ウォーター・アンダー・
ザ・ブリッジ

ep.11 - The heart of the Glacier

「君には、脱帽したよ。同時に、失望した」
 ブリジットの左手薬指に輝く銀色の指輪を見つめながら、シルスウォッドは突き放すようにそう言った。
「さっきは、何も知らないキャロラインの前だったから言わなかった。だが言わせてもらおうか、僕の本音を」
 眉間にしわを寄せ、眉根を釣り上げて、シルスウォッドはブリジットを睨む。彼の目にあるのは怒りと憎悪。視線の先のブリジットを、蔑んでいた。
「君に愛を誓った男は、君が作った虚像だ。あいつは記憶の空白を抱えて、君が改ざんした記憶を抱えて、今後は生きていく。君がどれほど罪深いことをしたのか、分かってるのか?」
「……」
「もし、あいつが事実を知ったとき。あいつは君に、何を思う? 今のあいつは哀れなことに、君を心の底から信じ切っているんだ。僕以上のクズになり下がった君を」
「なんとでも言えば良いわ。私はもう、挫けない。そして傷つかない。それに嘘だらけ、隠し事だらけはお互い様ですもの」
「お似合いの夫婦だねぇ、まったく」
 牽制しあう二人に、昔のような会話はない。時間が二人を変えたのだ。
「そうでしょう? 私も、そう思ってるわ」
 二人はとっくに学生時代を終えていた。シルスウォッドは燻る失業者になり、ブリジットは街の小さな心療内科に勤める医者となっていた。
 シルスウォッドは赤縁眼鏡を卒業し、コンタクトレンズに切り替えていた。ブリジットは胸元まであった長い髪を、首に掛かるぐらいの丈に切った。
 シルスウォッドは、キャロラインと結婚していた。彼には娘もいた。そしてブリジットは昨日、結婚した。相手は虚ろな目をした男。
「私は彼を愛している。それは変わりない。だから、彼を矯正するのよ。普通の生活を送れるように」
「その普通は、彼が望んでいる“普通”か? 子供の頃の夢が砂漠を遊牧する生活で、将来に自動車修理工場の整備士を望んでいた男が、本当に求めているものなのか?」
「それは昔の話でしょう? 私は、これからの話をしているのよ」
 どれだけ責められようと、ブリジットは毅然とした態度を貫いていた。そんな彼女の目には明確な――けれどもまっすぐではない――覚悟が宿っている。
 あのころとは、何もかもが変わったのだ。
「エリカは、過去よ。もう潰えた過去。私は今で、未来なのよ。彼に必要なのは、私。彼を救うのは私なのよ。誰も私の邪魔はさせないんだから」


+ + +



 笑顔がきらきらと輝いている彼女は、彼の頬にキスをした。それに対して彼は、まんざらでもなさそうなはにかみ笑顔を見せている。
「わぁお、見ちゃった。噂に聞いた通り、ラブラブって感じ」
 ブリジットが医学カレッジを卒業してから、半年が経過しようとしている冬の寒い日。インターン先だった心療内科に研修医として配属されてから半年が経過し、そしてイヤな印象の医大生クロエが正式に同僚となって――そしてクロエが彼氏デリックと破局してから――半年が経過していた。
 クロエは、よくも悪くも躾がなっていない人物だった。噂話が好きで、他人の恋愛事情に首を突っ込んで、あれこれ妄想を掻き立てるのが大好き。そんなクロエのマイブームは、ペルモンド・バルロッツィという男性とエリカ・アンダーソンという女性で妄想を繰り広げ、それをご丁寧にブリジットに聞かせること。
 そして妄想好きなクロエの視線の先には、妄想よりも甘い現実があった。
「ねぇ、見てよ。バッツィの照れくさそうな笑顔。それとエリカもばっちり決めてて……――あっ、エリカが彼の眼鏡を取って、自分に着けた。あらー、眼鏡を掛けてない彼って可愛い顔をしてるのね。やっだー、垂れ目が超セクシー。……はぁ、あの垂れ目。そりゃデリックのクソ野郎も……」
「……?」
「あっ、また二人とも笑った。眼鏡取り合ってる。なにあれ、超かわいい。やぁーん、エリカったら、場所も弁えないでハシャいでるよー。ヒューヒュー」
「いちいち実況しなくていいわよ、クロエ。見えてるから」
 エリカ・アンダーソン。彼女は本当に、素敵な女性だった。
 褐色の肌と縮れ毛の黒髪。低い団子鼻、ぎょろっと大きな釣り目と黒い瞳。指先にタコのできた、ごつごつとしていて女性にしては大きな手。……ブリジットには、そんな彼女の容姿は美しいとは思えなかった。絶世の美女でないことは間違いないだろう。平々凡々。そんなところ。容姿では自分のほうが勝っていると、ブリジットはそう信じていた。だが目の見えないペルモンドにとっては、相手の容姿など重要なことではないのだろう。むしろ、最もどうでもいい事項なのだ。
 エリカ・アンダーソンは噂通り太陽のような女性だった。彼女はいつも笑顔で、気さくな人柄で、人気者で、友人が大勢いた。そして察しが良く聡明で、不用意なことは何も聞かない人物だった。
 そしてエリカは、ブリジットのことさえ受け入れてみせた。笑顔で握手を交わし、彼女はブリジットにこう言ったのだ。
 ――今日から私とあなたは友達ね。よろしく、ブリジット!
「あっ、ヤバッ。エリカがこっちに気付いた」
「えっ」
「逃げるぞ、ブリジット」
「えっ?」
 卒業を前にしたある日。ブリジットはペルモンドの自宅に押し掛け、エリカのことを訊ねた。すると彼は、なんてことないようにエリカのことを紹介してくれたのだ。彼女の連絡先を教えてくれた、彼女の実家だという自動車修理工場を教えてくれた。そして「エリカは恋人なのか」という質問に対し、彼は無言で頷いてみせたのだった。
 それからブリジットはシルスウォッドを仲介して、エリカと対面した。初めは工学カレッジのエントランスで。短い会話を交わし、社交辞令の笑顔を繕って、気まずい握手を交わした。するとエリカは笑顔で言ってきたのだ。私とあなたは友達だ、と。
 その後、数回エリカとは食事に出かけた。エリカはブリジットに、いろいろなことを訊いてきた。それはブリジットの父親リチャードがペルモンドの主治医だったから。彼の病状を知りたいからと、エリカは訊いてきたのだ。ブリジットは無心で、真摯にその要求に応じた。
 視覚野の機能すら喪失している全盲であること。聴覚過敏で、大きな音がダメなこと。ピアノとヴァイオリンの音が特にダメだが、シルスウォッドが奏でるやかましく刺々しいヴァイオリンの音色だけは平気なこと。そして聴覚以外の感覚が機能していないこと。汗腺の機能が著しく低下していて、体温調節が出来ないこと。痛みを一切感じないこと。記憶が抜け落ちていること、そして過去に重大なトラウマを抱えていること。情緒不安定な傾向のこと。そして、時折てんかんに似た発作を起こすこと。……知っている限りの全てを、ブリジットはエリカに伝えたのだ。エリカに、教えてあげたのだ。
 するとエリカは、笑顔で言った。ありがとう、ブリジット。助かったわ、と。
「何食わぬ顔をするのだ、ブリジットよ。それで、あそこのお店に入るのだ。あのブティック!」
「どのブティックよ、クロエ。この通りにブティックはいっぱいあって、私にはあなたが指しているのがどのお店なのかが分からないんだけど……」
「あぁっ、じゃあついて来て! 行くよ、ほら!!」
「わっ、ちょっと待って! そんなに強く腕を引っ張らないでよ!」
 やがてブリジットは医学カレッジを卒業。一方、シルスウォッドは様々な要因が重なった末に心身のバランスを崩し、大学院を中退。それを機に彼はペルモンドの自宅を出て、キャロラインの実家に転がり込んだ。シルスウォッドが恋人キャロラインと結婚したのは、中退してから一年が経過してからのこと。そして引きこもりがちな生活を送っていたペルモンドがとある軍需企業に就職したのも、それぐらいの頃だった。
 ――それから、だろうか。街中で、ペルモンドとエリカの二人が並んで歩いている光景を、ブリジットがよく見かけるようになったのは。
「クロエ~、痛いんですけど~」
「うるさい、お嬢様! エリカの雷が飛んでくる前に、こちとら逃げなきゃいけないんだよ!」
「ねぇ、別に逃げなくてもいいと思うんだけど」
「私には逃げなければいけない理由がある」
「それ、私に関係ないよね?」
「同志を見捨てるのか、ブリジットよ!」
「いや、私はあなたの同志じゃないわ」
 傍から見た彼ら二人は、幸せそうな男女そのものだった。エリカが彼をリードして歩き、ペルモンドは彼女に全幅の信頼を置いて、身を預けている。
 でも、どうしてだろうか。ペルモンドのほうは日に日にやつれていっているように見えなくもないのだ。
「ブリジットだって、きっと彼のことをセクシーだとか、カッコいいと思っているに決まってる! それをエリカに知られたらって考えると、恐ろしくないの?」
「いいえ、別に。私は一応、毎週水曜に彼と必ず顔を合わせて、彼の処方箋を書いてるから」
「答えになってないぜよ、同志」
 クロエが放った、そんな戯言。クロエから目を逸らしたブリジットは、つい先ほどまでエリカとペルモンドの二人が並んで歩いていた場所を見る。そこにはもう、彼らの姿はなかった。


