ウォーター・アンダー・
ザ・ブリッジ

ep.04 - Life like Sucide

 レイモンド・バークリーという男は、そりゃあひどい男だった。ひどくて、とてもミステリアスな男だった。
 あるときレイモンドはルームメイトである私に何も言わず、姿を消した。あのときは六日ほど、彼は帰ってこなかった。とはいえレイモンドが突然居なくなって、三日後に突然帰ってくることは、まあよくあることだった。だから私も、三日目まではさほど心配していなかったんだ。しかし四日目の夜を迎えて、私は初めて不安になった。
 彼がどこかで野垂れ死んでいたら、または殺されていたら、どうしよう。もしそうだとしたら私は、後ろめたさから一生ベッドでぐっすり眠れなくなるだろう。そう感じた私は、五日目の朝に慌ててビルギットに連絡したんだ。そして、その日は一日中ビルギットと共に、レイモンドのことを町中歩き回って探したよ。警察署にも行って、捜索願も出した。
 まあ結論から言うと、捜索の甲斐は空しく終わり、六日目の夕方ごろに酔っぱらって息が酒臭くなったレイモンドが、ふらりと家に戻ってきた。私は驚いたし、当然彼に怒った。ビルギットも、同じだった。けれどもレイモンド・バークリーという男が、反省の色を見せることはなかったよ。
 そのうえ、彼は空白の六日間のことについては一切口を噤んでいた。その間に彼がどこに居て、何をしていたのかなんていうことは、未だに分かっていない。酔っ払っていて記憶がないと彼は笑いながら言っていた。笑い飛ばせる話では、決してないはずなんだがね……。



***



 ハスキーと呼ばれた青年が失踪してから、約二年が経過したころ。ブリジットは必死の受験勉強を乗り越え、無事に医大生となり、父親の小言という障害に邪魔をされながらも、精神科医への道を着々と進んでいた。
「へぇー、クォーターバックをやってたの? だからそんなセクシーな体をしてるのね~。ウフフ♪」
 その頃のブリジットは、ハスキーという青年はティーンエイジャーのときに見た幻だと割り切っていた。彼を探すような真似をすることもなく、ミズ・マックスと連絡を取り合うこともなくなっていた。というよりも、そんな余裕もなくなっていたのだ。
 勉強もそうだが、新しい出会いを探すことに必死になっていたから。素敵な女性と出会ってしまった幼馴染の幸せアピールが、あまりにもウザすぎて。どうしても、あのクズ野郎を見返してやりたくて。
「私の好み? んー……狼みたいな人、かしら。でもあなたは、どっちかっていうと構ってアピールがすごい甘えん坊の仔犬ちゃんってタイプね。体は逞しいけど、心は可愛いっていうか。だけど相手を支配したくてたまらないの。恋愛では、駆け引きが好きじゃない。だから絶対に支配できると確信できる、つまり勝算の高い相手としか付き合わない。弱々しい女性っていうの? つまり……――」
 しかし、どうにもブリジットは男心というものを燻ぶれないタイプらしい。それどころか、男性に嫌われてしまうタイプであるようだ。
 今まさにブリジットと会話をしている人文学部の屈強な男子学生の表情といえば、実に険しい。先ほどまでは上機嫌そうに彼はニコニコとしていたのだが、たった今ブリジットが発した「仔犬ちゃん」というワードが気に障ったようだ。そして彼は中途半端なところで、半ば強引に会話を遮るように「それじゃ、忙しいんでまた今度」とブリジットに告げる。ブリジットは笑顔を浮かべ、彼に手を振った。
 やがて彼の背中が遠のき、完全に見えなくなると、ブリジットは頭を抱えて溜息を吐く。彼女は経験から知っていた。また今度という機会は、二度と訪れないということを。
「……あー。駄目ね、私。でも、私のどこがいけないのかしら……」
 大学に入学して、二年目の夏。西暦四二二〇年、七月四日。カラッと乾いていて、よく晴れていた日。ブリジットは大学構内の食堂で、ひとりポツンと座っていた。
