ウォーター・アンダー・
ザ・ブリッジ

ep.07 - Vital melts a Frozen heart

 死にたい。人が、そう願うとき。それは本当の意味での「死にたい」ではなく、目の前に広がる殺伐とした景色、または恐怖しかない世界から逃避したいという意味が隠されているものである。
 今朝、ブリジットはペルモンドと同じゲストルームで寝た。といっても、場所は別々。ペルモンドはずっと起きていて、暖炉の前に座っていた。ブリジットは、暖炉から少し離れた場所に置かれているソファーの上で寝た。
 やがて朝が来て、夜中の大雨が嘘みたいに晴れ、部屋の中に清々しい朝日が差し込み、ブリジットは目を覚ました。それが、六時十四分のこと。とても短い睡眠時間で、ブリジットの頭がクリアになったとはいえなかった。
 ブリジットが目を覚まし、おはようと口にしながら、ベッドから起き上がったとき。昨夜とは服装が変わっていたペルモンドの姿が見えた。母親から聞いた話によれば、ブリジットが寝ている間に彼はシャワーを借りたのだという。少し状態が落ち着いたころ、ブリジットの父親にそうするよう促されたからとのことだった。そして彼が着ていた服は、ブリジットの父親が若いころに着ていた服。体格が偶然にもぴったり合ったことから、父親が貸したのだという。
 それから会話の流れで父親は、冗談でこんなことを言ったのだという。
『私の息子になってはくれないか。義理の、ってことだ。ブリジットも君なら大歓迎だろうし。それにどこの馬の骨とも知らない男より、知っている顔を婿に迎え入れたほうが、私としても安心なんだ。なぁ、考えといてはくれないかね』
 父親は、冗談のつもりでいった。母親はそんな父親を、今このときにそのような話をすべきではないと()なした。けれども父親は軽く笑って、指摘を受け流したそうだ。だが結論を言うと、母親のほうが正しかった。
 父親のその言葉にペルモンドは動揺を見せ、彼はこう切り出したという。迷惑を掛けて申し訳ない、もう自分は出て行く、と。彼は本当に、出て行こうとしたらしい。父親は半ば強引に彼を引き留め、明日まではこの家に留まってくれと説得をしたそうだ。それは彼の身を案じてのこと。不安定な精神状態で街に放り出しては、また同じ目に遭うかもしれないという心配からだった。
 だが彼は、それを拒んだ。それどころか彼は、同じ目にまた遭っても、むしろもっとひどい目に遭ったとしても一向に構わないというような態度だったという。死なせてくれ。そうも言ったそうだ。つまりは、自暴自棄に陥っていたのである。
 そうしてペルモンドは拒み続けたが、父親も彼の腕を掴んだ手を離さず、握り続けた。最終的にはペルモンドが折れた。摩耗し擦り減った彼の精神が限界を迎えて、その場に膝をつき、彼は動かなくなったのだ。
 それから彼が瞼を閉じ、意識を失うまでに時間は掛からなかった。そのころにはブリジットも目覚めていて、ペルモンドをゲストルームのベッドに運ぶのを彼女も手伝った。そうして時間が経ち、ブリジットが大学に行く支度を整えていたとき。ゲストルームから、ガタガタという不穏な物音がした。ペルモンドが、痙攣発作を起こしていたのだ。
 その後は、発作と制止を繰り返した。数分の発作が続いて、一時間ほど休止して、また発作が始まる。その間ずっと彼の瞼は閉じていた。ブリジットの父親は勤務先にすぐさま連絡し、休暇を得た。そして父親は、今日は一日中彼に張り付いているつもりだと言った。
 そんな彼を両親に預け、ブリジットは家を出た。父親に、お前は学校に行けと言われたからだ。そうして渋々、ブリジットは家を出たのである。
「なぁ、ブリジット。聞いたか? ペルモンドが、大学中退するって噂が流れてるんだけど。工学カレッジはその話題で持ち切り、教授も学生も大騒ぎだそうだ。それに工学カレッジの学部長が顔を真っ青にしてるとかで、かなり情報の信ぴょう性が高いんじゃないのかなぁなんて言われてるんだけど。それで僕は、話が突然すぎて、理解が追い付いてないんだが……」
「あら、そうなの。私はもう知ってたわ。たぶんあの様子じゃ、辞めるのは時間の問題だと思う」
「っていうかさ、ブリジット。ペルモンド、彼がどこに居るか知ってるかい? 昨日の夜、彼が家に帰ってこなくてさ。今朝も、音沙汰なしで。どこに居るんだか……」
「彼なら、私の家よ」
「冗談きついよ、ブリジット。……えっ、嘘だろ?」
 社会科学・人文科学カレッジ、第四講義室の最後列、右端の二席。そこで哲学の講義を聞いているふりをしながら、並んで座る幼馴染はこそこそと小声で話し込んでいた。
「嘘じゃないわ、本当よ。今頃、うちの両親が介抱してるんじゃないのかしら」
 大学構内には六つのカレッジが存在しており、医学、工学、建築学、形式科学、自然科学、社会科学・人文科学に分かれていた。学生は基本的にはひとつのカレッジに所属し、その中からさらに専攻をひとつ決める。中にはいくつかの専攻を掛け持ち、もしくは複数のカレッジといくつもの専攻を掛け持つ学生もいた。とはいえそれは専ら、秀才や天才と呼ばれる類の者たちだけなのだが。
 そして各カレッジには、ランクのようなものがあった。
「……というか、何があったらそういう状況になるんだい?」
「父がね、昨日の夜に彼を連れて帰ってきたの。土砂降りの雨の中で、道端で倒れてたっていうから。ひどい怪我で、禁断症状も出てて。まあ、今は話せる状態じゃないわね」
 世界屈指の頭脳が集まる学園。どこもレベルが高いことは間違いない。しかし全てのカレッジが同じ程度のレベルであるというわけでもなく、また優秀な頭脳とナルシストの集まる学園にマウンティングは付き物。ランク付けは必至である。
 大学が最も比重を置いている工学は最高ランク、A三つに位置づけされている。中でも化学工学科と機械工学科は、トップクラスの頭脳が集まっていた。そしてその次、A二つには建築学と自然科学が同率で並んでおり、A一つには医学と形式化学、それと社会科学。一番見下されているのは、人文科学であった。
 ペルモンドは自然科学カレッジに所属していて、そこで素粒子物理学と古典物理学、量子力学と天文学を学んでいた。それと工学カレッジで、化学工学も。ブリジットは医学カレッジでごく普通の医学のカリキュラムを、シルスウォッドは社会科学・人文科学カレッジにて暗号学をメインに、それに付随して宗教人類学と考古学、その他幅広いジャンルの学問を少しかじっていた。
「禁断症状? またどうして、あいつが。ドラッグに手を出すようなタイプじゃないだろ」
「そう、彼が自分でやったわけじゃない。ペットボトルを渡されて、それに入ってた水を飲んだら、徐々に気分が悪くなったって、本人は言ってたわ。顔見知りの相手だったから、たいして警戒もしてなくって。すっかり騙されて、酷い目に遭わされたって。それに症状からして、たぶんケタミンじゃないかって」
 ブリジットは、ただの医学生。それなりの頭と、医学の知識しかない。対してシルスウォッドは、人文科学を専攻していることから周囲に馬鹿にされているが、暗号学界隈においては既に一目置かれており、その方面のお偉方に気に入られていると噂になっている。ブリジットには彼が何を学んでいるのかなど皆目見当もつかないが、シルスウォッドが自分よりもずっと優れたものを持っているのは分かっていた。それに他人のことを馬鹿だの凡人だのと扱き下ろすペルモンドですら、シルスウォッドにはそのような言葉を使わないのだから。
 そしてペルモンドは、誰もが認める天才だった。けれども彼が背負うハンディキャップを知る者は少ない。彼が暗闇の中で生きていることも、記憶の空白を抱えていることも、あまり知られてはいない。
 彼の背景にあるものを何も知らない、天才としてのペルモンド・バルロッツィしか知らない人物が彼を見たとき。きっと彼の姿は、全てを持っている嫌味な性格の男にしか見えないのだろう。
「ケタミンだって? いや、ケタミンなら禁断症状は無いはずだ。無いと断言まではできないけれど、数時間で効果は切れる。ケタミンを使った兄が虚ろな顔で椅子に座っている姿を、僕は高校時代によく見てたから……――」
「…………」
「ブリジット。君は僕に、何を隠してるんだ?」
「……色々よ。そうね、たしかに薬の禁断症状じゃないと私も思ってるわ。幻覚じゃなくて、フラッシュバック。禁断症状の痙攣じゃなくて、心因性の痙攣だろうとね」
「なぁ。一体何があったんだ?」
 孤高の星が、空から地に落ちるのを感じろ。その言葉に、彼を取り巻く者たちの憎悪が現れていると、ブリジットは感じていた。
 性善説なんてものは世界になく、やはり人とは卑しい生き物。賢ければ賢いほど、己の知能を自負すればするだけ、比例して卑しさも増す。多くの人は、そうだ。しかしその法則に当てはまらない人もいる。
 眼鏡を掛けたペルモンドは、外では自信家のように振舞っていた。驕った態度を取って、他者を見下し、何人も自身に近付くことを許さなかった。けれども人は、彼に近付こうとした。
 多くの女性たちは、財産目当てで彼に近付いた。中には“天才と交際している”というアクセサリーが欲しくて、彼に近付く女性もいた。同窓生たちや教授たちは、好奇心を抱いて彼に近付いてきた。実業家たちは、彼を利用したくて近付いた。そして多くの場合、人は彼に足蹴にされた。何故ならば、誰も彼に興味がなかったから。皆が興味を抱いたのは、天才であるペルモンド・バルロッツィにだけ。彼の素顔に迫ろうだなんてことを考えて、それを実行に移した悪趣味な人間は、ブリジットが知る限りは二人ぐらいしかいなかった。それが、シルスウォッドとブリジットだった。