+ + +



 毎週水曜日の夜七時、小さな心療内科。伊達眼鏡を外したペルモンドは決まった時間にここを訪れ、精神科医ブリジット・エローラに諸々の面倒を見てもらっている。
 抗うつ薬、精神安定剤、睡眠導入剤。それらの手配を、彼女が全て整えていたのだ。
「痙攣発作は? だいぶ減ったのかしら」
「ああ。以前よりは、ずっとマシになった。少なくとも昼間に起こることはない」
「そう。なら良かった。でも、仕事はどうなの? 日中、頭は動いてるのかしら?」
「そこそこ。頭に靄が掛かっている感じだ。四〇パーセントぐらいの能率で、気付いたら十分ほど寝ていた時もあるが……――それぐらいが丁度いいような気が、今はしてる」
「じゃあ、また一週間分。同じ量を出しておくわ。処方箋を出すから、ちょっと待ってて……」
「…………」
「それで、夜は寝れてる?」
「…………」
「どうかしたの、ペルモンド。言いたいことがあるなら、聴くけど」
「いや、なんでもない」
「ペルモンド。早めに白状しといたほうがいいわよ。私は容赦なく、根掘り葉掘り聞くから」
 処方箋を作成する機械を慣れた手つきで操りながら、診察室の椅子に座るブリジットは彼を見つめる。すると視線を感じたのか、ブリジットの前に座るペルモンドは肩を落とした。そして彼は、ちょっとした愚痴をこぼす。
「ここ最近は連日のように、カメラを持ったリポーターにジャーナリスト、新聞記者に、追い回されている。プライベートが消えた。それで今は知り合いの弁護士に、法的措置は取れないかと相談してるところだ。とはいえ、報道の自由を翳されて、訴えが棄却されるのがオチだろうと言われたが……」
「あー、アバロセレンがらみの。新しい発見をあなたがしたとかで、追い回されてるんだっけ。あれって、昔と同じでフェイクニュースなの?」
「ノーコメント。……ただただ、疲れた。頭痛がするよ」
「あら、痛み止めも出しとく?」
「……今のは、あれだ。比喩」
「隠喩。比喩じゃない。……文学に関してはあなた、まるで駄目よね。天才も万能じゃないってわけか」
 ピー、ピーッ。ブリジットにとっては聞きなれた電子音が鳴り、診察室の机の上に置かれた小さなプリンターから、処方箋が特殊なコーティングの施された薄いマット紙に印字されて出てくる。そうしてブリジットは出てきた紙を、彼の手に握らせるのだった。「はい、今日のとこはこれで終わり。いつも通り受付に行って、受付のラウリに処方箋を渡して、彼にお金を払って、薬剤師のパウラから薬を受け取って」
「ありがとうございます、ドクター・エローラ」
「それで、ペルモンド。仕事帰りにボクシングジムに通って、サンドバッグとアマチュアボクサーを殴りまくってること。主治医の私に、いつまで黙ってるつもりなのかしら」
「……!?」
「私の指導医のイルモ・カストロが、何度もあなたを目撃してるのよ。テル=ホルスト・ボクシングジムで」
「バレてたのか……」
「私はずっと、あなたに言ってきた。ジョギングのような軽い運動もダメ。何故ならば、汗の出ない体で運動をしたら体温が上がりすぎてしまうから。そして水泳も、体温が下がりすぎるから禁止だって。……ジョギングがダメなら、ボクシングなんて以ての外だってこと、分かるでしょ?」
「…………」
「ペルモンド。言うことは?」
「ストレス発散だ。あれぐらい、構わないだろ? 現に、あの程度の運動で倒れたことは一度も」
「今までは、ね。これから先に何が起こるか。それが分からないから控えろと言っているの。過信は禁物、特にあなたの場合は。エリカを悲しませるようなこと、あなただってしたくないでしょ?」
 ブリジットはそう忠告するも、彼は彼女の言葉に聞く耳を持っていないようで。椅子から立ち上がると、ペルモンドはアルカイク・スマイルを浮かべてこう言った。
「ご忠告どうも、ドクター・エローラ」


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「うちの旦那様と来たら、毎朝毎晩溜息ばっかりよ。どうしたもんかしらねぇ、本当に」
 ある日の休日。四年前に改装されて綺麗になった、州立公園の噴水広場。子供連れの親子で賑わう昼間の公園のベンチには、母親となったキャロラインの姿と独身のブリジットが並んでいる。
そして愚痴をこぼすキャロラインの視線は、ほんの少し離れた場所で他の子供たちと追いかけっこをして遊んでいる愛娘、テレーザに向けられていた。
「私はてっきり、彼は研究者になるものだと思っていたの。それに彼も間違いなく、それを望んでいたはずよ。それが、どうして。何をどう間違えたから、彼は軍需企業の事務職っていう仕事に就いてしまったというのかしら。情けないサラリーマンになり果てた彼の姿が、本当に見てられなくて。つらいわ、私にとっても。私が好きだったのは、マニアックだからこそ輝いてた彼だったのに」
 嫌な仕事なら辞めればいいだけの話なのに。ブリジットよりも世間知らずなキャロラインはそう呟いて、肩を竦める。シャーマンという特殊な職を家業としている彼女には、矛盾と不合理だらけな俗世のドロドロは理解できないもののようだ。
 そんなこんな、幼い頃のシルスウォッドにどこか似た雰囲気を放っている少女テレーザを見つめながら、ふとブリジットは思い出す。やつれているように見えたペルモンドの姿を。それからブリジットは、あることを思い出した。「……そういえば、シルスウォッドとペルモンドって職場が同じよね?」
「そうね。旦那様はそう言ってたわ。ミスター・バルロッツィ、彼といえば個人的に請け負った外注の仕事ばかりをやっていて、会社から与えられたノルマには『くそくらえ』と言っているって。だから会社のCEOは、ミスター・バルロッツィの代わりにうちの旦那様に向かって、あれこれ嫌味を言ってるそうよ。友人なら手綱を握れ、って。でも無理よね。うちの旦那様、人を操るとかそういうことができる器じゃないし」
「そうかしら? シルスウォッドなら、やろうと思えば出来ると思うけど。だってあの人の唯一の特技は、人を操ることよ。それにシルスウォッドって天邪鬼なひとだから。きっとCEOに反抗してるのよ。ペルモンドっていう猛犬をわざと放し飼いしているの。実に彼が、やりそうなことだわ……。それに彼は悪趣味で、人の迷惑がる顔を見るのが何よりも大好きだから」
 ブリジットがそんなことを言うと、キャロラインが彼女のほうを向いた。キャロラインは少し首を傾げさせていて、今のブリジットの言葉に違和感を覚えた様子だ。そしてキャロラインは言う。「えっ。私の中の彼って、従順っていうイメージなんだけど……」
「それは彼が、あなたのことを大好きだからに決まってるでしょ、キャリー。あなたにだけは嫌われたくない、捨てられたくないのよ」
「……」
「彼は、動物に譬えるならずる賢いコヨーテよ。だけどそのコヨーテが、あなたの前では全力で尻尾を振って、従順なシバイヌの真似をしてる。つまり彼は必死なのよ。世の中には、自分よりもあなたに相応しい男がいっぱい居るってことを分かってるから」
「それって、喜んでいいのかしら?」
「喜ぶべきじゃない? だって私が思うに、彼のあなたへの愛は本物だもの」
「……やだっ、なんだか照れちゃうわ」
 ぽっと赤らむキャロラインの頬。と、そのとき遠くから彼女の娘テレーザが、母親を大声で呼んだ。そしてテレーザは小さく細い腕を、大きく目いっぱい振る。
「あら、まあ。テレーザったら、はしゃいでること。子供って、何がそんなに嬉しいのかしらねぇ」
 特に深い意味のない、子供らしいその行動。母親歴も二年になるキャロラインは、いつものことのように笑顔を浮かべ、娘に手を振り返した。すると娘はひときわ大きく飛び跳ねて、踵を返す。また他の子供たちの輪の中に戻っていった。
 無邪気な笑顔で駆け回る子供たち。それを離れた場所から見守る、母親や父親たちの姿。ブリジットとほぼ同年代か、それよりも少し上か。彼らは幸せそうな顔をしていた。
「子供、か。羨ましいなぁ……」
 思わず零れた独り言。そんな独り言を呟いたブリジットの顔を、キャロラインがまじまじと覗き込んでくる。
「ブリジット。あなた……子供が、羨ましいの? えっ、どういうこと」
「ちっ、違うわ。子供が居て、配偶者も居て。幸せな家庭を築いて。そんなあなたが羨ましいってこと」
「なら、結婚すればいい。子供は可愛いわ」
「相手が居ないのに、誰と結婚するっていうのよ」
「あなたは私と違って美人だし、それに親子で医者だからお金もある。だから相手なんて、すぐ見つかる。選り取り見取り、そうに決まってる。もし相手が居ないっていうなら、それはあなたの理想が高すぎるってだけね」
「……理想、ねぇ」
「高すぎる理想は婚期を遅らせるだけよ。妥協することも肝心」
 高すぎる理想。キャロラインが発した何気ないその一言が、ブリジットの胸にぷすっと突き刺さる。細い針となって、静かに、だが深く。
「私の場合は幸運なことに、恋愛の延長線上に結婚っていう通過点があったけど。普通はそう上手くいかないもの。恋愛と結婚は似てるようで違うものなのよ。……って、私のママ友たちは言ってた」
「……はぁ。そう聞くと、なんだか面倒臭いわね。結婚って」
「そもそもブリジットは、結婚生活になにを求めてるの? 子供が欲しいだけなら、養子っていう手段もある。あといきずりの男を引っかけてシングルマザーになるっていう選択肢だってある。あなたの場合は、財力があるわけだし。シングルマザーになったとしても、悲観するようなことは何も……」
「……あるひとりの男性、に絞るのはダメなのかしら」
 ブリジットの口から、うっかり漏れた本音。すると何かを察したキャロラインは、表情を変えた。キャロラインは眉を顰める。そして彼女は往なすように、ブリジットに言った。
「ダメよ、ダメ。ブリジット、それは絶対にしてはいけない。自分の欲望を満たすためだけに、他人を犠牲にするのは非道というもの。人間のやることじゃないわ」