 周りを見渡せば、グループかカップルばかり。ギークボーイたちだけのグループ、チャラチャラ系男子だけのグループ、男女比同等で構内随一のインテリが揃った感じの悪いグループ、それと活発な女子ばかりが揃ったチアリーダー部に、熱いキスを白昼堂々と晒しているカップルが二組と、口説き口説かれの駆け引きをしている男女や男男に女女がチラホラ。ひとりで昼食を食べているのなんて、ブリジットだけだった。
 ブリジットは、一人というのは別に嫌いではなかった。けれども、だ。集団の中で味わう孤立感ほど、不快な感情はない。自分が招かれざる客のように思えて、居心地の悪さが込み上げてきて仕様がないのだ。
 ムッと眉を顰めるブリジットは、大急ぎで大盛りペペロンチーノを平らげる。そうして特段急ぐような用件もないのに、素早く立ち上がって、急いで食堂を後にした。
 そうして彼女が向かったのは、講堂。次の講義にはまだ余裕があるが、居ても立っても居られなかったのだ。
「……そうよ、ブリジット。私は、青春を謳歌するために大学に進学したわけじゃないわ。精神科医になるために進学したの。学生である以上、その本分を全うしなくちゃ。恋愛なんて別に、いつでもできるわよ……」
 ブツブツと独り言をつぶやきながら、ブリジットは大学敷地内の芝生を早足で歩く。イチャイチャしてるカップルを避けて、他人のことなど考えもせずに道を塞いでいるグループを避けて、無心でただ歩いた。そして噴水広場近くのベンチ横を、すたすたと通り過ぎる。
 無心で歩く彼女は、そのときは気付かなかった。ベンチに座り、組んだ足の膝の上にラップトップコンピュータを乗せ、耳栓をして周囲の雑音をシャットアウトして、自分の世界に完全に入り込んでいる、くせ毛な黒髪の学生の姿に。
「えーっと、ペルモンドくん……でいいんだよね?」
「…………」
「ねぇ。君が噂の、素粒子物理学部のブラックホースなんでしょ?」
「…………」
「えっと、その、もしかして人違いー……だったのかな?」
 隣に座り、自身のことを口説こうと試みている女子学生のことなど気にもしていないその学生の名は、ペルモンド・バルロッツィ。素粒子物理学部に在籍している学生である。
「あの、無視までしなくてよくない?」
「…………」
「ねぇ、ちょっと? ……って、あぁ、そういうことか。この耳栓を抜けばー……」
「――……ッ?!」
「驚いた? ごめん、ごめん。それでさ、君がペルモンドくん?」
「…………失せろ。俺に関わるな」
 彼の正体は、かつてハスキーと呼ばれていた青年。彼は意外と近くに潜んでいたのだ。
 そしてブリジットにその事実を告げることになるのは、意外な人物だった。
「まずは落ち着いて。深呼吸よ」
 真夜中の十一時半。非常識といえる時間帯に、エローラ家のリビングに置かれた固定電話――旧時代の遺物を再現して作られたおんぼろの黒電話で、穴の開いたダイヤル板をぐるぐると回すタイプのもの。レプリカだが実際に使える品で、それなりに年季が入っている――が、受話器を取れと促すけたたましい音を鳴らした。
 いったい、誰がこんな時間帯に。うんざりした顔でブリジットは受話器を取り、それを耳に当てる。そうして聞こえてきたのは、聞きなれた友人の声だった。
『そんな悠長なことをやってる場合じゃないんだ! 親父のせいで、僕は家なしになったんだぞ?! とりあえず当面は友人の家に居候させてもらうことになったんだけど、彼は気難しいからそう長くは居させてくれないと思うんだ。だからどうしても次の家を見つけなきゃならないんだけど、それが!』
 そして友人の様子は、冷静だとは言い難かった。
「シルスウォッド。だから、深呼吸。はい吸って、吐いて、また吸ってー……」
『はぁー……。だから、その、僕は』
「あなたのお父さんがあなたに対してやっている嫌がらせと、そのお父さんが行っている違法すれすれの不動産屋への賄賂の話は脇に置いて。本題に戻して」
『あぁ、その。そうなんだ。その、僕が居候させてもらうことになった家の家主、つまり友人なんだけど……』
「あなたの友人が、どうしたの」
『突然、倒れたんだ。それで今、救急車を呼ぶべきかどうかを迷っていて。君にその判断を……』
「倒れたですって?!」
『でも息はあるんだ、かろうじて。意識は、ないけど』
「とにかく救急車を呼びなさい、今すぐに!」
