ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ

Curse with Amnesia

「そうよ、私は自称世界一のクレヅキ・ヤヨイのファンなんだから」
 鼻息を荒くさせたブリジットは、友人――乱れている枯草色の髪を気にも留めていない様子の、赤縁眼鏡を掛けた優男――に熱弁していた。熱弁しているのは、二〇〇〇年以上も前に死んでいる女流小説家クレヅキ・ヤヨイが書き遺した作品についての愛。しかし話を聞かされている友人は、然程その話題に関心を示していないように見えていた。
 だがそんなことなどお構いなしに、ブリジットは話を続ける。
「彼女が遺したものの中でも一番好きな作品が、ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジなの。心に重大な傷と欠陥を抱えている数学の天才で、明るくて社交的な人物なように見えても、どこか冷めていて刺々しい心を隠せてないレイモンドと、そんな彼にどんなに虐げられても、直向きに寄り添おうとするビルギット。それと、レイモンドに振り回されてビルギットに挟まれて、てんやわんやのアーサー。この三人の不思議な関係が、もう堪らないのよ!」
「へぇー、そうなんだ……」
「物語はレイモンドの自殺っていう悲劇的な終わり方をするんだけど、そのもやもやが残る終わり方は、他のヤヨイ作品にはなくてね。レアなのよ」
「……へぇー」
「それにウォーター・アンダー・ザ・ブリッジは、書き方が独特なの。他のヤヨイ作品は、常に誰でもない第三者の視点、つまり神の視点っていうもので描かれているんだけどね。あの物語にだけは、ストーリーテラーが存在するの。それがレイモンドの家にわけあって居候しているビルギットの友人、考古学を専攻する大学生アーサー・シスルウッドなの。そもそも、ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジっていのは、大学教授になったシスルウッドが、学生に自分の思い出話をするっていう設定で書かれてる話で、その彼の語り口っていうのがとても憎めなくてね。そこが、すごく好きなの。キャラクターが持ってる穏やかな性格が、描写もなしに伝わってくる文章って感じだったから。けど、世間にはその点がウケなかったみたいだけどね。でも私はすごく好き」
「へぇー。その話を読んでみたいとは全くもって感じないけれど、そのシスルウッドっていうキャラクターには凄く親近感を覚えるね。僕と名前が似ているし。それに、考古学教授か。憧れるねぇ……」
 ブリジット・エローラ、十七歳になったばかりの夏。そろそろ大学受験を視野に入れ、人生設計を立てなければいけない年齢を迎えていた頃。全てはその時に、狂い始めた。
 学校の帰り道を、並んで歩いて共に帰っているのは、ブリジットの唯一の友人。あだ名が“考古学博士”の幼馴染、シルスウォッドだ。
 母親同士の仲がよく、そして家も近所であり、同級生であったこともあって、二人はよく一緒に行動をしていた。登下校も、いつも一緒だった。十歳までは、お互いに読み終えた小説を交換しあったりなんかもしていた。十二歳になって趣味趣向も変わり、本の交換はしなくなったが、それでも一緒にいることが多かった。
 それには、理由があった。二人とも、他に友人と呼べる友人が居なかったのだ。どちらも、俗に“校内の底辺アウトサイダー”と呼ばれる部類に属していたのだから。
「それよりもさ、ブリジット。進路の件、どうなの?」
「どうって……どういうこと?」
「君、本当に精神科医になるつもりなのかい?」
「ええ、そう。でも脳神経内科医はイヤ。今どき、働き口が少ないから。……脳神経外科は、ポピュラーなんだけどね。脳神経内科って、それ単独ではあまり存在しないから。だから父さんも、脳神経内科医だけど精神科所属なわけだし」
 シルスウォッドは、考古学が好き。世界中の神話、伝承、古代文明の跡などなど……そのロマンに、取り憑かれていた。つまり、オタク野郎だったのだ。