+ + +



「色んな都合が合わなくて、なかなか機会が得られないのよ。彼の場合は次から次に舞い込む仕事と、プライバシーとかを踏み躙って一般人を追い回す記者たち。私の場合も、やっぱり次から次に舞い込む仕事か。忙しいのよね、お互いに。だから会える時間がとても貴重なんだけど。……知らない人に、写真を勝手に撮られるのは嫌で。私も、彼も。以前ほど堂々とは出歩けなくなった」
「へぇー……。じゃあ最近は、会ってないの?」
「ううん。私が彼の家に行くようにしているのよ。家で作った、母直伝の栄養満点な料理を携えてね。悲しいことに、彼から美味しいって言葉は貰えないけど。でも、彼と同じ時間を過ごすことが出来るだけで、私は幸せだから。それだけで、充分」
 またある日の休日、夜。春が近くなり、少し肌寒い季節。独身女性三人が、カクテルと共にバーカウンターに並んでいる。ブリジット・エローラ、クロエ・サックウェル、エリカ・アンダーソン。とはいえ一概に独身といえど、婚姻状態にないだけで相手は居る女性がひとりいる。エリカだ。
「で、エリカ。夜のほうは……――どうなの?」
「あー、クロエ。その話は、したくない」
「でしょうね、おおよその予想は付く。……彼、全力で拒むんでしょ? それから錯乱して、気絶。目覚めたときには、何があったかを忘れている」
「ブリジット、どうして知ってるの?」
「シルスウォッドが言ってたの。昔のことを思い出しそうになると、ペルモンドは混乱して、気を失って、短期間の記憶も失くすと。……薬じゃ改善されないのよね、その問題は。根本的な解決が望まれるけど、それには当人の協力が必要不可欠。だけど、当の本人が非協力的だから、いつまで経っても改善されないのよ。主治医として、もどかしいったらありゃしないわ。あくまで、主治医として」
 意味ありげにニヤつくクロエは、ブリジットの背中を平手で叩く。気まずそうにブリジットが口角を下げ、腕を組むと、クロエは下品にケタケタと笑ってみせた。
「ブリジットも、彼が好きなんでしょ~。私、知ってるんだから。それで私、クロエ・サックウェルも彼が好き。だって彼は超お金持ちでぇ~、セクシーだし~? あんな男と結婚できるってことは、それって一生遊んで暮らせるってことと同じよ。私、クロエ・サックウェルはできることなら仕事なんかしたくありません! 私は! エリカ・アンダーソンという女性が、羨ましくて仕方ありません!! 私も、お金持ちの恋人が欲しいです~!」
 お酒が入ったこともあり、クロエの下品さはより過激なものへと進化していた。
「デリック・ガーランドと縒りを戻したいの、私は! だって、私と彼が分かれた原因って、彼の前に結婚詐欺師の泥棒猫が現れたからで……――ぬあーッ!」
「落ち着きなさい、クロエ」
「なんて冷たいの、ブリジット! 私は、寂しいのよ?! ヒモ男でもいい。っていうかこの際、もう男じゃなくてもいい。女でも、おじいちゃんでもおばあちゃんでも、猫でも、誰でも構わない! 家で、私の帰りを待っててくれる人が欲しいの……。それに占い師には、結婚は無理で子供なんかもっと無理だって言われて。私、寂しくて、寂しくて……」
「あぁ、可哀想なクロエ。そんなに寂しいなら、今晩うちに来る? 泊まってく?」
「エリカさまはなんてお優しいのかしら! ブリジットとは大違いね。……で、何の話をしてたんだっけ」
「結婚式。いつ挙げるの、っていう話よ」
「あっ、そうだった。で、エリカ。いつなの?」
「それが……――タイミングが無くて。邪魔も入るし、計画さえも立てられない。って、さっき言ったでしょう?」
「あれ、そうだったっけ?」
 アルコールで火照る顔のクロエは、すっとぼけた表情で首を二五度に傾ける。今度はブリジットがクロエの背中を平手で叩いた。
「クロエ。あなた、飲み過ぎよ。そのマティーニで何杯目になると思ってるの?」
「ん? 十一杯目」
「自制って文字は、あなたの辞書に載ってないのかしら」
「無いね、その文字は。つーか、自分の金で飲んでるんだからさ。放っておいてよ~」
「泥酔したあなたを抱えて店の外に出たくないから警告してるのよ」
「本当に冷たいなぁ、ブリジットは。だから恋人が出来ないのよ……」
 クロエが放った不意打ちのカウンターが、ブリジットの心をノックアウトする。むっと顔を顰めさせるブリジットは、グサッと“何か”が刺さり、悲しみがどっと噴出した心を、強気な態度でひた隠した。
「下品なひとに言われたくないわ、クロエ。だからあなたは、縒りを戻すことが出来ないのよ」
 程度の低い言い争いが、クロエとブリジットの間で繰り広げられる。その横でエリカが、彼女にしては珍しい溜息を零したのだった。
「……恋人が居るからって、必ずしも寂しくないとは限らないわ。同じ時間を同じ場所で過ごしていても、寂しいと感じるときはあるもの」
「あらら。どうしたの、エリカ。なんかあったの?」
「彼と出会って六年、交際が始まって四年。それでも、彼の口から『愛してる』って言葉を聞けたのは、本当につい最近。一昨日のことなのよ。それも一度だけ」
「えっ……――あああッ!? うっそ、それってマジなの、エリカ?」
 大声を上げ、全身でオーバーな驚きを表現するクロエ。その隣に座るブリジットも、口を付けていたグラスに思わず吹き出してしまいそうになる。
 六年間も一緒に居て、一度しか「愛している」と言ったことがない男。そんな男と懲りずに一緒に居る女。普通ならば、そんなカップルなんて有り得ない。……ブリジットもクロエも、そう思ったのだ。
 しかしエリカの表情は、真剣なものだった。
「ええ、本当のこと。だから今までずっと、不安だった。彼は私のことを、本当に好きでいてくれているのか、って。それに望んでいた言葉を彼の口から聞けた後も、その不安が拭えないの。……あまり感情を露わにしない人だっていうのは分かっているんだけど。本心が分からないっていうのかしらね」
「ほへぇ。つまり、ミステリアスな彼氏ってこと?」
「ミステリアスすぎる、本当に。でも、そこが彼の魅力なんだけど」
 小声でそう言ったエリカは、カウンターに頬杖を突き、背中を丸めていた。だが彼女は、楽しそうに笑う。それからエリカは、おちゃらけた声で深刻な悩みを打ち明けるのだった。
「それで結婚式なんだけどね! 私は親族とか、それと本当に親しい友人だけを招いて、小規模のものを開きたいって思ってるんだけど。彼は、そういうのも何もしたくないって言ってるのよ。私はウェディングドレスを着たいし、彼にタキシードを着てもらって、バージンロードを歩きたいって思ってるんだけど、彼は嫌がってて。ドレスを着た写真を撮るだけで良いんじゃないのか、って。無機質な人なのよ、本当に」
「ねぇ!! 結婚式は開こうよ、エリカ! それで絶対に、ブーケトスをするの。そしたらこのクロエ・サックウェルが全力でブーケをキャッチしに行きますから!」
「まだ挙式できるかどうかすら決まってないのに。クロエは気が早いわね。……はぁ」
「どうした、エリカ。マリッジブルーか?」
「マリッジブルーっていうか、ウェディングプランブルーよ。……結婚式の準備って、大変。私は小規模なものが開きたい。だけど彼は人前に出るのが嫌だから何もしたくない、写真だけでもいいじゃないかって言ってる。そして私の母は、父さんが眠る墓の前で三百人ぐらいを呼ぶ大規模な式を挙げてほしい、って。だから三人の妥協点を探さなきゃいけない。まずそこで難航してるのよ。そして日取りも決まらない。私は自由にスケジュールを調整できるけど、彼にはそれが出来ない。彼にはスケジュール調節ができるような余白がないのよ、四年先まで」
 結婚式。その言葉に、ブリジットの心がどんどん重くなっていく。
 結婚式という言葉の華やかさに向けられた羨望と、エリカ・アンダーソンという女性に向けられた羨望と嫉妬。それと、こんなはずじゃなかったのに、という悔やみと静かな恨み。そして醜い感情と醜い自分に向けられる自己嫌悪と怒り。そうして心が、黒々と塗りつぶされていく。長年の喫煙によりヤニにまみれた肺のように、ブリジットをブリジットたらしめる精神のようなものが、汚れた感情に侵されていく。
「それに彼の周囲に居る人たちは誰一人として、私との結婚を祝福してくれていない。あっ、私と彼の共通の友人たちは別よ? デリックとか、ユーリにジェニファー、フィルとシルスウォッド、その他の工学カレッジの同窓生たちとか。早く式を挙げろって、みんなして急かしてくるくらいだし。だけど彼は職場の上司から、結婚に関して遠回しな脅しを受けたみたいでね。色恋に現を抜かす暇は無いはずだ、って。……私は、どうしたらいいのかしら」
「エリカよ、落ち込むなッ! クロエ・サックウェルは何があっても、エリカの味方だ! ……あぁ、マスター! テキーラ、ショットで三杯ちょうだい!!」
 何があっても、エリカの味方。そんな言葉を、何のためらいもなしに断言できるクロエを、ブリジットは少しだけ羨ましいと感じていた。
 もし、自分もそう言い切れる人間であれたのなら。俯いたブリジットは、五分ほど前にバーテンダーがそっと差し出してきたグラスを見つめる。ティースプーン一杯分のグレナデン・シロップと、少しの生クリームが入った、淡いピンク色のジンベースカクテル。奇しくも誰かさんに似た名前を持つそのお酒に、ブリジットは音にならない呪いの言葉を溶かし、ぐいっと一気に飲み干すのだった。


