ウォーター・アンダー・
ザ・ブリッジ

ep.05 - Another You

 レイモンドは面白いくらいに、いろんなものに興味関心を示した。目の前を飛んで行った小さなハエや足元を歩く働きアリの列、食堂の店員が床掃除に使っていたモップとバケツに、食料品店に売っている野菜と陳列棚の並び順、ストリートで演奏をしているミュージシャンの楽器に、横を通り過ぎた女性が使っている香水やバッグの中身に化粧品などなど。すぐに興味を示すし、関心を持つし、それらを欲しがった。食べ物に関しては、特に凄かったね。彼と外食に行こうものならば、注文した料理すべてを彼に味見……という名の横取りをされることを覚悟しなければならなかったくらいだ。
 そういう性格もあってか、彼は非常に多趣味だった。好きなものがいっぱいあったんだ。
 彼は数学と顔だけが取り柄ってわけじゃなくてね。まあ一言で言うならば、器用貧乏ってやつだったのさ。その中でも特に強いこだわりを持っていたのは、音楽だっただろうか。
 ……クラシックやポップスという音楽は数学で表すことが可能だし容易にコンピュータで再現することができるけれども、長い歴史を持つ民族音楽や即興演奏の類はあまりにも自由すぎて、数学で表すことはできない。それに演奏者の洗練された技術や個性、それと人間が巧みに操る倍音の揺らぎは、数式に表せるほど単純なものではないし、コンピュータでは決して再現できない。……それが彼の、持論だった。
 彼はいくつかの楽器を、自由自在に操ることができた。ティンホイッスル、ハーモニカ、ボタンアコーディオン、ピアノ、ギター、ドラムなど。でも一番上手かったのは、フィドル。そしてレイモンド自身が一番愛していたのもフィドルだった。それに彼の体にアイルランドの血が流れていることもあってか、彼は即興で作ったリールを好んでよく演奏していた。もちろん、フィドルでね。近所の酒場には、彼のファンも大勢いたんだ。
 けれども、というか、だからなのだろう。あるとき、レイモンドはこう言ったんだ。自分は色んなものが大好きで、色んなものをそつなくこなすことができる。だから、一番好きなものが決められない。だから、それを好きと感じた自分の心がすべて疑わしく思えてしまう。だから、何ものも誰のことも心の底からは愛せないんだ、と。
 あのとき私は、彼に下手な言葉を掛けることはしなかったが、でも私は、それは違うと感じていた。何故ならば私は、彼以上に愛に溢れた人物を見たことがなかったからだ。私を含め彼の周りにいた多くの人が彼のことを一様に愛していたし、彼もそうだった。多くのものもを、心の底から愛していたんだ。けれども彼にはただ一つだけ、最期まで愛せなかったものがあった。それは彼自身。彼は自分を嫌っていた、自分を信じていなかった。だから自分の正直な心がすべて、彼には嘘であるように感じられていたんだ。
 レイモンドはもっと、自己中心的になるべきだった。もっと自分自身を信じるべきだった、素直でいるべきだった。……彼はどこまでも真面目で、不器用な奴だったんだ。その結果、彼は自分自身を殺してしまったというわけさ。



***



 ペルモンド・バルロッツィ。そんな名前の天才が死の淵から生還し、無事に快復してからかれこれ二か月が経過したころ。ブリジットとミズ・マックスの姿は、市内のとある喫茶店にあった。
 通りを見渡せる窓側のテーブル席に腰を下ろした二人は、向き合うようなかたちで座っていた。二人の間にはテーブルがあり、テーブルのうえにはひとつのコーヒーカップとひとつのティーカップ、それとひとつのサンドウィッチが並んでいる。柑橘が香るアールグレイティーとサンドウィッチはミズ・マックスが注文したものであり、ブレンドコーヒーはブリジットが頼んだものだった。
「……そう。彼は何も覚えていないのね。あなたのことも、私のことも」
 ミズ・マックスはそう言って、寂しそうに目を伏せた。俯くブリジットは、シロップを入れたアイスコーヒーをマドラーでかき混ぜる。そしてブリジットは早口で言った。
