も天使も預言者も予言者も信じていないが、マダム・モーガンという名前の死神は知っている彼も、あの時だけはキャロラインに対して運命のようなものを感じた……――ということらしい。
「生きてるか死んでるか、それってかなり大きな隔たりだと僕は思うけど」
「私からすれば生者も死者も、大差ないわよ。肉体があるか、ないかの違いでしかない。死者のほうが、より本当の終わりに近いってだけで」
「本当の終わり? いや、死んだら何もかもが終わるんじゃないのか」
「いいえ。死っていうのは、肉体がなくなることを云うだけ。本当の終わりは、魂の消滅。死神に喰われて、完全に消え去ることを云うのよ」
 そんなこんなで、夜の十一時半。突然来訪したマダム・モーガンがモルトウイスキーのボトルを空にして帰っていき、そして彼女が帰った直後に「怖い夢を見た」と言って起きてきたテレーザも、再び寝静まった頃。テレーザにとっては祖父母、そしてキャロラインにとっては両親であるロバーツ夫妻も既に就寝していて、起きているのはキャロラインとシルスウォッドの二人だけになっていた。
「……僕には、さっぱり分からない世界だな」
 悪夢に大泣きして飛び起きたテレーザの話から飛んでキャロラインの大昔に見た夢の話になり、さらに飛躍して白狼の話になっていた夫婦の雑談。未だに完全には理解できていない霊能者キャロラインの世界に、シルスウォッドが浮かべるのは苦笑い。それは彼女の見ている世界に対して向けられる拒否反応と、どこかで全てを中途半端に理解し、やや納得しつつある自分に対する拒絶から零れ出たものだった。
 キャロラインがこうして話してくれる不思議な言葉は、時にマダム・モーガンの言葉と内容が一致し、大学時代のペルモンドが錯乱状態に陥ったときに発していた譫言の数々や、彼が酷い悪夢に魘されていた時の寝言の数々とも一致する。偶然というには、あまりにもその頻度が高すぎた。それに彼女らには偶然という言葉では済ませられない共通項があり、その共通項は大いにシルスウォッドの人生に影響を及ぼしている。
 白狼と黒狼。その二匹の狼。シルスウォッドはそのどちらとも、言葉を交わしたことがあるのだ。それに彼は、二匹の狼から別々に脅しとも取れる言葉を投げかけられている。
「でもそれがあなたを含め、私たちの生きている世界なのよ。目に見えない存在が、目に見える世界を陰から支配している。そうしてこの世界は動いているのだから」
 なんてことないように、キャロラインは小さく笑いながらそう言う。彼女のその微笑みは、時としてシルスウォッドの心に漠然とした恐怖を植え付けるのだった。





 ブリジットが用意周到に用意しておいた諸々の書類に不備はなく、役所での手続きはスムーズに終わり、法的には二人は夫婦となった。だがその実情は、如何なものだろう。
「ねぇ、あなた。私の声が聞こえてる?」
「……そうだ。全て終わったんだ。なぁ、もう充分だろ? これ以上、俺に何をしろと……」
「ペルモンド?」
「…………」
「大丈夫なの、ペルモンド? 私の声が、聞こえてるの? 聞こえているなら、返事を」
「終わりにしてくれ、ジェド! お前の好きにすればいいさ。だが俺は、お前の罪まで背負いたくない。……ああ、そう言っているだろ。お前の好きなようにすりゃいいさ……」
 黒狼が現れるたびに状況は急転する。それにより状況は時に良い方向に転び、時に悪い方向に転ぶ。だが共通して言えることがある。それは、どんな状況に転ぼうがペルモンドが得をすることはないという点だ。
「――はぁ、ペルモンド。あなたは一体、誰と話しているのよ……」
 ブリジットの結婚を、父親のリチャードは歓迎し、母親のリアムは遠回しな言葉で反対した。そしてシルスウォッドには真っ向から否定され、彼の妻でありブリジットの友人であるキャロラインも、その結婚を祝福はしてくれなかった。
 同僚のイルモ・カストロは、ブリジットの左手薬指に指輪が嵌まっているのを見るなり、目くじらを立てて怒鳴り散らした。それでも君は医者なのか、そもそも君に良心というものはあるのか、と。
 その二日後、イルモ・カストロは勤めていたクリニックを去っていった。ブリジットが院長に、ドクター・カストロからセクハラ行為を受けたと告発したからだ。そして昨日、イルモ・カストロは北米大陸を後にし、彼の故郷であるオーストラリア大陸に帰っていった。
「……大学時代のシルスウォッドはいつも、これに付き合ってたってことなのかしら。延々と、誰かと話しているかのような独り言を続ける彼に……」
 緑色の目の彼が『こいつの記憶を書き換える』と言った、あの後。ペルモンドは気を失い、その晩は目を覚ますことがなかった。
 そして翌朝、彼が目を覚ました時。目覚めた直後の彼はまだ緑色の目をしていた。そんな緑色の目の彼は背筋が凍えるような冷たい笑みを浮かべると、ブリジットにこんなことを告げた。
『ごめんな、お嬢ちゃん。魔法のように一発で記憶を書き換えられれば良かったんだが。まあ、出来ないことはないんだが、そうすると現実で何かと不都合が起こるからよ。そこで少しずつ、記憶に改変を加えることにした。かかる時間はこいつの精神の保ち具合に依るがー……ざっと見積もって二年ぐらいか。それまではしばらく、こいつは混乱状態が続くだろう。まっ、どうか見捨てないでやってくれ』
 そう言った緑色の目の彼は、まるで他人の不幸をせせら笑うような声色をしていた。それから彼は続けて、こうも言っていた。
『こいつを作り直して、幸せにしてやってくれよ? ……でなけりゃ再び、こいつを不幸のどん底に突き落とすことができねぇからな』
 その言葉のあと、瞼が下りて緑色の目は閉ざされた。そして再び瞼が開いたときには蒼い瞳に戻っていて、同時にペルモンドは魂の大方を喪失したような顔つきになっていた。
 それからのペルモンドはずっと、この調子だ。あの緑色の目の彼が再び現れ、姿を消してから、一〇日が経とうとしているにも関わらず。
「……俺は、お前みたいな獣になりたくないだけだ。誰かに飼いならされるぐらいなら、消えてしまった方がいい。昔に、戻りたくないんだ。戻りたくない……」
「ペルモンドさーん、そろそろ現実に戻ってきてくれないかしら? 夕ご飯、できてるんだけど。ねぇ?」
 ブリジットの声など聞こえていない。というよりも、目の前に広がる現実は彼の目の前を通り過ぎていくだけで、何一つとして彼に干渉することが出来ず、また彼も現実を見る目を閉ざし、全ての聞く耳を塞いでいた。
 しかし彼は仕事には行く。そしてキャロラインから伝え聞いたシルスウォッドの話によれば、職場では至って普通の様子らしい。それに「いつも通りすぎて気味が悪い」と、シルスウォッドは零していたというではないか。
 見せられているほうの心が底冷えするような、世にも恐ろしい狂気を秘めた笑みを口元に湛えて。会社役員に呼び出されて怒鳴られようが、臆することなく業務を放棄して。そして本当に本当の「外注の仕事」を彼はオフィスで平然とこなし、シルスウォッドにはよく分からない計算をコンピュータに命じ、シルスウォッドには理解のできない何かの設計図を描きながら、時に彼はシルスウォッドには全く以て理解できない言語で、自分の髪をかき乱しながら叫ぶのだという。
 その言葉の意味は、その言葉を発した本人にしか分からない。シルスウォッドも、ここ数日の彼があまりにも怖すぎて、その言葉の意味を訊ねることができなかったという。ただ、それを言うときの彼の表情から察するに……まあまあ過激な内容かもしれない、とシルスウォッドはキャロラインに言っていたそうだ。
 たとえば……この世界なんて滅びればいい、みたいな。そんな感じかも。