「彼、相当ひどい目に遭ったみたい。それしか、今は言えないわ。薬を盛られて意識が朦朧としている中で、顔を何度も殴られて、腹を蹴られて……――あなただって、同じ目に遭ったら恐怖を覚えるはずよ。何も見えない暗闇の中で、自分の今いる場所も把握できなかったとしたら」
 眼鏡を外したとき。彼は素顔ともいえる表情を垣間見せることがあった。シルスウォッドはそれについて、こう語っていた。ひどい有様で、完全無欠とはとても言い難い姿だ、と。ブリジットはこう思った。冷血な自信家とは程遠い人物だ、と。
 眼鏡を掛けた彼が人を遠ざけるのは、他でもない自分を守るため。何故なら彼が生きる世界は、周囲に捕食者しかいない場所で、一瞬でも気を抜けば誰かに何かを奪われるうえに、その身を引き裂かれるような世界だからだ。
 そこはブリジットのような凡人には想像もできない、荒涼とした世界。足の引っ張り合いが日々行われ、誰もが誰かがボロを出す瞬間を今か今かと待ち望んでいる場所。知らない誰かに、身近な人間に、信じていたパートナーに、ある日突然裏切られる。そんな世界だ。
 そして警戒をうっかり解いてしまったペルモンドは、捕食者の牙にかかった。孤高の星は、卑しき大地に堕とされたのだ。
「あの喧嘩っ早くて腕っ節も強いペルモンドが。八人がかりで襲い掛かってきたギャングたちを全員失神させて撃退した、あのペルモンド・バルロッツィが……。にわかには信じられない話だなぁ」
「……ケタミン」
「まあ、そっか。薬を盛られてたんなら、あのペルモンド・バルロッツィも流石に動けないか。それで、もしかしてだけど、その犯人って大学の関係者なのかい?」
 シルスウォッドが所持していた哲学の教科書をブリジットも覗きながら、ブリジットはノートを取るふりをする。机の上に開いたまっさらなリングノートの中央に、ブリジットはこう書いた。私は知らない、と。シルスウォッドはその言葉を疑うような目で見ながら、教科書を一ページめくる。そして彼は小声で、こう言うのだった。
「もしかして、形式科学カレッジの学生なんじゃないのか。統計学科にはカッとなりやすい人が多いって聞くし、あと数学科は闇が深いって言われてるから。それに形式科学カレッジのほうの暗号理論科は、変態とナルシストが多いんだよねぇ。僕が専攻している暗号学は、数学的に組み立てられた現代的なものじゃなくて、あくまで大昔に扱われていた暗号文の解読だから、彼らとはまるで話が合わなくて。それに暗号理論の研究者で、応用数学科准教授のピーター・ロックウェル博士とか……」
「あなたって、形式科学カレッジに詳しかったのね。どうしてなの?」
「そりゃまあ、僕の学科は応用数学科の連中と関わる機会が多いから。たまにあっちの講義も受けるよ。全然理解できないけど」
「へぇ、そうなのね。知らなかったわ」
「それと、今の君の反応で分かった。ピーター・ロックウェルだ」
 にこり。そう言ったシルスウォッドは、穏やかな笑顔を浮かべる。彼なりの、したり顔だ。しかし笑顔を浮かべる彼はあくまで教科書を見つめていて、ブリジットに確認を求める視線を送ってくることはなかった。
 ブリジットは何も言わず、教科書を見つめる。その教科書は、それはそれは分厚いものだった。ハードカバーで、一ページも縦に大きい。そして目が読むことに拒否を示すぐらい、ぎっしりと文字が詰め込まれている。本文を読む気にはならなかったが、ブリジットはページの右上隅に書かれている文字が気になった。
「僕は応用数学科の連中と初めて会った時に、そこの学生にこう言われたんだ。ハゲ頭のピーター・ロックウェルには気を付けろ、ってね。あいつはすぐキレるうえに、あいつのせいで何人も学校を辞めてるんだ……って」
「…………」
「ケタミンってワードから、もしやって思って。ケタミンを盛って、学生に暴力をふるうのがやつの常套手段だって、噂で聞いたんだ。けれど学校を去る学生は、怯えた顔をしながら黙ってキャンパスを後にするから、その詳細は分かってないらしい。暴力事件と一概にいっても、どういうジャンルの暴力なのか、とかね。だからピーター・ロックウェルは今もなお、准教授として君臨してるのさ。バレたら即刻クビだろうけど。いや、クビどころの騒ぎじゃないな。場合によっちゃ、刑務所行きだね」
 ニコマコス倫理学、第八巻「愛」。第十四章。
「だけど、これも風の噂で聞いた話だけど、ロックウェルの被害者だと思われる人はみんな女子学生なんだそうだ。それも全員、成績が優秀なほうに分類されるタイプなんだって。けどペルモンドはそもそも男だし、それにあいつは優秀という域の向こう側にいる男、もはや分類不可能な存在だ。身長は低いけど、どちらかといえば筋肉質で、あいつの腕っ節の強さは校内でも有名だ。それなのに」
「だから、じゃないのかしら」
「……ブリジット?」
「天才と誉めそやされる若者を薬で弱らせて、暴力と恐怖で屈服させて、彼より自分は勝ってるっていう優越感に浸りたかったんでしょう?」
「…………」
「……はぁ。この話題、やめましょう。彼のことは心配だけど、今は考えたくないわ。なんだか、私まで気分が悪くなってくる」
 ブリジットは頬杖をついて、溜息も吐いた。それから彼女はリングノートをぱたんと閉じ、開かれている教科書を漠然と眺める。やはり本文の内容は頭の中に入ってこない。何か小難しい言葉が書かれているな、ぐらいの理解しか彼女にはできなかった。そして彼女は呟く。
「哲学の本って、どうしてこうも難解なのかしら。私にはさっぱり理解できないわ」
「僕には精神医学関連の書籍も、哲学書と同じに思えるけどね。どちらも遠巻きな言葉で、易しい物事を難解に書き記しているから」
 ブリジットの溜息にそんな言葉を返したシルスウォッドは、静かに重たい本を畳む。それから彼は講壇に立つ古代ギリシア哲学科の教授を指差し、失礼にもほどがあることを言った。
「僕は哲学も少し勉強した。古代から中世、近世、近代を、色んな会派をなぞった。で、大学で哲学の講義を一度受けてみて、こう思った。哲学の講義って、本当に意味がない。教鞭を執るひとたちは、何かしらの本に書かれた誰かしらの言葉を、そっくりそのまま語るだけ。あそこに立っている教授の話を聞くことと、この本を読むことに、内容の差はないのさ。読むか聞くかの違いでしかないよ」
「…………」
「でもこの哲学科が無駄だとは思わない。講義が終わった後に教授に詰め寄って、あれこれ疑問をぶつける時間には、意味はなくても価値はあると思う。けれども結局、どの哲学も行きつく答えは同じ。哲学は、ただの言葉遊び。人生に意味はない。生きることに価値を見出すかそうでないかは人それぞれで、そもそも生きることに価値を見出せるひとたち、あと、人生に意味はある、価値があるってことを何の疑いも抱かずに生きている人々は、哲学なんていう泥沼に嵌まらない」
「そうね。精神科に係るひとも、哲学が好きだったりするし」
「そう。だから現代哲学ほど、無意味で無価値な学問はないってことさ。その昔に哲学が担っていた役割を、今は社会学が担っている。今の哲学は、人間の心を疲弊させ、内側から腐らせていく、毒みたいな学問でしかない。今を生きる哲学者は人生の意味を問うけど、僕は哲学者に哲学者の存在意義を問いたいね。けど哲学者は、疑問を投げかけた僕という存在の意義を問い返してくるだろう。まあ、そうして人は底なしの泥沼に嵌まっていくわけだが……」
 と、そのとき。延々と話し続けていた教授の声がピタッと止まる。そして講壇から、苛立ちにあふれたぴりぴりとした声が飛んできた。
「ティンウッド・エルトルくん! 君は今、何か言ったかね」
「ギデオン教授! その名前、惜しいけど微妙に違います。僕はティンウッドではありません!」
 分厚い教科書を抱いたシルスウォッドは、にこやかな笑顔を浮かべて、大声でそう言いながら椅子から立ち上がった。すると講堂にいた全生徒の視線が、最後列の右隅に座っていたシルスウォッドとブリジットに集まる。実に不快な緊張からブリジットは肩をすくめて固まってしまった。
 すると顔を赤くし、明らかに激昂している教授が、シルスウォッドに向かってこう怒鳴った。「君の名前のことなど今はどうでもいい! 君は今、なんと言ったかね?」
「はい! 教授の話す言葉は教科書をそっくりそのまま読み上げているだけで、これじゃ講義を受けているこの時間が無駄でしかないと、そう嘆いただけです!! こんなクソみたいな講義を受けるぐらいなら、僕はまだ済んでいない朝食を、この時間に食べに行くべきでした!!」
 馬鹿なのか、アホなのか、頭のねじが緩んでいるのか、はたまたクズなのか。シルスウォッドはにこやかな笑顔で、思っていたことを正直に、そして相手を挑発するように叫んだ。すると教授の顔はますます赤くなっていく。
 すっかり真っ赤になってしまった教授は握っていた指示棒の先をシルスウォッドに向けると、先ほどよりも声を一段と張り上げて、怒号を上げた。
「よろしい、ティンウッド! このあと君は、ここに残りなさい!!」
「はい、喜んで!!」
 喜んで、なの?