「ええ。思わず笑っちゃいそうになるくらい、彼は何も覚えてない。綺麗さっぱりね。そのうえ彼は、失踪してから今の大学に入るまでの二年間、自分がどこで何をしていたのかもよく覚えてないみたいで。気が付いたら口座には大金が入っていて、気が付いたらメールボックスには大量の仕事依頼が入っていて、気が付いたらあの家に一人で住んでいて、気が付いたら入学関係の書類が目の前に並んでいた、って。でも彼は記憶の欠落をまったく気にもしていない。前向きっていうより、投げ遣りで自暴自棄って感じ。何もかもがどうでもいい、誰がどうなろうが関係ない、自分のことすらどうでもいい、とにかく早く死にたい。そういう感じです」
「…………」
「だから、その、私は……彼に事情を説明するのも面倒になって。彼に、合わせることにしました。彼の家に居候している友人にも、そういう態度を取ってくれるよう頼んでありますし。私はあの日に初めてあった人で、赤縁眼鏡のシルスウォッドの幼馴染の女で、イヤーな印象しかない医者の娘。それだけの女って」
 彼とは、ずぱりペルモンドのことである。とっくに快復している彼は、何の問題もなく日常生活に復帰している。が、その彼はブリジットが知っていた“ハスキー”ではない。彼は全くの別人になっていた。
 記憶も、そうだ。彼の中にある一番古い記憶といえば、ブリジットの父親リチャードの存在だけ。彼に嫌な印象を抱いた、というそれだけである。彼はブリジットのことなど覚えてもおらず、そうであれば身元引受人になってくれた保護観察官ミズ・マックスのことなど知りもしない。そのうえブリジットの前から姿を消してから今の大学に入学するまでの記憶も、彼の中には残っていなかった。
 彼の記憶は不思議なぐらい虫食いだらけだ。その程度も度が過ぎていた。
「なんかもう、彼に関する何もかもが、本当に面倒なんですよ。私が説明したところで、どうせ彼はすぐに忘れてしまうだろうし。そもそも彼は、私になんか興味もないでしょうし。私の話なんか聞いてもいないでしょうし。それに彼には、隠し事が多すぎる。そのくせ性格は嫌味で、高圧的。可愛かったハスキーの面影なんて、どーこにも残ってないんです。笑顔はうざくて、ついついぶん殴ってやりたくなる。はぁ……――思い出すだけで、胃がむかついてくるわ」
 まず彼には、十四歳以前の記憶がない。そのうえ、十五歳から十八歳の間の記憶もない。それとシルスウォッドの話によると、彼は細々とした日常の出来事もしょっちゅう忘れてしまうため、常に混乱状態にあるのだという。
 彼はヤカンを火に掛けたことを忘れて、平気で外に出てしまう、らしい。彼は五分前に自分でコーヒーを淹れておきながらも、どうして自分のマグカップにコーヒーが満タンに入っているのかをシルスウォッドに尋ねてくるときがある、らしい。彼は約束事も忘れてしまうので平気で毎回すっぽかす、らしい。家の中には用途不明の謎の備品が大量にあるものの、ペルモンド本人は「買った覚えがない」と断固言い張っている、らしい。彼は二週間前の出来事を昨日だと言い張る、らしい。彼は二年前のことを五年前と言ったりもする、らしい。ときどき彼は「今は二十一世紀初期だ」というトンデモ発言をする、らしい。誤差の範疇にはとても収まらない時間のズレをシルスウォッドが指摘すると、彼は途端に混乱して黙り込み、その場に倒れこんで寝てしまう……らしい。そして翌朝目覚めると、何事もなかったかのように普段のペルモンド・バルロッツィに戻るという。それに案の定、彼は自分が倒れたことも忘れているという。
 ここまで酷いと普通は脳疾患を疑うものだが、検査結果に異常は見当たらなかった。先日の騒動のあと、彼が退院する直前にブリジットの父親が丹念に二度も繰り返し行った検査の結果が、それだ。となると結論は二つに一つしかない。
 彼は全てを覚えていて、意図的に奇人を演じている。もしくは、彼は精神を病んでいる。なおブリジットは彼が後者であると睨んでいた。
「それに私の友人の話によれば、彼の症状……っていうんですかね。まあ、その、彼は人格が破綻しているも同然らしくて。とにかく大変だと、友人は言ってました。まるで介護をしてるような気分だ、って」
 記憶の欠落というのは、たしかに問題である。だがそれ以上に問題なのは、そのことを当人が全く気にもしていないこと――記憶が抜け落ちていることを怖いと感じていないことであり、全てがどうでもよくなっているあまりに自暴自棄に陥っていることであり、それによって周囲に甚大なる被害を与えていることであり、周囲に被害を与えているという自覚がないこと――なのだ。