 緊張で上ずっている声色から予想するに、彼はパニックに陥っているであろう。しかし上ずっている声色とは対照的に、彼は妙に緊張感のない間の抜けた喋りをしている。だが、そんな彼が話す内容は穏やかとは言い難い。急を要する事態である。のんきに電話口で、おしゃべりなんぞを楽しんでいる場合ではない。
 しかし、友人はのんきな声でこう言うだけだ。『やっぱり、そうすべきだよね。ははは……』
「笑ってる場合じゃないでしょ、シルスウォッド!」
『でも、彼は、その、それを望まないんじゃないのかなって思うと、いろいろと、その、アレで、そのー……――』
 不可解な友人の言動に痺れを切らし、ブリジットは受話器を叩くように置いて、通話を切る。ガッシャーン! ……陶磁器が割れてしまいそうな、そんな耳障りな音がリビングに響いた。そしてこの黒電話を買った当の本人である、骨董好きな父親リチャードは彼女の横で、目をひん剥く。その父親の横に居た母親リアムは、髪の生え際が後退しつつある父親の広い額を、可哀想にと撫でていた。
 そして黒電話と対峙するブリジットは頭を抱えて、こう叫んだ。
「理解できない。なんなのよ、あいつ! 頭おかしいんじゃないの? あーっ、もう!!」
 そんなブリジットを宥めたのは、母のリアムだった。
「ブリジット。それ以上その電話に八つ当たりをしたらお父さんが泣いちゃうわよ。スロー・ダウン、ウォーゥ・ホーゥ」
「……スロー・ダウン、わたし。はぁ……」
 スロー・ダウン、ウォーゥ・ホーゥ。これはブリジットが幼かった頃からずっと、彼女の母親が言い続けている決まり文句のような、宥めるための掛け声だった。
 スロー・ダウンは「落ち着け」という意味であるが、その後に続く“ウォーゥ・ホーゥ”は何ら意味のない謎の言葉である。言葉というより、ただの効果音といったところであろうか。
 この母親のセリフの後には、復唱をすることが求められた。スロー・ダウン、ウォー・ホーゥ。そのあとには自分の名前もしくは一人称代名詞を付けなければならなかった。そうして一連の言葉を言い切ると、不思議と無意識のうちに深呼吸をしてしまう。それによって自然と興奮が落ち着いてくるのだ。要は催眠術の一種である。神経質で怒りん坊な子供だったブリジットは、幼少期によくこれを言われていたものだ。
 数年ぶりに聞く母親の魔法の言葉に、ブリジットの口から零れてきたのは盛大な溜息。そしてブリジットは、ぽつぽつと先ほどの話の詳細を母親に話しはじめた。
「さっきの電話は、シルスウォッドからでね。それで今、彼って家を出て……まあ、てんやわんやしてるでしょ?」
「そうらしいわね。あのお父さん、厄介なひとだから……」
「そうなの。それでアパートに入居が決まってもすぐに大家に追い出されたりとかして、大変なんだって。それで彼、今は大学で知り合ったひとの家に居候させてもらってるらしいの。それで」
「それで?」
「その家の主の人が突然倒れて、それで救急車を呼ぶべきかどうかって相談を、今、されてたの」
「それは迷わずに呼ぶべきね。選択の余地はないでしょうに」
「でしょう? なのに電話してきたのよ、うちに。理解できないわ」
 うんざりした表情を浮かべるブリジットは、掌を上に向け、お手上げだというジェスチャーをしてみせる。すると彼女の母親は腕を組み、こんなことを呟いた。
「心配ね。その、倒れたっていう人。でも、その人って……誰なのかしら」
 そのときブリジットは、ハッとした。友人が居候しているという、その家の主の情報を聞き出すことを忘れていたからだ。
 しかしその情報は、存外に早く入手することができた。発端は、赤縁眼鏡の友人から掛かってきた電話。電話口に友人は、悲鳴に似た声でこう言った。
『ブリジット、聞いてくれ。昨日の、あの件でさ。今、彼の付き添いで病院に来てるんだけど。……リチャードさんがどういうわけか、す、凄く落ち込んでるんだ。ぼ、僕は声を掛けるべきか?』
 赤縁眼鏡の友人は妙に緊張しており、その会話の中でブリジットは詳しい事情を聞き出すことはできなかった。……が、自分の父親リチャードが絡んでいるらしい。嫌な予感を感じ取ったブリジットは午後の講義をすっぽかし、友人が居るという――そして父親も勤めている――病院に向かった。