「……カリス。全部、お前のせいだ。お前が、いつまでも俺をこの世に縛り付けるからだ。なぁ、カリス。お前は今、どこに居るんだよ。この責任を、どう取ってくれるんだ……!」
 一人で何かに怒って、何かを悲しんで、一人で絶望に暮れて……――今のペルモンドは、その全てが“ひとり”で完結している。閉じた世界の住人となった彼の姿は、その昔シルスウォッドが使っていた言葉「まるで自閉症、それか統合失調症だ」というのがピッタリだった。
「……仕方ないわね。こうなったら、奥の手を使うしかない……」
 時刻は午後九時。ブリジットが作った夕飯は、とっくに冷めている。それにブリジットは空腹で堪らない。だが、かといってペルモンドが現実に戻ってくるのを待っているようでは、いつ食事にありつけるかが分からない。
 そこで彼女が手に取ったのは、化粧ポーチ。ポーチの中からブリジットは小さな手鏡を取り出すと、鏡面をペルモンドに向ける。すると彼の独り言が止まった。
 そうして顔を上げた彼の瞳は、緑色に変わっている。それまで生気を失っていた表情は、すぐに飢えた狼のようにぎらついた、野性的で生き生きとしたものに変化していった。


+ + +



 ある冬の寒い夜。一人用の狭いベッドの上に、二人で仰向けに寝ている。するとエリカが体をひねり、左側に寝ていたペルモンドのほうに向いた。そして彼女はくすくすと笑いながら、こう言うのだった。
「私は、よく覚えてる。初めて会ったあの日のこと」
 何の感覚も持たず、真っ暗闇しかない世界の中で生きるペルモンドにとって、唯一機能している聴覚から聞き取るエリカの声は、自分がまだ生きていることを教えてくれる存在だった。
 エリカの声色は、めくるめく変わる。普段は明るい陽気なものでありながらも、時にペルモンドが失言を零せば彼女は不機嫌になるし、時として彼女は感情の表現方法を知らないペルモンドの代わりに怒ることがあるし、悲しむことがある。その変化が、彼を安心させたのだ。
 それは訳あってシルスウォッドと奇妙な共同生活を送っていた時には、無かったものだった。それはシルスウォッドという男が持つ不思議な性格に由来している。
「俺は全然覚えてないな……。あの日は頭痛がひどかった、ってことぐらいしか」
 シルスウォッド。彼は優男のように見えて、そうではない。彼は優しくもなければ、性格が良いとも云えないが、しかしたまに優しいときがある。それに彼は意外と肝が据わっていて、常にどっしりと構えているし、それゆえか多少のことでは動揺を見せない人物だった。そのうえ、どちらかといえば彼の感情の機微はペルモンドよりもずっと平坦。そうそう滅多に取り乱すことはなく、いつでも冷静沈着。時たま不機嫌になり嫌味をぶつくさと連ねることはあっても、彼は声を荒らげて怒鳴り散らすような人物ではなかったし、腹を抱えて笑い転げるようなタイプでも、感動話にほろりと涙を零すような人情家でもなかった。
 いつもシルスウォッドの態度は一定で、変化がなかった。だから、なのだろうか。彼と同居していたあの時代に、時々ペルモンドは訳もなく不安に駆られることがあったのだ。自分が今感じているものはすべて幻で、とっくに自分は死んでいて、生きていないのでは……と。意味不明だと言われればそれまでだが、そんな不安を常にペルモンドは抱えていて、それと共に生きてきたのだ。
 シルスウォッドと居たとき。シルスウォッドは彼の不安を、更に色濃いものに変えていった。そしてブリジットがその不安を彼に自覚させ、時に感情を噴出させては、彼をどんよりとした暗闇の底に突き落とした。
 だがエリカと居るときは、その不安が不思議と和らぐのだ。朝日が夜闇を地球の裏側に追い払うように、彼女は彼の闇をどこか遠くへ吹き飛ばしてくれる。完全に闇が消え去るわけではないが、少なくとも彼女といる間は闇から目を逸らすことが出来たのだ。
 今も、そうだった。彼女の声に耳を傾けているときは、暗い過去と付随する不安を忘れていられたのだ。
「あのとき。私はあなたに話があって、講堂からずっとあなたの後を追いかけていたのよ。行き詰まってたレポートについて、あなたの助言が欲しくって。だけどあなたったら歩く速度が速すぎて、それに全然止まる気配がないし、一向に追いつけなくって。そうしてカレッジのエントランスを出た瞬間、突然あなたが立ち止まって。そして私があなたの肩を叩いた瞬間に、あなたは白目を剥いて倒れたのよ。それから気を失った。痙攣はなかったけど、あれも今思えばてんかん発作の一種よね」
「あー……――そうだったっけか? あの瞬間の記憶が、俺にはないから……」
「あなたが起こしたてんかん発作が、私とあなたを繋いでくれたのよ。そう考えれば、てんかん発作も悪いことばっかりじゃない。でも発作は、起こさないに越したことはないけどね」
 そんな二人が居たのは、かつてエリカの父親が寝室として使っていて、今はペルモンドが使用している部屋。エリカは自分の寝室がありながらも、敢えてこの部屋に来ていた。その意図は、ただ一つだけ。
「ねぇ、ペイル。それで話は変わるんだけど」
「……いや。それは、駄目だ。だって」
「結婚する前は『結婚してない男女が行為に及ぶのはダメ』だって言って、結婚したら『まだ子供は早いんじゃないのか』って……」
 夫婦となって、早二年。そろそろエリカは子供が欲しかった。だがペルモンドのほうは、あからさまに嫌がっている。とはいえ彼が子供を嫌っているわけではないのだ。子供を望んでいないわけじゃない。けれども、だ。それとは切っても切り離せない関係にあるものがある。それが問題なのだ。
「……養子じゃ、駄目なのか?」
「ダメってわけじゃないけど。私は女として、やっぱり出産っていうものを経験してみたいっていうか」
「あの、エリカ。俺は、君が他の男と寝たって怒らない。だから、なにも俺の子じゃなくたって……」
「私は、あなたとの子供じゃなきゃイヤ」
「……コウノトリが赤ん坊を運んできてくれたら、どれだけ良かったか……」
「ファンタジーに逃げないで。あなたにそういうのは似合わない」
 男と女、夫と妻であり、子供を望むのならば、性交渉は避けて通れない。だが二人の間には一度も、それがなかった。
 愛が冷めているわけでもないし、プラトニックな関係でありたいと強く意識しているわけではない。理由はただ一つ。彼が拒むのだ。
「教えて、ペイル。どうしてダメなの? 説明してくれなきゃ、私も理解することができないわ。あなたは古めかしい宗教を信仰し実践しているわけでも、潔癖ってわけでも、女性恐怖症でもないんだし。だとしたら、そこまで拒む原因は何? もしかしてあなたは、私よりも他のひとのほうが好きなんじゃ……」
「それだけは違う、絶対に」
「じゃあ、理由は? 私はもうずっと我慢してるのよ。知りたくて知りたくて仕方ないところを、深くは追及せずに我慢していたの。そろそろ理由を教えてくれたって良いんじゃないの?」
 エリカが尖った口調でそう問い質すと、ペルモンドは寝返りを打ち、エリカに背を向けた。
「教える気はない、ってことね。はぁ……」
 いつものことだった。彼女が体を求めれば彼は拒絶し、エリカに背を向けて、その夜はろくに口も利いてくれなくなる。どうしてダメなのか、その理由を訊ねても同じ反応が返ってくるばかりだ。
 いつもは、そうだった。だがこの夜は違っていた。背を向けた状態で、ペルモンドが言ったのだ。
「……隠し事ばかりで、本当に申し訳ないと思っているんだ。だが、とてもじゃないが言えないことばかりなんだよ……」
 それは抑揚のない声で、口ごもるような喋り方だった。極限まで感情を押し殺し、平静で居ようとしているかのような、そんな雰囲気が彼からは漂っている。その背中にエリカは言った。