 そしてブリジットの趣味は、人間観察。将来の夢は、精神科医。それでいて彼女の父親は、国内でも特に有名な大型病院の精神科に勤める脳神経内科医。彼女自身が根暗でシャイというわけでも、外見がきわめて醜いわけでも何でもないのだが、そういった事情から周囲の人間に気味悪がられていたのだ。
 サイコなブリジットに近付くな。迂闊に近寄ると、心を全部見透かされるぞ! ……などという酷すぎる噂も、彼女の背中には付き纏っていた。
「それに、私は知りたいの。人間のどこに“心”が存在するのかを。心は、心臓に宿るのか。古代の人たちがそうであると信じていたように、魂と呼ばれるものがあって、それが頭に宿っているのか。それとも医学が証明したように、心というのは脳内物質が見せるまやかしなのか……。だから」
「あー、ブリジット。もうやめてくれ。君のサイコな話は、僕にはよく理解出来ないよ。それよりもさ、あの車高の低いクラシックカーの窓から手を振ってるのって、君のお父さんじゃないのかい?」
 うんざりした顔で、シルスウォッドが指を差すのはブリジットの後ろ。興奮で頬をほんのりと赤くさせているブリジットは、そのままの顔で振り返り、後ろを見る。そこにはシルスウォッドが言っていた通り、見覚えのある真黒なクラシックカーが停まっていた。そして運転席側の窓からは、ブリジットの父親が手を振っている。
「あぁ、本当だわ。私の、父さん……」
 父親の顔を見るなりブリジットからは、興奮の熱が引いていく。代わりに、底冷えするような寒気が彼女の肩を包んだ。
 なんだか、嫌な予感がする。ブリジットは、そう感じていた。なぜなら彼女の父親が、いやにニコニコとしていたからだ。それに嬉しいことでもあったのか、なんなのか。父親はやけに興奮している様子で、顔も耳まで真っ赤だ。
 こういったシチュエーションを、ブリジットは何度か経験している。そして彼女は知っていた。こういうとき、父親が喜々として報せてくれるものは、大抵ロクでもないことだと。
「……なんでだろ。すごく、嫌な予感がするのよねぇ」
 ブリジットが六歳の誕生日を迎えた日。やたらニコニコとした笑顔を浮かべていた父親が、彼女に見せてくれたもの。それは、虫かごの中に居たカブトムシ。焦げ茶に光るカブトムシのその羽に、ブリジットが思い起こしたのは幼い日のトラウマ。自分に向かって襲いかかってきた、ゴキブリの黒く光る姿だった。嫌な記憶を思い出して号泣したブリジットに、それでも父親はカブトムシを見せてきた。それ以来、ブリジットは全ての昆虫に拒否反応を示すようになった。
 そしてブリジットが一〇歳だった夏の、とある日。あのクラシックカーに乗せられて父親に連れて行かれたのは、気味の悪い博物館だった。そこで見せられたのは、ミイラのレプリカや蝋人形の数々。薄汚い包帯、しわしわになった土気色の皮膚、浮き出ている骨……――レプリカだと分かっていても、それらは見るに堪えないリアルさだった。屍に耐性のない――ゾンビ映画すらまともに見ることが出来ないような――人間が鑑賞したのであれば、トラウマ認定は必至だろう。そしてブリジットは、その耐性を持ち合わせていなかった。未だにあの日のミイラたちは、ブリジットの悪夢に登場している。
 それ以外にも、笑顔の父親が見せてくれたとんでもないものたちは、他にも色々ある。肉食恐竜の糞の化石、よく分からない古文書のレプリカ、ゾンビやらヘビやらコウモリやらが登場するパニック映画、解剖学のヴィーナス、その他諸々。
 ……そういうわけで、ブリジットは嫌な予感をひしひしと感じているのだ。さて、今回見せられるゲテモノは、どんなものなのだろうか、と。
「君のお父上は、風変わりな方だからねぇ。お土産話、今度聞かせてくれよ」
 ブリジットの背を押す赤縁眼鏡の友人は、いやに和やかな笑顔を浮かべていた。しかし和やかな笑顔とは裏腹に、その目の奥には不純な好奇心が輝いている。どうやら彼は、ブリジットが酷い目に遭うことを期待しているようだ。
「本当に、あなたって人は最低よね。だから私の他に、友達が出来ないのよ」
 顔を顰めさせるブリジットは、横目にシルスウォッドを睨みつける。それでも依然笑顔を浮かべているシルスウォッドに、彼女は溜息を零した。
「…………」
「なんだよ、ブリジット」
「……何でもないわよ、別に」