 そして病院に到着したブリジットがエントランスで遭遇したのは、予想もしていなかった人物だった。
「……ミズ・マックス?!」
「あら、誰かと思えばブリジットじゃないの。久しぶりね」
 ブリジットが遭遇したのは、相変わらずショッキングピンクのジャケットを愛用している、ミズ・マックスことマクスウェル=ヘザー・トンプソン。そんなミズ・マックスはブリジットに向けて、ほんの少し疲労が滲んでいるように見える微笑みを浮かべる。疲れた顔のミズ・マックスは、ブリジットにこう言った。
「あなたも、お父様から聞かされたのかしら。彼が、倒れたって」
「彼? いえ、父からは何も聞いてませんけど……」
 そう言いながらブリジットは、ミズ・マックスから視線を逸らし、自分の足先を見つめた。嫌な予感が、彼女の肩を叩いたのだ。
「私は、友人から来てほしいと頼まれて、ここに来ただけなので。でも、まさか……」
 ミズ・マックスが言う“彼”と、赤縁眼鏡の友人が言っていた“彼”というのが、同じ人物を指しているのではないかと。そしてその人物が、ブリジットも知っている“彼”なのかもしれない。
 そんな仮説が、頭の中で着々と組み立てられていく。そして纏まった答えになったとき、ブリジットは凍てつく風が傍を通り抜けていくのを感じた。そうして勉強や下らない馴れ合いなどをして目を背けていた現実に、一瞬で引き戻されたのだ。
「……まさか、私の友人が言っていた彼は、あの“彼”なの? 蒼い瞳の、シベリアンハスキー」
 顔を挙げたブリジットは答えを確認するように、ミズ・マックスの目をじっと見る。ミズ・マックスは頷き、そして言った。
「あなたのお父様から、私はそう聞いたわ。若き天才、ペルモンド・バルロッツィ。彼の頭脳が、失われるかもしれないって」





 ミズ・マックスと久しぶりに再会した、その三日後。ブリジットと赤縁眼鏡の友人は、普通に大学へと出向いていた。
「ブリジット。本当に、ごめん」
 友人とブリジットの二人は、二限目と三限目の休憩の合間に大学構内のある場所――ほかに人のいない、薄暗く陰気でかび臭い蔵書館――に来ていた。そして友人は謝罪の言葉を簡潔に言う。それは三日前に起きて今もなお継続中である、一連の騒動に向けられた謝罪だった。
 しかしブリジットは彼を咎めるわけでもなければ、許すこともしない。腕を固く組んだ彼女は、ただ無言を貫いていた。すると友人は沈黙を埋めるように、言い訳めいた釈明を早口で述べ始める。
「その、君が前に言っていた“ハスキー”って人物が、ペルモンドのことだとは思いもしなかったんだ。だって君が言ってた彼は、身寄りがなくて、記憶もなくて、金もなくて、進学のために勉強をする傍らで土木系の肉体労働をしていた人物だっただろ? それに、ここ数年ほど行方不明になってたって、そう言ってたじゃないか」
「…………」
「……で、僕が知っている彼は、超凶悪ともいえる破格の頭脳を持った大天才で、既に成功してる大金持ち。超高級マンションの最上階の一つ下の階に住んでいるようなやつ。金持ちで、気が狂ってて、扱いに困る。でも三歩歩けば直前の記憶を失くすところもある。どうしようもない人間だ」
「…………」
「家の中には劇物やら得体の知れない薬品や器具がずらりと並ぶ実験室があって、巨大なコンピュータ複数台が置かれた暗い部屋もあって、金属を加工するための工房に、書き散らかされた設計図が山積みになっている書斎、更にリビングのテーブルの上には試作品の拳銃が平気で置かれてたり……――とにかく、風変わりなんてもんじゃない。おかしい。狂ってる。どうかしてるんだ」
「……あの、シルスウォッド。少し、あなたも落ち着いたほうが」
「彼は本当に、頭がイカれてる。そして精神が破綻している! なにかしらの過ちを犯す前に、精神病院に隔離されるべきだ。いや、そうなったら僕が家なしになって困るんだが。いや、でもあれは本当に危なっかしくて……」
「シルスウォッド、落ち着いて」
「とにかく、僕は怖いんだよ。もう何もかもが!! 誰かが死ぬところなんて見たくないんだ!」