「それでも私は、あなたのことを知りたい。たとえそれがどんな過去であろうと。私はあなたをもっと知って、理解したい。理解して、そうして解決を……――」
 すると彼から返ってきたのは言葉ではなく、寝息。ついさっきまで喋っていたはずの男の、眠りに落ちるまでの速さに、エリカは息を呑む。彼女は言いかけた言葉も、息と共に呑み込んだ。





「夫婦円満の秘訣? そんなことを聞いてどうするんですか、マダム」
「ほら。私みたいなおばあちゃんになると、色恋とかと無縁になってくるわけ。それに若いころも、そういうのと無縁の人生を送っていたから。どうしても知りたいのよね。長続きする夫婦とそうでない夫婦の、その違いっていうものを。だって、あなたたち夫婦は見るからに長続きしそうなタイプでしょ?」
 外回りの仕事のついでに、シルスウォッドが立ち寄った喫茶店。空いているテラス席で軽い昼食を済ませる彼の目の前には、どういうわけかマダム・モーガンの姿があった。
 今日もサングラスを装着し、頑なに目を見せようとはしないマダム・モーガンは、鞄の中からジンジャーペーストのチューブボトルを取り出す。すると彼女は何も躊躇うことなく、ブラックコーヒーの入ったコーヒーカップの中に、ぶにゅっと絞り出したジンジャーペーストをぶち込んだ。
「死がふたりを分かつまで寄り添っていそうっていうのかしら。どうしたら生まれるの、そこまでの絆って」
 そこにマダム・モーガンはさらに蜂蜜を加えると、マドラーでコーヒーをかき混ぜ、ジンジャーペーストを溶かしていく。出来上がったコーヒーの色は黒いままだったが、とても想像がつかないその風味にシルスウォッドは顔を顰めさせた。それから、彼は質問にこう答える。
「秘訣かどうかは分からないですけど……――まあ、強いて言うなら妻には逆らわないってことですかね。それと夜は同じ部屋で寝ること。あと、最低でも月に一度は必ず二人だけで外食に行くってことぐらいですかね。それも少々、値の張るお店に」
「へぇー。外食に限定なの? デートってわけじゃないのね」
「まあ、そうです。だって食事っていうのは……愛の根幹、っていうんですか?」
「ごめんなさい、ちょっと意味が分からないわ」
 そこそこ悩みながら、シルスウォッドが絞り出したその答え。それをマダム・モーガンは「意味が分からない」と一刀両断してみせる。そのうえ彼女は、質問しておきながらも然程興味がないというような表情さえ浮かべていた。
 じゃあ、なんであなたは質問してきたのか。シルスウォッドは眉間にしわを寄せるも、きっとあの質問には何か彼女なりの意図があるのだろうと深読みする。それから彼は、ひとまずその答えに至った理由を解説し始めるのだった。
「これは僕の持論なんですけど。人間が一番愛しているのって、食べることと寝ることだと思うんです。美味しいものを食べれば幸せを感じますし、ふかふかのベッドで寝れたら嬉しいじゃないですか。それはどんな国でも、誰にでも共通することだと思うんですよ。その二つは趣味趣向の問題とかではなく、本能からくる欲求みたいなものなわけですから」
「あぁ、うん……――そうなの、かしら?」
「それでですね。食事も睡眠も本能からくる欲求である以上、本当に信頼している気の許せる相手とじゃなきゃ共有できないと思うんです。だって好きでもなければ興味もない相手と食事に行ったところで、楽しくも何でもないわけですし。それに友人でも何でもない人と、同じベッドで寝たいと思いますか? 異性同性に関わらず、同じ部屋の違うベッドで寝ることさえ嫌じゃないですか」
「たしかに、嫌かもしれないわ」
「だから、その二つを共有できるっていうのはある意味において、親密な間柄である証明だと僕は思うんです。家族だからこそ、夫婦だからこそできるというか。だから、大事にしたいんですよ。その時間を」
 しかし、だ。解説を終えドヤ顔を決めるシルスウォッドをじっと見つめるマダム・モーガンは、無表情でジンジャーたっぷりのコーヒーを啜っている。そんな彼女の態度や様子からは、この話題に対する興味や関心というものが感じられない。
 人に小難しいことを質問しておきながらも、質問した本人がその質問に対して興味がないのだ。訊かれた側のシルスウォッドからしてみれば……何を、どうしていいことやら。そうしてシルスウォッドは黙りこくり、ティーカップに視線を落とす。するとマダム・モーガンがくすくすと笑いだした。
「フフフッ。若い男の子をいじめるのって、どうしてこんなに楽しいのかしら」
「……えっ」
「ごめんなさいね。さっきの質問は忘れて。それで本題なんだけど……」
 内心がちごちに緊張しながらも、シルスウォッドがようやく絞り出した恥ずかしいあの答えを、マダム・モーガンはひょいと軽く議題というテーブルからはじき出してみせた。それは突如吹き荒んだ突風のように、瞬きほどの一瞬の出来事。流石のシルスウォッドも、マダム・モーガンのこの対応には動揺を見せた。
 いや、だって……――えぇぇぇー……。そんな感じで、言いたい言葉は山ほどあったものの、世にも恐ろしい人外を相手にそんなことは口になど出来ない。不平不満やありとあらゆる罵詈雑言を喉の奥で堪えるシルスウォッドは、引き攣った笑みを顔に取り繕った。そして彼は無言で視線を送り、目で言いたいことを訴える。するとマダム・モーガンは、笑うのをやめた。それから彼女は、本題を切り出す。その本題というのもまた、答えに困るものだった。
「もし仮に、あなたの子供がプロの人殺しになったとして。あなたは親として……どう思う?」
「それは、もしかして、テレーザのことを言ってるんですか? いや、まさか、そんな。あの子を人殺しになんかさせませんよ、絶対に」
「テレーザちゃんのことを言ってるわけじゃないわ。それに、あくまで仮の話よ」
 夫婦円満の秘訣。そんなことを訊ねてきたときとは打って変わって、マダム・モーガンの表情は妙に真剣なものだった。どうやらこの本題とやらが、マダム・モーガンの冗談ではないことは確かなようだ。
 だが、それにしてもだ。どう答えればいいのかが分からない質問だった。
「仮の話だと言われてもなぁ……。そんなシチュエーション、想像もしたくないというか。正当防衛で人を殺したのならまだしも、プロの人殺しって……」
 想像したくはないものの、シルスウォッドは想像をしてみる。真っ先に思い浮かんだのは裁判の光景。弁護士と検事が繰り広げる攻防、涙を浮かべる遺族と、傍聴席で肩身の狭い思いをしている自分の姿、そして被告人の背中。思い浮かんだその光景に、感じたことはひとつだった。
「……もし、そうなったなら。まず親としての自分を責めるでしょうね。どこで育て方を誤ったのか、と」


+ + +



 空軍基地内にある病棟の病床に横たわる、全身を包帯でぐるぐる巻きにされたペルモンドは、小声でマダム・モーガンにこんな本音を漏らした。
「あれだけ嫌いだった故郷が、今では懐かしく思えて仕方ないんだ。あれを懐かしく思うだなんて。俺も本当に、狂っちまったみたいだ……」
 ロンドン空襲の任務を終えて、アルフレッド連邦共和国空軍がイーストセール空軍基地に帰還してから、初めて迎えた朝のこと。訳も分からないまま戦渦に巻き込まれ、気が付いたら全身を蜂の巣にされていたペルモンドは、包帯の下で小さく笑う。それは崩壊していた自分を嘲る微笑みだった。