 そしてブリジットは、クラシックカーからこちらを見ている父親に手を振る。今からそちらに向かう、という意を身振り手振りで父親に伝えると、彼女は再び重たい溜息を吐いた。


* * *



 さきほども言ったように、私とレイモンドはケンブリッジの小さな書店で出会った。そこは私の叔母が営んでいた書店でね。私は当時、そこで手伝いをしていた。それで彼は、本を探しにきていた客だった。
 彼は本棚を舐めるような目で見まわしながら、狭い店内を歩き回っていた。けれども一向に彼が本を手に取る気配はなく、私は心配になり彼に声を掛けたんだ。お探しの本は何ですか、と。
 すると彼は、わけのわからない単語を言った。うんたら、かんたら。まあ多分、あれは数学界隈の専門用語か、何かだったんだろう。けれども、そこの書店は叔母の趣味であるヒロイックファンタジー小説ばかりを揃えていた、マニアだけが通う書店。彼が望むような学術書は、あいにく取り揃えていなかったんだ。
 だから私は、彼に言った。うちにそんな本はない、他の書店を当たってくれ、と。それから私は紙とペンを取り出して、彼が望んでいるような本を揃えていそうな近所の書店の名前と住所を、思いつく限り書いて、それを彼に渡した。すると彼はどういうわけか、腹を抱えてゲラゲラと笑い出したんだ。噂どおりの奴だ、と言いながら。
 それから彼は散々笑って目から涙まで流したあと、自分の名前を名乗り、本当の要件を伝えてきた。俺はレイモンド・バークリー。お前の 友達だちだっていう東洋人の女から、お前を俺の家に住まわせろと頼まれたんで、取り敢えずお前はどうするのかを訊きにきた、ってね。
 それは急な話だった。当然、私の理解は追いつかなかった。東洋人の女というのが、私の友人であるビルギット・メイ・アルドリッジだということは、すぐに分かったのだがー……――彼女が何故、そんな頼みごとを見ず知らずの他者にしたのかがよく分からなかったんだ。
 そのときの私というのは実は家なしで、書店を営む叔母の家に居候させてもらっていた身。当時の私はまさに、次の住み処を探していたところだったのだ。
 父親と仲が悪かった私は、大学入学を機にロンドンの実家を飛び出して、進学した大学の近くにあるボロアパートに越し、暫くは快適な一人暮らしを楽しんでいた。だが、私の父親というのは非常にメンツを気にする人でね。ひとり息子が家を出たことを、父親は許さなかったわけだ。
 父親は私が住んでいたアパートの大家を買収すると、私をアパートから追い出させた。金は無駄に持っていた家だし、なにせ父親の職業は法に詳しい弁護士だ。法の抜け穴を潜り、大家を買収することくらい、容易いことだったのだろう。そうして学生だった私は、ある日突然ホームレスになった。
 それからは父親と犬猿の仲である叔母の家に居候しながら、次の住み処を探して回っていた。毎日のように不動産屋に顔を出しては、貧乏学生でも払えそうな家賃の家を見つけてもらい、入居手続きを進めようとしたら、ロンドンにいるはずの父親の邪魔が入って反故にされ……毎日毎日その繰り返しで、疲れ果てていたんだ。
 そんなときに、レイモンドは現れたんだ。裏にある事情はよく理解出来なかったが、彼はとにかく魅力的なものを携えて、私の前に現れてくれたんだ。見ず知らずの男と同居という条件付きだったが、叔母にこれ以上迷惑を掛けるわけにはいかなかった私は、ビルギットに心の中で感謝し、彼に言った。宜しくお願いします、と。
 その時の私は、少なくともレイモンド・バークリーという男に悪い印象は抱いていなかった。なんてったって彼は、ミステリアスな恋愛映画に出ていても違和感はない、ハンサムな色男だったからね。すらっと細くて背も高く、癖っ毛なブルネットの髪に精悍な眉と、優しげな垂れ目に、透き通った深い緑色の瞳。きっと女性にモテるんだろうな、という容姿だったよ。事実、彼の後ろには多くの女性が常に付き纏っていたし。そんなモテ男が歪んだ性格をしているわけがない、と私は勝手に思ってしまっていたんだ。
 それから私はビルギットに連絡をし、事実の確認をした。彼女は電話越しに頷き、伝えるのが遅れてすまなかったと言い、笑った。だから私は安心して、その日の夜に荷物を抱えて彼の家に転がり込んだわけなんだがー……――まさかその夜に、ベッドに引きずり込まれて散々な目に遭わされるとは、夢にも思っていなかった。