 それはまるで、自分自身を殺し続けているような生活スタイル。自殺のような人生だ。そのうえ周りの人間をも傷つけているのだから、タチが悪いことこの上ない。シルスウォッドが一番の被害者であり、その次に被害を被っているのはブリジットだ。あとミズ・マックスも傷つけられたわけだし、ブリジットの父親もある意味においては被害者かもしれない。それに彼の被害者は、もっと多く存在しているかもしれないのだ。
 まるで彼は、悪魔だ。それこそが今のブリジットが感じている素直な気持ち。彼自身が悪魔のような人間なのか、ゲーテの戯曲「ファウスト」の主人公のように、偉大な頭脳と引き換えに魂を悪魔にでも売ったのか。――……まあ、どっちだろうが関係ない。どちらも自分自身を、そして周囲を破滅に導くという意味では同じような存在だ。
「彼は外だと高圧的で偏屈で気難しい人物を演じているようなんですけど、家に戻って眼鏡を外した途端、もう何もかもが崩壊していくみたいで。友人の言葉を借りると、カナータイプの自閉症のような状態になるそうです。なので家の中で彼と普通の会話を交わせる機会は滅多に訪れない、と。私はその場面を見たことがないんで、友人のその話は疑ってるんですけど。でもここ最近の友人の疲弊具合があまりにも凄いんで、その話に信憑性はあるんじゃないかなぁと。それにシルスウォッドが、そんなつまらないことで嘘を吐くとは思えないし……」
 ひたすら喋りながら、ブリジットはマドラーをぐるぐると回し続けていた。シロップもミルクも、とっくにコーヒーには溶け切っているのだが、それでもブリジットは回し続ける。というよりも、彼女はマドラーの存在を忘れ、ほぼ無心の状態でかき混ぜ続けていたのだ。
 するとミズ・マックスは言った。「ブリジット、あなたこそ大丈夫なの?」
「え? 私は全然、大丈夫ですけど……」
「今だって、あなたは上の空でずーっと話してるわ。それに、いつまでマドラーを握りしめているつもりなの?」
 ミズ・マックスのその言葉を受けて、ようやくブリジットはマドラーの存在を思い出した。苦笑うブリジットはマドラーをコーヒーカップから抜く。そして溜息を吐き、ブリジットはこう言った。「……コーヒーの存在をすっかり忘れてました」
「でしょうねぇ。そんな気がしてたわ」
 頬杖をついているミズ・マックスの手元には、空になった器があった。彼女はとっくにサンドウィッチを平らげ、アールグレイも飲み干していたようである。対するブリジットの手元には、ほんのりと白みを帯びたブレンドコーヒーが、一口もつけられていない状態で放置されていた。そのことに気付いたブリジットは、浮かべた笑みを引き攣らせた。ブリジットが感じていたよりもずっと早く、時間は流れていたのだ。
 するとミズ・マックスは立ち上がる。鞄から財布を取り出すとミズ・マックスは、財布から二五ドルを出し、それをテーブルの上に置いた。それから彼女はブリジットに言う。
「私は忙しいから、お先に失礼するわね。また今度、機会があれば会いましょう。あと、ハスキーを宜しくね」
 また今度。ブリジットにとって最も不吉な言葉が、ミズ・マックスの口から飛び出す。その後に続いた言葉も、ブリジットには引っ掛かった。
「えっ。待って、ミズ・マックス。その“宜しくね”って、どういう意味で……」
 ブリジットの問いかけに、ミズ・マックスは少し寂しそうな笑みを浮かべる。そしてミズ・マックスは言った。
「だって、彼は大人。私は彼の人生に、もう関わることはできないわ。遠くから見守ることはできるかもしれないけど、昔みたいな関係には戻れない。それに私は、彼に忘れられた存在。ならば私は、彼に忘れられたまま、彼の人生からそっとフェードアウトしていくだけ。だから、ブリジット。彼を頼んだわよ」
「……ミズ・マックス……」
「それに今は、忙しいのよ。彼を探すために思い切って仕事を辞めて、もう二年。彼も見つかったことだし、そろそろ貯蓄も尽きそうだし。仕事を探さなきゃ」
 それじゃ、また今度。ミズ・マックスは同じ言葉を、また口にする。彼女はブリジットの前から立ち去っていった。
 そして「また今度」の機会は訪れることはなく、それ以降ミズ・マックスの姿をブリジットが見ることはなかった。
 ――そうして、その一週間後。ある事件が起きた。