「俺は、夢を見ていた気がするんだ。君に殺された夢を。まるで現実みたいだった。本当に死んだかと思ったぐらいだ。けれど、目が覚めてみれば俺はどういうわけか焼け野原になったロンドンに立っていて、両手にサーベルを握っていた。そして気が動転した瞬間、背後から機関銃で撃たれまくって、気を失った。死んだと思った。けど、俺はこうしてまた目を覚まして、君と話をしている」
「…………」
「俺は、生きてるのか? 幽霊にでもなったのか?」
「あなたは生きているわ。呼吸をしているし、心音を感じるでしょう?」
「何も感じないんだ。あるはずの痛みが、何もない。自分の体重すら分からないし、今自分の体が動いているのか動いていないかも分からないんだ。目も見えないし、まるで冷たい暗闇の中に閉じ込められた気分だ。音しか聞こえない。……怖くて堪らないんだ、何もかもが」
 薄ら寒い笑みを湛えた口で、恐怖に震えた声で、ペルモンドはそう言った。彼は、自分の身に起こったことを完全には把握し切れていなかったのだ。それに大半の真実を、彼は知らなかった。夢ではなく、現実で殺されていたこと。ロンドンを焼け野原に変えたのは、彼自身であること。そしてその時の彼は、彼の皮を被った全くの別人であること。その全てを、彼は完全には理解していなかった。
「……ごめんなさい。全部、私のせいよ。私が、馬鹿なことをしたばかりに」
 マダム・モーガンは、彼を完全に殺すつもりでいた。輸送機の中で完全に息の根を止めて、二度と生き返らないように。仮に彼の体が生き残ったとしても、その魂だけは永遠に救われるように。そのために彼女は何度もシミュレーションを重ねて、完璧とも思える計画を立てて、練習を積んできた。にも関わらず、それを実行に移した矢先、想定外の妨害に遭ったのだ。
 彼に取り憑く存在が、彼の魂を掴んで離さなかったのだ。てっきり彼の体にしか興味がないと思っていたその存在は、実は彼の全てを欲しがっていたのだ。体も、心も、人生さえも。
「教えてくれ。俺は、今度はどれだけ殺したんだ?」
 何をどうすれば良かったのか。どうしたら“彼”の引き起こす惨劇を防げたのか。
 どれほど考えても、どれだけ試しても、その答えは見つからない。今までもずっと、これから先もきっと。
「……数え切れないほどよ。骸で、小さな丘が出来るほどの量。両手の指を使っても数え切れないほど、人が猟犬に殺された」
 マダム・モーガンは正直に、ありのままの事実を告げる。そこで、二人の会話は途切れた。





「私は故郷を捨てて彼を裏切り、家族と共に北米に渡ったのよ。それで、渡米してから三年だか四年が経過したころかしら。彼から久しぶりに連絡が来た。母国語で書かれたショートメールで一言だけ、さようならって。それだけが書かれていたわ」
「…………」
「あのとき私は、午前の部最後のハイスクールで授業を受けている最中だった。何のことだか分からなかったけど、嫌な予感だけがしていたわ。それで授業に集中できなくて。そして授業を終えて、昼休憩が始まったとき。学校中がざわめいていたのよ。それから人が話す噂話を耳にして、知った。私が捨てた故郷に核が落とされたということを。そして実行犯として名が挙がっていたのが、故郷に残してきた弟分。核保有国の軍にサイバー攻撃を仕掛けてハッキングし、核を落とさせたと、あのとき全世界でそう報道されていたわ。学校にも通っていない十五歳の男の子が、やったって。――荒唐無稽な話でしょう? でも当時、全世界はそれを信じたの。いえ……全世界というより、北米だけって言ったほうが正しいのかしら」
 ロンドン空襲の一件の後、バーソロミュー・ブラッドフォードはその責任を取り、退役という道を選択した。そうして束の間の隠居生活を静かに送る彼の許に、マダム・モーガンはこうしてちょくちょく現れては、頼んでもいないのに昔話をする。バーソロミュー・ブラッドフォードは、ただただ煩わしいと感じていた。
 それでも紳士なバーソロミュー・ブラッドフォードは、嫌な顔は――表向きは――せずに、おしゃべりで傍迷惑な客人を黙って受け入れていた。聡明な紳士は、この傍迷惑が死神なりの気遣いなのだと察していたからだ。
「当時の、北米を除いた国際社会は、イスラエルの自作自演だとして非難した。何らかの事故が起こり、核の爆発に巻き込まれた犠牲者の一人に罪を着せようとしている、と。だけど北米の力は、昔から偉大だったのよ。その結果が、今の歴史。私の故郷は、私の民族は、私の母語は、歴史からその存在を消された」
「…………」
「だって、バーツ。あなたは知らないでしょう? シュメールもメソポタミアもインダスもバビロニアも、エジプトのピラミッドやミイラも。セム語も、アラビア語もペルシャ語もアムハラ語もアラム語も。ヘブライ語は、今も残ってるけど。それぐらいよね、生き残っているのは。それにアラビア数字だって、今の時代を生きる人々は“アラビア”の意味を知らずに使っている。天体の名前に残るアラビア語も、その意味を知っている人間なんてゼロ」
「…………」
「それにアラビア語がいつどこで誕生した言語で、どんな民族が使っていたのか、それを知らない考古学者のまあ多いこと。おばあちゃん、本当に呆れているわ。それに、怒ってる。この二千年間、ずっとそう。人格否定をされ続けている気分だわ」
「あぁ、そうだな。貴殿の仰るとおりだ。私は、何も知らない」
「でしょ? ペトラ遺跡に岩のドーム、メッカにマディーナ、ギザのピラミッド、そしてツタンカーメン王の黄金のマスクを知らないなんて、人生の半分以上は損しているわよ」
 マダム・モーガンは、バーソロミュー・ブラッドフォードが今なにをしているのかなど全くお構いなしといった様子で、止まることないお喋りをずっと続けている。彼が読書をしている最中だとしても、彼女は容赦なく邪魔をし、彼の住まう邸宅に満ちる静寂を部屋の隅へと追いやるのだった。
「北米って国は本当に馬鹿なのよね、今も昔も。あの国は適当な因縁をつけて、いろんな国を放射能まみれにしたのよ。抗議した国を容赦なく攻撃して。アフリカも北東部はかなり汚染されたし。アジア地域は東側の限られた地域を除いてほぼ全域が人の住めない大地へと変貌した。アラビア半島はもちろん、シナイ半島は特に。北米は庇い続けていたイスラエルごと吹っ飛ばしたのよ。本末転倒よね、本当に……」
「……私の知っている史実と、貴殿がその目で見てきた歴史は随分と違うようだ」
「そう。私がこの目で見てきた真実は、史実とまるで違う。北米人の都合のいいように書き換えられたものが、今に伝わっている歴史なのよ。……歴史は勝者が作るっていう言葉があるけど、まさにその通り。それに眠りについた死人には異論を申し立てる口もないしね」
「はてさて、どちらが正しいのかな」
「あらあらバーツさん、私を疑うのね? かれこれ二千年強は生きている死神の、こと細やかな記憶を信じないで、百年も生きられない人間が紡いだ不確かな史実とやらを信用するとは」
「いいや。私は、そのどちらも信じていないだけだ。この体で見聞きした記憶だけを信じ、それ以外に疑いを持って接する。それだけのことだ」
 老眼鏡を掛けたバーソロミュー・ブラッドフォードの目は、その手に持った本に印字されている細やかな文字を追っている。彼はすぐ左隣に座り、馴れ馴れしく体を近づけてくるマダム・モーガンの顔を見ることもしなければ、視線も合わせることもしない。たとえ彼女が自分の背中に抱きついてきて、背後から耳元に囁きかけてきたとしても、一切振り返らず、また余計な反応は示さない。
「ふぅん。バーツって、そういう人だったっけ?」
「貴殿の言う通り、人間の記憶は不確かで信用ならない。そして貴殿は、存在そのものが」
「私そのものが嘘くさいってこと? 失礼しちゃうわ。これでも私、淑女なんですけれど」
 淑女は、このようなことをしないのでは?