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 白を基調とした、綺麗なチャペル。握り潰したザクロから滴る汁のように、真っ赤なバージンロードを母親と共に歩く、花嫁の姿が見えていた。
 縮れ毛な黒髪と、褐色の肌をした顔を真っ白なヴェールに隠し、すらっと細く、それでいて女性にしては逞しい筋肉を持った体に真っ白なウェディングドレスを纏った花嫁。彼女は一歩一歩、確かめるように赤い道を歩いていた。ドレスの裾に隠れ、外からは見えないヒールがコツコツと音を鳴らす。ヴェールの下に隠れた顔は、不敵に笑っていた。
 そしてバージンロードの終点。主祭壇の前に、真っ黒なタキシードを着たくせ毛の男が立っていた。男はくすんだ蒼い瞳で花嫁を見つめ、彼女に微笑みかけている。やがて花嫁が主祭壇の前に辿り着くと、どこからか鐘の音が鳴った。荘厳な鐘の音が響き渡る。すると、男が崩れ落ちるように床に膝を付いた。彼は両手で両耳を塞ぎ、轟く鐘の轟音に怯えているようだ。
 だが、誰も彼を助けようとしない。花嫁は主祭壇の前に立ったままで、座り込む男に視線をやることすらない。そうして時間が流れ、鐘の音が止むと、主祭壇には神父の衣装を着たマダム・モーガンが煙のごとく突然現れた。だが誰も、彼女の登場に動じない。
 すると神父の真似事をするように、マダム・モーガンがこんなことを言った。
『このふたりの結婚に異議のある者は今すぐ申し出なさい。さもなくば墓まで持っていくこと』
 会場に静けさが満ちる中、ブリジットだけがひとり立ち上がる。手を挙げ、彼女は大声で叫んだ。
『大いに異議あり! 私こそが!!』
 会場にざわめきが伝染する。それでもブリジットは、立ったままで居続けた。と、そのとき。一発の手を叩く音が鳴り、会場が一瞬にして鎮まる。音を鳴らしたのは、主祭壇に立つマダム・モーガンだった。そしてマダム・モーガンはブリジットを睨み、こう言ったのだ。
『よろしい、ブリジット。私が今すぐ、あなたを墓場に案内してあげるわ』
 ――……というのは、昨夜ブリジットが見た悪夢で。
「シルスウォッドから聞いたわ。あなたたちの結婚式、日取りが決まったんですってね。で、ペルモンド。どうしてシルスウォッドには伝えて、私には連絡無しなのよ?」
 エリカから結婚式に関連した愚痴を聞かされたのも、もはや一年前のこと。
 そんなこんな、毎週水曜日の夜に決まって行われる診察と簡単なカウンセリングに――伊達眼鏡を外した姿で――顔を出したペルモンドは、ブリジットが何故自分たちの結婚式にこだわるのかが理解できないというような表情をしていた。どういうわけか怒っている彼女に対し、彼は不信感と戸惑いを見せる。そんな彼は、ブリジットにこんなことを尋ねるのだった。「北米では、主治医にも結婚式の日程を伝えなきゃいけないのか?」
「えっ、ちょっと待って。私って、主治医である以前にあなたの友人よね?」
「君は……友人、だ。たぶん」
「今の間は何? それに“たぶん”ってどういうこと」
「俺には分からないんだ。君が友人であるかどうかが」
 そう言い放った彼は、真剣な表情で首を少し傾げさせていた。どうやらこの男は、本気で判断がついていないようだ。ブリジット・エローラという女性が、自分の友人リストに含まれているかどうかが。
「じゃ、じゃあ、あなたたちは結婚式に誰を招待したの?」
「誰も招待していないが」
「えっ」
「身内だけで静かに行うことにした。だから、誰も招待していない」
 診察が始まって、まだ三分も経っていないのだが……――ペルモンドは腕を固く組んでいた。既に彼の無意識は、防御モードに移行していたようだ。
 これは、まずい。しくじってしまった。
 ……そんな後悔をブリジットはしたが、だからといって既にやってしまったことを取り消せるわけではない。かといって、謝るのもなんだか気が引ける。故に彼女が選んだのは、開き直るという答えだった。
「結婚式の話は措いといて。それで、調子は? いつも通り?」
「ああ、可もなく不可もなし」
「発作は再発してない?」
「今週も何もなかった」
「そう、ならお薬は先週と同じ量でいいわね。じゃあ、何か思い出したりとかは……」
「何も」
「エリカとの結婚に対して、なにか不安はある?」
「何もない」
「本当に?」
「ああ。彼女にも、彼女の家族にも、不安や不満は何一つない。あるわけがない」
「私は医者だから、守秘義務がある。秘密は守るわ。だから正直に言ったってかまわないのよ」
「だから正直に話しているだろ。何が言いたいんだ、ドクター・エローラ」
 警戒心に満ちた声で、ペルモンドはそう言った。そしてまたブリジットは後悔する。下心は無いと言いながらも、リターンを確実に求めている自分の言動に、自分で呆れてもいた。
「……ごめんなさい、ペルモンド。心配だから、つい」
「何が心配なんだ? どうして君は、俺に執着する? そんなに興味深い症例か、俺は」
「そうよ。とても興味深い症例だから。環境の変化とかで、悪化してほしくないの。最近になって、やっと落ち着いてきたでしょう? だからこの努力を水泡に帰したくない」
 これだけ尽くしてきたのに、どうして振り向いてくれないの?
 助けてくれって、縋ってきたのはあなたでしょう?
 思わせぶりな態度を取っていたのも、他でもないあなたなのに。
 ……そんな醜い言葉が、気を抜くと漏れてしまうような気がブリジットにはしていたのだ。彼は何も知らない、覚えていない。それを分かっていながらも、そう言いたくなってしまうのだ。
 ブリジットからすれば、彼は一〇代の頃から知っている間柄。だが彼にとってのブリジットは、嫌な印象の脳神経内科医の娘で、友人シルスウォッドのそれまた友人である女性でしかない。彼にとっての初対面の記憶は、大学二年生の夏。そしてブリジットと出会うよりも前から、彼はエリカと親しくしていたのだ。初めから、彼の眼中にブリジットは入っていなかったのだ。
 理性では分かっている。だが。
「ブリジット・エローラ、君には感謝している。荒れて自暴自棄になっていた時代に君が居なかったら、俺はとっくに壊れていただろう。片方の手が無くなっていたかもしれない。だが……それとこれとは、別なんだ。俺にとって、君は医者。それ以上にはならないし、なりたくない」
「…………」
「……担当医を代えてもらえないか。君と会って言葉を交わすたびに混乱するんだ」
「えっ。やっと、改善してきたときに? このタイミングで、急に医者を変えるの?」
 誰が聞いても拒絶だと分かるほど、明確で強烈な拒絶。流石にそこまでを想定していなかったブリジットが一瞬にして打ちのめされたのは、言うまでもない。
 クズ男だ。ブリジットはそう思った。そして自分はそれ以上にクズな女だということも、分かっていた。
「改善してきたのは、エリカに全て打ち明けたからだ。落ち着いてきたのは、彼女の存在があったからこそ。それと、鋭敏な思考を鈍らせてくれる少しの薬のお陰。ドクター、君じゃない」
 打ちのめされた心に、ペルモンドは容赦なく追い打ちを掛けてくる。
 病状が落ち着いてきたのも、全てエリカのお陰で、ブリジットではない。そう断言されるだけでもつらいのに。彼はさらに、こんなことを匂わせた。ブリジットに求めていたのは処方箋だけだったと。
 処方箋を出すだけの医者。それは、はたして医者なのだろうか?
「……分かったわ。ドクター・カストロに打診してみる。女性より、男性の医師のほうがあなたも話しやすいでしょ?」
 ブリジットが吐き捨てた嫌味。ペルモンドは何も言わず、無言で頷いた。


+ + +



 ボストン郊外。電動ノコギリの音と、金属が叩かれる音が響く自動車修理工場。エリカ・アンダーソンの実家でもあるその場所に、シルスウォッドが訪れていた。それなりに値の張るブランドの、クッキーアソート缶を手土産として携えて。
「そうなんだよ、エリカ。式当日には、娘との先約があってね。博物館に行ってティラノサウルスの化石を見る、っていう重大な約束なんだ。すっぽかすわけにはいかないんだよ。『パパなんか大嫌い』ってテレーザに泣かれるのは、僕が耐えられないから。それに『土日はパパが子供の面倒を見る』っていう決まりを破ると、妻が不機嫌になるから。だからペルモンドには宜しく伝えておいてくれ」
「ええ、伝えとく。それにきっと彼は、あなたが来ないほうが喜ぶわ」
「ハハッ、だろうね。僕もそう思うよ」
「嫌味ばかりの目付け役が居ると、存分に羽を伸ばすことができないんですって。それに……結婚式らしい式は本当にないのよ。だからどちらかというと、午後に開く飲み会がメイン。工学カレッジ時代のぶっとんだ仲間たちを招いて、朝まで飲み明かす予定。あなたって、お酒は呑まないでしょ?」
「ああ、僕はサーブする側の人間だから。――じゃあ、ウィン・ウィンってことか。なら僕のほうも気兼ねなく休日を楽しめるよ」
 シルスウォッドはそう言って笑う。――そんな風に暢気に立ち話をしているシルスウォッドとエリカだが、世間は平日の真昼間。自営業であるエリカはまだしも、会社員であるシルスウォッドは勤め先に居なければいけないはず。
 つまり彼はサボったのだ。『娘が高熱を出した』という魔法の言葉を使って、有休を取得したのである。というのも彼には今日、どうしてもエリカに伝えなければいけないことがあったのだ。
「それで、シルスウォッド。彼についての話って、何?」
「ああ。君も知っといたほうが良いと思ってね。ペルモンドの多重人格のゴニョゴニョと、怖い怖いペルモンドの姉貴さん、それとブリジットの話なんだ」
 ブリジット。シルスウォッドが口にしたその名前を聞いた途端、エリカの顔色は曇った。
「……やっぱりブリジットは、彼を狙ってるのね?」
 エリカのその問いにシルスウォッドが返したのは、思わず拳をめり込ませたくなるぐらい爽やかな笑顔だった。そして彼は、はぐらかすように言う。
「立ち話をするには、重たすぎる話なんだ。出来れば君の家の中で詳細は話したいんだけど……?」
「分かったわ、入って」