 横に立つ幼馴染の満足げな笑顔を見上げながら、ブリジットはリングノートを足元においていたリュックサックにしまう。そしてブリジットがリュックサックの開け口を閉めたのと同じタイミングで、一限目の終わりを告げる鐘が鳴った。すると教授が、力強く講壇を叩いてこう言った。
「以上、講義は終了だ! 次回までにニコマコス倫理学、第八巻第十二章をすべて読み終えておくように。それではティンウッドを除き、解散!」
 鐘を合図にブリジットはリュックサックを背負い、立ち上がる。それからブリジットはシルスウォッドに視線を送った。すると彼は一段と笑顔になる。ブリジットが顔を顰めさせると彼はますます笑顔になった。そして笑顔のシルスウォッドは言う。「居残りと小芝居のことなら気にしないでくれ。ギリシア哲学の講義で、僕はいつもやってるんだよ」
「どうして、そんな面倒なことを……」
「ギリシア哲学の単位は別に欲しくないし。それに、あの教授が面白いんだよ」
「……」
「あの教授の専門はアリストテレスなんだ。で、僕はそのアリストテレスを()き下ろすのが好き。そして怒って真っ赤になる教授の顔を見るのが好きなのさ」
「あなたって本当に、真性のクズね」
「あの教授が何度も何度も僕の名前を間違えるからいけないんだ」
「それじゃ、また。さようなら」
 引き攣った笑顔で手を振り、ブリジットは講義室を後にする。医学カレッジへと向かう彼女だが、その足取りは重い。
「…………」
 ――そうしてシルスウォッドと別れた後、ブリジットが向かったのは形式科学カレッジだった。そこで彼女は、ある人物を探した。その人物の名は、ピーター・ロックウェル。
 しかし、学生に聞き込みをするとあることが判明した。もう准教授は帰ってしまったのだという。体調不良を訴えて。
「……」
 だが准教授のオフィスは開いていた。なのでブリジットは「准教授に会いに来たけど彼が居なかった」と自分に言い聞かせ、中にこっそりと忍び込み、准教授のデスクの上に置かれていた私物らしきラップトップパソコンを勝手に開けた。パソコンはスリーブ状態で放置されていて、ログオンのパスワードは設けられていなかった。そういうわけで、彼女は中身を拝借。そしてコンピュータの中から、二時間半にも及ぶ長編のビデオファイルを六本も発見。六本もの映像が、六人の悲劇が、ディスクの中には眠っていたのだ。
 ブリジットは映像を再生するような真似はしなかった。だが見たくもなかった映像の一部が静止画サムネイルとして表示されていたために、ブリジットは嫌でも目にしてしまった。うち五本は泣き叫ぶ若い女性たちの姿だったが、一本だけは違っていた。男たちが映っていた。地面に膝をついているひとりの男を、四名の人間が取り囲んでいる場面だった。
 地面に膝をついて伏せ、血を吐いている男が、ペルモンドなのはすぐに分かった。彼が着ていたジャケットは、あの日にブリジットが店で選んで、彼が買ったジャケットだったからだ。だがペルモンドを取り囲んでいる四人は、彼らの脚しか映っていないがために、情報が何も分からなかった。穿いているボトムスや、脚の筋肉の感じから全員たぶん男性なのだろうということは分かったものの、どこの誰でどんな野郎なのかまでは分からなかったのだ。
 そしてブリジットは、六本の映像をコンピュータから削除した。
 まだどこかほかの場所に、動画ファイルはあるのかもしれない。その可能性は十分にあった。それでも、少なくともあのコンピュータからは削除した。
 ピーター・ロックウェルがそれに気付いたとき。彼は、何を思うだろう。恐怖か、自責か、後悔か。その後、彼がどうなろうともうブリジットには興味がない。ブリジットの報復はこれで終わったのだから。
 それに、報復よりもすることがあった。だって彼が言っていたではないか。助けてくれ、と。
「……ただいま」
 夜の七時。ブリジットは自宅に帰りついていた。家の中に入ったブリジットは玄関で着ていたコートを脱ぐと、自分の部屋にまず向かい、自分のベッドに抱えていた荷物を投げ捨てるように置いた。それからブリジットがリビングに行くと、暗い顔をした母親がダイニングテーブルの横の椅子に座っていた。今朝よりももっと沈んだ雰囲気で、母は溜息を零していたのだ。
 するとブリジットの存在に気付いた母親は、疲れた顔で微笑みを繕う。「おかえりなさい、ブリジット」
「ただいま、母さん。……ねぇ、大丈夫?」
「私は、大丈夫よ。大丈夫じゃないのは、狼くんと父さんの二人ね」
 私は大丈夫。そういう母親だが、その顔は大丈夫だとはとても言い難い。蒼褪めていて疲れ切っていた。
 ブリジットは表情を強張らせながら、母親の向かいの椅子に座る。特に言葉を発することはせず、黙って母親の顔を見つめ続けた。するとひと際大きなため息を母親は吐く。それから母親は言った。そんな目で見つめてこないで、と。
「正直に言うわ。狼くんの話を聞いていられなくて、お父さんに全部押し付けちゃったのよ。彼の話がもし本当に起きたことなのだとしたら、あまりにも胸糞が悪くて」
「ペルモンドが、何か話したの?」
「ええ。発作がなくなって意識も戻ってから、ぽつぽつと、少しずつ。父さんがしつこく問い詰めたもんだから、渋々だけど昨日あった出来事を彼は話してくれたわ。言葉は、途切れ途切れで。話しているときは上の空で、心ここにあらずって顔だったけど」
「…………」
「薬を盛られて、意識が遠くに行ってしまう。それを想像するだけで怖いのに、朦朧とした状態でどこかに連れていかれて、その先で集団暴行に遭って。暴行が収まったと思ったら、ズボンを下げられて。でも薬が効いていたせいで抵抗も出来なかったって。……全部、嘘であってほしいわ。彼の虚言だって。けれどもすべてが嘘だったのなら。彼はあんな状態になってはいないわよね。……頭じゃ、分かっているのよ。だけど、その場面を想像したくないの。だから、母さんにはもう限界で。彼を、見ていられなかったの」
 ブリジットが居ない間に、話はだいぶ進んでいたらしい。それにブリジットが感じていた予感も、当たっていたようだ。受けたのは、単なる暴行だけじゃない。性暴行もあった、と。
 そして“上の空で、心ここにあらず”。シルスウォッドがよく愚痴を零していた、例の悪い癖が出ているようだ。となると、次に起こることがブリジットには予想できる。失神するかのように眠りに落ちて、次に目を覚ましたときには特定の記憶を失くしているのだろう。
 母親の話を聞くブリジットの表情は険しくなっていき、話し続ける母親の顔はどんよりと沈んでいく。それでも母親は娘に、感じたことを正直に打ち明けることをやめなかった。
「……彼を見る目が変わったわ。今まで、父さんがする彼の話といえば、風変わりなエピソードばかりだったし。あなたがする彼の話も、愚痴ばっかりだったから。それにアバロセレンっていうもので世間が賑わって、同時に彼にも世間のスポットライトが当たって、最近は連日のように彼に関する報道があちこちでなされているけど。どれも偏屈な天才っていうステレオタイプでしかなくて。……だから母さんね、不安だったのよ。世間の人にクズだと謗られるような男の人と、あなたは仲良くしてるのかって」
「…………」
「でも、彼は私が予想していた青年とは百八十度違っていたわ。ナルシストで自信家で、奢って人を見下すような人じゃない。暗闇の中、ボロボロに擦り減った心を抱えて、どうにか生き延びてきたような人だったのね。針で突けば一瞬で破裂する水風船みたいに、脆くて、哀しくて……――あの蒼い瞳で見つめられると、心をかき乱されるようで、耐えられないの。それに彼は自分の身に起きたことを、まるで他人事のように淡々と語るから、余計に聞くほうの想像力が働いてしまって。そして時折彼に戻ってくる主観が、彼自身を苦しめる姿は、見ていられるものじゃないわ……」
 母のリアムは、一線を退いた元・言語学者。じゃじゃ馬で一瞬たりとも目を離せない一人娘のために、そして無鉄砲で猪突猛進な夫のために、彼女は二十年前に教鞭を捨て、研究者としての人生にも終止符を打った。だが言語学者の心を失ったわけではない彼女は、ユニークな言葉選びを好んでいた。