 ……今日初めてマダム・モーガンに向けられたバーソロミュー・ブラッドフォードからの視線は、そんな無言の非難だった。なんとも言えない気まずい空気が一気に部屋に立ち込め、マダム・モーガンのお喋りも一時休戦となる。それから彼女はナーバスな笑顔を見せると、抱き着いていたバーソロミュー・ブラッドフォードの背中から静かに離れていった。
 そうしてまたバーソロミュー・ブラッドフォードの視線は本に戻り、バーソロミュー・ブラッドフォードにとっては静かで穏やかな、マダム・モーガンにとってはこのうえなく退屈な時間が流れる。しかし、穏やかで静かな、またはこのうえなく退屈な時間は、そう長続きはしない。あーっ、とマダム・モーガンが突然大声を上げたのだ。
「バーツ! あなたって本当に、昔のジャーファルにそっくりなのよ! 喋らないし。私語っていうものをしない。それに友達いないし、周囲に尊敬されていながらも孤独で、恋人も居ないし、この大きな家には使用人の一人も居ないでしょ?! あの誉れ高きワイズ・イーグルが寂しいリタイア生活を送ってるだなんて、おばあちゃん、見てられないわ。放っておけないのよ」
 マダム・モーガンはそう言いながらソファーから立ち上がり、バーソロミュー・ブラッドフォードをじっと見つめる。すると彼は、ぱたんと本を閉じた。そしてマダム・モーガンの言葉に、彼はこう返す。
「寂しいリタイア生活と思うかは、人それぞれだ。たしかに、そういう見方も出来るだろう。しかし私は、この静けさを長らく望んでいたんだ。今の生活に不満は何もない」
「孤独を好むのを悪いことだとは、私も思っていないわ。でもね、孤独を愛しすぎると、人はそのうち虚無という魔物に飲まれていくのよ。人を避け、人との関わりを持たなくなれば、自分が誰かも分からなくなる。比較する対象が居ないと、そうなるの。やがて自分の輪郭を見失い、自分が誰かも分からなくなる。そうなったら最後、二度と元には戻れない。怖くなるのよ、何もかもが」
 マダム・モーガンの、どこまでも一方的なお節介。するとバーソロミュー・ブラッドフォードは小さく笑った。お節介焼きのおばあちゃんが、彼には可笑しく思えたのだ。
「マダム。心配には及ばないよ。私はリタイアしたわけじゃない。休暇を取っているだけで、この静けさもあと一年足らずで終わってしまうものなのだ」
「……え?」
「私は再び、喧騒の世界へ身を置かなければならないのでね」
「あぁ、そういうことか。おばあちゃん、どうやら無駄に心配し過ぎていたようね……」
 約六年。バーソロミュー・ブラッドフォードは両親から継いだジーロングのこの邸宅に滞在し、ひとり静かな時間を過ごしていた。だがこの静寂の中で、彼は余生を終えるつもりはなかった。
 これは第二の人生を始めるにあたり、準備を整えるための休息期間。空軍では着実に、時に少々トリッキーな手段でキャリアを積み重ね、大将という地位にまで上り詰めたのだ。そのキャリアを捨てるなんてことは、するはずがない。
「そうね、あなたの恋人はこのオーストラリア大陸そのものだったわ。生粋の愛国者というか、野心家というか……」
 それに退役という道を選んだ時点で、既にバーソロミュー・ブラッドフォードの許には各方面から声は掛かっていた。セカンドキャリアへの道、つまり政治の世界に飛び込まないか、という誘いが。
 偉大なる国の英雄、バーソロミュー・ブラッドフォード。そんな男の名声を利用したい政治家は今でもいくらでも居たし、それにバーソロミュー・ブラッドフォード自身にも成し遂げたい天命があった。
 そしてマダム・モーガンは、かれこれ三〇年以上前の出会いを思い出す。バーソロミュー・ブラッドフォードという名前の若き士官を初めて見たときに、彼女が何を思ったのか。そのときの感情を、彼女はふと思い出したのだ。
「意外かもしれないけど。私、結構あなたのことを気に入ってるのよ。長いことこの大陸で過ごし、多くの軍人や政治家たちを見守ってきたけど、あなたほど骨のある男は今まで居たことがなかったわ。この私に臆することなく、真正面からぶつかってきたり、反抗したり、嫌味を言ってきた人間は、あなたが初めて」
「たしかに意外ですな。私は貴殿に嫌われているものだと思っていましたよ」
「大抵の人間は私を恐れて私に金を積み、私の従順なペットとなったものだけど。あなただけが唯一、私と対等に渡り合おうとした。……私がね、長らく待っていたのはあなたみたいな政治家なのよ」
「それは過大評価というものですよ、マダム・モーガン」
 今の世では、欧州大戦と呼ばれているあの惨劇が起こったとき。若くして空軍特殊作戦部隊の隊長を務めていたバーソロミュー・ブラッドフォード大佐は、自分の良心に従い大統領命令をあろうことか無視し、北米合衆国から向けられる重圧すらも躱して、説得をしに来たマダム・モーガンにも臆することなく反論して正義を説き、国民に向かって高らかに宣言したのだ。私が率いる隊を民間人虐殺には利用させない、と。その結果、大統領は失脚し内閣は退陣を迫られ、この国は予てより続いていた北米合衆国との同盟関係――という名の、奴隷のような主従関係――を断ち切る方向に舵を切ったのだ。
 思えばこの男は、そんな大それたことを平然と成し遂げてみせるだけの胆力を持っている人間だった。この男は余生を田舎に引きこもって過ごし、萎れた老後を送るような人間じゃない。
「バーツ。私、これでも政治学の博士だったのよ? この慧眼を信用しなさいな」
「…………」
「うそ。盛ったわ。私は修士だった」
 ウフフ、と意味ありげに微笑むマダム・モーガンは、再びソファーに腰を下ろすとバーソロミュー・ブラッドフォードの背中に纏わりつく。するとバーソロミュー・ブラッドフォードは、彼女に向かってこう言うのだった。
「政治学に精通していても、心理学は未修得ですかな」
「そうね、心理学はノータッチ。工作員見習いだった時代に、講習で軽く習ったぐらいね。それも人を騙したりするテクニックがメインだったから」
「それでは言わせてもらいますが。私は、ジャーファルという奇妙な名前の青年の代わりにはなり得ませんぞ。私は人間で、元空軍士官のバーソロミュー・ブラッドフォード。テロリストの汚名を着せられた天涯孤独の青年でもなければ、黒狼とやらに取り憑かれた生ける屍でもない。そのお節介は、本人に焼くべきじゃあないですかね、マダム」
「あら、まあ。……それ、一理あるわ。反論の余地なし」


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 どれだけ時間が経とうとも、癒えない傷というものは存在する。そして癒えない傷ほど、人には言えないもので。
『実はこうして男を相手にするのは、私は初めてなんだ。そんな私の初めてが、君のような男で良かったよ。どうやら君は慣れているようだから。――君は工学部の学生たちとよく遊んでるんだろう?』
 投げかけられた言葉に、彼は弱々しい声で「違う」と返した。何度も似たようなことを経験したことがあるからと言って、慣れていたわけじゃない。どうすればやり過ごせるかを知っているだけで、慣れていたわけじゃない。
 慣れているだなんて。そんなこと、認められるはずもなかった。だが対峙する男は、それを認めるよう迫る。ピーター・ロックウェルという名前の男は、彼にこう言った。