「あー、もう! 散々だわ!!」
 ブリジットは苛立ちに満ちた金切り声を上げる。
「本当だよ! 家に荷物を取りに戻ろうと思ったけど、やつらのせいで帰れないじゃないか!! 人を取り囲んで、マイク向けて、勝手に写真も撮りやがって! 僕らは見世物じゃない! それに論文に僕の名前も書かれていただなんて、そんなことがあり得るわけないじゃないか! とんだでまかせだ! 僕の専門は考古学。素粒子物理学なんてさっぱり分からないってのに……――どうなってるんだ!」
 シルスウォッドも、やりどころのない怒りを爆発させていた。
「まあまあ、そう怒るな。……何か必要なものがあれば、私が代わりに買ってこよう。それはさて措き、どうせ二人とも今日は家に帰れないんだ。毛布を借りてくるから、今夜は病院に泊まっていくといい」
 ブリジットの父親リチャードは苛立つ二人をそう宥めるも、その効果は芳しくない。ブリジットは自分の父親にきつい視線を送りつけると、八つ当たりのような鋭い言葉をぶつけるのだった。
「父さん、ありがとう。初めから、そうするつもりだったわ」
 三日前の夜遅く、ペルモンド・バルロッツィという男は再び倒れた。帰宅したシルスウォッドが、リビングの床に倒れこんでいる彼を発見したのだ。
 とはいえシルスウォッドにとってはもはや、家主であり友人である男が気絶しているところも見慣れた光景。シルスウォッドは特に取り乱すこともなく、動かぬ彼をいつものようにベッドルームまで引き摺っていった。……のだが、シルスウォッドは彼の腕を掴んだ時に、何かがおかしいと感じたのだ。いつもと違う、と。いつもならば氷のように冷たい彼の体温が、妙に熱を帯びていたのだ。
 それからシルスウォッドは、とりあえず様子を見ることにした。すると、やはり彼の不安は的中。いつもならば、ペルモンドという男は何事もなかったかのように翌朝普通に目覚めるのだが。二日前の朝、彼は目覚めなかったのだ。それどころか、ペルモンドの体温はますます上がっていく。そのうえペルモンドは、ひどい悪夢に魘されているようだった。
 そういうわけで「流石にこれはまずい」と判断したシルスウォッドは、医者のたまごであるブリジットに連絡を入れたのだ。
 そうして昨日は丸一日、ブリジットとシルスウォッドの二人が付きっきりで看病にあたっていた。その日は月曜日で学校は当然あったのだが、二人とも行けるはずもなく。一時間周期で止んだり再開したりを繰り返すペルモンドの悪夢の発作を、何もしてやれない悔しさを抱えながら、ブリジットはただ見守り続けた。そして昨日の正午ちょうど、シルスウォッドの恋人であるキャロラインから掛かってきた一本の電話から、状況は大きく暗転し始める。
『あなたと、あなたの友人だってひとの名前が、どういうわけかあちこちで報道されてるんだけど! 何なの、アバロセレンの論文って。世紀の大発見とか、夢のようなエネルギーだとか、いろんな報道番組でリポーターが煽ってるんだけど。それにあなたが今住んでるコンドミニアム、テレビに映ってる。……あなた、本当に何をしたの?』
 アバロセレンの論文、世紀の大発見、夢のようなエネルギー。どれにも思い当たる節がなかったシルスウォッドは、キャロラインに言われるがままに、ペルモンド宅のテレビの電源を点けた。――その瞬間から、彼らにとって地獄のような日々が始まったのだ。
『……新種のエネルギー物質、その名もアバロセレン。それも発見者はペルモンドと、僕だって? 何のことだ。何が、どうなってるんだ……?』
 唐突に降りかかってきた正体不明の巨大すぎる隕石が、シルスウォッドを混乱の先にある恐怖へと叩き落した。そして隕石は人を呼び、気が付けば家の外はお祭り騒ぎのような状態になっていた。
 コンドミニアムの下では、大勢の人間がすし詰めになっている。下界にいる人々は上層階に住む人間に向けてフラッシュを焚き、コンドミニアムに住まう別の住人たちに手当たり次第に捕まえては、迷惑なほど大きな声で質問を浴びせ続けていた。
 それを見たシルスウォッドは大慌てで玄関ドアのカギを厳重に閉めると、全ての窓を閉ざし、全てのカーテンを完全に閉めた。その後、彼はキッチンに向かって冷蔵庫を開けると「何もないじゃないか!!」と叫んだ。次に彼は固定電話のもとへ走ると、知人らに片っ端から電話を掛けた。誰かうちに食い物の差し入れをしてくれ、と。
