ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ

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 自分が、自分という存在であるということを、特に根拠は無いけれども絶対の自信をもって断言できる人。それが謂わば“健常”というもので、それに該当する人々は実に幸せな存在だ。
 だが“健常”かそうでないかを別ける脳内分泌物の均衡は、指で軽く突けばすぐに崩れてしまうような、非常に危ういバランスの上に成り立っている。そして健常であるか否かに関わらず、人間の精神というものはカンテレの弦のようなもの。低い音を鳴らす太く長い弦もあれば、高い音を鳴らす細く短い弦もあるのだ。
「落ち着いて、ペルモンド。そのボールペンを、手放して。右手の力を抜いて、ペンを床に落とすのよ」
 健常な精神の持ち主。彼らは静かに大人しく、なんてことないありきたりな日々を過ごし、普通に長生きをして、そこそこの幸せを得て、静かに人生の幕を下ろしていく。そんな彼らは、低い音を鳴らす弦のよう。
 弦の緊張は緩く、そう簡単には切れやしない。そして儚い旋律をそっと支える低音のように、彼らはその存在を強く主張することはせず、世界の仕組みをそっと支えている。そうして慎ましく暮らし、しぶとく長く、この過酷な世界を生き抜くのだ。
「そうよ、その調子。今、ペンが落ちたわ。コーン……っていう音が聞こえたでしょう? そして今から、私はあなたの傍に近付くわ。あなたの左横に座って、その腕を手当てするから。ゆっくり深呼吸をして、気を静めて。私はあなたに危害を加えない。だから、大人しくしてね。分かった?」
 そして、健常ならざる精神の持ち主。彼らは時に騒々しく、時に静寂よりも静かに、荒み破綻した日々を潰すように生きながら、時に永遠の地獄のようにも思える命を恨み、苦しみ悶えて這いつくばりながら、健常者から向けられる冷たい視線と蔑みの言葉と共に、人生の幕を下ろしていく。そんな彼らは、高い音を鳴らす弦だった。
 高い音を鳴らす細い弦の緊張は強く、不当で過度なストレスが掛かれば簡単に切れてしまう。そしてその高い音は、澄んだ美しい響きを纏うこともあれば、場違いで耳障りな雑音となる場合もある。低音が生み出す和音の下地、それと中音が奏でる旋律にうまく合致すれば、高音はよいアクセントとなりユニークなバイブスを曲に付与するが、それらと合致しなければ、たちまち排除されるべき邪魔者と化すのだ。
「今からエタノールで傷口を消毒するわ。すぐ終わる。ねぇ、だから落ち着い……――ッ!?」
 さらに指向性の高い高音は、遠くまでよく伝わるうえに、木霊のようによく響き渡る。だからこそ、悪目立ちしてしまうのだ。そして目立つ杭は、容赦なく叩き潰される。健常ならざる者は、健常である者が振り翳す槌により、目には見えない暴力を振るわれるのだ。
 今の彼は、まさしくその状態だった。
「ペルモンド、動かないで、じっとしていなさい! ……シルスウォッド、そこに突っ立ってないで手伝って! 彼を、押さえつけて!!」
 罵声の雨が降り注ぎ、非難の矢がその身を貫き、身も心も満身創痍。そんな状態で、暗闇にひとり取り残されて怯えている。温度も痛みも感じない、何もかもから締め出された世界の中で。唯一機能する聴覚で受け取った心無いメッセージたちの嵐に、彼はついに壊れた。
「ねぇ、どうしてこんなことをするの? 壁に延々とおでこを打ち付け続けたり、包丁で指を切断しかけたり、ペンを自分の手に突き刺したりして、あなたは何がしたいのよ!!」
 だが、どんな暴力にも理由がある。些細なことから根の深い問題まで、程度は様々だ。そして彼が周囲から受けた攻撃には、全て理由があった。それは、恐怖だった。
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