『他の女の子たちも、君と同じだった。……人間、口先ではいくらでも嘘を吐けるのさ』
 慣れていたわけじゃない。だが経験から彼は知っていた。こういう野郎にまともな話は通じない。何かを言えば、状況が悪くなるだけ。だから正しい反応は、何も言わないこと。黙りこくって、目を逸らして、顔を逸らす。抵抗はしないし今は従うから好きにしろと無言でアピールして、なおかつ受け入れたわけではないと意思表示もするのだ。
 そうすれば、支配欲に飢えているだけの男なら満足して立ち去ってくれる。性欲をコントロールできないクソ野郎なら、その先を求めてくるだろうが、それも黙って耐えればいい。
 耐えれば良いのだ。そうすればやがて終わる。永遠に続くことはない。
『なぁ、バルロッツィ。君は人気者だったのだろう、昔も。私には分かる。君の横顔から漂う気品が――』
『――……早くしろや、クソジジィ。やんのか、やらねぇのか?』
 耐えれば良かった。そのはずなのだ。
 殴られようが蹴られようが何をされようが、あの瞬間までは黙って耐えていたのだ。だが、昔という言葉で急に少年時代を思い出し、あの時に受けた仕打ちの数々を、そして記憶の奥底に封じ込めていた怒りを思い出す。怒りを封じていた蓋が、あの時のあの瞬間に吹き飛んだのだ。
『な、なんだね、その態度は。急に――』
『そうだ、テメェの言った通りだ。孤独な星は、とっくの昔に地に堕ちてらぁ。あれ以降、俺は俺でなくなった。もはや俺はマリオネットだ。ペルモンドなんていう、クソみてぇな名前を与えられた、頭は空っぽの操り人形。――……誰が好き好んで、バカ面さらした大学生なんか演じてると思う? あ?』
 あぁ、駄目だ。何をしているんだ、俺は。
 切り離された自己は冷静に、そう嘆いていた。だが制御を失くした本能は、むき出しの野性を曝け出す。後天的に生まれたサディスティックな一面が発露され、形成は一瞬にして逆転した。
『可愛い可愛いピーター・ロックウェルくん。狙う相手を間違えたな?』
『……待て、待ってくれ、バルロッツィ。どうか、助けてくれ……』
『命乞いが通じると、本気で思ってンのか?』
『…………!!』
『どうしたんだ、おいおいおい? 小便を漏らしてんのか? だっらしねぇな、男のくせによ』
『……っ、はぁぁっ、ああぁっ……』
 駄目だ、それ以上は。駄目だ駄目だ駄目だ、やめてくれ……――。
 あの夜。ペルモンドが最後に記憶していたのは、人間の顔を左拳で殴りつけたことと、聞こえた男の悲鳴と、咥内に満ちた自分の血の味。口に溜まっていた血を男に向かって吐いて、罵りの言葉をぶつけて、殴って、蹴った……と、思う。
 あの夜。ペルモンドは被害者であり、同時に加害者であった。下手をすれば、あのときにあの男を殺していてもおかしくはなかった。
 あの後どうなったのか。それは“世を忍ぶために作られた仮面”であるペルモンドに知るすべはなく、覚えてもいなかった。だが、これだけは言えた。彼の中には、凶暴な“本当の自分”が居る。
「……憎むのも怒るのも辞めたんだ。他者に原因を見出し、責めることも辞めた」
 彼自身の本性ともいうべき姿。狂暴で限度を知らない、野蛮な自分自身。それがもし、エリカの前で発露したら? ――ペルモンドが恐れていたのは、その展開だ。
 もしそうなった場合。彼女に失望されて、捨てられるぐらいで済めばいい。だが、彼女に手を上げたりしたら。そうなれば後悔どころでは済まない。
「……だから別に君が」
「ペイル。あなたは怒っていいの! あなたには怒る権利がある」
「……権利も何も。俺が馬鹿だった、それだけの話だから」
「ロックウェルは殺されて当然! あの人があなたの研究を盗もうとしていたのは知っていたけど、それ以外にも酷いことをしていたなんて……!」
「俺は、それ以上に酷いことをしてきたんだ。あれぐらい、受けて当然の罰なんだ」
「受けて当然だなんて、そんなことは」
「エリカ。俺は君が思っているような人間じゃない」
「あなたは、ペイルでしょう? それ以外の何だっていうのよ」
 エリカの送ってくる真っ直ぐすぎる視線に、あの時のペルモンドはやはり答えることが出来なかった。





「ドクター・カストロが故郷に帰ったせいで、ただでさえ今は人手が足りていないというのに。ドクター・カストロが帰郷する原因を作った君が、非常勤になりたいだって……?!」
 ブリジットの申し出に、クリニックの院長は目を剥く。院長の横に立つ副院長兼看護部長は腕を組み、しわの目立つ顔に更に深いしわを刻んでいた。
 自分がどれだけ図々しいことを言っているのか。それはブリジットもよく分かっていた。しかし、そうせざるを得ない状況が彼女にはあったのだ。
「どうしても自由な時間が欲しいんです。……もし無理ならば、私はここを辞めます」
「エローラ。一体、何があったんだ」
「精神医学を志し、実践する者として、学びなおしたいことが出来たんです」
 今更ながらブリジットは、適当に過ごしていた大学時代を大いに後悔していた。恋愛に憧れ、妄想で現を抜かすよりも先に、もっとやるべきことがあったと。
「学びなおしたい? 何を?」
「心理学です」
「……ドクター・エローラ。君は、その分野の学位を取得したのでは」
「ごく普通の医学部を出て、医師免許を取得して、研修期間を終えて、医者になった。それだけです。そして実際に臨床の現場に立つようになって、己の知識不足を痛感するようになったんです」
 もし、もっとマシな大学時代を過ごし、ちゃんと勉強していたのなら。私は彼をとっくに救えていたのではないか。最近のブリジットは、そう思うようになっていた。
「今まで私は、全ての精神異常は脳内物質のバランスが乱れることにより引き起こされ、故に適切な投薬を行えば寛解するものだと考えていました。たしかに統合失調症や双極性障害に対しては、投薬は一定の効果が挙がります。ですが投薬の効果が全く挙がらない病もあることに気付いたんです」
 書面上は夫婦になってから、早一ケ月。周囲から向けられる目は相変わらず冷ややかなものばかりで、それにペルモンドとの間に会話はない。家の中で会う彼は、いつも独り言を呟いている。そんな彼にとってブリジットは空気と同じで、彼と一緒に居る空間でブリジットは、自分が透明人間にでもなったかのような気分にさせられていた。
 そして行き詰った時。ブリジットはペルモンドの前に鏡をかざして、緑色の瞳の彼を呼び出していた。そうすれば、彼とは会話をすることが出来た――だがその“彼”というのはペルモンドではなく、全くの別人なのだが。
 ならば、どうすればペルモンドを現実に引き戻せるのだろう。ブリジットはあれこれと考えてみたものの、これだという方法は思いつかなかった。
「PTSD。こればかりは心の傷の問題で、対話でしか癒す方法はない。そのことを、ドクター・カストロに教わりました」
 そこでブリジットが思い出したのはイルモ・カストロという存在だった。
 思えばペルモンドは、主治医が心的外傷後ストレス障害の専門医であるイルモ・カストロに変わった瞬間に一気に改善していったのだ。そして処方箋を書かない精神科医として有名だったイルモ・カストロは実際に、ペルモンドに一切薬を処方していなかった。
「彼のことは、あまり好きではありませんでしたが。彼がその分野における名医であったことは自明です。ですから私は」
 ならば、イルモ・カストロに倣えば改善が望めるのだろうか?