 ビルギットはとても重要なことを、私に教えてくれていなかったんだ。……いや、彼女は知らなかったのかもしれない。
 レイモンド・バークリー。彼はバイセクシャルであるうえに、性に対してあまりにも奔放すぎる男だった。



* * *



「同世代だからだ。仲良くしてやってくれないか?」
 ブリジットの父親は、さらりとそう言った。
「はぁ? ちょっと、なにそれ。父さん、本当に意味が分からないんだけど」
 その口ぶりは、まるで幼稚園や保育園に通う年頃の子供に対するもの。しかし十七歳であるブリジットは当然、困惑した。
「同世代っていっても……男子、なんでしょう?」
「ああ、男の子だ。とはいえブリジット、お前には男の子の友達しか居ないだろう?」
「え、えぇ、まあ。シルスウォッド。彼はたしかに、友達。というか、幼馴染。それに、友達らしい友達は彼ひとりだけ……」
「だから、大丈夫だと思ったんだ」
「いや、でもね。父さん。その人は記憶喪失で、看護師や医師からシベリアンハスキーとかシェパードとかドーベルマンとか、軍用犬や警察犬とかで活躍している犬種の名前で呼ばれているんでしょう?」
「父さん的には、シベリアンハスキーが一番しっくりくると思っているがね。彼の蒼い瞳や警戒心の強い性格は、まさにシベリアンハスキーにそっくりだ。そういえば看護師のミロスくんは、シベリアンハスキーから転じてアラスカの英雄犬、バルトという名前で彼のことを」
「そういうことを言ってるんじゃないわよ、父さん! 私は、とにかく、そんなことを急に言われても困るっていうことを……――」
 そんなこんなで、ブリジットが連れてこられたのは父親の職場。救命救急センターの病棟、その廊下。とある部屋の前で、父娘は小競り合いを起こしていた。
「まあ、誰しも知らない人と会うのは怖いものだ。特に敏感なティーンエイジャーとなれば、尚更にだ。だが、これもいい経験だとは思わないかね、ブリジット」
「いや、あのね。父さん、だから私は」
「精神科医になりたいんじゃなかったのか、ブリジット。経験は早いうちから積んでおくに、越したことはないぞ。お前には医者の娘だという特権が幸運なことにあるのだから、その特権を十分に行使するのも」
「だから! そうじゃないって、言ってるの! 私の話を聞いて!!」
 ブリジットはあのクラシックカーの中で、父親が語るその青年の話を延々と聞かされた。
 昨日の真昼。精神科に勤める同僚たちからの冷めた視線に耐えかね、自分のオフィスからそそくさと逃げ出した父親が、売店で購入した大量のサンドイッチを手土産に、忙しき救命救急センターに顔を出した頃。それと同時に薄汚れたトラックがやって来て、傷だらけの青年を運びこんだそうだ。
 トラックの対応をした際に、運転手から事情を聞いた救命医いわく、その青年は熱射を受けて陽炎も立ちのぼるコンクリートの道路に、ひとり倒れていたのだという。それに青年が倒れていた場所は、滅多に人も車も通らないと噂される、とうの昔に廃棄された旧国道。そこをケープコッドの港からボストン市街地へと向かうトラックが偶然通りかかり、運転手が行き倒れていた青年を拾ったらしい。それから運転手は道すがらにあった救命救急センターに青年を託して、自分は仕事に戻っていったそうだ。
 そして青年は“ボロボロ”と例えるのが相応しい状態だったそうだ。意識はなく、呼びかけても応答は無し。痩せていて、衰弱していて、下腹部には銃創。幸いにも体内に弾はなく、運び込まれた時には既に血は止まっていたそうだ。そうして処置は問題なくスムーズに終わったが、青年が身分を証明するものを持っていなかったこと、それと著しく低下している体力や傷の具合などを鑑みて、青年は病棟へと移されたという。
 そして、問題はそこからだった。
「だって、父さんすらお手上げだっていう人を、私がどうしろっていうの? 話を聞きだすって、一体どうして? 聴取なら警察のひとに任せればいいじゃない」
「その警察が、まだ来てくれないんだよ……。明後日の午後三時ぐらいに、巡査が話を聞きに来るらしいんだが。警察署からの連絡がなくてなぁ」
「だっ、だからって、普通は娘を呼ぶ? 違うでしょ、どう考えても!」