 そんな感じで、どちらかといえば肝が据わっているほうであるシルスウォッドも、この非現実のような現実にはすっかり気を動転させ、取り乱していたことだろう。慌てふためく友人の姿を見るブリジットも、同時にひどく混乱していたものだ。
 しかし、騒動の元凶であるペルモンドは一向に目覚める気配がなかった。食事もせず、排泄に起きることもない。彼は一時間おきに悪夢の発作を起こして呻くだけだった。
 そのうちシルスウォッドもブリジットも、下界で大騒ぎをする報道陣のノイズにも慣れてきた。それが今朝のこと。下界で発生するノイズは過熱する一方だったが、しかしペルモンドの悪夢の発作はすっかり収まり、彼は静かになっていた。しかし彼の熱は上がっていくばかり。
 一向に下がらない熱と目覚める気配のないペルモンド。それを見たブリジットはこう思った。これはただの熱風邪ではないだろう、と。だが彼女にはその正体が分からない。
 ならば医療機関に任せるべきだ。――たとえ、本人がそれを望まないとしても。
「……おっ、クソ野郎のお目覚めだ」
 目を覚ましたペルモンドが上げた唸り声。それに気付いたシルスウォッドがそんなことを言う。シルスウォッドの言葉を聞き、そこで初めて彼が目覚めたことに気づいたブリジットはペルモンドに視線を向けた。
 何日か振りに重たい瞼を開けたペルモンドは、体を起こそうとしていた。だが呻き声を上げる彼は起き上がることがままならない様子で、その体はまたベッドの上に戻される。そして、そんなペルモンドの様子を冷めた目で見つめるシルスウォッドは早速、抑揚のない声でペルモンドを詰るのだった。
「やっと起きたよ、眠り姫。君はいつも通りすべてを何も知らないだろうけれど、君が眠りこけていた間、僕たちは散々な目に遭わされていたんだ。これから釈明をしてもらわなくちゃだ」
 すると当然なにも知らないペルモンドは、意味が分からないと言わんばかりに首を傾げさせる。それからペルモンドは苛立つ友人に、単純な質問をぶつけた。
「……どれくらい俺は寝てたんだ?」
 それに対しシルスウォッドは、突っぱねるような冷たい態度でこう答える。
「三日とか四日。君は、ずーっと寝てたね。三日前の夕方過ぎくらいに僕が家に戻ってみたら、君がリビングでぶっ倒れてんだ。いつもみたいに。まあ、そこから色々とあって。病院に搬送されたってわけだよ」
「そうなのか。それで、カリスは……」
「カリスは行き方知れずで、どこにも見当たらないのさ。マヨネーズの容器にこんなメモが貼ってあっただけ。たぶん、これがカリスなりの置手紙なんだろ? まっ、とにかくこれを見てくれよ」>
 そう言うとシルスウォッドは、メモ紙をペルモンドの手の中に置いた。細やかな文字が書いてあるようだ。
 メモ紙を受け取ったペルモンドは、書かれている文字を読もうと目を凝らしていた。……のだが、彼の視力がゼロに等しいことは周知の事実であり、そのうえ彼の眼鏡は今ここにない。すると、それを察したシルスウォッドが渡したメモ紙を彼から取り上げる。そしてシルスウォッドは、視力の悪さから字が読めないペルモンドの代わりに、メモ紙に書かれていた文章を読み上げるのだった。
「旅に出るゆえ、ここを留守にする。しばしの別れじゃ。カリス。……だってさ。カリスはどこに行ったんだ? あんな希少価値の高い個体、外に出したら町中が大パニックになりそうなもんだけど」
 ペルモンドとシルスウォッド。この男二人の間だけで、会話はどんどん進んでいく。口を挟む隙間すらブリジットにはなかった。
 そこで痺れを切らしたブリジットは横やりを入れるように、会話に殴りこんだ。
「カリス? 誰なの、それ」
 それはとても不機嫌な声だった。刺々しいブリジットの口調に、ペルモンドは眉を顰める。ペルモンドは何かを言おうと口を開きかけたが、そこで空気の読める男シルスウォッドが動いた。穏やかな笑顔を一瞬で取り繕ったシルスウォッドは、物腰柔らかな喋りで、苦し紛れの解説をするのだった。
「カリスっていうのは、ペルモンドが飼っていたトカゲの名前なんだ。体がトカゲにしちゃ大きくて、ワニぐらいのサイズでさ。人語が話せて、オマケに小さな翼を背中に持ってて。本当に奇妙で、大きなトカゲ。二足歩行するコモドドラゴンって感じさ。それに……」