 意識的に、または無意識のうちに、母は詩のような言葉を選び、それを話す。そんな母親の言葉遣いに慣れているはずのブリジットだが、今ブリジットはそれがとても気持ち悪いと感じていた。母親の言葉が余計に想像力を掻き立て、その情景を想起させる。母親が持つ偉大な想像力が、言葉を通じて人に転移するのだ。
 母親が見ていられないと感じたペルモンドの姿が、ブリジットの頭の中で写実的に組み立てられていく。そしてブリジットもその姿を見ていられないと感じたとき、彼女は本物のペルモンドに会うことを選んだ。
「それで、母さん。彼は、まだゲストルームに居るの?」
「ええ。父さんもそこに居るわ」
 母親はそれだけを言うと、ダイニングテーブルに突っ伏す。どうやら眠くてたまらないらしい。そしてブリジットは足音を出来るだけ消しながら、ゲストルームに向かう。ゲストルームの入口ドアの前に立つとブリジットはドアを二回ノックし、すぐにドアを開けて、中に入った。
「あぁ、我が愛しき娘ブリジット! よくぞ帰ってきてくれた!」
「ただいま、父さん。それで、ペルモンド。体の具合はどう? まだどこか痛む?」
 妙にオーバーなリアクションで娘の帰宅を歓迎した父親はベッドのそばに、床に膝を立てて座っていた。その視点は低く、その目は俯くペルモンドの顔を下から覗き込んでいる。そしてペルモンドは椅子に腰かけるようにベッドに座っていた。顔は俯いていて、翳が差している。どこか見覚えのあるその光景に、ブリジットは初対面のあの日を思い出した。
 だがあの日と今は、似ているようで違っている。あの日、先に口を開いたのはペルモンドのほうだった。だが今の彼は口を閉ざしていたし、口が利ける状態にも見えなかった。
 するとブリジットの父親が立ち上がる。父親は娘に駆け寄ると、懐かしいような気がする言葉を言った。
「もう父さんには無理だ。本当に、頼む。あとは頼んだぞ、ブリジット」
「……ええ、頼まれたわ」
「最後に彼が口をきいてくれたのは、二時間前。それも最後に発した言葉は『死にたい』だ。昨日の夜に起こったことは、それ以前にぽつぽつと話してくれたがー……」
「母さんから、その話は聞いたわ。説明は不要よ」
「そうか。それでだ。彼は昨日のことよりも昔のこと、私たちと出会うよりも前の記憶を思い出しかけたようなんだが、それ以降あの状態でなぁ。肩の震えが始まり、怯えたような顔をしたかと思ったら、震えが止まって、何もかもが止まった。とはいえ呼吸はしている」
「生きてるなら、それだけで十分よ。今のところは」
「詳細は、さっき言った通りだ。……そういうわけだ、ブリジット。しばらく、彼の様子を見ていてくれ。私は数十分だけ、寝てくる」
「分かったわ。おやすみなさい」
 早口で父親は全てを言い終えると、覚束ない足取りでゲストルームを出て行った。そんな父親の顔も母親と同様に窶れていて、事態の深刻さをブリジットに改めて実感させる。そして俯いた姿勢で動きもしないペルモンドの姿に、ブリジットは心を抉られるような気分を味わっていた。
「ねぇ、ペルモンド」
「…………」
「あなたの隣に、座ってもいいかしら?」
 問いかけても、反応は何もない。だから構わずブリジットは彼に歩み寄り、彼の隣に腰を下ろした。そしてだらりと投げ出されていた彼の手を握る。暖炉には火が焚かれていて、部屋は暖かいはずなのに。彼の手は氷のように冷たく、ぬくもりは感じられなかった。
「ペルモンド。あなたは私に今朝、こう言ったでしょう? 君のことが怖くてたまらない、って。だから私、考えと行動を改めることにしたわ。父みたいに、根掘り葉掘り聞くことはしない。その代わり、あなたの傍に居るから。何か話したいことがあれば、いつでも言ってね。私は全部、受け止めるから」
 昨日までのブリジットにとって、ペルモンドは“謎めいていて魅力的な男性”でしかなかった。彼の性格はお世辞にも品行方正だとはいえないし、繊細で扱いに困るときもあった。彼が嘘つきであるように思えることもあった。最低最悪な男だと思った瞬間もあった。それに彼の思いだせない過去には何かしらの悪いことがあって、潜在意識に潜むそれは彼を未だに苦しめていることも、薄々感づいていた。
 でもブリジットは、どこかでこう思っていた。現実から逃げる悪いクセを持っている人だけれども、同時に強さを持っている男性だと。しかしその認識は大きな間違いで、彼が持っていたのは強さではなくて強い警戒心だった。自信の正体は虚勢だった。伊達眼鏡はハリネズミが背中に背負った針と同じで、傲岸不遜な態度は警戒心が強いからこその姿。そして眼鏡を外した瞬間、彼は無防備で隙だらけになる。
「でもね、これだけは言わせて。……黙っていれば黙っているだけ、心の中で闇はひとりでに大きくなる。闇が心を飲み込み、感情のすべてを支配する前に、全部すっきり吐き出したほうが楽になるわよ」
「…………」
「……っていうのはその昔に、私が母に言われた言葉よ。何か私が隠し事をしているとき、母はすぐにそれを見抜いて、今の言葉を私に言ったの。母の有無を言わせぬあの雰囲気に、小さなころの私は全てを白状することしかできなかったわ。そんな日も、あった。今となっては、遠い昔の思い出ね」
 まさか彼が、こんなにも脆くて弱くて、壊れかけていた人だったなんて。今日までブリジットは思いもしなかった。シルスウォッドから多重人格のような症状と、度重なる健忘の話は聞かされていた。だがその問題の根底にあるものがここまで深刻だったとは、精神医学を志す人間でありながらも、ブリジットは想定していなかったのだ。
 しかし、じゃあブリジットが彼のことを嫌いになったのかといえば。その答えは、ノー。
「あと、今朝あなたは私にこうも言ったわ。助けてくれ、って。私にはあなたを助ける準備があるの。あなたが何を告白したとしても、決して動じないっていう覚悟が。だけど、あなたが何も話してくれないとね。私は、何もすることが出来ないわ。そこだけは、分かって頂戴」
 彼の抱える闇が、どこまで深いものなのか。まだその正体は、明らかになっていない。昨晩の暴行をも超える闇を、彼は抱えているのかもしれないのだ。
 その闇に彼が苦しんでいるのなら。根底から改善していくことがベストだ。そのためには、知る必要があった。彼の抱える闇の正体を、彼の過去に何があったのかを。
 だがことを急いでも、結果は得られない。ブリジットには、そんな気がしていた。無暗に記憶をほじくり返すような真似をすれば、不幸な結末を生むだけだろう。だから時間をかけて、ゆっくりと。気の遠くなるような時間が必要になるのかもしれない。
「…………」
 すべてを受け入れる。私にはその準備がある。……そんな大見得をきったブリジットだったが、どこまでその準備が整っているのかなど彼女自身には分からなかった。相手を信用させるために言った言葉で、口から飛び出たでまかせでもあったのだ。それはペルモンドが何よりも嫌う“凡人の虚辞”で、つまり嘘である。だがブリジットはこうも考えていた。今は中身のない嘘だとしても、これから実を重ねて、嘘ではない真実に変えていけばいいと。
 これは、ブリジットの身勝手なのだろうか。
「つらくて苦しいのなら、正直に言っていいのよ。男だからとか下らないことは考えないで、感情をあらわにしてもいいの。ここには、あなたを貶めたりする人間はいないから。特別扱いして奉る人もいないし、馬鹿にする人も、妬む人もいない。私も、私の両親も、あなたを心配しているだけよ。他でもない、あなたっていう人を」
 ブリジットが一人で喋り続けていた間、ずっと握り続けていた彼の手には、彼女の体温が少しだけ沁みてわずかな温度を帯びていた。
「ねぇ、ペルモンド。あなたが一番憎んでいるものは、何? 土足で心に侵入してくる私? それとも、あなたに危害を加えてきた彼ら?」
 ブリジットがそう問いかけた時だった。だらりと力なく垂れていただけの彼の腕が少しだけ動き、わずかにブリジットの手を握り返した。そして俯いていた首が、さらに下へと落ちる。すると小さな声で、ペルモンドがこう答えた。