 青年が目覚めたのは今朝のこと。そして開口一番に彼が言った言葉を、誰も理解出来なかった。誰にも聞き覚えがない、未知の言語だったのだ。偶然、その言葉を聞いた看護師――英語、中国語、ドイツ語、ポルトガル語、スペイン語の五カ国語を操る言語学の秀才――すらも、首を傾げさせたそうだ。その言葉は、まるで歌うように流れる流麗な響きだったそうだが、その意味は誰にも理解出来なかったという。
 だが幸いなことに、その青年はこの国の公用語である英語も扱えたという。青年は看護師の目を見て、英悟でこう言いなおしたそうだ。
『どうして、俺は生きているんだ。それに、ここは何処なんだよ!』
 それから青年はひどい頭痛や、その他不定愁訴を訴えはじめた。光が眩しい、眩暈がする、吐き気もする、気持ち悪い、とにかく、あぁ……――。そうして呼び出されたのが、暇を持て余していた脳神経内科医。つまりブリジットの父親、リチャード・エローラ医師だったのだ。
 ブリジットの父親は日中ずっと、この青年と居た。彼から話を、根掘り葉掘り聞き出していた。なんせ「給料泥棒」と馬鹿にされる存在である脳神経内科の臨床医は、これといって仕事もなく、暇であるからだ。しかし青年の口は存外に固く、そして記憶も曖昧。とにかくブリジットの父親は、手を焼いていたのだ。
 父親が青年から辛うじて聞き出せたのは、ほんの数項だけ。自分が誰だか分からない、つまり記憶がないこと。多分、家族はとっくに死んでいて、天涯孤独の身であること。何かを見ようとすると、ひどい頭痛に襲われること。光が過剰に眩しく感じられること。周囲の雑音が全て頭の中に流れ込んできていて、とにかく煩いしイライラすること。だから静かな場所に行きたい、もしくは……
『銃をくれ。この頭を、ぶち抜くから。そうしたら、永遠に静かでいられる』
『君は、病院で自殺する気か!? 命を救うことが仕事である医者が、そんな要求に応えられるわけがないだろう?!』
『じゃあ、ナイフ。メスとかでも、耳の穴からぶっ刺せば』
『駄目だ、駄目! 絶対に、駄目だ。それにしても君は、なんて恐ろしいことを考えているんだ……!!』
 とにかくブリジットの父親は、その青年に手を焼いていたのだ。
 そうして父親は青年の監視を手近なところに居た看護師に任せると、自分の娘、即ちブリジットを迎えに行った。もしかするとブリジットなら、何か打開策を見つけてくれるかもしれないという一抹の希望を携えて。
「ブリジット。お前は、素晴らしい娘だ。父さんには分かる。この病院に居る頑固で了見の狭いサイコドクターどもなんぞより、お前のほうがよほど優れた観察眼を持っていると。だから」
「おだてても、私には無駄よ。私は、嫌だって言ったら絶対にやらないんだから」
「本当に、頼む。頼んだぞ、ブリジット」
 しかし彼女の父親は、戸惑うブリジットの言葉に耳を貸さない。父親は扉を左にスライドして、開けた。そうしてブリジットが目にしたのは、夕方だとしても暗すぎる鬱々とした室内だった。
 カーテンは、全て閉まっている。けれども窓は少し開いているのか、ときおり風が吹きこむことにより、外から光が僅かに差し込んだ。そしてベッドの上には、顔を俯かせ、膝を抱えるように座っている青年が居た。
「詳細は、さっき言った通りだ。彼は何も、覚えていなくてね。自身の名前も、過去も。そういうわけだ、ブリジット。暫く、彼の様子を見ていてくれ」
「えっ。父さん、それって……」
「父さんは、彼を担当した研修医とその指導医から、話をちょーっとだけ聞いてくるから。すぐ戻る。だから、な?」
 それだけを言うと父親は娘を置いて、いそいそとその場を立ち去った。そして、扉が閉められる。暗い部屋にはブリジットと、俯く青年の二人だけが残された。
「あっ、父さん。うそでしょ、そんな……」
「……化け物の居る檻に、娘を置き去りにするたぁな」
 おろおろと挙動不審な振舞いを見せるブリジットは、呆然と閉ざされた扉を見つめることしか出来ない。するとそんなブリジットに、青年が声を掛けてきた。
「見上げた親父だ。怯える娘の姿も、あの目には見えていないのかな」