「それって、本当にトカゲなの?」
「新種のトカゲだって、ペルモンドは言ってたよ。なぁ、そうだろう?」
 確認のためにペルモンドにそう尋ねたシルスウォッドだが、ペルモンドは何も答えない。視力のない彼の蒼い瞳は漠然とどこかを見つめているが、彼が見ているのはどうやら現実ではなさそうである。要するに彼の意識はどこかに飛んでいて、体から離れてしまっているようだ。
 そのことに気付いたのはブリジットだけではなかったようで。うんざりした顔で舌打ちをするシルスウォッドは、こなれた様子で遠い目をしているペルモンドの肩を小突く。そしてシルスウォッドは彼の名前を繰り返し呼んだ。
「ペルモンド。ペールモンドー。戻ってこーい、おーい、ペルモンドー」
「…………」
「おい、ペルモンド・バルロッツィ。人の話を聞け」
 シルスウォッドによるダメ押しの小突きが、ペルモンドの頭をぐらりと揺らす。そして、ペルモンドは現実に戻ってきた。「――……あぁ、すまない。考え事をしていた」
「そうみたいだねぇ、まったく。これだから君は本当に面倒だ」
「それで……俺の眼鏡は、どこにあるんだ?」
「あぁ、それなら……――ごめん」
 ペルモンドの質問に、シルスウォッドは溜息混じりな笑い声を返す。ははは……と笑うシルスウォッドの声色には、気まずそうな心情がにじみ出ていた。そしてシルスウォッドは、ペルモンドの様子を窺うように言葉を選びながら慎重に言う。
「あの眼鏡なんだけど。僕が見つけた時にはもう、ひどい有様になってたんだ。レンズが両方とも割れてて……使い物にならなさそうだったから、持ってきてないんだよ。ごめん」
 突然慎重になったシルスウォッドの変化を見て、ブリジットははたと思い出す。シルスウォッドが以前、こう言っていたことを。――ペルモンドは眼鏡を外した瞬間、別人に豹変する。その姿はまるでカナータイプの自閉症に似ていて、普通の会話はまるで成立しない。
 そんなことを思い出したブリジットは組んでいた腕を解く。その瞬間、彼女の中で悪い考えが過る。そうして気が付けばブリジットは薄気味悪い笑みを浮かべていたし、こんな台詞を言っていた。
「あら。ということはあなた、何も見えないわね」
 それはシルスウォッドが言っていた変貌の瞬間を見たいがために放った言葉だった。ストレスを与えるような言葉をぶつければ、何か変化が起こるかもしれないと彼女は思ったのだ。
 思いもよらぬブリジットの口撃に、慎重に言葉を選んでいたシルスウォッドは唖然とする。そして焦るシルスウォッドはペルモンドの様子を確認した。
 しかし。幸か不幸か、現実はブリジットの期待通りにはいかない。ブリジットは望んだ変化を見ることはできなかった。
「…………」
 黙り込むペルモンドは険しい表情を浮かべるのみ。黙り込んでいる人物はあくまでも“ペルモンド・バルロッツィ”という男であって、シルスウォッドが言っていたような別人ではなかった。
 ブリジットは落胆から思わず小さなため息を零す。するとシルスウォッドはブリジットの肩に手を置き、睨むような視線を送ってきた。その目は、不用意なことをしてくれるなと警告しているかのようだ。
 ペルモンドが状況を呑み込めていないことに付け込んで、彼で遊んでいる。ブリジットは後から込み上げてきた胸糞悪さに呆れ、後悔する。そしてまたため息を零した。今度は期待を裏切られたことによる落胆ではなく、自分がやった程度の低い行いに対する呆れから零れたものだった。
 そんなブリジットを横目に、シルスウォッドはひとつ咳払いをしてみせる。それから彼は、本題を切り出した。
「ところでだ、ペルモンド。あの論文についてちゃんと説明してもらいたいんだけど。ありゃ、どういうことなんだ。君は、なんで厄介ごとに僕を巻き込んだ?」
 しかしペルモンドの返答は、意外過ぎるものだった。
「論文? 何の話だ」
 この答えに、ブリジットは唖然とした。シルスウォッドも目を見開いて、驚きを隠せずにいた。そしてペルモンド本人も、藪から棒に飛び出た話に驚愕しているようだった。
 それでもシルスウォッドは、ペルモンドを問い質す。問い質すことしかできなかったのだ。「科学誌に投稿したんだろ、論文を。なんて言ったっけ、あれ。えーっと……――ブリジット、覚えてる?」
「アバロセレンよ」