「……自分自身。バカな、自分が。意に反するこの体が。自分の何もかもが、赦せない」
 ブリジットが覗き見た彼の顔は、虚ろだった。途切れ途切れの言葉に抑揚はなく、その口調は全てが彼にとって他人事であるかのようだった。
「……昨日は、何もかもが変だった。殴られた痛みは、まったく感じなかったのに……」
 そこで彼の言葉が詰まり、止まる。彼の顔と瞳は依然として、虚ろなままだった。ブリジットは何も言わず、横から彼の冷え切った体を抱きしめる。それぐらいのことしか、今の彼女にはできなかった。


***



 ビルギットはレイモンドのことを、こう評価していた。境界性人格と性倒錯、と。なんとも手厳しいが、実に彼女らしい評価だ。
 境界性人格。そう聞くと、はたと思い浮かぶのは面倒臭そうな人物像だ。しかしレイモンドにはそこまでの酷さはなかった……と思う。彼には少なからず親しいものに依存し、拒絶されることを極端に嫌がる傾向はあった。そんな内面が表情に出ることもあったし、行動に現れることもあった。そんな彼のおかげで、私が損を見たことも幾度かはあったさ。
 とはいえ、レイモンドはまだ可愛らしさという程度に収まっていた。私は別の友人から、女性で重度の境界性人格者の話を聞いたことがあったからね。だがビルギットに言わせればそれは、比較しても仕様がない問題らしい。
 ビルギットはレイモンドの生い立ちには同情していたようだが、彼に矯正という鞭をふるうにあたって容赦はなかった。過去を振り返って逃げるな、前を向いて今を見ろ。……それが、彼女の口癖だった。
 時に厳しすぎるビルギットの言葉はレイモンドを必要以上に傷付け、彼を泣かせることもあった。その時には私までもが彼女の毒舌の巻き添えを食らって、非難されたりもしたよ。アーサーはレイモンドに甘すぎる、もっと厳しくしなさい……とかね。
 そして彼女の強烈な鞭のおかげか、少しずつレイモンドも変化していった。行きずりの関係ばかりだった彼が人間関係に少しずつだけれども積極的になり、真摯に向き合うようになっていった。
 けれども、その変化は果たして良いものだったのか。今となっては、分からないよ。彼はそのせいで傷付けられ、心の傷を悪意により抉られることになるのだから。



***



「またひとつ、彼を見る目が変わったわ」
 淹れたての暖かな紅茶を啜りながら、ダイニングテーブルの椅子に座るブリジットの母親はそう言った。時刻は朝の七時半。その横で、少し時間が経ち冷めてきたコーヒーを一口だけ飲み、マグカップをテーブルに置くブリジットの父親はこう返す。
「ああ。こりゃ、たまげた。もはや私には何もしてやれない。あれは精神科の領域だ」
「あら、リチャード。あなたは精神科所属じゃなかったの?」
「……リアム。もうそのジョークはやめてくれ、意外と傷付くんだ」
 エローラ夫妻の見つめる先には、黒電話の前に立つペルモンドとブリジットの姿があった。ペルモンドは左手に受話器を持っており、誰かと何かを話しているようだ。それも苛立ちに満ちた、緊張感あふれる声で。そんなペルモンドはあの黒縁眼鏡を掛けており、そして彼の横顔を見つめるブリジットは何を思っているのかニヤついていた。
「引き留めようったって俺には無駄だぞ。……何が不満かって? 一から百まで数え上げてやったっていいが、それは時間の無駄というものだ。…………あぁ、そうだと言っている。話は以上だ。俺は、辞める。今週中には必要書類を送る。それでは、ごきげんよう」
 カシャン。最後に電話越しの相手に向かって嫌味な別れの挨拶を告げると、ペルモンドは意外にも礼儀正しく受話器をもとの場所に戻した。そして彼の手が電話から離れたのと同時に、ブリジットが彼の顔から眼鏡を取りさらう。その瞬間、それまで眉を顰めさせていたはずのペルモンドから一気に緊張感が消えた。
「おかえりなさい、ペルモンド。どうだった?」
 取りさらった眼鏡を畳みながら、ブリジットは笑顔でペルモンドにそう問いかける。すると途端に肩を落とし、猫背になった彼は小声でこう答える。「……ただただ、疲れた」
「やっぱり自然体のあなたが一番ね。今のあなたは飼い主に捨てられた子犬って感じで、ぜんぜん怖くないもの。だけど外に出るときは、この眼鏡が必要なのかもね」
 緩み切っていたペルモンドの顔は、まだ完全に生気を取り戻したわけではない。嫌な記憶と、それを上回る恐ろしい思い出が残した翳もまだ、彼の足を掴んで離さないでいるようだった。
「一昨日の晩に、何があったのか。あなたはもう忘れてしまったんでしょうけど、体の傷はまだ痛むでしょう? その痛みを、忘れないで。もう二度と、同じことを繰り返さないために」
 昨日の夜。彼はブリジットに、少しだけ話した。ぽっと思い出した十一歳の頃の記憶と、彼の内側に潜む異質なものについてを。
 そして彼が十一歳だったころの記憶は、凄惨としか言い表せないものだった。
 あまりにも凄惨すぎて、まるで現実味のない話だった。
「……傷?」
「鼻と、ほっぺ。それとお腹、あばらのあたり。痛むでしょう?」
「……言われてみれば、そうかもしれない」
 だが現実味を感じなかったのは、単に彼の語り口がそう思わせただけなのかもしれない。まるで他人事のように、全てを語っていたのだから。少しだけ取り戻した子供の頃の記憶も、一昨日の夜の出来事も。
 とはいえそんな彼も、自分の感情を滲ませた瞬間が少しだけだがあった。
『自分のことが、赦せない。力に屈して、虐げられることを受け入れた自分が。早くことを済ませてもらうために、大人しく全ての要求に従った自分が、赦せないんだ』
 自分への憎しみ。それを零した後、次に彼はこう切り出した。
『……君は、訊いてきただろう。俺の内側に居る異質なものに対し俺がどう思っているかを』
『ええ。そんなことも訊いたわね』
『あいつに対し、俺は恐怖を感じてきた。そのせいで、自分自身も信じられなくなった。他の全ても、何もかもが恐ろしい』
『…………』
『あいつが時々、この体を奪う。そしてあいつに体を奪われている間、俺には意識も記憶もない。昔は数か月ぐらい記憶が抜けることがざらにあって、酷いときは数年にも及んだ。十二歳のある時から、十五歳で川に溺れて死にかけるまでの記憶が、俺にはない。それに今でもたまに、数時間だけあいつが体を奪いにくる。それであいつは……――』
 そして昨日の夜はその言葉の途中で、彼の意識の糸がぷつっと切れた。一瞬で、眠りに落ちたのだ。そうして翌朝目を覚ましてみれば、彼の記憶はすっぽり抜け落ちていた。目覚めた彼の最後の記憶は、大学の工学カレッジを走り抜け、校門へと走る途中でブリジットと出くわしたところ。そこから先の逃走劇やステーキハウスで食べた一〇〇〇グラムの肉塊や喧嘩別れ、その後の暴力沙汰など何も覚えていなかったのだ。
 目を覚まし、開け口一番に彼が言ったことはこれだった。ここはどこだ。昨日までの混乱とはまた違う種類の混乱を見せたペルモンドに、ブリジットは優しくこう言った。
『おはよう、ペルモンド。ここは私の家のゲストルームよ』
『……なんだって?』
『一昨日の真夜中、土砂降りの日よ。あなたはそんな土砂降りの夜に、外で寝ていたそうよ。寝てたというか、気絶。それも顔を殴られて、鼻血を垂らしていた状態でね。たまたま、そんな様子のあなたを発見した私の父が、あなたを拾って家に帰ってきたの』
『…………』
『あなたは昨日一日中、ずーっとこのベッドで寝てたのよ。高熱を出して、悪夢にうなされながらね。……あんな寒くて雨が降っている日に、外で寝てるんですもの。本当に馬鹿よね、あなたって』
 その話が嘘なのか、本当なのか。首を傾げさせながら、ペルモンドはブリジットの話を聞いていたが、彼はおおむねブリジットの言葉を信じたようだった。それから苦笑い、ペルモンドはこう言った。
『まったく身に覚えのない話だが、そうだな。俺は、馬鹿だ。その点だけは、間違いない。それに、リチャード・エローラに拾われるだなんて……』