 乾いた笑いを含んだ彼の声には、年齢に見合わないような落ち着きがあった。どっしりと構えているような言葉や声色には、何も覚えていないという恐怖や緊張は、どこにも見受けられない。その声からは、まるで彼の置かれている状況が感じられなかったのだ。
 そのような青年の声に、身構えていたブリジットはすっかり安心してしまった。
「見上げた、親父。……まあ、たしかに、そうね。うちの父さんは、本当にひどい人よ。トラブルに巻き込まれるのは、あまり好きじゃないんだけど……」
 扉のほうを向いていた体を翻し、ブリジットは青年のほうに向く。顔を上げていた青年と、ブリジットは目があった。
「あっ……」
 その瞬間、青年の顔に犬の面影が重なったような気が、ブリジットにはした。
「……どうか、したのか?」
「シベリアンハスキー! あなた、本当にシベリアンハスキーみたいな人ね」
「……また犬の話かよ」
 そう呟いた青年は、再び顔を俯かせる。そしてベッドの上で胡坐を掻くと、彼はほんの一瞬だけ腹を庇うような仕草を見せた。きっと下腹部にあるという銃で撃たれた傷跡が、痛んだのだろう。それから彼は、居心地が悪いとでも言いたげな表情を浮かべ、眉を顰めた。
「ウルフ、ウルフドッグ、シェパード、ドーベルマン、シベリアンハスキー、その他諸々……。どいつもこいつも、犬の名前で俺を呼ぶ。どうしてなんだ。俺はそんなに……犬、なのか?」
 青年の目は、くすんだ蒼色をしていた。たとえて言うならその色は、曇り勝ちな空の色。水色とも灰色ともつかない、ほの明るくて、くすんだ色合いのペールブルー。まさにシベリアンハスキーが持つ、蒼い瞳と同じ色なのだ。
 しかし青年の顔が犬、または狼のようであるかといえば……そうでもなく。重たそうな二重瞼に、眠そうな垂れ目、厚ぼったい涙袋。高い鼻筋は鷲の嘴のように、鉤に似たかたちをしている。そんなエキゾチックな顔立ちからは、ワニやヘビ、トカゲといった爬虫類のようなギラついた気配さえ漂っている。
 けれども、何故だか彼の雰囲気は“犬または狼”それか“シベリアンハスキー”なのだ。
「ええ。狼と犬の混血、って雰囲気。それに一番の理由は、その蒼い目ね。シベリアンハスキーの、あの綺麗な瞳にそっくり」
「狼と、犬の、混血……?」
「それに、少なくともあなたは、猫って雰囲気じゃないわ。犬系……――いや、狼系男子って感じかしらね。それも一匹狼」
「嬉しくない言葉だよ、まったく。犬は嫌いなんだがね。唸られるわ、吠えられるわ、おまけに追い回されて噛みつかれるわで……」
 そう言って、青年は溜息を吐く。彼は再び顔を俯かせ、瞼を閉ざすと、眉間に皺を寄せた。それから彼は、額に手を当てるような仕草を見せる。ブリジットは彼のそのような行動から、ある仮説を立てた。
「ねぇ、あなた。もしかして、だけど……」
 カーテンが全て閉まっている、この暗い部屋。電気すらも、点けられていない。そして青年は、目を開けているのが辛そうだ。それにブリジットの父親は、道中の車内でこう言っていた。

 彼はどうやら、何かを見ようとするときに、ひどい頭痛に襲われるらしい。
 それと、光が過剰に眩しく感じられるそうだ。
 詳しいことは検査をしてみなければ分からないが、そうだなぁ。脳がダメージを受けていることは間違いないだろう。それかもしくは、定型発達ではないのか、はたまた……――

「あなた。目、見えてないでしょ。全盲ってほどじゃないけど、見えてない」
「まあ、そうだな。でも、それが何だって……」
「私のお父さんとか、他の病院の先生とか看護師さんとかに、そのことをちゃんと伝えたの? 眼科で検査とか、してもらわなきゃ。眼鏡とかコンタクトレンズとか、必要に応じて作ってもらわなきゃ」
 ブリジットがそんなことを言うと、彼は俯かせていた顔をまた上げて、ブリジットを見る。そして彼は呆然とした顔で、固まった。
「…………」
「考えたこともなかった、っていう顔ね」
「ああ。考えたことも、なかった。一度も……」
 ブリジットの指摘に、青年は苦笑いを浮かべた。彼の視線は左下に移り、ブリジットから逸れる。そのとき、ブリジットは得体の知れない不快感が、何処からか込み上げてくるのを感じた。
「あーっと、その……。ところで私はあなたのことを、どういう名前で呼べばいいの?」