 声を荒らげた友人の顔は、彼が掛けている赤縁眼鏡と同じ赤に染まっていた。そして彼は引き攣るブリジットの表情を見ると我に返り、今度は顔を蒼褪めさせる。申し訳なさそうに俯いた彼は、さきほど言ったばかりの言葉をまた呟いた。「……ブリジット。本当に、ごめん」
「しょげて、怒って、冷静になって、また凹んで……――あなたも大概に忙しい人ね」
 ブリジットはそう言うと、それまで固く組んでいた腕をほどく。それから続けて彼女はこう言った。
「私は確かに今、すごく不機嫌よ。でも私は別に、あなたに対して怒ってるわけじゃないの。私が今イラついて堪らない相手は、あなたの友人のペルモンド。そしてこの理解不能な状況を整理したくても、その鍵を握っている人物が目覚る気配がないっていう現状に対してよ」
「…………」
「だから、これ以上あなたが謝るのはナシ。あなたが謝ったところで、私には何の意味もないわ。それに、この現状が少しでもマシになるわけでもないし」
 ブリジットの目の前に立つ友人がどれほど謝罪の言葉を積み重ねようが、現状は何も変化しない。それにブリジットが求めていたのは、友人の謝罪じゃない。本当に聞きたかったのは、友人の、そのまた友人の釈明だった。
 しかし、それは手に入らない。何故なら、友人のそのまた友人の意識がないからである。
 また、そのせいでブリジットの父親は、仕事場でも家でも奇声を発している。それもまたブリジットをイラつかせる要因となっていた。
「あーっ、シルスウォッド。その気まずそうな表情で俯くのもやめて。却ってむしゃくしゃして、あなたのその眼鏡をカチ割りたくなるわ」
 事の発端は、数年前。この赤縁眼鏡の友人シルスウォッドが父親と決別し、家を飛び出たことに由来している。
 彼の家は由緒正しい高貴な血筋を持っている(ないし、世界大戦下の混乱に乗じて勢力を拡大した犯罪一族の末裔である)とかなんとかで、その高貴さ(または肥大化したエゴ)に相応しい職に就くことが当前とされていたようだ。それは大きく分けて三択。弁護士、医者、公務員。だが最終的に求められる職種は一つだけ。政治家だ。実際にシルスウォッドの父親は元弁護士で現職の上院議員であり、母親は良くも悪くも有名な元判事だ。それに彼の兄も、ロー・スクールに通う弁護士の卵である(だが落ちこぼれたとかで、現在はジャンキーに成り下がっているらしい)。
 しかし、このシルスウォッドという男は野心とは縁のない人物だ。些細なことでも争いは避けて通りたいタイプなうえ、目立つことは大嫌い(少なくとも、ブリジットの目にはそう見えている)。僕には日影がお似合いさ、と自身を卑下する言葉をよく発しているぐらいだ。それに、ブリジットの前では少々クセのある本性を曝け出している彼だが、それ以外の他者の前ではそうでもなく。普段、彼は人畜無害なお人好しを演じている。そんなこんなで彼は、空気に擬態するのが得意な人物でもあった。
 しかしシルスウォッドの父親は、そんな彼に「自分たちと同じ道を行け」と強要しようとしているらしい。だが、その父親から虐待を受けてきた彼はその要求を突っ撥ねた。そうして彼が出した答えは、学者、それも今の時代においては放棄された学問と言っても過言ではない、考古学の道だった。
 そして選択を誤った――本人からすれば正しい選択をした――彼は勘当されたはずだったのだが。彼の父親は勘当を撤回したがっている模様。追い出した息子を、再び家に呼び戻そうと躍起になっているらしい。
 だが、初めて得た自由を満喫している彼が、元いた監獄に戻ろうとするはずもない。ましてや彼は、キャロラインという素晴らしく奇妙で可愛らしい恋人も手に入れ、人生を心から楽しみ始めたばかり。幸せを手放すような愚かな真似をするわけがなかった。
 そうして父親の要求を彼が無視した結果、彼に齎されたのが逃げ惑うような生活である。