+ + +



 彼には、自称“姉貴分”っていう女性が付きまとっている。彼女の名前は、マダム・モーガン。本名は分からない。まあ、でも彼女は安全だよ。相当な悪事をやらかさない限り、彼女の怒りを買うことは無いから。たとえば、ペルモンドの研究データを勝手に盗んで、民間企業に売るとか。それでピーター・ロックウェル准教授は逮捕され、殺されたんだ。マダム・モーガンに。
「クロエ。ちょっとあなた、飲み過ぎじゃないの? ショットグラスが十三杯も空になってるわよ!」
 マダム・モーガンは、ちょくちょく目の前に現れて、消える。とはいえ接触する必要がなければ、君の前に彼女が現れることはないだろう。まあ少なくとも、君みたいな善良な一市民に彼女が危害を加えることはないだろうさ。彼女に関しては、そこまで警戒しなくてもいいと思うよ。
「うへへぇ~い! エリカとバッツィの二人にかんぱ~い! 人のお金で飲みまくるテキーラ、マジ最高! ……デリ~ック、一緒に飲もうぜ!」
 あぁ、だけどペルモンドには注意してくれ。それもペルモンドの目が、何の前触れもなしに緑色に変わったときだ。僕もまだ、あの現象の理由が分かっていないんだが……悪魔憑きみたいなものなんじゃないのか、って思ってるんだ。とはいえこれは、あくまで仮説だ。笑いたければ、笑ってくれて構わないよ。
「テキーラはそんな下品な飲み方をするための酒じゃねぇぞ。クロエ、だからお前は……――あー、そうだった。お前には、言うだけ無駄か」
 だが……本当に、悪魔憑きなんじゃないのかって思うぐらい、緑色の目の彼は不気味なんだ。緑色の目のときの彼は、ペルモンドではないような気がするんだ。ペルモンドの他の人格っていうのは、やっぱり根底にどれもペルモンド・バルロッツィっぽい要素があるんだけど。緑色の目には、それがないんだ。
「マスター、テキーラショットを五杯! ィヤッホ~ィ!」
 それで僕は居候中に、あくまで彼の介護をしていただけ。だから、エリカ。君のように、彼の心に迫るようなことは、僕はしてないんだ。だから僕は本当に、あいつの過去のことを何も知らない。けど、これだけは断言できる。ペルモンドは、自分自身に怯えている。自分のコントロールを失うことが怖いんだ。緑色の目になることが、怖いんだよ。
「なぁ、バッツィ、お前はどう思う、クロエみたいな酒癖の悪い女のことを」
 あぁ、それでね。鏡だけは、あいつに見せちゃあ駄目なんだ。目が見えるとか見えないとか、それすら関係ない。あいつの前に鏡があると、ただそれだけであいつは狂う。どうしてか、その理由は分かってない。人格のスイッチの切り替えというか……鏡を見るという行為が、なにか引き金のような役割を果たしているのでは、と僕は見立てている。で、鏡を見るとあいつの目はもれなく緑色に変わる。だから、絶対にダメなんだ。この先、同棲を考えているなら。家に鏡は絶対に置いちゃいけないよ。手鏡も、見えないところに隠さなければいけない。
「酒は加減して飲んだほうが良い。体のためにも」
 あー、その……あいつは、本当に良いやつなんだ。時たまヤケに冷たかったり、無感情な振る舞いをしたりもするが、それらは本当のあいつじゃない。あと潔癖だったり、自分のことを一切顧みないで体を壊しまくったり、集中すると人の声が一切聞こえなくなったり、昔のことを思い出しかけるとフリーズしたりと、面倒なやつではある。だけど、本当に根は良いやつなんだ。
「さすがだぜ、バッツィ。ブレない、察しない、文脈を読まない。お前、本当に最ッ高だ!!」
 だから、気を付けてやってくれないか。あいつは本当に脆いから。何かが起こったら、きっと簡単に壊れちまうだろう。
「いっけー、いっけー、クーローエー! アンタなら二〇杯いけるよ!」
 それにあいつは、自分の身に降りかかる災難よりも、自分の周囲に居る人間の身に起きる不運に弱い。だから人間関係から逃げる癖があるんだ。それにあいつがどれだけ不幸な人生を辿ってきたのかは知らないが、あいつは勘違いしているみたいでね。自分に関わった人間は皆、不遇の死を遂げるか、もっと酷い不幸に遭うと。愛してると言いながらも、君との結婚に躊躇いを見せていたのはそれが理由だ。……ひどすぎる勘違いだろ? だがあいつは、本気でそう思い込んでるから。
「ジェニファー、あんまり煽るなよ。クロエなら、マジでやりそうだから……」
 ……まあ、こんな忠告をしなくったって、君ならあいつのことをよく分かってるか。じゃあ一番の懸念事項は、ブリジットになるか。
「おらぁ!! スカしたツラのクールガイ、ユーリ! お前も飲めや、飲め!!」
 僕もブリジットのことはあまり悪く言いたくないんだ。幼馴染だし、僕が今もこうして能天気に生きていられるのは、彼女が僕の両親に僕の居場所を黙っていてくれているからで。……だが、それとこれとは別の問題だからねぇ。
「クロエ、お前は落ち着け」
 実を言うとブリジットは、ペルモンドのことを彼が十五だった時から知っているんだ。ハイスクールには通っていないあいつに勉強を教えていたのは、彼女。それに彼女は、あいつの保護観察官と知り合いだった。だから、つまり……思い入れが強いってわけさ。義務感とか、責任感とか。一〇代の頃の名残で『私が彼を助けてあげなきゃ』と思っている。猪突猛進な性格も相まって、ありゃ誰にも止められない。僕にもだ。
「フィル! お前も飲めや、飲め!! 水ばっか飲むにゃぁッ!!」
 で、ペルモンドはというと……一〇代の記憶がないわけだ。つまり、あいつにはブリジットに世話してもらったっていう記憶がない。現状は、ブリジットの親切心が一方通行。ブリジットはヤキモキしていて、ペルモンドは彼女の重すぎる親切心に大いに戸惑っている。そんなところだ。
「下戸のフィルに、それは酷じゃねぇか……?」
 それでどうしてペルモンドがブリジットのことを覚えていないのかといえば、それは当時のブリジットにデリカシーというものが無かったからだ。今も、彼女にデリカシーとかプライバシーっていうものは無いけど。
「うるへぇ、デリック! 飲むのじゃ!! バッツィの金で、飲みまくりゅのひゃ!!」
 ブリジットのことだ。きっと昔も今と同じように、あいつから過去のことを無理に聞き出そうとしたんだろうね。それで一〇代の、今よりもずっとセンシティブだった彼は、掘り起こされた記憶に耐えられなくて、何かを思い出したという事実と思い出させたブリジットという存在を、頭の中から抹消したんだろう。だから彼女のことを覚えていないんだ。
「おーい、クロエ。呂律が回ってねぇぞ」
 そして今も、ペルモンドの中には『一〇代の頃にブリジットと出会っていた』という記憶はない。ブリジットも、そこを理解している。けれども、だからって彼女が親切を止めるかというと、それは別の話だ。
「そんにゃこと、ありまへぇ~ん! クロエはちゃんと、ひゃべれて……」
 それにブリジットは、君という女性の存在を知ってから、ますます酷くなっている。そのうえブリジットは信じて疑っていないようなんだ。自分こそが、ペルモンド・バルロッツィという男に相応しいと。君とあいつが相思相愛だなんて、彼女は信じてない。君が、ペルモンドを洗脳したとすら思っているだろう。全く以て失礼な話だろ?
「なぁ、バッツィ。クロエを止めてくれねぇか」
 ……とはいえ、彼女は賢い。あくまで人前では、君と彼の関係を応援しているふりをしている。でも僕は、幼馴染だから。分かるんだよ、色々と。
「そうだな……。じゃあ、彼女だけ自腹ってのはどうだ」
 とはいえエリカ、君も気づいてたんだろ? 君とペルモンドの結婚話が浮上してからというもの、ブリジットは流石に本音を隠し切れなくなったみたいだし。表情態度から、本音がだだ漏れの状態だから。
「うにゃっ?! ば、ば、バッツィにょ悪魔ァッ!! 酷しゅぎる!! エリカも、にゃんか言ってひょ!」
 だから早く結婚しろって僕は急かしてたんだよ。そうすれば君の勝ち。ブリジットも、さすがに諦めるだろうと思って。僕としては、君たち二人の幸せな未来が見たいし。それに幼馴染に、馬鹿な真似を起こしてもらいたくないから……。
「私は、彼に大賛成かな」
 ――時刻は夜の八時。貸し切りにされたバーでは、クロエ・サックウェルを中心に、集った友人たちの間でどんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。
 ラフな格好をした新郎新婦が、五名の友人たち――起業し新米社長として邁進中のデリック・ガーランド、一流ギャラリストになるべく修行に励んでいるジェニファー・ホーケン、抽象画家として少しずつ頭角を現していたフィル・ブルックス、家業の鉄工場を継ぐために修行中のユーリ・ボスホロフ、それといい加減すぎる精神科医クロエ・サックウェル――とともに役所の中で簡単かつ地味な結婚式を十五分で済ませたのは午後二時のこと。無事に式を終えたあとは七人で、貸し切りの予約をしたバーに直行。そうして昼間から、飲んで歌って踊りまくるパーティーが始まったのだ。
「クロエ、あなたはそろそろ落ち着きなさい。いくらなんでも、飲み過ぎ」
 パーティーが開始されてから六時間。空になったショットグラスの山と、三本のボトルがテーブルに並んでいる。真っ赤な顔のクロエは、呂律の回らない舌で言った。
「エリカこひょ、飲まにゃしゃしゅひじゃ! エリカったりゃシケたツラしちぇ、三杯しひゃ飲んでにゃい! ユーリみたく、エリカもウォッカをグイッと!!」
「ウォッカもテキーラも、私は飲みません」
 あくまで笑顔のエリカは、軽く往なすようにクロエにそう言う。しかしエリカの心中は穏やかなものでは決してなかった。彼女の頭を支配していたのは、先日聞いたシルスウォッドからの忠告。
「っていうか、みんな飲み過ぎよ! 一滴も飲んでないフィルは、さておき。ジェニファー、あなたもショットグラスを何杯空けた? それにユーリにデリック、ペイル。あなたたち三人でワインを三本も空けてるし。それにユーリ、あなたはストレートのウォッカも……――いい年した大人が、加減ってものを知らないわけ?」
 マダム・モーガンという女性に関しては、初耳だった。それにペルモンドが多重人格だというのは、本人から聞かされていたので知ってはいたが……緑色の目、というのは聞いたことも見たこともない。そしてクロエからの密告を受けて、最近は警戒するようにしていたブリジットに関してだが。エリカが考えていたよりもずっと事態は深刻だったようだ。
「……はぁ、呆れたわー。酔っぱらいばっかり。アーティーは来なくて正解ね……」
 自分の力が及ばない場所で、自分と彼を引き裂こうとしている力がある。そして彼自身の中にも“何か”がある。本人すらも把握していない秘密が。
「にゃぁああああッ! 今日は、説教臭いのはナシだあーって! 全部バッツィにょ奢りひゃけど無礼講ひゃあっつっちゃのはー、エリカとバッツィの二人れひょ~?」
 だが杞憂に溺れたところで、どうすることもエリカには出来ない。それにシルスウォッドは言っていたじゃないか。マダム・モーガンは、国家への反逆罪クラスの悪いことにさえ手を出さなければ現れない。緑色の目のペルモンドも、彼に鏡を見せなければいいだけのはなし。それにブリジットも、二人が籍を入れてしまえばきっと諦める、と。
 まぁ、なるようになるさ。少なくとも悪いほうにはいかないよ。
 ……そんなシルスウォッドの言葉を信じて、いつものように前に進むしかないのだ。
「ねぇ、ダーリン、クロエだけは自腹にしましょ。彼女の分は払わなくていい。びた一文たりとも」
 複雑な思いを抱えながらも、それでもエリカは笑顔を浮かべ続ける。いつものように冗談を発する。そしていつものように、前向きであり続ける。そうすることしか出来ないのだから。
 そうすれば、彼は嘘のない微笑みを向けてくれる。彼は傍に居続けてくれる。いつものように、同じ時間を共有できる。
「了解だ、エリカ」
 それだけで十分なのだ。それ以外の多くのものは、何も望んでいない。
 それなのに。それすら許さぬと、邪魔するものがいるというの?
「ひょんにゃああああああああ?!」
 ふたりの冗談を真に受け、クロエは悲鳴を上げる。するとデリックがケタケタと笑った。
「バッツィ。こいつの酒代は、マジで自腹にしていいぜ。そうすりゃクロエも懲りて酒癖を治すだろ?」
「おい、デリック! この慈悲びゅきゃきクロエしゃまへの恩を忘れひゃのきゃッ!?」
「びゅきゃき……?」
「ひょにょ、浮気男ーッ! ひょれも常習犯ーッ! 何回、許して見逃してひゃったと、ひょう思っへりゅのにゃあーッ!!」