 この場から、居なくなりたい。どういうわけかブリジットは漠然と、そう感じていた。だがその感情は、ブリジットのもののようで、彼女のものではない。その場に満ちている雰囲気が、人を錯覚させているだけなのだ。
「ここの看護師連中と同じように、好きに呼べばいいんじゃないのか」
「あなたは、どう呼ばれたいのかっていう話よ」
「俺か? 別に、どうだっていい。取り敢えず犬の名前には全部、反応を返しているから」
「そうなの? じゃあ、ウルフって呼ばせてもらうわ」
 人間とは、共感する生き物である。
 何の本かは忘れてしまったが、ブリジットにはそのような言葉が書かれた本を読んだ記憶があった。たしか、その本にはこう書かれていた。人間は共感する生き物で、相手の感情を敏感にくみ取ってしまうのである、と。そしてくみ取った相手の感情を、自分の感じているものだと勘違いしてしまうらしい。
 つまり、この場から居なくなりたいと感じている心は、ブリジットのものではなく、青年のものなのだ。
「ウルフさんって、普通に存在する名前だしね。ほら、小説家のヴァージニア・ウルフとか、オリヴァー・ウルフ・サックス医師とか。私、ヴァージニア・ウルフの小説、大好きなの。ダロウェイ夫人が彼女の作品の中でも一番好き。それにサックス医師の本も、もう二千年以上も昔のものだけどとても興味深くて、それで……――いえ、この話はやめておきましょう。長くなるし」
「そうだな。長話は聞きたくない。ご遠慮いただけるとありがたいよ」
 気丈に、飄々と振舞っているように見える彼だが、彼が見せる微妙な仕草や表情の中には、居心地の悪さなどが顕れていた。
 まず、視線が滅多に合わない。合ったとしても、彼はすぐに逸らしてしまう。下を向いて、瞼を閉ざしてしまう。視力の問題を込みにしても、その頻度は異常だ。
 そして今の彼は、明らかに心を閉ざしている。ブリジットが「どういう名前で呼べばいいの?」と質問をした瞬間に、彼は腕を組んだからだ。
「あー……こう言っちゃあなんだけど、あなたって自分のことを顧みない性格でしょう? 日頃から自分自身に頓着していないし、非常時は先陣を切って行動するタイプね。誰もが求める、典型的なヒーローって感じかしら。無謀な賭けにも平気で踏み切れるし、自己犠牲的な傾向もある。アクション映画や、コミックの主人公に多い気質といえるわね」
 腕を組むという行為は、心理的な防御を意味するボディーランゲージだ。それに気拙そうな苦笑いを浮かべている彼の表情も併せて考えるに、その仕草は「俺にあまり構うな」という意思を暗に示しているものなのだろう。
 意識的にやっていることなのか、はたまた無意識なのかは、さて措き。
「まあ、こんな風にいえばカッコよく聞こえるものだけど……――その実態は、希死感の狭間で常に揺れている。英雄的にも見える無謀な行動は、自殺願望の裏返し。記憶喪失なんていう状態に陥っているあたり、あなた相当に酷いことをやらかした、または酷いことをされたんじゃない?」
 しかし、拒絶を示されている状況であるからこそ、離れてはいけなかったりするものだ。それに、ブリジットはこう思う。こういう人物は一人にしては駄目、放っておくのも駄目だ、と。
 父親が、用を済ませて戻ってくるまで。話題は何でもいい。会話を続けなければいけないような、そんな気がするのだ。

 一方的に話しかけるだけのものだとしても、沈黙だけは絶対に駄目。
 理由は分からないが、とにかく駄目なのだ。

「脳神経内科医である私の父は、あなたの記憶喪失を怪我とかドラッグとか、そういった脳の損傷と関連付けたがるでしょうけど、私にはそうじゃないように見える。心理的なものからくる現実逃避だと、私は思うの」
「そんなことを訊かれたところで、俺は知っての通り記憶がない。まあ、たしかに現実逃避かもしれない。頭を殴られたか何かで、おかしくなったのかもしれない。けれど、それよりも今は」
「はやく退院したい、でしょ? それは、私にはどうすることもできないわ。だって私、医者の娘ってだけですもの。それに記憶喪失の未成年っていうのは、色々と手続きとかあって、面倒臭いってウワサよ。多分イヤでも、あと三日くらいはこの部屋に居ることになると思うわ」