 そんな答えに至り、希望が見えたような気がしてブリジットが安堵したのも束の間のこと。考えてみればブリジットは、カウンセリングなどろくにやってこなかった。一応、医学生時代に少しだけ研修は受けた。だが、それが最初で最後だった気もする。
 ブリジットが医学カレッジで主に学んだのは、投薬に際しての量の見極め方。現にブリジットが臨床の場面で評価されている技術は、その見極める能力である。
 だからこそ、彼女は薬局を併設しているこのクリニックに採用されたわけで。処方箋を一切書かないイルモ・カストロがあっという間に切り捨てられた理由も、そこにある。故に、院長は顔を顰める。
「まさか君も、ドクター・カストロのような処方箋を書かない医者になるだなんてことを言い出すつもりじゃぁないだろうな……?」
 このクリニックの主な収益源は、併設されている薬局。つまり処方箋を出す医者は、たとえ医者としては無能であろうがこのクリニックでは正義であり、処方箋を書かない医者は厄介者に他ならない。薬は出さないが患者の心を確実に救う精神科医兼臨床心理士よりも、適当なビタミン剤または偽薬を大量に処方しまくる精神科医のほうが、ここでは重宝されるというわけだ。
 顔を顰める院長の横で、副院長はもっと厳しい表情を浮かべている。ブリジットはあくまでこう答えた。
「それとこれとは、別です。もし今後もここで雇っていただけるのでしたら、今まで通りに診察は行うつもりですよ」





『お前が、出来損ないだって? 冗談はやめてくれよ、アーティー。お前の兄貴の方が出来損ないだろ?』
 シルスウォッドが十五歳の時の秋。同級生のザカリー・レターは、シルスウォッドにこう言ってきた。
『この間だってお前の兄貴は違法薬物所持かなにかで、しょっぴかれてたろ? だけど親父さんが金にものを言わせてすぐ釈放になったって、学校でも噂になってるし。その点、お前は誰もが知る品行方正な潔癖くんだ。軽犯罪ともドラッグともギャングとも縁のない優等生。友達も、俺ぐらいしかいないけどな』
『君は友達じゃないよ。ただの同級生だ』
『つめてーこというなよ、アーティー。なぁ、俺たち友達だろ?』
『君は、ただの同級生。僕に友達は居ない』
『なに言ってんだよ、おい。……もし、それ本気で言ってるなら俺、今かなり傷付いたぜ? お前のこと、一番の友人だと三年ぐらい思ってたのに』
『…………』
『アーティー?』
『……表向きは、そう言わなきゃいけないんだよ。家庭の事情で』
『あー……なるほど。カルト信者の息子って大変だな』
 別の意味で、青かった青春時代。父親や育ての母親、腹違いの兄に、常に怯えていたあの頃。物心がつく前から父親に「絶対に友人を作るな」と脅されながら育てられたシルスウォッドは、その教え通りに友人を一人も持っていなかった。
 隣人であるエローラ家の一人娘ブリジットは、彼からすればあくまで盾。ブリジットと居る時だけは、兄がシルスウォッドのことを虐めてこなかった――隣人に見られてはいけない光景を目撃され、ありのままの事実を言いふらされることを兄は恐れていた――から、彼女とよく行動を共にしていただけ。ブリジットは二十数年が経過した今もその真実を知らないが、彼にとってブリジットは“その程度の存在”であったのだ。
 だから切り捨てることも簡単だったのだ。あれだけ長い付き合いがありながらも。
『どうした、アーティー。顔色悪いぞ』
『……アーティーって呼ばれるのが嫌なだけだよ』
『だってお前の名前って言いづらいじゃん。シラ、シル、サラ……あー……サイラスウォード、だっけか?』
『シルスウォッド。まあ、シスルウッドでも正解だけど』
『どっちも言いづらいじゃん。細けーことでグダグダ言うなよ』
 子供のとき。ああして親しく話していたザカリー・レターも、結局はシルスウォッドの友人ではなかった。
 ザカリー・レターのほうは、もしかすると友人だと信じていたのかもしれない。だがシルスウォッドが信じられなかったのだ。他の誰のことも。
『なぁ、アーティー。それで話は戻すけど』
『……』
『俺は、さ。誰が何と言おうと、お前は出来損ないなんかじゃないと思うぜ。だって成績だってお前はピカイチだろ。それに悪いことなんかしないし、誰に対して優しくて、ちょっとした意地悪とかも何もしないし。お前ってそういう優しいやつだと思うんだ。だから』
 昔のシルスウォッドは一番長く時間を共有する家族すら、誰ひとりとして信用できない子供だったのだ。他人のことなど信用できるはずもなかった。信じたいと思いたくても、その身をもって味わってきた教訓がいつだって警鐘を鳴らすのだ。誰も信用するな、信じていいのは自分だけだ、と。
『そういう問題じゃないんだよ、ザック。僕は、僕という存在が呪いみたいなものだから』
『いや、だから。あのね、アーティーくん。あんまり自分をボロクソに言うのはダメだってことを俺は』
 シルスウォッドは家族を恐れていた。そして家族も同じように彼のことを恐れていたことを彼は知っている。何故ならばシルスウォッドがうっかり何かを漏らしてしまえば、一家は間違いなく破滅するからだ。
 だから父は「誰とも親しくするな」「会話は最小限に抑えろ」「友人など作るな」、「謀反でも企てようものなら、自殺に見せかけて殺す」「もしこの家から逃げ出すのならば、そのときは地の果てまでも追いかけて、お前の全てを破壊してやる」と彼に刷り込み続け、恐怖で支配し続けていたのだ。
 家族にとってシルスウォッドは、隠さなければいけない秘密そのものだった。明るみになってはいけない恥の象徴。だが殺すわけにはいかないし、とにかく扱いに困る不発弾のようなものだったのだ。
 それに、彼の父はシルスウォッドに向かってよく言っていた。お前など母親と共に息絶えていればよかったんだ、と。
『……アーティー。俺には、お前ん家の事情はよく分かんねーけどよ。でも去年、俺の姉ちゃんは家を飛び出る前にこう言ってたぜ』
 消えたい、この世から居なくなりたい。だが自殺する勇気もない。……そんな希死念慮と漠然とした希望の狭間で揺れていた、あの年頃のとき。シルスウォッドを辛うじて繋ぎとめてくれていたのは、あの日のザカリー・レターの言葉だった。
『親父が若いころに好きで始めて、今や廃業寸前にまで落ちぶれたレストランを、なんで料理が好きでもないアタシが継がなきゃいけないんだ。どうしてそれを強要されなきゃならないんだ、って。姉ちゃんが言うには、血は繋がっていても親と子は体が繋がってない以上は“他人”でもあるし、それに子供は親の犠牲になる必要もない。自分の将来は自分で決める、アタシにはその自由がある、って。……現に姉ちゃん、今はそこそこ大手の商社で出世街道に乗ってるしいし。あくまで姉ちゃんの自称だけどな。でも姉ちゃん、先週会ったときはすっげー笑顔だったんだ。家に居たときはいつもムスッとしてて、怖かったってのに。別人になったみたいでさ』