+ + +



「なぁ、ブリジット。君には、恋人とかいないの?」
 クロエが大絶叫をしていたのと、ほぼ同時刻。ブリジットは、同じ診療所に勤める先輩の男性医師イルモ・カストロの誘いを受け、複数人の同僚と食事に出かけていた。その一幕で、イルモ・カストロから掛けられた言葉。ブリジットはそれに対し、引き攣った笑みを浮かべた。
「居ないわ。だけど、それがどうかしたの? あなたに関係ある?」
 あからさまな誘い文句に、ブリジットが示したのは嫌悪。しかしイルモ・カストロという男は、どうやら鋼鉄のハートの持ち主であるか、相当なナルシストのようだ。彼はめげずに、ブリジットに攻撃を仕掛けてくる。「前から思ってたんだ、ブリジット。君、すごい美人なのに浮ついた話をまるで聞かない」
「ありがとう、誉めてくれて。嬉しいわ、本当に。……これで十分?」
「なぁ、君はクソ真面目なのか? それとも禁欲主義? だって、おかしいだろ。こんな美人に言い寄る男が居ないなんて」
「今、目の前に居るような気がするんですけれども」
「ははは……もしかして、俺のことが嫌いなのかい?」
「嫌いじゃないです。あなたは的確なアドバイスをくれる素晴らしい指導医、それは事実。職場では頼りになるもの。だけど、今のあなたには面倒って感じてる」
「正直な女性だ。素敵だよ。俺のタイプだ」
「あら、そうなの。だけどあなたは私のタイプじゃない」
「実に手厳しいなぁ」
 それでも彼は、笑顔だった。イルモ・カストロの黒い瞳は、ブリジットの淡褐色の瞳をじっと見つめている。その目に、純朴な下心以外の感情はない。見え透いている下心を隠す気がない彼に、ブリジットは清々しささえ感じていた。
「もしかして、だが。君、恋愛の経験はないのか?」
「ええ、そうですけど。だから何?」
「なぁ、どうせなら俺が」
「ご遠慮願うわ、イルモ。簡単に手に入る安い女だと思わないでくれる?」
「じゃあ、どんな女性なんだい。君は」
「ブリジット・エローラ。女性。マサチューセッツ総合大学、医学カレッジ卒」
「おぅ……そう来たか。面白い女性だ」
 他にも同僚が居るというのに。イルモ・カストロは平然と、ブリジットを口説いている。明らかにブリジットから面倒臭がられているというのにも関わらず。
 同じテーブル席を囲んでいる同僚たちは、女性を中心にイルモ・カストロに冷たい視線を送っている。そんな雰囲気に、ブリジットは恥ずかしさを覚えていた。しかし冷たい視線を意に介さないイルモ・カストロは、しつこく言い寄ってきた。
「じゃあ君の好みを教えてくれよ。どんな男が好きなのかい?」
「あなたとは正反対のひとよ。口説かない、しつこくない、下心は無い、女性を前に鼻の下を伸ばさない。そういう男性」
「そんな男っているかな? というかそもそも、そんなのは男じゃないだろ」
「あなたみたいなのを男っていうなら、私は一生独身でも構わないわ」
 ブリジットが放った辛辣な一言。それはイルモ・カストロという男性の鋼鉄のハートにかすり傷を与えたのと同時に、ブリジット自身の心をも打ち砕く。
「またまた、強がっちゃって。それとも、君はあれか? 白馬の王子様を待っているタイプの、夢見がちな女性かな」
 一生独身でも構わない。そんなことなど、思ってもいないのに。
「……はぁ」
「どうしたのかな、ブリジット。図星だった?」
「いいえ。私は知っているだけよ、自分の身の丈を。だから釣り合うもの以外に興味がないだけ」
 イルモ・カストロという男性は、そう悪くはない男だった。女を持て余していそうな、まさにハンサムという言葉が似合う男。ジム通いの鍛えられた肉体で、数多くの女性を虜にしてきたことだろう。そんなことは簡単に予想できる。
 でも、彼じゃないのだ。ブリジットが求めている男は。
「つまり、君は理想が高い女性というわけか。でも結婚したいなら、妥協も必要だよ? ほら、目の前に居る俺で妥協しようよ。な?」
 白い歯を見せ、まさに“カッコイイ”という笑顔を浮かべるイルモ・カストロは、ブリジットに熱烈なまなざしを注いでいた。だがブリジットが返すのは、氷水よりも冷たい溜息。すると同じテーブルを囲んでいたある男性看護師が、イルモ・カストロの肩に手を置く。
「イルモ、諦めたらどうですか。ブリジットさんの好意を買うまえに、あなた嫌われちゃいますよ?」


+ + +



「それでね~、お開きになる前に。エリカったら何したと思う? ストレートのウォッカをぐいっと一杯いって、んでバッツィに熱烈なキスしたの! だけどバッツィったら目も見えないし何も感じないから、エリカが何してるのか気付かないわけ。まったく動じないバッツィの姿が、ホントに笑えてさ~」
「バッツィ? 誰なの、それ」
「エリカの旦那の愛称。ペルモンドっていう名前も、バルロッツィっていう姓も言いにくいじゃん? だから姓を略して、バッツィって」
「へぇ、そうなの。知らなかったわ」
「あっ、そうそう。エリカは彼を“ペイル”って呼んでんの。ほら、彼の瞳の色ってくすんだ蒼でしょ? だから“蒼白(ペイル)”って。あとペルモンドっていうへんてこりんな名前に掛けてね。シャレオツよねぇ、ペイルって愛称。でもバッツィのほうが親しみを感じるから、私はバッツィって呼ぶことにしてんの」
「ふーん」
「それでね、それでね! 私クロエ・サックウェルは一昨日、念願かなってバッツィと初対面して、色々喋れたのですよ~。いやぁ、想像してたのよりも数百倍イイ男。優しい、カッコいい、笑顔が可愛い、それに案外と誠実! クソ音痴だったっていう弱点さえ除けば、この上なくイイ男! 私のお酒代も、結局奢ってくれたし~♪」
「へー、そうなんだー。楽しんできたなら何よりだわー」
「もしかしてだけど、ブリジット。妬いてる? このクロエ・サックウェルにはパーティーの誘いが掛かったのに、私には誘いが来なかったって、妬いてるでしょ?」
「別にー。興味もないわー」
「あっ、そう。なんかいつにもまして冷たいな、ブリジット」
 週末を楽しんだクロエとは対照的に、週末を苛立ちで終えたブリジットは、朝から沈んでいた。イルモ・カストロのこともある。だが一番の理由は、ペルモンドが言っていた「結婚式には誰も招待していない」という言葉が嘘だったことだろう。
 いや、彼ら夫婦は間違いなく結婚式に誰も招待していなかった。公平を期すために、招待状は誰にも出していないのだという。それは、事実だ。しかし、限られた友人に口頭で伝えていたのだという。いつ、どこで結婚式を開き、そのあと貸し切りにしたバーでパーティーを開くから来てね、と。だからクロエら“限られた友人”は彼らの式に顔を出し、その後のパーティーを楽しんだという。その誘いを、唯一断ったのはシルスウォッドだけ。それも娘との約束を最優先したという、なんともほのぼのとした理由だ。
 妬いてるか? 無論、ブリジットは妬いてる。だがそれを表に出すようなことはしない。
「そろそろ診察が始まる時間よ。はやく準備しないと」
 興味関心がないような抑揚のない声で、ブリジットはクロエにそう言う。そんなブリジットは予想もしていないことだろう。抜けていてあっけらかんとしていて、裏などないように思えるクロエが、自分のことを観測していて、さらに精察していることなど。
「あっ、そうだった。ヤバイ、急がなきゃ」
 やる気のない精神科医。それはクロエ・サックウェルの表向きの顔でしかない。だが、優れた観察眼を持っていたわけではないブリジットは、そのことに気付けなかった。