 腕を組んだ姿勢はそのままに、青年は顔をまた俯かせて目を瞑った。その顔に表情はなく、どこまでも真顔。もはやブリジットの話を聞いているかすらも、怪しい。
 だがそれでも、彼女は構わずに喋り続ける。
「警察とか、児童保護局の人とかが来て、失踪届けが出されていないかとか、そういったキーワードから、身寄りが居るか居ないかを徹底的に洗うみたいだし。で、引き取り先が見つからなければ、孤児院とかに送られるらしいわ」
「…………」
「とはいえあなたぐらいの年齢だと、グレーゾーンね。場合によっては保護観察処分みたいな扱いになって、児童保護局の監視の下、一人暮らしになるケースもあるみたいだし。んー……まあ要するに、仮釈放になった囚人と同じような扱いってことね。保護観察官は、警察官じゃなくて児童保護局のひとだけど」
「………………」
「ねぇ、だんまりなの? 私、ひとりで喋り続けるのも、そろそろ辛くなってきたんだけど。軽くあしらうとかでもいいから、相手してよ。せめて、相槌くらい打ってってば」
 拗ねたような口調で、ブリジットは態とそんなことを言う。黙りこくって微動だにしない相手から何かしらのリアクションを引き出そうとして、オーバーに演じてみせたものだった。
 それに対して青年が、少しだけ動く。ほんの少しだけ顔を上げて、目を半開きにさせた。彼の顔には表情が無いままで、ブリジットはその不気味さに鳥肌が立つのを黙って感じていた。それでも彼女は、笑顔を取り繕う。すると青年の唇が動いた。
「一人にしてくれ。今は、誰かと楽しくお喋りをしようだなんて気分じゃない。お前だって、こんな得体の知れない化け物と一緒になんざ居たかねぇだろ?」
 くすんだ蒼色の瞳は、いやに真剣で真っ直ぐだった。その視線はブリジットから少しだけ逸れていたが、それは誤差の範疇で、ただ焦点が合っていないだけだろう。そこはさして、問題ではなかった。
 問題は、彼の瞳が嘘を吐いていないことなのだ。たぶん今の言葉が、彼の本音。自分のことを化け物か何かだと思っていて、自分に関わって欲しくないと言っているのだ。彼の頭または心が異常をきたしていることは、言うまでもない。
 ブリジットは単純に、疑問におもった。一体なにが、そのような自虐的な思考を導き出させるのか、と。そして彼女は、嘘の無い率直な感想を述べるのだった。
「んー、今はそうでもないわよ? さっきまでは、たしかにそうだったけどね。記憶喪失ってなんだか不気味だし、それにあなたの性格も明朗快活ってタイプじゃなさそうだしね。怖い、はやく父さんが戻ってこないかなぁ、って。でも今は、あなたにすごく興味がある。私はもう少し、あなたとお喋りしていたいわ」
 ブリジットの言葉に、青年は不快感を顕わにさせた。その顔はブリジットを風変わりだと忌避しているようでもあり、風変わりな女を煙たがっているようにも見える。どちらにせよ、あまり良い印象は抱かれていないのだろう。
 それでもブリジットは、笑顔を浮かべる。そして彼女は、訊かれてもいない自己紹介を勝手に始めるのだった。
「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私、ブリジット・エローラっていうの。あなたはもう知っているでしょうけど、私はここの病院に勤める脳神経内科医リチャード・エローラの娘。市内のハイスクールに通ってる、普通の女子高生ってとこかな。まあそれなりに、頭は良いほうよ。あなたには、ちょっと劣るけどね」
 ブリジットは彼に歩み寄ると、握手を求めるように右手を差し出す。しかし彼にはその手が見えていないのか、無反応。当然ながら相手が手を出してくれるはずもなく、ブリジットはそっと差し出した手を引っ込めた。
 そして、そのとき。扉がコンコンッと二回ノックされる。扉の向こう側から、ブリジットの父親の声が聞こえてきた。
「ブリジット、入るぞ」
「ええ、父さん。どうぞ入って」
 父親の言葉に、ブリジットがそう返事をしたときだった。ほんの一瞬だけ、青年の目から生気が抜け落ちる。そのときの彼の目はまるで、手の届かないところにある遥か遠い場所を、漠然と眺めているようだった。
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