 そうして昨日一昨日とは打って変わり、エローラ家に平穏な朝が訪れたのである。それもブリジットが彼に眼鏡を渡すまでの話なのだが。
「落ち着いたかね、狼くん。さっ、それでは用事も済ませたことだし。朝食にしようじゃないか。ブリジットから聞いたぞ。君は丸三日、何も食べていないんだってねぇ?」
 そうペルモンドに声を掛けたのは、ブリジットの父親。彼はダイニングテーブルの椅子から立ち上がると、マグカップを持ってキッチンへと向かう。そして冷めたコーヒーを流しに捨てながら、父親はペルモンドに言った。
「えっと、たしか君はテーブルロールやマフィン、ドーナツは食べられないんだったか。ベーグルだけは辛うじて食べられたんだよな? それじゃあ軽く焼いたベーグルにハムとチーズ、それとケチャップを……」
 すると“ハム”という言葉にペルモンドは、とっさに反応する。彼の口からは早口で、この言葉が飛び出した。
「お気遣いなく。結構です、本当に」
 ハム。つまり、豚肉。それはペルモンドが最も嫌悪している食べ物である。
「いや、何も食べないのはよくないぞ。空腹では君のその頭も動かないだろうに」
 豚肉というのは、ペルモンドにとっては禁忌の存在。その問題にすぐ気が付いたブリジットは、苦笑いを浮かべる。どういう理由があってかは知らないが、彼は豚肉を、ひいては豚を嫌悪しているのだ。ステーキハウスでブリジットが牛肉を食べていたときに、彼はそう言っていた。
「いいえ、パフォーマンスには問題ありません。むしろ空腹のほうが仕事は(はかど)りますんで」
 豚には首がない。首がないってことは、苦しませずに屠畜する方法がないってことだ。つまりやつらは悲鳴を上げて糞尿をまき散らしながら苦しみ悶えて息絶えて、そうして人に捌かれるということ。そんな方法で裁かれた肉を食いたいか? 死んだ豚の恨みを食っているようなものだぞ? 豚に呪われる。想像するだけで、おぞましい。
 ……それが彼の持論らしい。そして彼は、肉を食べている女性の前で、そのような話を真顔で語る男である。それほどまでに彼は豚が嫌いなのだ。
 しかしペルモンドのその思いは、ブリジットの父親には通じていないようだった。
「君はそう思っているかもしれないが、私の目には君の顔に疲労が見えるがねぇ……。それに君のほうこそ肩の力を抜いて、ゆっくりしたまえ。遠慮はいらないよ。君は、今はまだ客人なんだ。まあ近い将来、私の息子に……」
「息子。……俺が?」
「そう、婿だ。君を――」
「冗談じゃない」
 ブリジットの父親の言葉を、ペルモンドはぴしゃりと一刀両断してのけた。そんなペルモンドの応対にブリジットの父親は面白おかしそうに笑っているが、今の言葉に傷ついた人間が居た。それはブリジットだ。
「冗談じゃないですって?! ちょっと待ってよ、ペルモンド。私、今かなり傷付いたわ!!」
「なぜ君が怒る?」
「なぜ!?」
 わっと捲し立てて、ブリジットははたと我に返る。そう、この男には記憶がない。ブリジットが恥ずかしい思いをしながら、好意を赤裸々に打ち明けた瞬間の、あの記憶がないのだ!
「あ、あなたは私のことを、なんだと思ってるのよ!」
 顔を赤くさせたブリジットが、口にした言葉はそれだった。彼が覚えていない記憶を持ち出すわけにはいかなかったため、それらしいが意味不明な言葉を放ってしまったのだ。するとペルモンドは首を傾げる。それから彼はどうしようもない一言を放った。
「君は、ブリジットだ。ブリジット・エローラ。……違ったか?」
「知ってるわよ、そんなこと! あぁっ、もう。あなたって人は、話にならない!!」
「まあまあ、ブリジット。落ち着きなさい」
 ウォー・ホーゥ。エローラ家の定番台詞が父親の口から飛び出し、ブリジットはむかむかとする心を封じ、呼吸を整える。するとブリジットの父親は続けてこう言った。「狼くん。君も朝食を食べなさい。それと君とブリジットには今日一日、私に付き合ってもらいたいんだ。まあ簡単に言うと、狼くんの検査なんだが」
「俺、帰ります。ご迷惑をおかけしっ……」
「そう簡単に帰れると思わないでくれ、狼くん。私は君の、命の恩人なんだぞ?」


***



 ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ。
 ビルギットは時間というものをレイモンドに説明するために、この言葉をよく使った。それは橋の下を流れる川の水と同じで、流れ続けて変化し続けるものなのだと。過去は流れ、そして今も流れて過去になる。問題もすべては過去になり、時間という水が洗い流してくれるのだ、と。
 レイモンドはその言葉を聞くたびに、私に抱きついて来て、泣いた。ビルギットはああ言うけれど、現実は違う、ってね。レイモンドに言わせれば、過去はいつまでも足に付き纏う枷で、歩みを阻害するもの。そして無理をして歩けば歩くだけ、枷にはゴミがついて重くなる。そして一歩踏み出すことがつらくなる、と。
 どちらが正しいのだろうか。そんなことは、誰にも分らない。きっと、どちらも正しくて、どちらも間違っているのだろう。ビルギットにとっての正解があって、レイモンドにとっての正解があるのだから。
 そして私は、こう思った。時は、大きな川の流れだ。世界という大きな海があり、時代という大きな川があって、コミュニティという小さな川になり、個人という支流になる、と。そして支流は千差万別にあるのだろう。一定のペースで流れ続けて止まらない、ごみ一つもない清流もある。めくるめく高速で変わり続ける、荒れる濁流もあるだろう。穏やかな流れを保ちながら、時として氾濫が起きて荒れる川もある。そして中には、凍り付いて水が流れなくなった川も、干からびて水が無くなってしまった川もあるはずだ。その他にも、人の数だけ流れがあるのだろう。
 きっとビルギットの川は濁流で、レイモンドの川は凍り付いていたのだ。ビルギットはレイモンドを自分の流れに取り込もうとして、彼の凍えた心を砕いてしまったんだ。そしてレイモンドに触れたビルギットの心は、冷たさに侵食されて凍り付き始めたのだろう。
 影響し、共感し、共鳴しあう。私が思うに、それはとても素敵なことだが、同時に重大なリスクを伴う行為だ。影響されるがあまり、相手の悪い部分までも取り込んでしまって、それを自分のものにしてしまう。そうしてうねりが生まれ、うねりは己を飲み込むんだ。
 だから他者と自分との間に引く境界線は、大事なものなんだ。精神とは、侵食されてはいけないもの。異なる構成の溶液を混ぜ合わせた際に時として劇物が生まれるように、異なる心と心は溶け合ってはいけないんだ。



***



 延々と続く、検査という名前の拷問。ブリジットの父親が勤務する病院の、精神科病棟の談話室で繰り広げられる検査に、付き添いのブリジットは眠気を覚えていた。
「……はい、次だ。君には何が見えているかね?」
 そうペルモンドに問うブリジットの父親の前には、長机が置かれていた。そして机の上には、裏返しにされたカードが横一列に並べられている。
「さっ。それでは九十八回目のテストだ。さっきと同じように、君から見て右から順に、カードの柄を当ててくれ」
「……ドクター・エローラ。これ、いつまで続くんだ?」
「今回を含めて、あと三回だ。それで終わりだよ」
 検査という名の拷問、またの名をテストというこのゲームは、小さな子供でも出来るような至って単純でつまらないものだった。要するに、絵柄あてゲーム。とはいえ、このゲームのプレイヤーには偉大なハンディキャップがある。それは目が見えない、ということだ。
 カードには、四角や三角といった簡単な記号の色違いが幾つかと、二桁までの数字が書かれていて、合計一二六枚が用意されている。その一二六枚あるカードをブリジットの父親がシャッフルし、その中からランダムに十五枚を選び取って、それをテーブルの上に並べる。ペルモンドから見たときの右から順に、左へとカードを並べていくのだ。そしてテーブルに並べられた十五枚のカードの絵柄を、上下も併せてペルモンドが答える。それだけである。その繰り返しだ。