「ああ、そうだ、アバロセレン。そんな名前の新種のエネルギー物質を発見したとか、なんとかで。それで、ペルモンド。君はその論文に、僕の名前も書いたらしいじゃないか。どういうつもりなんだ?」
 しかし、問い質される側のペルモンドは呆然としているのみ。彼は理解できないという顔でシルスウォッドを見返している。けれどもシルスウォッドは追及を止めなかった。
「とぼけた顔をしても通じないぞ、ペルモンド。どういうことなんだ。こっちは勝手に名前を使われて、困ってるんだ。それに、外を見てみろよ。この病院を取り囲むように犇めいている報道陣の姿を。世界中から集まってるって話だぞ」
「……俺も知らない、そんなもの。課題のレポートを書いた記憶はあるが、論文なんて……」
「あーあ、いつものヤツですかぁ。覚えてない、知らない、分からないって。今は、勘弁してくれ。覚えてる限りでいいから、とにかく何かを――」
「……本当に分からないんだ。今、何が起きてる? 俺の意識がない間に、何が起きた?」
 虚ろな目をしたペルモンドは、助けを求めるような顔でシルスウォッドを見つめていた。視線を向けられるシルスウォッドは、何も言えなくなったかのように固まっていた。そして二人を見ていたブリジットも、何も言えなくなる。
 その場において、現状を正確に把握できている者など誰もいなかった。しかしただ一つ、判明した事実があった。
 彼らは全員、何かに巻き込まれたのだ。





 人間とは、常に移ろい続けるものである。それは川を流れる水のように、常に流動し続けていて、一定でない。そして世の中は、めくるめく変化していく。世界中が沸いた世紀の大ニュースも、四日、五日も経過すれば騒ぎの熱は十分の一以下に収まっていた。
 ブリジットは、何不自由ない元の生活に戻っていた。シルスウォッドには少し煩わしい出来事が付きまとっているようだが、それでも彼もまた元の生活に戻っていた。
 しかし、ペルモンドのみ元の生活には戻れずにいた。
「……頼むから、出て行ってくれ」
「嫌よ。絶対に、イヤ。私が外に出るときは、あなたも一緒に外に出るの」
「…………」
「ペルモンド、聞いてるの?」
「ああ、聞いてる。だが今は」
「言い訳はいらないわ、ペルモンド。少し黙って」
 土曜日の真昼。シルスウォッドはガールフレンドとの約束があるため出払っていたが、代わりにペルモンドの自宅にはブリジットが押しかけていた。
「あなたは私と一緒に、外に出るの。外に出て、眼鏡屋に行って、新しい眼鏡を買うの。理解した?」
 先日の一件で、彼の眼鏡は壊れてしまった。最悪なことに彼はどうやらスペアを持っていないようで、退院して以降、ここ数日は眼鏡のない不便な生活を送っているようだ。
 そしてシルスウォッドから聞いた話によると、先日の一件から目を覚まして以降、ペルモンドは憑き物が落ちたかのように常に正気で居るのだという。しかし、彼はあまりにも正気になりすぎたのだ。その結果、ペルモンドという男の狂気は加速していた。
「……今更、必要ないさ。どうせ何も見えないんだ。今だって、真っ暗で何も見えやしない」
「部屋の電気が消えてるし。カーテンも閉め切ってて、真っ暗ですもの。それに瞼を閉じていれば、そりゃ何も見えないでしょうね」
「そういう意味じゃなッ――」
「あーっ! うるさいわねぇ、もう。ああ言ったら、こう言い返して……。とにかく、一緒に来なさい。下で、私の父が待ってるの。いつまでも路上駐車してるわけにもいかないんだから、行くわよ。さぁ、ほら。早く身支度して!」
「だが」
「世間はねぇ、人の顔をまじまじ見たりしないものよ? あなたにとっては意外かもしれないけど。たしかにあなたは時の人で、有名人。だけどね、芸能人とかじゃないんだから大丈夫よ。誰も、いち大学生のことなんか気にしないわ。さっ、自意識過剰に陥ってないで、外に出ましょう。引きこもりは、体にも心にも頭にもよくないわ。生活リズムが乱れて、昼夜逆転したらどうするのよ。ほら、立って」
 電気を消し、カーテンも閉め切り、薄暗い部屋の中。うっすらと埃を被った鋼鉄の作業台と向き合い、小型の電動ノコギリで金属を切り出しているペルモンドの背中に、ブリジットは語り掛ける。しかしペルモンドは聞く耳を持たず、保護メガネの下の瞼は両目共に閉じていた。