+ + +



 クロエから伝えられた伝言は、一言だけ。諦めたのかは分からない。それだけだった。
「お帰りなさい、ペイル。それで……どうだった?」
「退職届は出してきたよ。だが、どうせ受理なんかされない。無かったことにされて、シュレッダーに掛けられるだけだ」
 以前はエリカが、ペルモンドの自宅と自分の実家を行ったり来たりしていた。それが今では、ペルモンドのほうが行き来している。彼は少しずつ、自分の住居を彼女の実家に移していたのだ。
 とはいえコンドミニアムにある彼の家を売り払う予定は、今のところない。というのも、あそこには仕事の道具と環境が揃っているからだ。製図をやるにはあの家が一番だし。稼働し続けている量子コンピュータを放置するのに適した環境も、あそこ。……というわけで、あの家はオフィスのような使い方をすることにしたのだ。なので“帰る家”がエリカの実家になった、というわけである。
 そして今晩、就職先であった会社から帰ってきたペルモンドは暗い顔をしていた。それには彼が出してきた退職届と、彼が入社した際にされた脅しが関係していた。
「でも、あなたは出したんだから。それにシルスウォッドっていう証人が居るでしょう?」
「……さぁ、どうだろう。あの会社、なんでもアリだから」
 とある事情でぽきっと心が折れて、衝動で大学を中退したあと。ペルモンドは自分の財産をアテにし、倹約しつつ自暴自棄な生活を一年ほど送っていた。その間、彼は仕事らしい仕事を何もしていなかった。依頼は途切れることなく来ていたが、その全てを彼は断っていた。何故ならば仕事などしなくても暮らしていけるだけの財が、彼には十分すぎるほどにあったからだ。
 それからエリカとシルスウォッドを中心とした友人たちのサポートを受けながら、ペルモンドがなんとか社会復帰を果たしたころ。彼の前に、悪魔のようなひとりの男が現れたのだ。それが、ラーズ・アルゴール・システムズの最高経営責任者。エズラ・ホフマンという名の、少々厄介な悪縁の相手だった。
「大丈夫よ、ペイル。私が保証してあげるから!」
 ペルモンドの前に現れたエズラ・ホフマンは、彼にこう告げた。うちの会社に来い、応じなければお前の親しい者を殺す、と。そしてエズラ・ホフマンが挙げた“親しい者”の名前は“エリカ・アンダーソン”だった。それ以外にも居た。デリック、ユーリ、フィル、ジェニファー、シルスウォッド。友人の名前は全員挙がったといっても良い。
 だから、あのとき。ペルモンドは応じるしかなかった。
「…………」
 自分さえ我慢すれば。ペルモンドはそう自分に言い聞かせて、悪魔のような男の下でしばらく働いた。だがその心も、またぽっきり折れる。
 研究者になるか、または専業主夫か、もしくは彼の養親である夫妻が営む酒屋でも継ぐのではと思っていた友人のシルスウォッドが、同じ部署に配属されてきたのだ。
「あなたを引き留めるために、配偶者であるこの私を殺すぞだなんて言って脅すような会社よ? 縁を切って正解だったのよ。ラーズ・アルゴール・システムズ。ろくでもない会社!」
 初めの頃は、どうしてシルスウォッドがこんな場所に居るのかと、わけが分からなかった。だがある時、シルスウォッドから愚痴のように打ち明けられたのだ。ここのCEOに、キャロラインを、そして娘を殺すと脅されたんだ。だから仕方なくここに来たんだ、と。
 疲れ切った顔のシルスウォッドが目の前に現れてから、彼は何をどうすればいいのかが分からなくなっていった。悪魔のような男の命令に従順に応じ続けた結果が、あれだったのだ。
 結果はすべて自分のせいなのか、それとも悪魔のような男の気まぐれだったのか。日に日に混乱が強くなり、ついには何も手が付けられなくなった。与えられたノルマが、手付かずの状態で放置されるような日々が続いた。外注の仕事があると嘘を吐いて、仕事が出来なくなった現状を隠すようになった。
 その全てを一ケ月前、彼はエリカに思い切って打ち明けた。すると返ってきた答えが、これだったのだ。
 ――そんなところに留まり続ける価値があるというの? 今すぐ、辞めなさい。
 ――他でもないあなたのために、辞めるべきよ!
 しかしエリカの言葉を受けても尚、退職の決心はなかなか付かず、行動に移すことができないでいた。そうこうしているうちに一ヶ月が経過。そして昨日、遂に精神科医イルモ・カストロからもドクターストップが出た。それでようやく決心がついたのだ。
「だが、君の身に何かが起こったら? それが、心配で。やっぱり俺があの場所に留まるべきじゃ……」
 けれども。いざ行動に移してみると、思っていた通りの不安が、思っていた以上に重く彼の肩に圧し掛かってきた。エリカに手を引かれて、家の中に入るペルモンドの手は、現に震えている。それに彼の口からは、次々と不当な自己犠牲を正当化するような言葉が吐き出されていた。
「俺が、耐えればいいだけの話じゃないか。そうすれば、他のひとが普通の生活を営むことが出来るんだから。俺一人が……」
 とても聞いていられない言葉の数々。だからこそエリカは、物理的に彼の言葉を遮る。彼の口を、エリカは自分の手で覆って塞ぐ。それから彼に言い聞かせるように優しい声で言った。
「ドクター・カストロの言葉を忘れたの? ストレッサーからは離れるべき。それにあの職場はどう考えても健全な環境とは言えない、ってドクターに言われたでしょう?」
「…………」
「ペイル。悲観的な見方ばかりしてないで、偶には明るい未来も見ましょうよ」
 彼の目は見えていない。そんなことは、エリカはもちろん知っている。それでも、彼女は彼の蒼い瞳をじっと見つめた。揺らがぬ視線を、まっすぐに。
「だから、私を信じて欲しいの。私は絶対に殺されたりなんかしないんだから」
 すると、珍しく彼が自分の感情を露わにする。不安そうな顔をした彼は何を思ったのか突然、エリカに抱きついてきたのだ。まるで、どこにも行かないでくれと訴えるように。


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 あれから、どれだけの月日が流れただろう?
「ブリジット。あなたは結婚とか、考えてないの?」
 二十六歳にもなって、浮ついた話が一切でない娘。
「今は、そういうのは特に考えてないわ。相手もいないし」
 本人の意思とは裏腹に、両親は過剰に心配し、余計な世話を焼く。
「狼くんはどうしたんだ? 彼と連絡は取ってないのかね」
 親が望む相手は、奇しくも娘も望んでいた相手。
「彼はとっくに結婚してる。奥さんも妊娠してる。四ヵ月とか言ってたかしら」
 だが、それは道ならぬもので。
「初耳だぞ、その話は! 父さんの元にそんな情報は……」
 叶わないのならば。自分は一生、独りでも構わない。
 最近はそう、本気で思うようになっていた。
「もう二年ぐらい前の話よ? 知ってるかと思ってた」
 昨日はキャロラインが、二人目の子供を計画していると嬉しそうに話していた。
 シルスウォッドは、仕事が辛いと一昨日に嘆いていた。事務だけでなくなぜか外回り営業もやらされ、自分が何の仕事をしているのかがもはや分からないのだという。
「……知らなかったな、ははは。そうか、彼は結婚していたのか」
 クロエは昨年末に元カレのデリック・ガーランドと縒りを戻し、すぐさま結婚。その後彼女は、専業主婦になると言って医者を辞めた。以来、連絡を取り合うことはない。彼女とは、その程度の縁だった。
「狼くんが? あら、そうなの。良かったわね。お相手はどんな人なのかしら」
 したり顔のイルモ・カストロは、ブリジットを口説くついでにペルモンドの近況を偶に教えてくれた。イルモ・カストロが言うには、ペルモンドは生まれ変わったかのように落ち着いた、平和な日々を送っているらしい。抗うつ剤や精神安定剤、その他全ての薬を断ってから約二年。発作も人格交代もぶり返したことは一度もないらしい。それに関して、イルモ・カストロはこう見解を述べていた。
 彼は闇から目を逸らす術を身に着けたんだ。それもひとえに奥さんのお陰だろう。
「自動車修理工の女性で、大学の同窓生。工学カレッジの才女。彼と会話を成立させられるぐらいの知性と聡明さを兼ね備えていながらも、太陽のように明るいひとよ」
 全部ドクター・カストロのお陰なんだって、エリカが言ってたよ。……そう教えてくれたのは、シルスウォッドだ。
 ブリジットがエリカと最後に顔を合わせたのも、約二年前のことになる。クロエとエリカと、三人で飲みに行ったとき。結婚式に関する愚痴を彼女から聞かされた、あれが最後だった。以来一度も、顔を会わせていない。
 ペルモンドともそうだ。彼と最後に会ったのは、最後の診察の日。主治医がイルモ・カストロに移ってからも彼はブリジットが勤める診療所に通ってはいたが、イルモ・カストロがあれこれと手を回し、患者がブリジットと接触しないよう配慮をしているらしい。そのせいで、以来一度も顔を見ていない。
 彼らがどうしているのか。その情報は、イルモ・カストロとシルスウォッドの二人からしかブリジットは入手できなかった。
「その女性の名前は?」
 シルスウォッドはちょくちょく仕事をサボっては、エリカの実家である自動車修理工場に顔を出しているのだという。そこで時たま、ペルモンドと会って話をするらしい。世間話をしたり、愚痴を聞いてもらったり、仕事のことで相談に乗ってもらったり。普通の“友人”らしい関係を今は築けているのだという。
「エリカ・アンダーソン」
 シルスウォッド曰く、ペルモンドは退職して以降、エリカの実家である自動車修理工場の手伝いをしているという。主に経営者であるエリカの母親の補佐、要は経理をやっているそうだ。電卓不要の人間コンピュータのような頭脳が大いに役に立っているらしい。エリカの母親も、そこを気に入っているそうだ。
 それにペルモンドは、少々血の気の多い従業員たちとも随分打ち解けているという。書類を捌き終えた後はいつも工場(こうば)に顔を出して、鉄と油にまみれる仕事をするそうだ。強面のベテランに容赦なくダメ出しをしたり、率先して手を貸したり等々。忙しいその生活も、彼は楽しんでいるのだという。
 そんな彼のことを工場の従業員たちは初めの頃「突然現れたくせに、偉そうな態度を取りやがるインテリ男」と嫌っていたそうだ。しかしペルモンドのオールマイティさと卓越した技術、それと若手も熟練も全て平等に扱う真正の実力主義的性格を目の当たりにし、「この男、只者ではない」と従業員たちも気付いたようで。今では大事な仲間のひとりとして、または尊敬すべき最高のエンジニアのひとりとして崇められているという。
 そんなこんな、完璧すぎる彼の腕前に関して従業員たちは「経理なんて勿体ない」と口にしているそうだ。ペルモンドのほうは工場に一日中居ても構わないと乗り気なようだが、エリカの母親はそう思っていないらしい。なので一従業員であり、同時に経営者の一人娘であるエリカは、ペルモンドの所在を巡る工場の従業員と経営者との争いにおいて、橋渡し作業に齷齪しているそうだ。
 あの職場は楽しそうで、本当に羨ましいよ。シルスウォッドは、そう言っていた。あそこならば、なんやかんやで優柔不断なペルモンドも、あくどい“誰か”に利用されることもなく、前向きに、幸せに――
「エリカ・アンダーソン。――……って、今まさにテレビに映っているあの人?」
 ブリジットの母親のリアムが指差したテレビの画面。ニュース番組のひとこまで、自動車事故が報道される。
「……えっ、うそでしょ」
 嘘臭いオーバーな演技で、悲劇を劇的に伝えるリポーターが画面に映る。嘘くさい喋りで、リポーターはこう話すのだった。
『白昼堂々、悲劇が起こりました。二時間前。ボストン郊外のスーパーマーケット内の駐車場で、エリカ・アンダーソンさんが乗用車にはねられ、全身を強く打ち、搬送先の病院で死亡したというのです。ボストン署は――』
 画面に映し出された被害者の顔写真は、あのエリカだった。ブリジットは言葉を失くす。すると母のリアムが、小声で言った。
「あら、まあ。可哀想に……」