 彼の父親はその職業柄、多方に顔が利いた。そのうえ父親は法律を知り尽くした元弁護士。様々な抜け穴と悪知恵と工夫を活用し、合法の範囲で彼の父親はあの手この手を尽くし、外へと逃げた出来損ないの息子を圧し潰そうとした。息子から住居を取り上げ、生活費を稼ぐ手段を奪い、実家に戻ってくるようにと脅し続けた。だが、それで懲りる息子ではない。父親が狼藉を働くたびに、彼は新たな住居を手に入れ、新たに生活費を稼ぐ手段を得て、脅しに無視を貫いた。そうして彼はまた全てを奪われていった。
 イタチごっこのような日々が一年ほど続いていただろう。初めのころは強気だった彼も、徐々に疲弊。この頃は色濃くなった疲れが誰の目にも明らかな状態になっていた。
 しかし誰も、彼のことを助けられなかった。彼のガールフレンドであるキャロラインも、古くからの付き合いであるブリジットも、ほかの誰もかも。それほどまでに彼の父親の影響力は強かったのだ。
 だが一ヶ月ほど前に転機が訪れ、状況が一変する。同じ大学に通う、違う学部の男子学生が、救世主として彼の前に現れたのだ。
 きっかけは、この蔵書館でのこと。偶然ここで件の天才ペルモンドと鉢合わせたシルスウォッドが、気まぐれで天才に声を掛けたことから全ては始まった。最初、天才は怪訝な顔をして、シルスウォッドのことをひどく嫌がった。けれどもそんな相手の態度が却ってシルスウォッドを焚きつけることとなり、彼はその日からずっと天才に付き纏うようになったのだ。
 初めは、嫌味でスカした態度を取るイヤなやつへの嫌がらせのつもりで始めたこと。ブリジットにいつもしているような揶揄や悪戯で、溜まっている鬱憤を吐き出すための八つ当たりのようなものだった。しかし次第にシルスウォッドは、件の天才ペルモンドと馬が合うことに気付いた。そうして三週間ほど付き纏い続けた結果、奇妙な友情が生まれたのだ。
 そんな折、またシルスウォッドは父親からの嫌がらせを受け、ぼろアパートを強制退去させられる羽目となる。そしてあれこれと考えに考えを巡らせた結果、彼は友人の家に転がり込むことにしたのだ。一ヶ月ほど前に出会ったばかりの、あの天才のもとに。それが三日前のことである。
 件の天才は、シルスウォッドの父親とはまた違う意味で各方面に顔が利いた。どんな企業も、どんな人間も、彼の頭脳と資金を欲しがっていたからだ。媚びへつらうとまではいかないものの、誰も彼に悪いことはしなかった。
 それに件の天才は、若くして既に成功している金持ち。一人暮らしには勿体ないような高級なコンドミニアムに住んでいた。
 そういうわけで、プライドなど欠片も持ち合わせていないシルスウォッドは大荷物を携えて、躊躇うことなく天才の自宅に突撃。彼はへらへらと笑いながら軽いノリで謝り倒して、天才に居候させてくれと頼み込んだ。だが気難しすぎる相手は当然嫌がり、一時間は一進一退の攻防が続いたことだろう。だがどうにかこうにかで“在学中の間だけ”という契約を取り付けることにシルスウォッドは成功した。
 そしてシルスウォッドが「やった!」と喜んだ矢先だ。家主である天才が突然、床に倒れこんだ。天才は意識をなくしていて、呼吸も止まっていた。あまりにも突然に起きた出来事にシルスウォッドは困惑し、固まった。すると人語を話すオオトカゲが混乱するシルスウォッドの前に突然現れ、彼にこう言ったそうだ。
『ペルモンドのことなら、そのまま放っておけばよかろう。数日もすれば、何事もなかったように再び目を覚ますわい』
 その言葉に戸惑ったシルスウォッドは、医学部に在籍するブリジットに連絡し、助言を求めることにした。謎のオオトカゲの存在もイマイチ分かっていなかったが、それ以上に今置かれているこの状況にどう対処すべきかが、あの時の彼には分らなくなっていたからだ。
「……実家を飛び出してから、もう散々なんだ。クソ親父のせいで不動産屋に門前払いされるようになった今、幸運にも居候先が見つかったと思ったら。家主が倒れ、死ぬかもしれないと言われた。おまけにそいつは、倒れる前から頭がおかしな変なやつだった。仮に彼が回復して日常に戻ってきたとしても、そのときは前以上にクレイジーになってるかもしれない。そんなやつと、暮らしていけるかどうか……。それに彼が死んだら、もっと悲惨だ。それこそ親父に捕まって、飼い殺しの未来だけが僕を待つことになる……」