 目を閉じた状態で、ノコギリを使うなんて。ブリジットはハラハラとした緊張を感じながら、その光景を見ていた。飛び散る火花に危なっかしさしか感じない反面、彼の手つきは実に手慣れたもので安定感がある。金属板の上に薄く引かれた黒い線を綺麗になぞるように、完璧なラインを描くノコギリを目で追いながらブリジットは、仕方なく話題を少し逸らすことにした。
「……それで、ペルモンド。あなたは何を作ってるの?」
 するとペルモンドは作業を続行しながら、短くこう言った。「秘密保持契約」
「あなたがリボルバーを作っているように見えるのは、私の気のせいかしら」
「…………」
「へぇ、そうなの。あなたって本当に、隠し事ばっかりね。ミステリアスを徹底してるって感じ。それをカッコいいと思ってやってるのかどうかは知らないけど、正直に言うとね、それってすごくダサイわ」
「頼むから、静かにしていてくれ。注意力が削がれる」
「イヤよ、絶対に。私は、喋り続けるから。あなたが作業の手を止めて、こちらを向いてくれるまでは、ずっと」
 ブリジットが態とらしくゴネるような言葉をペルモンドに投げつけると、うんざりとしたような溜息を吐いたペルモンドの手が止まる。電源が落とされた電動ノコギリは机の上に置かれ、金属板は床に落ちた。それから彼は保護メガネを外して、電動ノコギリの真横に置くと、ブリジットのほうに体を向ける。しかし彼の瞼は閉じたままだった。
 ペルモンドはこれといって表情を取り繕うことをせず、腕を組み、ブリジットのほうを向いている。目を開けず、ブリジットを見ようともせず、言葉を発することもしない。
「…………」
 だが彼は、見た感じでは、怒っているわけでも呆れているわけでも、不貞腐れているわけでも、うんざりしているわけでもない。ブリジットを邪魔な存在だと認識しているのは間違いないが、かといってブリジットに特別な関心があるわけでもなさそうだった。
 彼は私を見ていない。ブリジットはそう感じていた。瞼を開けて、その目で見てくれない。心の目も、ブリジットを見ていなかった。
「ねぇ、ペルモンド。あなたは今、何を考え……」
「俺が今何を考え、どういう結論を出したから、こんな部屋に閉じこもっているのか。それに、どうして瞼を開けないのか。その説明を君は聞きたい。そうなんだろう? だが俺は何も話す気はない。それに君が知るべき情報は何もない。何も、知るべきじゃない」
 ブリジットが言いかけた言葉。それを途中で遮ったペルモンドは、抑揚のない口調で淡々とそう言った。そしてブリジットは言いかけた言葉を引っ込め、口を閉ざす。彼女は驚いていた。何故ならば彼女が今まさに言おうとしていた言葉をそっくりそのまま、彼が言い当てたのだから。
 すると組んでいた腕をほどいたペルモンドは、ブリジットの足元を指差した。それから彼は、瞼を閉ざしたままで言う。
「ハンカチ、落ちてるぞ」
 ブリジットは少し俯いて、自身の足許を見やった。しかしハンカチなど落ちていない。
「ねぇ、ちょっと待って。あなた、私をからかってるの?」
 機嫌を損ねたブリジットが、そう言った直後だった。ブリジットが穿いていたスキニーパンツのポケットからハンカチがはらりと落ちる。ハンカチが落ちた場所は、彼が指で差し示した場所だった。
 ブリジットは落ちたハンカチを拾い上げると、ペルモンドの顔を見る。彼も目を開け、ブリジットを見ていた。
「……ペルモンド。今のは、手品か何かのつもり?」
「いいや。肉眼は機能せずとも、視えるものはあるということさ」
 彼は口角が引き攣っているような、薄気味悪い笑みを浮かべていた。それでいて彼の瞳は蒼色ではなく、緑色に輝いている。それも不純物が一切混じっていない、磨かれたエメラルドの宝石のように、生き物でないような輝きを持った緑色の光だった。
 うすら寒い風が背を撫でるような気が、ブリジットにはしていた。目の前に居る男が一瞬で別人に変わってしまったように思えたのだ。そして、それは確信に変わる。
「初めまして、薄命のお嬢さん」
 彼は笑っていた。しかしその“彼”は、ブリジットの知っている“ハスキー”でも“ペルモンド・バルロッツィ”でもない。全くの、見知らぬ別人だったのだ。


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