 ハイスクールまでは我慢して、大学に進学したら、あの家を飛び出そう。そう決意したのは、あの日の夜のこと。最後は喧嘩別れも同然で離れたこともあり、感謝をザカリーに伝えることは出来なかったが、ザカリーのあの言葉にシルスウォッドが救われたのは確かだ。正確にはザカリーの姉ちゃんの言葉、なのかもしれないが。
 そして。
『持ちつ持たれつ、お互い様ってもんだよ。僕は生活費の面倒を見てもらってたし、君は僕に生活の面倒を見てもらってたし』
『……そうだな。俺も、ここ二年はお前に頼りきりだったから。自律しないとだ……』
 数年前、長いこと居候していたペルモンドの家を引き払う日の朝。少し不安げな顔をしていたペルモンドのことを、シルスウォッドは“友人”だと断言できるようになっていた。
『それと、ペルモンド。君はそのままでも大丈夫だと思うよ。だって君にはエリカが居る。彼女が君の手綱を握ってくれる限り、お前は大丈夫さ』
『いや、そういうわけには』
『彼女に甘えたって、別に良いんじゃないのかい? きっとエリカは、そうしてくれたほうがきっと喜ぶだろうし』
『からかってるのか?』
『そういうのじゃないよ。つまり、もっと肩の力を抜けって言ってるんだ』
 ペルモンドとの生活は……まあ、一言では言い表せないほど色々なことがあった。ペルモンドの崩壊したライフスタイルと精神には何度も呆れ返ったものだし。夢遊病のような状態で家の中をうろつくペルモンドに危うく殺されかけたこともある。入水、首吊り、飛び降り、それらを何度も必死に食い止めたものだ。ペルモンドはとにかく手を煩わせてくる存在だったが……――それでも、なんだかんだでシルスウォッドはペルモンドという友人を憎むことはできなかった。
 ペルモンドは、少なくとも嘘は吐かない男だったし――隠し事は、どうやらたんまりとあるようだが。それに初めこそ取っ付きにくい人物だが、根は悪いやつじゃなかったし。むしろ根っこはバカがつくほどの真面目で、コントロールできない自己に戸惑いながらも可能な限り誠実であろうと努力する彼の姿は、ひねくれたシルスウォッドの心を締め付けるほどだった。
『ペルモンド。君は、もう少し他人を頼ることを覚えろ。僕みたいに察しのいい人間は稀だ。だから……』
『……?』
 ペルモンドという男が変なやつで、病人で、察しが悪くて、そして手に負えない人物であることは間違いないが。それでも彼は、少しは信用できる人間だった。
 彼の中に居る“他のやつら”を込みにしても、シルスウォッドは彼を信じることが出来た。少なくとも、若かったあの時代は。
『おい、ペルモンド。僕の言いたいことが分からないのか?』
『……ごめん、全然分からない』
『つまり、だ。君みたいに察しの悪い人間のほうが世の中には多いから、言いたいことがあるならちゃんと口に出して伝えなきゃいけない、ってことだよ。君には、本音とは真逆の言葉を口に出す悪いクセと、一人で抱え込んでは黙り込む癖があるから、それを直せって言ってるのさ』
 まあ、それはさておき。
「……あー、えっと。うそだろ?」
 父のことは大嫌いだった。その思いは今も変わらず、ずーっと憎み続けているが。そんな父も、役に立つことはシルスウォッドに教えてくれていた。
 ――信用は、一瞬で崩れては意味を失くすものだ。だから、他人を信用するな。
「だって、あー……――たしかに君は、すごく腕っ節が強かった。君が、八人掛かりで襲い掛かってきたギャングども、それも銃を携帯していたやつらを、ものの三〇秒たらずで制圧した光景を見たことがあるし。エリカのお尻を触った男の右腕を、君が肘鉄でへし折った騒動も聞いてるよ。だけど、そんな、いや……」
「今だって、やっていることは大差ない。拳銃にライフル、ミサイル、戦闘機、その他諸々。そういった兵器の類の設計図を、依頼主に言われるがままに描く仕事をしているわけだ。人殺しに変わりはないだろ」
「……あの、ペルモンド。君、正気? だって『ガキの頃、俺はほぼ暗殺者同然の傭兵を生業にしてて、人を殺しまくってた。人を殺して、金を貰って、自分は生き延びていた』って。そんなこと言われても、さぁ。ねぇ……?」
「そうだな。俺は今、正気じゃないかもしれない」
 オフィスで久々に顔を合わせたペルモンドと、談笑していた最中だった。シルスウォッドのやんちゃすぎる娘の話から、自分たちの子供の頃の話になって、シルスウォッドが悲惨な幼少期を笑顔で打ち明けた後。ペルモンドに話を振った、その矢先だった。
 ペルモンドの表情が曇った。やばい、とシルスウォッドが思ったその直後だった。ペルモンドが盛大な失言を零したのは。
「エリカには、口が裂けても言えなかった。それなのに俺は、彼女に言っちまった。自分でもよく分からないうちに、ブリジットに言わされちまった。過去のことを、洗いざらいすべて。そのせいで気が動転してるのかもな。……もう何もかもがどうでもよくなっている」
「あっ、えっと。ペルモンド、ごめん。今の僕には、何が最善なのかが分からない。僕は君に、何を言えばいい?」
「失望した。二度と関わらないでくれ。――それで十分だ」
 ペルモンドは、そう言いながら鼻で笑っていた。だが彼の目は笑っていなければ、感情らしいものが見当たらない。
 その瞬間、シルスウォッドは失言の内容が事実なのだと悟った。引き攣るように吊り上がるペルモンドの口角が、狂気に満ちているようにしか彼には見えなくなっていた。今、シルスウォッドの前に居るのは友人のペルモンドではなく、別人のペルモンドで……――だが同じペルモンドであることに変わりはなく。
「そうか、ああ。そうだな。たしかに、君には失望したよ。あー、うん……」
 シルスウォッドが言葉に詰まっていると、ペルモンドは無表情になる。そしてペルモンドは静かに、その場を後にしていった。
「あー……どうしよ。僕は、何を言えば、良かったんだ? それになんだよ、暗殺者って。ハードボイルド小説でしか、そんな職業、聞いたことないぞ……」
 突然、打ち明けられた秘密は、町ひとつを吹き飛ばす爆弾のような破壊力を持っていた。シルスウォッドまでも気が動転し、一人きりになったオフィスで独り言をぶつぶつと連ね続ける始末。
 今、この瞬間。シルスウォッドの中で、最も恐れているもののランキングに変動が生じた。
「あー、なんてこったい。僕は、暗殺者と長らく一緒に生活してて、暗殺者の介護をしてたのか……?」
 一位は、全てに気付かなかった自分自身。二位は、とんでもない秘密を隠し続けていたペルモンド。あれだけ怖かった父親は、一瞬で三位に転落していった。


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