 肩を落とす赤縁眼鏡の友人にかけるべき言葉を、ブリジットは見つけることができずにいた。ブリジットは彼の家族をよく知っているし、彼の置かれている複雑な立場もよく知っている。彼が背負っている重荷および枷がどれほど重いものであるかも、それなりに知っていた。
 しかしどれだけ事情を知っていようと、本人の心を完全に知ることはできない。だが慰めや励ましの言葉がどれほど無責任であるかをブリジットは知っている。だからこそ、救いにならないと分かっているのなら彼女は相手に下手な言葉は掛けない。ただ聞き役にだけ徹するのだ。
「現状はどん底そのもので、ペルモンドはどこまでもおっかないし、おまけにキャロライン、彼女もなんだか霊能力がどうとか、白狼がうんちゃらとか言ってて怖いんだ。だけど実家に戻るわけにはいかないし、君に迷惑をかけすぎるわけにもいかない。……はぁ、僕はもうどうしたらいいんだ」
 重たい溜息を吐く友人は、吐息と共に頭をうんと低くする。そのまま、彼はその場にしゃがみ込んでしまった。それでもブリジットは立ち上がれとも言わなければ、慰めも励ましもしない。その代わりに彼女は、こう言った。
「シルスウォッド。そういえば私たち、ランチがまだよね。だけど、そろそろ昼休憩が終わって、次の講義が始まりそう」
「……あっ」
「私、売店に行ってサンドウィッチか何かを買ってこようかと思うの。あなたも一緒に行く?」
「……あ、ああ。うん、行く」
「じゃあ、立って。ほら、早く」





 それから、十一日がさらに経過した。
 相変わらず、件の天才ペルモンド・バルロッツィは目覚めない。この二週間のうちに彼の心臓は二度止まり、二度活動を再開している。医者たちも、若き天才を決して死なせてはならないと躍起になっている。ブリジットの父親は彼の脳の心配をしている。そしてブリジットは、赤縁眼鏡の友人シルスウォッドのことを心配していた。
「…………」
 西暦四二二〇年、七月二十八日。外は乾いた暑さで満ちており、出歩くのをついつい控えたくなる日の昼下がり。大学をさぼったブリジットは学校に行かず、代わりに昏睡状態が続く天才の病床を訪れていた。
 しかしそれも彼女が来たかったからというわけではなく、彼女の友人であるシルスウォッドにそう頼まれたから来ただけ。正直のところ、今のブリジットはこの部屋で眠り続ける男にさほど関心は抱いていなかったし、心配もしていなかった。というよりも彼に関心を抱いてはいけないと、どこかでブレーキをかけていたのだろう。
 あの時のようにまた彼が消えてしまって、また傷つくのが嫌だったのかもしれない。恩を仇で返されることが怖かったのかもしれない。
「……はぁ。シルスウォッド、大丈夫かしら。お腹が痛くて立ち上がるのも辛いなんて電話で言ってたけど……」
 心にブレーキを掛けていた。それも彼に関心が向かない理由の一つだった。でも一番の大きな理由は、やはり友人シルスウォッドのことだ。ブリジットは、シルスウォッドの落ち込んだ顔をこれ以上は見たくなかったし、彼に暗い将来が訪れてほしくないと心の底から願ってもいた。
 だって彼は物心がついた時からずっと苦労の連続のような人生を歩んできているのだ。彼は今まで散々、人生に不必要な辛酸を舐めてきている。そして未だに家族という闇に縛られていて、明るい未来を思うように描けずにいる。幼馴染であるブリジットはずっと、そんな彼の姿を見続けていた。だからこそ、こう思うのだ。そろそろ彼の許にも、本当の意味での希望や光というものが差し込んでも良い頃ではないだろうか、と。そうしたらあの性格も多少はよくなるかもしれない。
 そしてブリジットは、こうも思っていた。今この部屋で眠っている男だけが、友人を救える。だから彼に死なれては困る。生き返ってもらう必要がある、どうしても。
「シルスウォッド、相当ストレスで胃をやられてるんだわ。だって、もう二週間が経つんですもの。希望的観測を失っていてもおかしくはない。だけど……」
 暗く沈んだ友人の顔を思い浮かべながら、ブリジットが独り言を呟いたその時だった。ベッドに寝ていた男の瞼が、ゆっくりと開いた。
「奇跡が、起きたみたいね」