 そしてブリジットの父親がカードの山をシャッフルして、ランダムに選び取った十五枚をテーブルに並べ、それをペルモンドが答えるまでの間。カードは裏面だけが見える状態であり、絵柄が描かれた表面を見る者は誰もいない。カードをシャッフルするブリジットの父親も、ペルモンドが答えた順番の答え合わせを行うまでは、テーブルに並べられた十五枚がどんな絵柄で、どんな並びなのかを知らない。となれば部屋の隅であくびをしているブリジットは、知る由もない。
 そして椅子に座るペルモンドの目には、念のためにと目隠しがされていた。彼の視覚野が機能を失っていることはブリジットの父親も知っているが、それでもダメ押しで目隠しをさせたのだ。彼の特殊な能力を見極めるために。
「それじゃあ、ペルモンド。答えてくれたまえ。右から順に」
「はぁ。……二十五、七十一のリバース、青色の星のリバース、三十三、八十二、二十二、五十六のリバース、黒のハート、黄色の三角のリバース、四十八、七、六二、十九、赤のハート、九十八のリバース」
「……ふむ、なるほど……」
 ペルモンドの言葉を聞きながら、ブリジットの父親はテーブルの上のカードをひっくり返して絵柄を確認する。一枚目の絵柄を彼が言った後に、めくる。二枚目の絵柄を言ったあとに、また次をめくる。それを繰り返す。
 カードはこうだった。二十五、逆位置の七十一、逆位置の青色の星、三十三、八十二、二十二、逆位置の五十六、黒のハート、逆位置の黄色の三角、四十八、七、六二、十九、赤のハート、逆位置の九十八……――全ての絵柄を、彼は正確に言い当てたのだ。
 ブリジットの父親はカードを回収すると、またシャッフルを開始する。すると疲れ切ったペルモンドの声が飛んできた。
「ドクター・エローラ。どうなんだ? 当たりとも外れともアンタは言わないが」
「終わったら結果を伝えよう。それまではダメだ」
「それと、喉が嗄れそうだ。一口でいいから、水ぐらい飲ませてくれ」
「もう少しの辛抱だ、我慢してくれ」
「アンタが初めにそう言ってから、かれこれ三時間はゆうに経過してる」
「狼くん。本当に、あと少しなんだ。付き合ってくれ」
 そしてペルモンドは盛大な溜息を吐く。その様子を今にも閉じてしまいそうな重たい瞼で見守るブリジットは、さすがに彼が可哀想だと感じていた。
 この八時間。ペルモンドはあの椅子に縛り付けられ、目隠しをされて、よく分からないゲームに付き合わされている。眠たくて仕方がないブリジットには、父親が何をやっているのかなど分かりもしないが、目隠しをされたペルモンドの顔色が悪いことには気が付いていた。そして凄まじく彼が不機嫌であることも。
「父さん。私、お水を貰ってくるわね。ウォーターサーバーって、受付の右だったっけ?」
「ああ、そうだ。行ってこい」
「ペルモンド、待っててね。すぐ戻ってくるから……」
 遡ること、九時間前。朝の七時半のこと。ペルモンドに朝食を食べることを強要したブリジットの父親は、あろうことかハムとチーズを挟んでケチャップを塗ったベーグルを彼の口に強引に押し込んだ。全てはそれに由来する。その後、ペルモンドがどうなったかといえば……――バスルームに直行。つまり、彼は吐いたのだ。
 ただでさえ空っぽだった胃で嘔吐しただけに、吐しゃ物の大半は胃液だったようで。喉が焼け、しばらくの間は体が何も受け付けない状態になってしまった。それとブリジットの父親の謝罪も、彼は受け付けなかった。
『すまない、狼くん。まさか君が、豚肉にアレルギーを持っていただなんて……』
『……いいんです、ドクター・エローラ。気にしないで、ください』
『それなら先に、そうだと言ってくれればよかったじゃないか』
『アンタ、俺の言葉に耳を傾けようとしたことが一度でもあったか?』
『……あれっ。もしかしてだが、狼くん。君は私を、すごく恨んでるのか?』
『死んだ豚の恨みだ』
『なに?』
『父さん、気にしないで。死んだ豚云々はペルモンドの妄想よ』
『ああ、そうだ! 俺は頭のいかれた精神破綻者だ! 全部妄想だよ。全部、全部……』
『あー、ペルモンド。落ち着いて。思い出してまた吐いたりなんて、やめてよね』
 ハムチーズベーグルの一件以降、ペルモンドは昨日一昨日とはまた違った意味の混乱状態に陥った。昨日までの混乱がPTSDの類だとすれば、今の状態は錯乱というのが相応しい。怒っては自虐して、自虐しては人に八つ当たりして、八つ当たりして自虐して、自虐をしている自分に落胆して、肩を落として、また怒る。そういう状態である。
 そんな精神状態を引きずって臨んだこの検査という名のテスト、そして拷問。意味があるかもわからないような、似たような作業を延々と繰り返すこの時間は、狂っていたペルモンドをさらに狂わせるには十分だった。
 なお今のペルモンドは、当然だが眼鏡は着用していない。
「ほら、狼くん。これを含めて、あと二回だ。ほら、右から順に……」
「五のリバース! 五五、六二、八九のリバース、赤の星!」
「その調子だ、その次も……」
「やめてくれ! 限界だ。こんなの、まるで拷問じゃないか……」
「狼くん。あと少しなんだよ」
「もうデータは集まってるだろ? 八時間もこの椅子に縛り付けられて、水も飲めなければトイレにも行けないんだ。それどころか、この椅子の脚に足首を縛り付けられて、立つこともできない。手も後ろで縛られている。拷問じゃなければ、これは何だ?」
「でなければ君が逃げるからだ」
「逃げないさ!」
「拘束理由は正当だよ。君には暴れる危険性がある」
「……俺が、凶暴だってことか?」
「父さん。拘束理由は正当じゃないわ。これは拷問よ。ペルモンドは機械じゃない、人間なの。人権ってものがあるでしょう?」
 ペルモンドがついに我慢の限界を迎えたのと、ほぼ同じタイミングでブリジットは談話室に戻ってくる。彼女の左手には水が入った紙コップが握られていた。
「父さんが何のデータをとってるのかは知らないけど、九時間もこの部屋に、それも椅子に縛り付けるなんて、正常な人間のやることじゃないわ。水も与えない、トイレ休憩もランチも無し。人間を相手にして行うには、倫理的に問題がありすぎる。彼が言っていることは尤もよ」
「ブリジット、だがこれはとても意味を持つ重大な……」
「重大かどうかなんて知らないわ。このカードをめくり続けるだけのゲームが」
「ブリジット。お前は何も分かっていないから」
「それよりも私、受付の時計を見て驚いちゃったの。今はもう午後の五時になるって時間なのよね。私ったら途中うとうとしてたから、体内時計がおかしくなっちゃってて。もっと早くに気付くべきだったわ。ごめんなさい、ペルモンド」
 ブリジットは一度持っていた紙コップをテーブルの上に置くと、椅子に座るペルモンドに駆け寄る。彼の手首と足首を拘束していた縄をほどく。それからテーブルの上に置いた紙コップを取ると、ブリジットは紙コップを彼の右手に持たせた。
「ほら、お水。ゆっくり、気を付けて飲んでね。なにせあなたは今朝、ホットミルクをマグカップの五分の一だけ飲んで、それで吐き気を催して嘔吐した人だから」
 コップを受け取った彼の手は冷たく、少し青紫色に変色しかけていた。血が止まっていたとまではいわないものの、血流は長時間阻害されていたようだ。
「……ミス、エローラ……」
「お礼はいらないわ。ただのお水よ。それもウォーターサーバーの。あと、ブリジットって呼んでって言ってるでしょう? ミス・エローラはやめて。他人行儀で気持ち悪いわ」
 青紫色に染まりかけていた彼の手が、血色を取り戻していく。代わりに、ぷるぷると小刻みに震え始めた。それからブリジットは、外すのを忘れていた目隠しを取りさらう。そして彼の真の異変に気が付くのだった。
「ペルモンド。目が……」
 目隠しを外して露わになった彼の目は、左右で瞳の色が違っていた。左目が普段通りの蒼で、右目が緑色に変わっていたのだ。ブリジットにとって見覚えのある、あの薄気味悪いエメラルドグリーンに。