+ + +



 あの時、荷物を抱えて店の外に出た直後。わき道から突然、ボイスレコーダーを片手に持った女性記者が飛び出してきたのだ。
『ミスター・ペイル! あなたはいつまで、ラーズ・アルゴール・システムズ時代に見つけた発見のことを黙っているつもりでいるんですか? 噂は事実だと、数名の人間がすでに認めているんです。しかしその全容を知るのはあなただけだ、と。あなたが黙り続けている限り、アバロセレン工学というものに未来はありません。どうして黙っているんですか。教えてください、ミスター・ペイル!』
 わっと飛び出し、そう捲し立てた女性記者は、エリカとペルモンドの前に立ちふさがり、進路を妨害した。女性記者の標的であった当のペルモンドは、大荷物を抱えていたためにそれどころではない。どいてくれとペルモンドが軽くあしらうも、女性記者は一歩も引かなかった。すると突然の突撃に、はらわたを煮えくり返したエリカが怒りを爆発させたのだ。
『どこの馬の骨だか知らないけど、彼を“ペイル”と呼んでいいのは、家族とドクター・カストロだけよ! 気安くそう呼ばないで!』
『あなたの方こそ、どなたです? 邪魔なので下がっててもらえませんか?』
『それは私の台詞よ! 私はエリカ・アンダーソン、彼の妻。邪魔なのはあなたのほう。今すぐ、そこを退きなさい。彼は一般人で、人権やプライバシーってものがあるのよ!!』
『あぁっ、もう……――ミスター・ペイル! 国民には知る権利があり、私には報道の義務があります! ですから、あなたには喋ってもら……――ッ!』
 そのとき、バチンッという大きな破裂音が鳴った。エリカが、しつこい女性記者の頬に強烈なビンタをお見舞いしたのだ。怒りに満ちたエリカの、荒い呼吸がペルモンドには聞こえていた。
『これ以上、私たちに付き纏うのは止めて頂戴!』
 これ以上エリカを放っておいたら騒ぎが大きくなるかもしれない。あのとき、そう考えたペルモンドはエリカに荷物を託して、彼女にこう告げたのだ。
『エリカ。君は先に行って、待っててくれ。この記者を追い払ったら、行くから』
 そうしてペルモンドは、エリカをその場から追い払ったのだ。それから彼は女性記者を睨みつけ、情報を秘匿し続ける理由を適当にでっち上げると女性記者に『二度と顔を見せるな』と言い放った。その直後だった。
 誰かの悲鳴が聞こえた。ボンッ、という大きな衝撃音が聞こえた。
 取り返しのつかないことが起きてしまったのだ。
「ペイルなら、この家には居ません。お引き取りを」
 犯人も刑務所にぶち込まれ、死者の弔いも終わり、事故の傷跡にかさぶたが作られたころ。プレハブ住居の玄関に仁王立ちで立ち塞がるのは、エリカの母親であるダーリーン夫人。彼女は高圧的な来客を、家の中に入れまいと拒んでいたのだ。
「おっと、奥さん。嘘は困りますね。私は知っているんですよ。あの男がここに居るってことを。でなけりゃこんな大所帯で、辺鄙な場所に押し掛けたりしませんって」
 ダーリーン夫人の目の前に立っているのは、いかにもあくどい資本家という身なりをした男。現世での名をエズラ・ホフマンという彼は、今はラーズ・アルゴール・システムの最高経営責任者として君臨していた。
 そんなエズラ・ホフマンという男の目的は、ただひとつ。ダーリーン夫人が匿っている男の略奪だ。
「あれは、私の所有物だ。返してもらえませんかね、あの犬っころを」
「犬なんて、うちは飼ってませんけど?」
「いいや、奥さん。あなたは飼っている。それも大きな大きな、黒い狼を」
 にたり。背筋が凍るような気味の悪い笑みを、男は浮かべた。すると男はダーリーン夫人の手首を掴み、あっという間に彼女を拘束する。その瞬間に、ダーリーン夫人が思わず上げた短い悲鳴。彼女はすぐさま後悔したが、遅かった。あれだけ「私が出て良いと言うまでは、絶対に部屋の外に出てきてはいけない」と念を押したはずの義理の息子が、痺れを切らしたように大慌てで出てきてしまったのだ。
「ペイル! 出てくるなと言ったでしょう?!」
「だが、ダーリーン。あなたの悲鳴が聞こえ……」
 目を見開いて、真っ青な顔で飛び出てきたペルモンド。そんな彼の顔も、ダーリーン夫人の傍に立つ男を見るなり一変する。込み上げてきた怒りが、彼を支配した。
「――……エズラ、お前が!!」
「ああ、そうだ。あの何の罪もない女を殺したのは私だ」
 なんてことないように、エズラ・ホフマンはそう言い切った。気味の悪い笑顔で、彼はそう言ったのだ。
 ペルモンドの怒りは一瞬にして凍り付き、ダーリーン夫人の足はがくがくと震える。それでもエズラ・ホフマンは、駄目押しするのだった。
「それもこれも、貴様が私の命令に背いたからだ。道具の本分を忘れたとは言わせない」
「……!」
「貴様は我々の道具で、我々の所有物だ。猟犬は狩りをするためだけに存在する。貴様に自由や人生などない」
 意味が分からない、エズラ・ホフマンの言葉。その場の空気が瞬間に張り詰め、静寂が降る。そしてエズラ・ホフマンが突然鳴らしたパチンッという指先が擦れる音が、無音の空間を破った。そしてダーリーン夫人が叫ぶ。
「ペイル! ダメよ、目を覚まして!! ペイル!!」
 パチンッという音と共に、ペルモンドがその場に倒れこんだ。一瞬で死んだかのように、動かなくなる。そして、それを合図にするかのように、エズラ・ホフマンの背後に続々と大柄な男たちが押し寄せ、プレハブ住居の中に雪崩れ込む。人の波に、エズラ・ホフマンは命じた。
「その男を連れ出せ。そしてやつのコンピュータがあるかどうか、家の中をくまなく探せ。それらしいものを見つけ次第、全て回収するように」
 ある一人の体格のいい男が、ペルモンドを連れ去っていった。ダーリーン夫人は彼を引き留めようと努力したが、抵抗も空しくペルモンドの背中が遠のいていく。やがて次々と荒らされ、壊されていくプレハブ住居の片隅で、ダーリーン夫人は絶望を覚える。
「あなたたちは、何がしたいのよ! 良心ってものが、あなたたちには備わっていないの?!」
 ダーリーン夫人が挙げた悲痛な叫びに、耳を貸すものは誰もいない。居たのは、嘲笑するエズラ・ホフマンだけだった。
「人間とは無力なものよ。偉大な力を前に、成す術は無い。それでも不平不満だけは声高に叫ぶのだから、面倒なことこの上ない」


+ + +



『あれ以降、ペルモンドの行方が分からないんだ。思いつく限りの全ての友人にあたってみたし、探してもらってるけど、足跡は辿れていない。それに、エリカの実家の工場があの一件でてんやわんやだ。エリカの死でみんなショックを受けていたのに、さらにペルモンドは拉致されて……――女将のダーリーン夫人は寝込んじゃってるんだ』
『工場長のジョニーが、こう言ってたんだ。ペイルの旦那まで消えちまったら女将はもう保たない、うちの工場は閉鎖だ、と。……まったく、何がどうなってんだか。さっぱりだ』
『それに警察は、成人男性の場合は失踪から一週間が経たないと捜索を開始しないって言ってるらしいし。……もう四日だ、あいつが行方をくらましてから。生きてるかどうかさえ分からない』
『僕が本気で、あいつのことを心配してるのかって? 冗談だとしたらまったく笑えないね、ブリジット。……当たり前だ! 奥さんが酷い死に方をしたばかりの男が、消えたんだ!! 自殺してないとは、言いきれないだろ? だから、早く見つけなければ……』
 シルスウォッドは、そう言っていた。そして今も彼は、消えたペルモンドの行方を捜していることだろう。見当違いの場所を駆けまわりながら。
「……ねぇ。お願いだから、私の話を聞いて」
「だから、言ってるだろう。そんな名前の男は知らない。……不法侵入で警察を呼ばれる前に、今すぐここから」
「あなたの名前が、ペルモンドなのよ。あなたはペルモンド・バルロッツィ。私は昔にあなたから貰った合鍵で、この家の中に入ったのよ」
 ブリジットの目の前に、ペルモンドは居た。もともと住んでいた彼の自宅に、彼は居たのだ。ダイニングテーブルの傍に置かれた椅子に座って、コーヒーを飲んでいた。その姿は現在失踪中であるとは思えないほど平然としていて、いやに落ち着いている。そして彼は、目の前に現れた謎の侵入者の女に向けて、訝るような視線を向けていた。
 彼は、覚えていないようだった。今までの、何もかもを。
「……冗談は止してくれ。聞き覚えがないぞ、そんな名は」
「じゃあ私に、あなたの名前を教えて。あなたは誰なの?」
「俺は」
「…………」
「俺は……――誰だ?」
 一時的な記憶喪失なのか、はたまたもう二度と戻らないぐらいに重症なのか。今はその判断もつけられないが、精神的要因による記憶喪失を起こしているのは明らかだった。
「ほら。それがあなたの悪いクセ。嫌なことがあると、すぐに記憶を失くす」
「…………」
「それに、あなたには婚約者が居るの。彼女の名前も、思い出せないの?」
 ブリジットがそう尋ねると案の定、彼は首を傾げさせた。どうやら彼は必死に思い出そうとしているようだが、三〇秒ほど粘って、思考を放棄する。彼はこう言った。
「分からない、何も。……どうなってるんだ?」
「ひどいわ、本当に。どうなってるんだって、それは私の台詞よ」
 ああ、可哀想なペルモンド。ブリジットは心の中で、そう呟いた。戸惑いを見せ、狼狽える彼の姿は本当に哀れで……そして可愛らしくも思えていた。そのうえブリジットは、どうしてか記憶を失くした彼に対して安堵を覚えていたのだ。
 これは天の導きで、運命の巡り合わせ。やっぱり彼を救うのが私の仕事なのだ。……そう、思ったのだ。そして彼女の口から飛び出た言葉は、ペルモンドが何よりも嫌っていた、実に下劣な凡人の嘘だった。
「私の名前も思い出せないの? ブリジット・エローラ。あなたの、婚約者」
 目の見えない彼に向かって、ブリジットは聖女のような微笑みを浮かべた。背中に、悪魔のような闇を隠して。ペルモンドはその言葉に、固まっていた。彼は、ブリジットから送り付けられる視線に違和感を覚えていたのだ。何かが違う、と。
 と、そのとき。ペルモンドの自宅に、新たな来客が訪れる。乱暴に玄関のドアを開け、わざと大きな足音を立てながら入ってきたのは、元居候のシルスウォッド。ダイニングルームにやってきた彼はペルモンドの姿を確認すると、ホッと胸をなでおろす。が、すぐにその表情を変え、彼はブリジットを見やると、その顔を怒りで赤くした。
「……どういうつもりだ、ブリジット。君は、何を考えているんだ」
 その瞬間、幼馴染の絆は崩壊した。粉々に砕け散っていったのだ。


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