 開いた瞼から覗く彼のくすんだ蒼い目は、漠然と天井を見つめていた。しかしベッド脇に設置された椅子に座る彼女の存在に、彼が気付いている様子はない。
「…………」
 なのでブリジットはしばらく、息を殺して待ってみた。彼がいつ私に気付いてくれるのだろうか、と。しかしどれだけ待てど、病室の真っ白な天井を見つめる彼の目は動かない。動く気配すら、感じられなかった。
 そこで痺れを切らしたブリジットは、椅子から立ち上がる。それから強引に、彼の視界に入り込んだ。そしてシラを切るような笑顔を浮かべるとブリジットは、彼の顔に自分の顔を近付けるのだった。
「あら、目を覚ましたのね」
 上からまじまじと見つめてくる彼女の視線に、彼は不快感を露わにした。顔を顰める彼に、ブリジットはそっと話しかける。
「どんな感じかしら。死の淵から生還して、二週間ぶりに目を覚ました気分は」
 そう言って、彼女はくすっと笑う。すると彼は、眉を顰めてこう言うのだった。
「……どういうことだ?」
 彼はベッドに横たわっていた彼の体を起き上がらせると、挙動不審に辺りを見渡しはじめた。そして一通り部屋の中を観察し終えると、次に彼の左手首に繋がれている点滴と、指先につけられたパルスオキシメーターを視力の残っていない目で見る。それから彼は、白い壁に蒼白い光で投射されていたデジタル時計を見るなり、困惑したような表情を浮かべるのだった。
「今日は、西暦四二二〇年。七月二十八日よ」
 ブリジットがそう言うと、彼は目を見開く。彼は自身が置かれている状況をまるで呑み込めていないようだ。そこでブリジットは、状況を彼に説明することにした。
「シルスウォッドの話によれば、あなたはいきなり倒れ込み、気を失ったそうよ。だから彼が慌てて救急車を呼んだの。そしてあなたはこの病院に運び込まれたってわけ。これで二回目ね、あなたがこの病院に搬送されるのも」
「……」
「救命医が言うには、あなたは突発性の脳出血を起こしていたみたい。ただ、原因がはっきり分からないって。それにしても、死んでもおかしくない……というか、ほぼ死んでいたに近い状態にあったっていうのに、持ちこたえたどころか、全てが嘘だったみたいに快復しつつあるなんて……――あなた、どんな体をしているのよ?」
 彼女の話に、彼はますます混乱していく。自分の置かれている状況に対しても、そして目の前に居る“彼女”という存在に対しても。
 すると彼はほんの少しだけ、首を傾げる。彼は彼女に対し、思いもよらぬ質問をぶつけたのだった。
「……ところで、お前は誰だ?」
 彼女を見つめる彼の目は、まるで初対面にも関わらず馴れ馴れしく話しかけてきた要注意人物を見るようなものだった。
「……あぁ。そういえば自己紹介が、まだだったわね……」
 なんとなく、だけど。こうなるだろうと予感はしていた。
 彼女は自分にそう言い聞かせ、笑顔を取り繕う。そして彼女が思い出すのは、彼と初めて出会った時のこと。
 二年近く前のあの日。父親に連れられて訪れた病室に居た、呆然とした顔の青年。自分のことが誰かも分からず、自分の置かれた状況も分からず、代わる代わる訪れる医者たちに敵意を見せていた、傷だらけの……――
「私は、ブリジット。ブリジット・エローラよ。よろしくね、ペルモンド」
 彼女は彼に手を差し出して握手を求めた。しかし彼は応じない。彼のくすんだ蒼い目には、彼女に対する疑念が宿っていた。彼女は気まずそうに手を引っ込めるが、それでも浮かべた笑みは崩さない。
「私、実はあなたと同じ大学に通ってて。私は、医学部なんだけどね。それで私は、あなたの友人であるシルスウォッドの友人で、ここの病院の精神科に勤める脳神経内科医リチャード・エローラの娘でもあるの。多分だけど、覚えているでしょう? きっとあなたのことを昔、父は質問攻めにしたと思うから。……その節は、本当にごめんなさいね」
 二年ぶりの再会だった。そして顔を合わせるのは、百数回目。しかし彼は、彼女の存在を忘れてしまっていた。


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