 するとペルモンドは俯き、瞼を閉ざす。次第に彼の手の震えが激しくなり、渡したばかりの紙コップは床に落ちて、水が床に撒かれた。それから彼は頭痛を訴え、呻き声を上げる。
「……頭が、割れる。それに、あぁぁ……――ッ!」
 身を前に屈め、両掌で左右のこめかみを押さえてうずくまるペルモンドの横で、ブリジットはあたふたとしていた。ひどい頭痛を訴える彼だが、その彼に何をしてやればいいのかが分からなかったのだ。
 そういうときに頼りになるはずなのは医者を生業にしている、それも脳神経の専門医である父親なのだが……――。
「父さん、何をしてるの?! 傍観してないで、彼を助けて!!」
「いいんだ、ブリジット。彼をそのままにしておきなさい。彼に何が見えているのか、それが重要だ」
「なんですって?」
 呻き声を上げて苦しむペルモンドの姿を見つめる父親の目は、異様に冷たい。今の父親の顔はまさしく探求心に導かれるまま動く研究者の顔であって、それは臨床医のあるべき姿ではなかった。
「ブリジット。お前が前にしてくれたハンカチの話に、私はもしやと思った。それに今日の実験で、ついに分かった。彼は、私たちと違う世界を見ているんだ」
「……父さん。そんなことよりも、今はやるべきことがあるでしょう?」
「彼の目には未来が見えているんだ。もしくは、霊視。そういう能力だ。今は数秒先の未来を予測しているところしか目撃できていないが、もしかすると彼はもっと先の未来まで」
「今は、そんなことはどうだっていいの!! それより彼は!!」
「ブリジット、私の話を聞きなさい。もし彼の脳の秘密を解き明かせれば、これは偉大な大発見につながるのかもしれないんだぞ? この機会を逃すわけにはいかない。だから」
「ねぇ、父さんの目は見えてないの? 父さんの実験とやらの所為で、彼が苦しんでる姿が」
「だが」
 カードの絵柄を当てる実験。その実験を始める前に、ブリジットの父親はペルモンドにこう言っていた。私がカードをめくるから、その絵柄を答えてくれ、と。
 だが現実にはペルモンドがカードの絵柄を答えるのが先で、ブリジットの父親がカードをめくるのはその後だった。つまりペルモンドは、ブリジットの父親がカードをめくった“未来”を視ていたと考えられるのだ。
 九十九回に及んだテストの中で、ペルモンドがそのタイムラグの関係に気付くことはなかった。自分の言葉が、ブリジットの父親の行動よりも先に生じていたなど、彼は最後まで考えてもいない様子だった。
「人類の進歩に犠牲はつきものだと、よく言うだろう?」
「父さん。私にはさっぱり、意味が分からないわ。理解したくもない」
 詳しいことはまだ分かっていないが、彼は無意識のうちにその能力を行使し、肉眼では見えない“何か”を視ていることは間違いない。普通の人間、俗にいう晴眼者に見える世界は彼には見えないが、肉眼や視覚野では捉えられない世界を彼は視ているのだ。紛うことなき、未来の世界を。
 未来を事前に知る力。それはとても、魅力的なものだ。――……少なくとも、ブリジットの父親はそう思っていた。目の前で、頭を抱えて蹲るペルモンドの姿を見てもなお。
「話にならないわ。……ペルモンド。ここを出て、ちょっと外の空気を吸いに行きましょう。立って。すこし歩きましょう、ほら」
「待ちなさい、ブリジット! どこに行くつもりだ!!」
「外よ! ここじゃない、どこかね」
 ペルモンドに肩を貸すブリジットは、彼を立ち上がらせた。服を隔てて伝わる彼の体温はうんと冷たく、手の冷たさなど可愛らしく思えたほどだ。ブリジットの肩に重たくのしかかる彼の体重は、その冷たさを倍に感じさせた。
 そしてよろよろとした不安定な足取りの彼は、左足を引きずるように歩いていた。対する右足の歩みは安定していて、そのアンバランスさが体の均衡を崩しているようだ。
 彼を支えて歩くブリジットは部屋のドアの前に立つと、父親に視線を送った。それは彼女が生まれて初めて実の父親に送り付ける、本当の蔑みを込めた睨みだった。すると父親は、動きを止めた。動けなくなって、言いかけた言葉を飲み込んだのだ。
「…………」
 ブリジットは父親に背を向け、部屋のドアを開ける。そうして廊下に出た、その瞬間だった。
「ハーイ、ブリジット。あなたは彼をどこに連れて行くつもりなのかしら」
 一歩、ドアを潜り抜けたとき。ブリジットの肩が、ふわっと軽くなった。ペルモンドの体重がどこかに消えたのだ。
「相変わらず、私の弟はどこに居ても人気者になってしまうみたいね。女からも男からも、善人からも悪人からもモテて……――まぁ一番寄ってくるのは、悪どい男たちなわけだけれど」
 談話室のドアのすぐ右隣、その壁際。そこに一人の、黒スーツを着た背の高い黒髪の女が立っていた。
「……あなた、誰?」
「マダム・M。オージーっ子たちからは、そう呼ばれているわ」
 ブリジットの問いかけに“マダム・M”と答えた彼女は、長く艶やかな黒髪を揺らして、隙のない完璧な微笑をブリジットに返してきた。マダム・Mの目は、彼女が着用しているサングラスにより見えなかったが、年齢はざっと三〇代手前の比較的若い女性のように見えていた。
 そしてペルモンドは、マダム・Mの腕の中だった。彼の頭はマダム・Mの肩に乗っていて、彼女の腕はペルモンドの背中に回っている。一瞬にしてマダム・Mは、ブリジットからペルモンドを奪い取ったのだ。
 そしてマダム・Mはこう言った。
「今まで、この子の世話をあなたがしてくれていたようね。それについては、本当に感謝しているわ。大変だったでしょう? でも、それも今日で終わり。今までにあったことは全て忘れて頂戴。彼のことを、何もかも」
「突然現れて、あなたは何を言ってるの? 私には理解ができないんですけど」
「あなたの理解は求めてないわ。私は、長らく行方知れずになっていた弟を迎えに来ただけ。それだけの話よ」
「弟? ペルモンドが、あなたの?」
「厳密には違う。この子と私に血の繋がりはない。つまり、弟分ってところよ。記憶がすぐ吹っ飛んじゃう手のかかる弟、それが彼だから」
「わけが分からない。どうして彼をあなたが連れて行くの? 彼の家族でもないのに」
「ブリジット。家族でもないのはあなたも同じじゃなくて? それに私は時間が惜しいのよ。ここで失礼させてもらうわ」
「待って!」
 ペルモンドを抱きかかえるマダム・Mは、その場を立ち去ろうとする。その歩幅は大きく、早足だった。そしてペルモンドが彼女に抵抗する様子もなく、彼もそのまま行ってしまいそうになる。ブリジットは慌てて彼の手首を掴んで引っ張り、引き留めようとした。
 するとマダム・Mが、彼の手首を掴んだブリジットの手を払いのける。
「オーストラリアおよびオセアニア連邦共和国、今の名をアルフレッド連邦共和国。その国の空軍大将とその護衛たちを、私は駐車場で待たせている。邪魔はしないで頂戴。これ以上なにかをするようであれば、あなたの身の安全は保障できないわよ」
「何の話だかさっぱり――」
「バーソロミュー・ブラッドフォード。あなたも彼を知っているわよね? 何故ならば、あなたのお父様とブラッドフォード大将は親しい間柄なのだから。ならば分かるでしょう? 大将が、どれだけ忙しいお方であるのかを」
 バーソロミュー・ブラッドフォード。ブリジットも聞いたことがある名前を、マダム・Mは発した。それは南の海に浮かぶ大陸国家の空軍を取り仕切る大将の名前だ。そしてその名前はブリジットの父親の友人の名前でもあり、欧州大戦という戦争を終わらせた偉大な英雄の名前でもある。
 どうして、そんな人物の名が今この会話に登場したのだろう。そうしてブリジットが混乱しているうちに、ペルモンドを連れてマダム・Mは消えてしまった。それも歩いてこの場を後にしたのではなく、煙のように一瞬にして消え去ってしまったのだ。
「――……?!」
 ブリジットはきょろきょろと辺りを見渡すものの、精神科病棟のなかでは普段通りの日常が流れている。
 まるで彼らの存在が幻のものであったかのように、マダム・Mとペルモンドの二人は忽然と姿を消していた。


次話へ